前田綱紀(1643~1724)とは、江戸時代前期に活躍した大名である。
加賀藩は100万石を唯一越える大藩、かつ徳川家康と前田利家の関係から、江戸時代初期はひたすら安泰に務めた。だが、この結果、母は徳川家光の養女で徳川頼房の娘・大姫(清泰院)、父方の祖母は徳川秀忠の娘・珠(天徳院)といった具合に徳川家との濃い血縁関係で幕府との関係は安定した。
前田綱紀は前田光高の嫡男・犬千代として生まれ、正保2年(1645年)に家督を継承、承応3年(1654年)に正四位下・左近衛権少将加賀守に叙任し、徳川家綱の偏諱を得て前田綱利と称した。また、万治元年(1658年)には保科正之の娘・摩須と結婚、祖父・前田利常の死、左近衛権中将への昇進、と藩主としての地固めが進んでいく。
この結果当初は保科正之が後見人となったが、寛文元年(1661年)に金沢へ入城。寛文9年(1669年)から親政を始める。こうして職制の整備や洪水による難民救済をきっかけに非人小屋を常設といった政策に励む。一方で貞享元年(1684年)にようやく前田綱紀に改め、元禄6年(1693年)に参議に、宝永4年(1707年)に従三位に叙す。そして享保8年(1723年)に引退して肥前守と改めた。
学問好きだった明君であり、彼の長い治世によって「政治は一加賀二土佐」、「加賀は天下の書府」と呼ばれるにいたり、家格も御三家に準じ、家来4人の叙爵も恒例となった。前田綱紀は、徳川吉宗の後見人と呼ばれるほどであったが、彼のこうした政策は晩年に財政の均衡を失うに至り、加賀藩は混乱期に入っていく。
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最終更新:2025/12/10(水) 05:00
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