西洋剣術、中国剣術(刀術)、日本剣術など、国によって刀剣の形も違えば剣術のバリエーションも多彩だが、本項目では主に日本剣術について記述する。
日本においては、日本刀を扱う技術である、と言い切って良いだろう。沖縄には中国式の剣術も若干伝わっているようだが、ここでは除外する。本来は居合、抜刀術も含めた概念だが、現在では単に「剣術」と言った場合は居合を含まないことが多い。通常二刀、小太刀を用いる場合、一刀の技術とは区別されて伝承している。
また、甲冑の着用を前提とした剣術を「介者剣法」または「介者剣術」と呼び、逆に甲冑を着用していない普段着を前提とした剣術を「素肌剣術」と分類することもある。
古くは剣術のことを兵法と呼ぶこともあった。この兵法というのは、剣術だけでなく槍術や薙刀術、弓術や格闘術などを内包した総合武術であったが、その中で剣術は兵法の筆頭とされたため、兵法といえばだいたい剣術を指すことも多かった。
兵法を他者に教授する者を兵法家と呼んだが、現代ではそのような人々を剣豪と呼ぶことも多い。
「既に神代に刀剣あり。之が利用の道を求めんとするは人間の通性である」
「日本剣道史」において、山田次郎吉はこう述べている。その通り刀剣が存在する以上剣術もまた存在したはずであり、剣術の始まりは大陸から青銅器が伝わった時であろう。が、この時代の剣術については全く伝わっておらず詳細不明である。
現存する剣術流派の起源を遡っていくと、大体鹿島の太刀か京八流に行き着く。鹿島の太刀はもはや実態が分からず、京八流に至っては実在すら怪しいとされているが、以下に概略を述べる。
なお、両者とも異説あり。
平安時代末期に平清盛を輩出した平氏による武家政権が誕生し、だいたいこの頃から武士…いわゆる侍が日本の実質的な支配者層となったわけだが、この時代もおそらく剣術の概念があったと思われるが、どのようなものだったかはよくわかってない。
一般的には平安時代・鎌倉時代では、弓術や馬術、そして組討と呼ばれる格闘術を重視していたものの、剣術は軽視されていたといわれる。これは、最初期の武士達が、馬を乗りこなしながら弓矢で相手を射殺することを専門とした弓騎兵だったからでもある。
ただし、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には「弓剣の武芸」という言葉が登場しており、少なくとも鎌倉時代では、剣術(?)が弓術と並ぶ武芸として認識されていたようではある。
まず「刀」であるが、紛らわしいことに、今で言うところのナイフを表していた。別名として刺刀または腰刀と呼ばれることも多かった。「刀」は敵と取っ組み合いになった時や敵にトドメを刺すときに使うものであり、戦で手柄を上げた証明として、敵の首を切断することにも重宝された。「刀」の使用法は中世全期を通して変化していない。
次に「太刀」である。
これは大雑把に言えば長めの日本刀である。「太刀」は時期によって用途がやや異なり、平安時代の戦争では、弓矢の矢が尽きたり、やむを得ず馬から下りたあとで、初めて使用するような代物であったが、後世と比較してあまり使われなかったらしい。これが鎌倉時代に移ると、馬に乗りながら「太刀」で戦う事が増える。これは戦争が大掛かりになったことで、正規の武士だけでは対応不可能になったため、百姓上がりのなんちゃって武士を、戦争に参加させるようになったからとされる。鎌倉時代では平安時代ではマナー違反とされた馬への攻撃や体当たり攻撃が使用されるようになった。
より詳細な使用法として、敵の頭を兜ごと殴りつけ脳震盪を起こしたところを狙い、短刀でトドメを刺すという手法を取っていた。鎌倉時代までの兜は中にクッションがなく、直接頭につけて被る事が多かった為、このような戦術が有効であった。また兜をしっかり固定するように被る武士が少なかったため、殴った衝撃で兜が脱げてしまい無防備を晒すこともあった。これ以外にも鎌倉時代までの鎧はカバーされていないところが多く、弓矢で狙うのは難しいが、近づいて太刀で斬りつけるのは大変有効であった。
剣術の流派が成立し始めたのは、室町時代とされている。この時期に興った中でも特に後世に多大な影響を与えた三流派を、兵法三大源流と呼ぶ。
「余は諸流の奥義を究め、陰流において別に奇妙を抽出して、新陰流を号す」
兵法三大源流が生まれた室町時代は乱暴にいうと、警察は存在しないも同然で、法律も機能していない。すべての人がそうではなかったが、教育機関がなく、道徳心が低くなりがちでもあったため、ためらいなく他人に暴力を振い、時には殺人もいとわないような野蛮人が多かった時代である。
(ただし、室町時代に限った話ではなく、鎌倉時代や戦国時代など、中世に区分される時代全体の傾向でもある。)
日常生活上であっても、強盗は現代よりもはるかに多く、些細な口論から喧嘩となり、そのまま武器を用いた殺人行為に至ることが珍しくなかったといわれる。そのため当時は庶民であっても、強盗や殺人鬼に襲われたり、窃盗にあったりしても、自分で何らかの対処、対策を行う必要があった。
(具体的には、資産に余裕があれば自前で武装を整え、貧しければ強者に守ってもらえるように、その配下につく、もしくは町村や同業者組合的な何らかの集団に所属するなどの様々な手段を取るのが、生きるための基本であった。)
平安時代時代の段階ですでに、武士や公家などの間では強盗や刺客の襲撃に備え、就寝時に枕元に太刀を置く習慣も存在し、刀剣類はどちらかといえば合戦ではなく、日常生活上で発生する強盗と喧嘩の為の武器であるという認識が強かった。
また、鎌倉時代以降から徐々に、僧侶や百姓のような非武士階層であっても、自衛や所属している寺社あるいは、町村の治安維持、時には犯罪などのため、日常的に刀剣などの武器を携帯する者が増えていった。(武士以外の者が武器を携帯することを禁止したり、制限する法律も何度も施行されてるが、誰も守らなかったらしい。)
戦国時代には、北畠具教や徳川家康、足利義輝のように兵法家を誘致して剣術を習う武将も現れたが、これは合戦で使用する為ではなく、平素の護身術のためだったという見方もある。
剣術が護身用として活躍した例としては、戦国時代初期の武将であった細川勝元は、友人や愛人と喧嘩となり危うく斬り殺されそうになった経験を2度経験しているが、剣術を習っていたおかげでいずれの事態も、どうにか切り抜けられたという逸話もある。
剣術の解説書などでは「戦国時代までは戦乱が多く、甲冑の着用が前提の介者剣法が主流であったが、江戸時代からは戦乱がなくなったことで甲冑を着用することがなくなった。そのため、素肌剣術が主流となった。」とするのが一般的である。
しかし、剣術の達人にまつわる逸話が合戦ではなく、平時に集中していること、合戦でなくとも治安の悪さ故に、偶発的な刃傷沙汰が日常的に発生していたこと、実際に護身用に剣術を学ぶ武将も存在したことなどの理由から、戦乱期であっても、戦時の時間帯よりも平時の時間帯が長いことも含めて、戦乱期でも素肌剣術が主流だったのではないか?という異説もある。
流派の中でも分派しているものや、廃れて無くなったもの、統合したものなど、それ以外にも多くの流派が存在している。
掲示板
115 ななしのよっしん
2023/08/12(土) 04:41:51 ID: hdNv6EYmfp
なんやかんやで槍を持っていった方がいい状況も多かったと思われる場面もあったんだろうし、個人差もあったんだろうが
中世の人間は百姓でも昼間っから酒飲んでるような人種が多かった
んで、教育機関がないことも含めてなおのことキレ易くてせっかちだったらしいから、面倒ささよりも手軽さを重視したんだろ
あと俺は先祖代々の流派を受け継いでるなんていってないよ
116 ななしのよっしん
2023/08/12(土) 07:26:50 ID: hdNv6EYmfp
刀剣にこだわることに関しては文化的な部分もあるし、刀はあるけど槍は家に置いてないというパターンもある
害獣駆除のために弓矢(戦国時代後半は鉄砲も加わる)が農民必須の道具だったという話もあるんで槍よりも弓矢の方が多かったんじゃねえかな
117 ななしのよっしん
2024/04/27(土) 15:15:22 ID: pKnFn8Wq8d
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5:12~
一伝会の関先生がすごく良いことを言ってくれた。
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最終更新:2025/03/25(火) 22:00
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