劉曄単語

リュウヨウ

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劉曄りゅうよう、字は子揚は、後漢末~三時代のの人物。生没年不詳。
曹操曹丕曹叡の三代に仕えた謀臣。

出自 

揚州成徳県の出身。後漢の建者である光武帝劉秀の末裔である。普は成徳侯の地位にあり、劉曄は自他ともに認める宗室の子であった、13才の時に、かねてからのの遺言を履行して、奸佞なの側近を自ら殺したという。人物の批評家で知られる許劭からは「世佐の才がある」と評価された。

劉曄が20才をいくつか過ぎた頃、揚州ではならず者たちが勢っており、曹操も状況を探っていた。その中でも鄭宝は、王族の劉曄を担ぎ上げて、大事を図ろうとしていた。それを厭った劉曄は鄭宝を宴に招き、自ら佩を用いて鄭宝を殺し、弁舌を弄して数千もの軍勢を奪い取ってしまう。元々人の上に立つ気のい劉曄は、軍勢は他の者に預けてしまい、曹操に下に行き、その幕僚となった。

曹操時代

曹操が寿山賊を討伐する時、劉曄は「要をわざわざ攻めるよりも、大軍を背景に降勧告を行った方が良い」と献策を行って、曹操の知遇を得る。司空倉曹掾に任じられた。

曹操中征伐では簿に転任して近侍した。険阻な地に悪戦した曹操は、撤退の段取りを劉曄に命じたが、劉曄は勝機があると進言した。曹操は聞き入れて進軍を再開して中を定させた。さらに劉曄は立して間もない劉備の益州政権を「すぐに討滅すべきであり、放置しておくと後々の災いとなる」と曹操に説いたが、曹操は聞き入れずに夏侯淵を残して帰還した。後に中に攻め入った劉備は、夏侯淵を討ち取り、中を奪取してしまう。

曹丕時代

220年に中に任ぜられて関内侯に封じられた。関羽の死によって極度の緊状態となったが、と戦うかどうかを曹丕は群臣に質問した。他の者たちが「関羽を失ったと戦う戦意はない」と判断する中、劉曄ただ一人が「劉備関羽復讐の為に兵を動かす」と見通し、劉備へと攻め入っている。この危機孫権への臣従を申し入れるが、劉曄は「その場しのぎだから信用すべきでなく、むしろこの機にを討つべき」と進言したが採用されず、はたして孫権は、陸遜夷陵の戦い劉備を破るとから離れた。

221年に曹丕の命により 太医を連れて雍丘へと赴き、病床の張遼を見舞っている。

曹叡時代

曹叡の即位時には、すぐに一人で謁見を許される栄誉にあずかり、以後大いに信任されている。東亭侯に進爵され300戸を食んだ。曹叡の人物について劉曄は「始皇帝武帝仲間であるが、資質では少し及ばない」と評価している。

232年からは病気により太中大夫といった名誉職に退き、大鴻臚にもなったが長くは務められずに、再び太中大夫に戻り、やがて逝去した。諡は侯。息子寓が後を継いだ。

劉曄は秘密義者であり、自分の本心を容易に見せる事はしなかった。その為、表向きは他人に適当に合わせ、臨機応変にどう転んでも困らないようにする芸を用いていたという。晩年はその性格を政敵に利用されて讒言され、曹叡の信用を失い、疎まれて、発狂して死んだという異説もある。末子の陶も譲りの才気があったが、言動の不一致司馬師に咎められて殺されている。

人物

劉曄は知謀の士でありながらも、荒事にも強く、鄭宝をる時は刺客を用意していたが、武勇に優れる上に用心深い鄭宝に隙がかったので、刺客が手をこまねいているのを見てとると、自らをとって殺している。人相を見る事にも長けており、諷、孟達を一見て、いずれ謀反を起こすに違いないと予言している。

在野にいた頃、魯粛とは友であった。朝廷ではほとんど人付き合いをせず、人から理由を聞かれると「自分はの王族であると同時に、心でもある、理からいっておかしくない」と答えている。

評価

陳寿は『三国志』にて程昱郭嘉、董昭、劉曄、済を並べ「才、知略に優れた世の奇士である。荀攸にも類するが、徳行の点では異なる」と評している。

劉曄はからは「おべっか使いで不忠」と非難されたり、陳矯を讒言したりと、人格面を評価される事はなく「才知にまかせず、実で義をもって身を処したのであれば、古代聖人にも劣らなかった」と惜しんでいる史料もある。

三国志演義

郭嘉に推挙され、満寵、呂建を推挙する。史実と同じくの謀臣として活躍。袁紹との戦いでは発石の運用を献策し、テクノクラートとしての一面も見せている。魯粛を鄭宝に仕えるように勧誘するという人物がいるが、演義での劉曄の字は子なので別人である。

三國志(コーエー)

コーエー三國志シリーズにおける劉曄の力一覧。知政治が高い優秀な文官。Ⅹ以降は知が90えしている。演義の設定からか、発石関係の特技を持っている場合がある。史実での武闘としてのは反映されず、武は低い(除く)。

力一 統率 政治 身体 運勢
三國志 25 74 57 85 24
三國志II 36 84 81
三國志III 35 85 73 80 73 70
三國志IV 56 33 83 76 79
三國志V 30 84 77 81
三國志VI 40 29 79 76 77
三國志VII 25 86 70 68
三國志VIII 25 87 86 76
三國志IX 36 68 88 72
三國志X 39 23 93 75 71
三國志11 36 32 92 73 69
三國志12 56 32 92 73
三國志13 56 32 92 73
三國志14 40 32 92 73 69

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  • 9 ななしのよっしん

    2019/12/04(水) 07:16:53 ID: COB5ezTs0x

    演義の劉曄の字は「子陽」だから子揚は同字ですらないただの別人だよ

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  • 10 ななしのよっしん

    2021/04/13(火) 01:33:07 ID: BqdZKiZVqa

    庶子とはいえ後漢の建者の子の子孫だから後漢から譲を受けたでは当然警はされてただろうし、諛追従の徒みたいな扱いは受けたけどその上で寿を全うできたんだから当人は満足なのでは

    なお息子

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  • 11 ななしのよっしん

    2023/02/26(日) 13:27:12 ID: KBtn0SH/n9

    才知に覚えはあっても将や君としてのカリスマ性は持ってなかったと自認してただろうしな
    そうすると進むは文官や謀臣になるけど、とかく姓という枷があるんでアンバランスな性格&生き方になった、って感じの人

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