加藤和宏(かとう かずひろ、1956年3月4日 - )とは、JRA所属の元騎手・現調教師のことである。
父は元々炭鉱労働者として働いていたが、石炭産業の衰退に伴い浦河町に引っ越し、製材所で勤務していた。
中学時代には器械体操部に入部し、日高地区の大会で好成績を収めていた。騎手志望というわけでもなく、父と同じく製材所に就職するつもりでいたが、近所にあった小林牧場が「騎手になれる子を探している」と父に伝え、運動神経に優れていた和宏を紹介。その後、二本柳俊夫調教師と和宏との話し合い、騎手を目指すことを決めた。
1972年、馬事公苑騎手養成課程22期生として入所。同期には根本康広、佐々木晶三、西園正都、池添兼雄らがいた。
1975年、2度目の試験で合格し騎手免許を取得。二本柳厩舎所属騎手としてデビューすることが決まった。3月1日、中山1R 4歳300万下でマウントブラザーに騎乗しデビューし6着。初勝利には時間がかかり、半年後の9月14日、中山4R 短距離特別(500万下)にてヤマエンザンで勝利。21戦目にしてようやく手にした初勝利であった。この年は4勝を挙げた。
2年目からは徐々に勝ち星を伸ばし、毎年20勝前後の勝鞍で推移していく。
1980年、自厩舎のホウヨウボーイで日経賞を制し、重賞初勝利。同馬とのコンビでこの年の有馬記念を勝利し初GⅠ制覇を達成した。
翌年1981年もホウヨウボーイとのコンビで天皇賞(秋)を勝利すると、1982年にはシャダイアンバーで優駿牝馬を勝利、更に1983年にはアンバーシャダイで天皇賞(春)を勝利と4年連続でGⅠ勝利を達成。
1985年、シリウスシンボリの鞍上について馬主と二本柳調教師との間で揉めに揉めたものの、二本柳が意見を押し通し、東京優駿でシリウスシンボリに騎乗することが決まった。前哨戦の予定だったNHK杯を脚部不安のため回避したためダービー直行となったが、加藤は冷静な騎乗で勝利し、二本柳の期待に見事に答えてみせ、ゴール後には大きくガッツポーズをしてみせた。ただ、元々馬主は加藤の起用を快く思っていなかったこともあり、このレース以降シリウスシンボリの主戦を外されてしまうこととなった。
これまで二本柳調教師にかばってもらっている部分が大きい、と現状にもどかしさを感じていた加藤は、厳しい環境で勝負したいと、1989年11月に二本柳厩舎を離れフリーとなった。
1993年にはホクトベガでエリザベス女王杯を勝利。1999年にはワールドクリークで東京大賞典を勝利した。
2000年以降は勝利数が伸び悩み、2005年調教師免許を取得し騎手としての現役を引退。
調教師としては2012年、チューリップ賞をハナズゴールで勝利し管理馬の重賞初勝利。
2014年にはハナズゴールでオーストラリア遠征し、現地GⅠのオールエイジドステークスで勝利、海外の地で管理馬初のGⅠ制覇を達成している。
『強い馬に乗っているだけ』と一部で批判されることもあったが、競馬関係者からは、判断力に優れている、しぶとさや強かさは並のものではないなどと騎乗技術を称されている。
東京優駿勝利後、勝利ジョッキーインタビューで映画「ロッキー2」の名場面で主人公のロッキーが「エイドリアーン!」と叫ぶシーンを真似して妻の名前を叫んでいる。
調教師としてハナズゴールでGI勝利を勝って以降はあまり厩舎成績が振るわない状況であったが、調教師引退が迫りつつある2023年からInstagramを開設。2024年にはなんJ知識に長けた厩舎スタッフによってX(旧Twitter)も開設され、赤裸々に広報や情報発信を行っている。
天皇賞(春) | アンバーシャダイ(1983年) |
---|---|
優駿牝馬 | シャダイアイバー(1982年) |
東京優駿 | シリウスシンボリ(1985年) |
天皇賞(秋) | ホウヨウボーイ(1981年) |
エリザベス女王杯 | ホクトベガ(1993年) |
有馬記念 | ホウヨウボーイ(1980年) |
東京大賞典 | ワールドクリーク(1999年) |
掲示板
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最終更新:2025/04/16(水) 18:00
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