加藤景廉(?~1221)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
利仁流藤原氏の一流とされる。父は加藤景員、兄は加藤光員で父・景員が伊勢で平氏譜代の郎党・伊藤氏を殺害してしまったため親子そろって伊豆の狩野茂光(工藤茂光)のもとへ身を寄せていた。『保元物語』には源為朝を討ちにいく茂光の軍にその名前が見られる。
1180年の源頼朝の挙兵には全員で最初から従っており、山木兼隆襲撃の際には当初は北条館で頼朝の護衛をしていたが、加勢に向かい兼隆の首級をあげた。続く石橋山の戦いで敗れたのちは甲斐源氏のもとへ身を寄せ、駿河の橘遠茂との戦いに参加している。
もともと病気がちであったものの、その後も平家追討、奥州合戦において活躍し、安田義資の処刑の際には父親の安田義定の遠江国浅羽荘地頭職を得ている。しかし1200年の梶原景時の乱の際景時の友であることを理由に所領を没収され、1203年の比企能員の乱の際に戦功をあげた。
源実朝が暗殺されると出家する。承久の乱では宿老として鎌倉にとどまり、そのまま病死した。
美濃遠山氏が彼の子孫であるが、その他にも戦国時代の加藤嘉明や加藤光泰らも子孫を名乗っている。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
提供: ゆんなの
提供: あきら
提供: 樹葉 緑
提供: コズモ
提供: ばび郎☆
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/25(火) 12:00
最終更新:2025/03/25(火) 12:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。