北センチネル島 単語

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キタセンチネルトウ

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加筆依頼 この項は内容が少ないです。
記事充実の為、現地調査に向かった執筆者が未だ帰ってこない為、絶対的に内容が不足しています。
加筆、訂正の為に現地調査して下さる協者をめています。
なお、ドワンゴおよび日本インド政府は現地での安全の保と保護責任は一切負いかねますのでご了承ください。

北センチネル島とはインドベンガル湾に浮かぶ「天国に一番近い(入後、即直行させられるという意味で)」である。

概要

地理

北緯11度33分 東経92度14分。ミャンマーのネグレイスインドネシアスマトを結ぶライン上に浮かぶアンマンニコバルのほぼ中ほど、アンマンで最も人口の多い南アンマン島の西30km、首都ダッカより南約1,200kmに浮かぶインド領・連邦直轄の一応自治区である。
面積は約72抜は海岸のすぐ先の密林部で20m、最高地は98m。一辺約8km弱のほぼ四形の形をしており海岸1kmほど合にはサンゴ礁が岩礁の様に起している。

その防衛戦略上の絶妙な位置(マラッカ峡からの航路の先に存在する)と先住民族の保護の為、アンマンニコバルへの外国人の立ち入りには自治大臣の通行許可が必要であり、北センチネル島も含まれる…以前に北センチネル島への入は後述の理由により不可能である。

は直近の南アンマン島から類するに2~4月較的季とする年中高温多潤な道下の諸と同じ熱帯モンスーンの気をしており、温かい季節流の元、寒い時期でも20℃を下回ることはないと思われる。
ジャングル部にはアンマン紅木をはじめとする木材、コプラ、ココナッツゴムなどが生えているものと思われる。

定住民族「センチネル族」

北センチネル島を特徴づけるのがこのに定住するセンチネル族である。
東南アジアからニューギニアに住むオーストラロイド系の少数民族「ネグリト(ネグリート)」およそ30民族アンマン人(アンマンに住む/住んでいた少数民族の総称)14民族のひとつに数えられる。

50~400名程度いると考えられている彼らセンチネル族はアンマンニコバルに住む他の民族と同じくインドマラーター同盟イギリスとするヨーロッパが17~18世紀にこの地を訪れる前より北センチネル島を定住地としており、有史以前の石器時代の暮らしを完璧維持し続けている(さらにえばアンマンのネグリト諸族は火を使う文化を持たなかった)。つまり有史以後の文明汚染・遺伝子汚染を受けていないおそらく世界一の民族である。
背はネグリト全般をして「大洋州グミー」と呼ぶほど極めて低く、暗い褐色の皮膚色をしている。
としては彼ら固有のセンチネルを話す。言系統は地理的状況などから大アンマンオンガンに近いのでは?と推測されているが、いまなお単の意味はおろかサンプルすら未知の状態である。

何故彼らがその生活様式を維持し続けられているのかというと、そこには彼らのに強い排他意識と攻撃性が強く関係している。
アンマン先住民族であるアンマン人は排他的な交流意識をもつ民族が多かったのだが、その中でもセンチネル族は特に排他意識が強く、テリトリーに入ろうとする人間に対する攻撃性もである。つまり北センチネル島に入るものは皆殺される
イギリス植民統治時代から、イギリスインド政府関係者や研究者が彼らとの意思疎通を図る為、幾度となくを訪問し、較的民族性の近いオンおよびアカビー話者を介して話しかけたり贈り物を持ち込もうとしたが、いずれの場合にも住民たちはジャングルにこもって姿を現さなかったり、「侵入者」に向かって矢をけしかけたりするなど排他的・攻撃的な態度を崩さず、コミュニケーションは失敗に終わっている。

なお、攻撃されずに内に上陸し探索できた際には姿を隠した住民らの小屋を調べたり、そこにあったものを持ち出した記録もあるようだ。
また、「イギリス統治時代にMaurice Vidal Portmanというイギリスの軍人がに上陸した際、住民は皆逃げていったため接触には失敗したが、年老いて逃げる事が出来なかった男女2名と子ども4人をから連れ出した。老人2人はすぐに病気死亡したが、子どもたちは歓待し、お土産を持たせてに帰した」という出来事がられることもある。この話の一次ソースは不明だが、Maurice Vidal Portmanはこの北センチネル島含むアンマンについて記載した著書もある実在の人物である。また「非友好的な原住民の所から数名を連れ出して歓待した後、お土産を持たせた後に彼らのコミュニティに帰す」という交渉手法は植民地時代に実際に行われていたものであり、この話にもある程度の信頼性がある。
これら「不法侵入」「窃盗」「老人・児童の誘拐と老人の殺」についてセンチネル族たちが記憶を伝えていたとすれば、外部の者に対して攻撃性を示すことについての一つの説明となるかもしれない。

1974年にはナショナルジオグラフィックTVクルードキュメンタリー番組撮のため北センチネル島に接近して住民を撮していたところ、を投げられて負傷する事件が発生。このとき矢やを掲げて小躍りするセンチネル族の戦士たちが撮されている。

2004年スマト地震の際の現地調査の為向かったヘリコプターに対しても矢を射る行為が確認された。その為かなりの被害が同に出ていたと思われるものの何の調・援助も出来なかった。

さらには2006年には寝ている間に北センチネル島に漂着してしまったカニ密漁者のインド人2人が矢で射殺された上、遺体を回収に来たインド政府ヘリコプターにも矢攻撃が仕掛けられ未だ遺体は回収されていない。

2018年には住民にキリスト教布教しようとしたアメリカ男性が同を訪問したが帰還しなかった。彼に依頼されて送り届けた漁師たちは後に上からの様子を確認しに行き、民たちがこの男性のものと思われる遺体を引きずる撃している。そのため彼の生存絶望的と見られている。

ちなみにこのアメリカ男性の訪問の試みはこれが3回であり、それ以前にも2回試みて失敗していた。その2回の失敗の様子を彼は手記として遺しており「冠のようなものを被った男が、出会った民らの中で導的立場にあるように見えた」「贈り物を渡そうとしたが敵意を向けられた」「賛美歌を歌ったりしてコミュニケーションを取ろうと試みたが、民らからはなぜか爆笑された上に矢を放たれ、持ってきた聖書に矢が当たって破壊された」「その矢の矢じりは金属製だった」といった内容が記されていたという。

なぜ孤に孤立した部族であるはずの彼らが金属製の矢じりを持っているのか?という疑問がわくが、1981年に北センチネル島付近で座礁した(貨物プリムローズ」)から民が金属片を漁っていったという記録があるようだ。このように稀に外界からにもたらされる金属を、何とかして加工して武装に流用しているのかもしれない。武闘すぎる……。

これらの実情を見てインド政府/アンマンニコバル当局もを投げ北センチネル島への一切の不干渉を決定し、同への接近を一切禁じている。

しかしながらアンマン人のうち大アンマン人やジャンギル族(ラトランドジャワラ族)など多くの民族イギリス入植後に外から持ち込まれた病原菌などにより絶滅した事を考えると、その底した排他行為によって彼らが今なお太古生活どころか生命そのものを維持できているのは確かである。

そして彼らが隔絶した生態を維持してきたという事は、彼らがとても重な遺伝子情報を持っているということを意味しており、人類の各民族の発祥を探るピースとしてとても重な存在であるといえよう。
彼らを調べる事は人類にとってとても有益なことであり、私は七難八苦あろうとも有益な情報を持ち帰らんと望む次第である。(記事初版の元となった論文の下書はここで途絶えている)

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