北号作戦(きた/ほくごうさくせん)とは、大東亜戦争末期の1945年2月10日から20日にかけて行われた帝國海軍の輸送作戦である。作戦は成功し、しかも絶望的な状況を覆しての成功だったためキスカ島撤退作戦と並ぶ奇跡の作戦と呼ばれる。
総力を挙げたレイテ沖海戦に敗れて以降、大日本帝國海軍は東南アジアの制海権及び制空権を失いつつあった。1945年1月6日にアメリカ軍がルソン島へ上陸した事でいよいよ日本本土と南方資源地帯の連絡は本格的に断たれてしまい、強行輸送を図った輸送船団は半壊ないし壊滅的打撃をこうむった。特に1月12日に行われたグラディテュード作戦でベトナム沿岸を航行していたヒ86船団が壊滅させられた事は南方航路の閉鎖を意味していた。このため日本本土では燃料が枯渇しかけて艦艇の出撃に支障をきたし、わずかに残った燃料を巡って陸海軍が喧嘩する始末。きたるべき本土決戦に備え、せめて航空機の燃料だけは確保しなければならない。もはや一刻の猶予も無かった。
2月上旬、帝國海軍上層部はシンガポールに取り残されていた伊勢型航空戦艦伊勢と日向、若干数の小型艦艇に帰国命令を出すのだが、その際に詰め込めるだけ物資を詰め込むよう指示。軍艦を輸送艦に見立てた強行輸送作戦こと「北号作戦」を企図する。輸送艦ではなく軍艦なので搭載量は期待できなかったが、それでも武装した軍艦ならばと一縷の望みを賭けた。上層部も成功率の低さを想定しており、半数が帰ってこれば大成功とされた。作戦の全指揮は第四航空戦隊司令の松田千秋少将に一任され、必ず作戦を完遂するという意味を込めて参加艦艇は「完部隊」と命名された。
1945年2月6日、北号作戦に参加する艦艇はリンガ泊地から策源地シンガポールへ移動。その際に伊勢が触雷するも艦首を僅かに損傷した程度で済み、停泊中に修理を行った。翌7日より物資の積み込みが始まり、近くの油田で働いていたマレー人労働者440人を動員。伊勢に航空機用ガソリン100キロリットルとドラム缶5200本分、ゴム850トン、錫900トン、水銀10トン、亜鉛32トン、タングステン47トンを積載。日向には航空機用ガソリン100キロリットルとドラム缶4994本分、普通揮発油ドラム缶326本、ゴム518トン、錫820トン、タングステン47トン、水銀32トン、砂糖200トンを積載した。この2隻は航空戦艦に改装されており、航空機の無い格納庫は格好の倉庫になった。航空燃料を満載したドラム缶の上に生ゴムを重ね、申し訳程度の防御にした。
護衛を務める巡洋艦大淀、駆逐艦朝霜、初霜、霞にもありったけの物資が詰め込まれた。大淀には錫110トン、タングステン64トン、航空燃料64トン、ゴム45トン、亜鉛36トン、水銀18トン、駆逐艦3隻には130トンのゴムと錫が分割された。甲板上にまでドラム缶が敷き詰められている様子はまさに動く爆弾庫。初霜の艦長は「機関銃一発でも戦艦が吹っ飛ぶ。この恐怖は想像するだけで恐ろしくなります」と漏らし、「どこかに一発当たれば、たちまち部隊が誘爆するかもしれない」と言われるなど、いかにこの作戦で無謀で危ないものかを物語っている。現実世界のオワタ式と言えよう。実際、先立って行われたヒ86船団や南号作戦は米機動部隊に蹂躙されて惨澹たる結果に終わっている。とてもじゃないが、失敗が目に見えてるような作戦であった。それでも孤立したシンガポールから日本本土に帰れる可能性があるとして、現地軍人・行政・企業職員やその家族らを日向・伊勢・大淀に便乗させている。戦艦日向・伊勢には婦女子も多く乗り込んでいたが、軽巡大淀には男性しか便乗者が居なかったため、「女は乗せない巡洋艦♪」という自虐とも自慢とも取れる歌が大淀艦内でウケたとかなんとか。
2月9日、物資の搬入が完了。松田少将は翌10日を出港日に定めた。これはシンガポールと日本を結ぶ航路に長期の悪天候を期待できるためで、視界不良を利用して偵察機の目から逃れる意図があった。
しかし連合軍は日本側の暗号を解析し、「完部隊の編制」「貨物」「目的地」「使用する可能性のある航路」など全てを把握。大きな脅威となりえる伊勢と日向を葬るべく、南西太平洋で潜水艦隊を率いるジェームズ・ファイフ・ジュニア少将が迎撃作戦に据えられ、15隻の潜水艦を配備。更にアメリカ陸軍航空隊とアメリカ海軍が協調して2隻を撃沈する計画も立てられており、米第7艦隊を率いるトーマス・C・キンケイド少将は4隻の戦艦をフィリピン北部に配備。分厚い警戒網を敷いて必殺の構えを見せる。
1945年2月10日夜、完部隊はシンガポールを出港。燃料を少しでも節約するために速力を16ノットに抑え、連合軍の目を欺くために針路を偽装し、リンガエン湾に突入するかのような動きを見せた。当然ながら航空支援は無く、制海権も無い。無い無い尽くしの絶望的な旅が始まった。
出港直後、シンガポールを監視していた英潜水艦タンタロスに発見され、いきなり追跡を受ける。上空には敵の触接機が飛び回り、今にも攻撃を受けかねない状況だった。あわよくば攻撃しようと考えていたタンタロスであったが、翌11日午後にグレートナッツ島西方で哨戒中の零式水上偵察機から投弾を受けたため断念。位置情報をジェームズ少将の司令部に通報した。完部隊の方でも敵潜水艦の出現に気付き、回避運動を取っている。2月12日13時45分、米潜水艦チャールがレーダーにより7.8海里離れた場所に完部隊がいる事を掴み、すかさず司令部へ通報。ブラックフィン、フロウダー、パルゴ、ツナに相次いで発見されてしまうが、完部隊側も敵潜水艦4隻(うち3隻は浮上航行中)を発見していて大淀から零式水上偵察機1機が警戒任務を帯びて発進している。どの潜水艦も有効な雷撃位置につけないまま完部隊を取り逃した。次に完部隊を発見したのはグアデナ、パンパニト、ヘイクのグループだった。3隻は一斉に射程圏内へ向かうも、これまた取り逃がしている。海中の刺客からは逃れる事に成功した完部隊だったが、上空には常に敵機が触接しており、その動きは逐一報告されていた。得られた情報は一旦キンケイド提督のもとへ送られ、ジェームズ少将に転送された。
2月13日午前0時、日向のレーダーが水上の艦影を探知。潜水艦と判断され、艦隊は一斉回頭を行った。午前2時頃、カムラン湾東80海里を航行している時にも霞が水上目標を探知。再び緊急回頭を行っている。そして午前11時、ついに空襲を受ける。レイテ島とミンドロ島の飛行場を出撃したB-24リベレーターとB-25爆撃機、それらを護衛するP-51戦闘機合計88機が真っ直ぐこちらに向かってくる。もはやこれまでと思われたが、ちょうど目の前でスコールが発生していたため隠れる事で奇跡的に難を逃れた。敵機はレーダーを持っていたものの、連合軍の潜水艦がいる海域では同士討ちを防ぐためレーダー爆撃が禁じられており、完部隊を捕捉していながら手出しできなかった。燃料が少なくなると敵機は引き揚げていった。潜水艦隊も完部隊を捕まえようと動き、推定航路上にベルガール、ブロワー、ギターロの3隻が待ち伏せを行った。午後12時30分、潜航中のベルガールが完部隊を発見。約4400mから計6本の魚雷を発射したが命中せず。次にブロワーが5本の魚雷を発射するが、伊勢の艦橋後部で煙草を吸っていた非番の下士官が偶然雷跡を発見し、ぎりぎり回避に成功。1発だけ艦尾に命中した魚雷は不発だった。ベルガールとブロワーは護衛の駆逐艦に気付かれたため、退散しなければならなかった。30分後、米潜バーガルが大淀に向けて6本の魚雷を発射。1発が直撃コースだったが、伊勢が高角砲で破壊。潜水艦による警戒網は次々に突破され、残っているのは最北端に配備されたフラッシャーとバショウのグループだけだった。15時15分、スコールから出てきた完部隊をバショウが発見。雷撃体勢に入るも、警戒中の零式水上偵察機に発見されて手間取る。16時、日向がバショウを発見し主砲を発射。さすがに命中はしなかったものの、バショウの度肝を抜くには十分すぎたようで慌てて逃げて行った。バショウの襲撃は完部隊の対潜警戒を厳重にさせ、フラッシャーは手出しが出来ないまま取り逃がした。
2月14日午前10時、本土からシンガポールに向かっていた駆逐艦野風と神風が合流。一時的に護衛へ加わった。米太平洋艦隊潜水艦総司令チャールズ・A・ロックウッド中将は完部隊がルソン海峡を通過すると考え、新たに11隻の潜水艦を配備。しかしこの指示は悪手だった。松田少将はルソン海峡ではなく台湾海峡を通る航路を選択したため、完全に無駄となってしまった。台湾海峡の入り口で地上レーダーと水中聴音機が敵艦の集団を捕捉したとの情報が入り、一時は香港へ避難する事も検討された。しかし入港すれば空襲の格好の的になると判断、航行を続けた。午前11時30分、香港近海でB-24とB-25の一個連隊が南南東より出現。しかし雲に阻まれて攻撃に失敗。敵の空襲圏を突破した事で、以降は敵機の出現が無くなった。夕刻、大淀の水偵が前路哨戒。夜間に陣形を変えて台湾海峡へ突入した。知らず知らずのうちに伊勢が機雷源に突っ込みかける危機に見舞われたが、操舵手の新米中尉のミスで予定のコースより早く転舵したため難を逃れた。
2月15日夜、完部隊は馬祖島で仮泊して伴走者の駆逐艦に燃料補給を行った。ここで神風と野風が外れ、代わりに完部隊の度胸に感動して護衛を申し出た駆逐艦蓮と汐風が護衛についた。5時間の停泊を経て、完部隊は出港。松田少将は直接日本本土を目指すのではなく朝鮮半島方面に迂回するコースを取り、中国大陸に沿って進撃。荒天に紛れての航行だったため、旧式艦の蓮と汐風は追随できずに脱落してしまった。2月16日午前5時7分、米潜水艦ラッシャーは18km離れた場所を航行する完部隊を捕捉。護衛の艦艇に向けて魚雷6本を放つも命中しなかった。この攻撃を最後に潜水艦隊は完全に接触を失った。21時6分から2月18日午前7時まで上海近海の舟山列島で仮泊し、最も危険とされた東シナ海を突破。当時、アメリカ軍はフィリピンと硫黄島の攻略に忙殺されており、東シナ海方面に全く艦隊を配備していなかったのである。2月19日16時、門司沖の六連島に到着。
そして2月20日午前10時、1隻も欠けることなく呉軍港に到着、作戦中に発進した大淀の2機の水偵も、陸上基地を経由して無事に呉に帰還した。15隻の潜水艦の追跡を振り切り、見事完遂させてみせたのである。まさかの大成功に軍上層部は狂喜乱舞し、乗組員は互いに抱き合って帰還を祝した。
北号作戦は予想を覆す成功に終わった。完部隊が運んだ燃料は全部合わせても中型タンカー1隻程度であったが、燃料を渇望する陸海軍にとっては天の恵みと言えた。運び込まれた航空燃料はB-29の迎撃に上がる日本軍機に充てられ、伊勢や日向が持っていた燃料は沖縄へ向かう戦艦大和の燃料に転用された。入港後、日向では乗組員に休暇が許可されて束の間の休息を楽しんだという。連合艦隊最後の成功にして、奇跡のバーゲンセールとなった北号作戦はこうして幕を下ろした。奇跡の連続だったが、どれか1つでも欠けていれば失敗していたであろう。この事が、いかに北号作戦が困難なものだったかを如実に語っている。なろう系やギャグ漫画の話ではなく、実際にあった事なのだから現実とは恐ろしいものである……。
対するアメリカ軍では責任の追及が行われていた。計26隻の潜水艦が配備されていたにも関わらず伊勢と日向を葬れなかった事で連合軍の上層部は失望。ジェームズ少将は「完部隊が予想外の高速を持っていた」「悪天候」「日本艦艇に搭載された装備がレーダー波を探知して米潜の位置特定を可能にした」事が原因と結論付け、上官のロックウッド中将に「許しがたい失敗」と報告している。そのロックウッド中将はキンケイド艦隊からの情報に頼り過ぎたせいで潜水艦を明後日の方向に配備してしまったと語った。軍艦を輸送艦に使うという奇想天外な発想は連合軍も虚を突かれたようで、戦後「あれはすっかりやられた」と述懐している。
北号作戦の成功により1945年初頭の燃料輸送量は1944年末より増加したが、3月には完全に途絶えてしまう。この作戦は南方航路の最期の輝きだった。
掲示板
1
2021/10/01(金) 03:17:12 ID: U9GDgp8f3F
主砲で潜水艦を狙う件が面白過ぎる。
しかし中型タンカー一隻分の物資で大喜びしちゃう辺りからして、
当時の日本の絶望的な状況が改めてよくわかる。
そもそもそんな状況から巻き返せるわけなんて無いのに。
相手の戦力を軽視して日本スゲーしてるアホが現代でもうじゃうじゃいるけど、
そういう連中こそ最前線には立たないから困る。
無知な人間程やたら勇ましいわけだけど、
そういう連中は多分にして無自覚だから終わってる。
そんな屑が多数派にならない事を願うしかない。
2 ななしのよっしん
2021/10/23(土) 14:43:54 ID: t6c8103sGK
折角輸送した燃料も大和の沖縄特攻に使ったなんてハッキリ言ってドブに捨てたようなもん
そういうことやってるから戦争に負けるんだよ
3 ななしのよっしん
2023/10/15(日) 21:36:29 ID: ccHXNQa9y4
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最終更新:2025/04/10(木) 17:00
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