OB | |
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北村照文 | |
基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 神奈川県横浜市 |
生年月日 | 1957年1月7日 |
身長 体重 |
177cm 76kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1979年 ドラフト3位 |
引退 | 1992年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
武相高等学校へ進学。外野手としてプレーし、2年時には夏の県大会ベスト8まで勝ち進んだが、原辰徳擁する東海大相模高校に敗退。3年時も県大会で敗退し、甲子園大会出場は叶わなかった。
卒業後、キャタピラー三菱を経て三菱名古屋に入社。1978年の都市対抗野球大会に出場し、1回戦で敗退したが大会史上初のサイクルヒットを記録。翌1979年にも出場しているが、2年連続で初戦敗退に終わっている。
1979年ドラフト会議にて、阪神タイガースから3位指名を受け入団。
初年度の1980年、即戦力ルーキーとして期待され開幕一軍入りを果たす。同年は65試合に出場し、打率.259、1本塁打、6打点を記録。翌1981年は出場機会を増やし100試合に出場。
1982年、センターのレギュラーに定着。規定打席には届かなかったが、125試合に出場。打率.246、4本塁打、17打点、25盗塁を記録し、守備力の高さを評価され、ダイヤモンドクラブ賞に選ばれた。
1983年、初めて期待打席に到達し、打率.260、9本塁打、29打点、26盗塁を記録した他、セ・リーグ最多の31犠打を記録。2年連続でダイヤモンドクラブ賞にも選ばれた。
1984年、弘田澄男の移籍加入や、吉竹春樹の台頭もあり出場機会を減らし、打率.228と低迷。
1985年、弘田や吉竹と激しいレギュラー争いを繰り広げ、機動力に欠ける強力打線の潤滑油的な役割を果たし、115試合に出場。打率.262、3本塁打、19打点、21盗塁、25犠打を記録し、セ・リーグ制覇、球団史上初の日本一に大きく貢献した。
以降も外野のレギュラー格として活躍していたが、1988年シーズン途中に、金森永時とのトレードで西武ライオンズへ移籍。西武では主に守備固めや代走での起用が中心であった。
1990年シーズン途中、鈴木康友とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍。中日でも控えの外野手として守備固めや代走などで渋く活躍。
引退後、中日でコーチを務めた後、阪神に戻りスカウトとして活動。久保田智や岩貞祐太らの獲得に貢献した。
2017年、福井ミラクルエレファンツの監督を務めた後、社会人野球の深谷組で指揮を執っていたが、2022年に休部したことで退部している。
華麗でありながらガッツ溢れる外野守備でチームのピンチを救った「鳥人」。
センターゴロやライトゴロを幾度も記録した強肩や、ド派手なダイビングキャッチ、フェンスをよじ登ってのホームランキャッチ、ホームクロスプレーでキャッチャーのブロックに恐れず立ち向かう走塁など、守備や走塁で全力を尽くす姿勢で人気を博した。
北村に使用されていた応援歌は、後に新庄剛志へと引き継がれた。
通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1052 | 2359 | 2056 | 333 | 505 | 41 | 158 | 114 | 122 | 9 | 156 | 16 | 335 | 29 | .246 | .303 |
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最終更新:2025/03/28(金) 20:00
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