北条時政(1138~1215)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
桓武平氏直方流の子孫とされるが、桓武平氏なのはともかく源頼義に鎌倉の屋敷と妻を与えた直方の子孫が北条政子の父親というのは出来すぎているため、異論もちらほらある。父は平時家、母は伴為房、もしくは伴兼房の娘。
かつては『吾妻鏡』を無批判に受容してきた反動から、どこの馬の骨かわからない評価を一転してされてきたが、近年では『吉記』でおなじみの勧修寺流藤原氏の受領・吉田経房のもとで活躍した、伊豆の有力在庁官人だったとされる。
当初は北条政子を貞季流桓武平氏の山木兼隆に嫁がせようとしたが、伊東祐親に妻と別れさせられ、新たな有力者とのつながりを求めた源頼朝の下に政子が走ったことは極めて有名である。この結果、源頼政の敗死で受領が平時忠に代わって伊東氏や堤氏に在庁官人の役割を奪われつつあったこともあるが、あれよあれよという間に治承・寿永の乱に巻き込まれることとなる。
しかし子飼いの兵が少なかったこともあり、実は源平合戦で軍勢を率いて活躍したのはごく初期に過ぎない。どちらかといえば石橋山の敗戦直後に北条義時と武田信義のもとに協力するように派遣されたりと外交・交渉を担った。また比企氏とは別に源頼朝旗下の婚姻ネットワークの形成を担い、
といった具合に大きく分けることができる。3は北条氏レベルが本来結べる相手、2のグループは北条時政の妻で貴族出身の・牧の方の娘たちで京都のパイプがあったため、1は北条政子との関係で結ばれたといってもいいほど、といった具合である。彼と頼朝乳母の比企尼の婚姻ネットワークが、本来源頼朝政権のかなめとなるはずであった。
北条時政はさらに、源義経失脚後の京都守護としてわずかな期間ではあるが京の朝廷との交渉役を担い、守護・地頭の設置、全国一律段別五升の兵糧米徴収権の獲得に成功し、頼朝の妹婿である公家・一条能保にバトンタッチしている。
しかし源頼朝没後に彼の暗躍が始まる。まず真っ先に幕府内では清和源氏にしか認められなかった諸大夫層の官位、遠江守に任官している。さらに源頼家政権に移るとそれまで全く出番のなかった垸飯役を務めるようになり、ほかの御家人より一段階上の存在となりつつあった。そしてそれに邪魔だったのが、源頼家と彼を支える比企能員をはじめとした比企党であり、これに対し北条政子も同調して比企氏の族滅と源頼家の暗殺につながったのだ。
そしてその結果北条時政は大江広元とともに1203年に政所別当に任じられ執権の走りとなった。
さらに牧の方と共謀して娘婿の平賀朝雅を将軍にするために、まず武蔵守である朝雅にとってじゃまな、武蔵国留守所総検校職を握っていた畠山重忠を謀反の罪をかぶせて滅ぼした。しかしそうしたところ、北条義時、北条政子ら子息と敵対することになり、牧氏の変は時政の出家という形で失敗に終わったのである。しかしその後特に何かされることもなく長い隠居生活を過ごしていったようだ。
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35 ななしのよっしん
2022/12/25(日) 21:43:13 ID: YEJQAfXTuo
まあクーデター未遂の処分内容からして、隠居して息子に家督を譲るのと追放と称して元々の所領に帰る、てだけの身内忖度激甘温情判決やしなあ
島流しの後鳥羽上皇とかに比べたら、家族親戚が気軽に足を運べる伊豆の実家に引っ込んだだけなのでそんなに困ってなさそう
36 ななしのよっしん
2022/12/25(日) 21:50:59 ID: l4ulFaQ/Ka
37 ななしのよっしん
2023/01/19(木) 20:42:04 ID: ijnfFdrc9m
子孫から黒歴史扱いされて、義時が家祖みたいな扱いされるのはキツイ罰かも知れないな
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最終更新:2024/04/20(土) 05:00
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