北条朝時 単語

ホウジョウトモトキ

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北条朝時1193~1245)とは、鎌倉時代に活躍した武将である。

概要

北条義時宗の前の間に生まれた義時の次男。妻は大友能直北条時房。名越流北条氏の祖。

1206年に元する。1212年に北条政子の官女で佐渡康のラブレターを送った挙句、深夜秘かに誘い出そうとしたことが発覚し、源実朝に呆れられ、義時からは義絶され、駿河に居させられた。しかし1213年の和田合戦の直前に呼び戻され、和田方の猛将・朝比奈義秀相手に奮戦する。さらに1221年の承久の乱では結城広、佐々木信実とともに北陸道大将軍となり、本戦自体には参加しなかったものの、北陸道の官軍を順次鎮圧していった。

1223年に北陸道守護成の尋沙汰が時に命じられるが、あくまでも守護だったのは加賀能登越中、越後の四カに過ぎなかったようだ。

北条義時1224年の死後は、にいた北条泰時の代わりに、北条重時兄弟と葬送を行っている。その後の賀氏の変との関係は不明であるが、この後執権連署に次ぐ地位にいたことから泰時方についたようだ。

1231年には悪党らに討ち入れられ、慌てて助けに向かい、時の事を知った北条泰時に対し、盛綱が君たるもの~というテンプレ的な諫言を行ったのに対し、泰時が兄弟に対し~とこれまたテンプレ的な反論を行い、そのことを知った時は泰時流への忠を誓った、という話が『吾妻鏡』に残る。しかし、執権北条泰時連署北条時房という体制の中で、幕政から疎外されつつあった時は、将軍九条頼経との関係を深めていく。

そして北条時房の死後、ついに北条泰時に次ぐ地位も足利義氏に奪われ、泰時後には泰時の孫・北条経時、時房の息子・北条時定にまで飛び越されることとなる。時はその後出し、1245年に亡くなった。この翌年、九条頼経、時の息子・名越時、名越時幸らが排斥される宮騒動が起き、以後名越流は反として鎌倉時代を送ることとなった。

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最終更新:2024/04/24(水) 10:00

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