文保二年(1318年)に北畠親房の長男として生まれる。北畠家は村上源氏の支流である中院家の傍流に当たり、中院家の祖通方の子、雅家が洛北の北畠に移ったことに始まる。本家の久我家は精華家として、大臣や源氏長者の地位を占めた。北畠家もその傍流として、歴代の当主は権大納言にまで登る家柄であった。顕家の父、親房も顕家が生まれるころには権中納言になっている。また、親房は後醍醐天皇の治世下で吉田定房・万里小路宣房とならんで「三房」として信任を得ており、淳和院別当、権大納言、奨学院別当の地位を得て、正中2年(1325年)1月には源氏長者となるなど権勢を誇った。
顕家も自身の才覚と、父の権勢の影響で出世をし、3歳で叙爵、以後諸職を歴任し、元弘2年/正慶元年(1332年)に従三位参議・左近衛中将にまで到達する。数えの14歳にして参議は他に例がない。
元弘3年/正慶2年(1333年)から建武の新政が始まると父親房も後醍醐天皇を補佐することとなる。顕家も同年8月には従三位陸奥守に任ぜられ、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城に入り奥州の経営を行った。翌年には北条氏の残党討伐で功を上げて、従二位に任ぜられる。建武二年(1335年)には、鎮守府将軍となる(但し、彼の位からは鎮守府将軍の相当する位が低く、後に鎮守府大将軍と成っている)。
同年11月、朝廷は尊氏討伐の勅を発し、新田義貞を主将とする討伐軍を出したものの、足利尊氏はこれをやぶって、京都へ進撃した。このことを受け、北畠顕家も義良親王を奉じて京都を目指す。
12月22日、奥州諸将を纏めて、白河関を進発。翌年1月2日には、足利義詮・桃井直常の軍勢を破り、鎌倉を占領。1月6日には遠江、12日に近江愛知川に到着。翌13日に近江坂本で新田義貞、楠木正成らと合流して、後醍醐天皇に謁見している。同月16日には尊氏軍を打ち破り、1月中に京都から尊氏軍を排除。翌月5日には、大将軍号を受けて、京都を出撃。10日から11日にかけて再度の入京を試みた尊氏、直義を打ち破って九州へと追い落とし、14日までに畿内から足利勢力を駆逐した。
この時、顕家の率いた軍の進撃、すなわち奥州白河関から遠江に至るおよそ600kmの道のりの16日間での進撃は日本史上屈指の速度である。同じく強行軍として知られる後代の豊臣秀吉の中国大返しと比較しても、中国大返しは十日間で200kmと顕家の軍の方が倍近く速い。
更に言うなら、豊臣秀吉の通った山陽道は古くから道が整備されており、姫路までの道は自身の勢力圏内の移動であった。一方で、顕家が通った道の一部は、利根川などの大小の河川と湿地が入り交る関東を含み、更に下野、武蔵、相模、三河など途上に足利氏と関連が深い地域が多数存在する状況であった。それを、彼はその行軍速度を維持したまま京都に達し、疲労しているであろうその軍で二度も尊氏の軍を破っているのである。ちなみに、この時彼は十八である。おかしい。
尊氏を九州に追いやった後、3月に権中納言に就任した顕家は足利氏勢力との戦いのため奥州へと下り、5月に多賀城へと一旦戻る。だが、この間に尊氏が捲土重来と九州より軍勢を上げており、湊川の戦いで楠木正成は死亡し、新田義貞は破られ、後醍醐天皇は比叡山に動座していた。
この頃、顕家は国府を霊山城へと移し、東国で足利方と戦っていた。然し、12月に後醍醐天皇から京都奪還の勅令が出され、ついで延元2年/建武4年(1337年)1月には、父から伊勢への援軍要請が出されており、これを受けて、8月には再度上洛を期して霊山城を発つこととなる。
8月19日に、白河関を越え、12月には鎌倉を再占領し、翌年の延元三年/暦応元年(1338年) 1月2日、鎌倉を進発して、1月21日に尾張国に到着した。尊氏方もこれを迎え打たんと諸将を集めたが、1月28日に顕家はこれを美濃国青野原の戦いで打ち破ることに成功した。この戦いで美濃国守護の土岐頼遠が一時期行方不明となるなど尊氏方の損害は絶大で、京都の尊氏は新手を再編成しなければならなかった。一方の顕家方も長駆遠征の疲弊と、度重なる戦闘及び兵力の減少により、攻勢限界に達しており、尊氏軍の新手を破る余力はなく、上洛を諦めて伊勢へと転進することとなる。
兵力の減少から上洛を諦め伊勢伊賀へ転戦。だが2月には、北朝側は顕家討伐の軍を発し、諸将は顕家討伐に向けて伊勢へと進軍する。以後、伊勢大和で北朝と激突するも破られ、義良親王を吉野へ送ると河内へと転進。ここでも、北朝と激しい戦いを繰り広げるが、敗れて和泉へ向かう。この間に、高師直が顕家討伐の為和泉へ侵攻。顕家軍は和泉で北朝方相手に奮戦していたものの、連戦による疲弊から体制を整えた師直軍の前に石津の戦いで壊走した。顕家はなおも戦ったが衆寡敵せず、5月22日に師直軍によって名和義高・南部師行らと共に打たれる。享年21。
彼の死は、同年閏七月の新田義貞の死と合わせて、南朝方が軍事的中核を失ったことを意味した。また、南朝方は、畿内における戦いは勿論、顕家が統治していた奥州でも劣勢を余儀なくされる。一方で、顕家討伐の功は北朝方としても非常に大きなものであり、これを為した高師直の幕府での発言力が急速に高まった。この結果、政務を執行していた足利直義との間に派閥争い、権力闘争が顕在化。これがその後の観応の擾乱の伏線となっていく。
掲示板
48 ななしのよっしん
2023/01/13(金) 02:43:21 ID: njqzpQr/3V
>>47
岳飛伝では岳家軍が略奪しまくったせいで後方から崩れる場面があるな
49 ななしのよっしん
2023/05/22(月) 01:00:52 ID: BB18WA+c02
>>48
岳飛伝は岳家軍が民政に無知なせいで最初はまず成り立たないような軽い税にして
その後首が回らなくなるから税を上げるっていう心象的に最悪な形で重税を課したせいじゃなかったっけ
50 ななしのよっしん
2024/01/18(木) 21:42:25 ID: Hsi4S9VNgR
逃げ若での北畠勢の略奪は、「無茶な徴発をしたからには相手は北朝に寝返る」「だから先手を打って皆殺しにしよう」「そうすれば村の食料は全部奪えるし、将来の敵方も減らせる」という暴虐の合理主義に走った手勢を、状況から大将としては咎めきれなかったって扱いだったな。
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最終更新:2025/07/26(土) 13:00
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