千利休 単語

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千利休 / 千宗益(1522~1591)とは、戦国時代人である。

概要

茶道を大成した、日本文化史の重要人物。豊臣秀吉の政権で裏向きのことに関与し、おそらく最期もその余波で死ぬ結果をもたらした。

千利休の子孫は彼の祖先を室町幕府同朋衆・千弥と認識していたようだが、ちゃんと調べてみるとどうも違うようで、実際問題日本史学の領域では同朋衆はほとんど研究されておらず(同朋衆絡みの研究はほとんど文学宗教学)、よくわかっていないことも多い。

少なくともの出身であった千利休は、大永2年(1522年)の生まれである。彼のは子孫の伝える所では問屋で、当時の流行から業の傍ら茶の湯を学んでいった。まずは北向陳に師事し、武野紹子入りする。少なくとも20歳前後の頃には会を開き、今井宗久津田宗及(天王寺屋宗及とも)らと関わっていった。

かくして、織田信長が上し、に関与してくる。すでにこのころ50歳前後の壮年の人物であり、『信長公記』によると織田信長頭として活動していたようだ。しかし、人としても商人としてもバックアップしていた織田信長本能寺の変で亡くなり、すでに60代となっていた千利休は豊臣秀吉と関わる。正13年(1585年)に利休の居士号を与えられ(ここまでは本名の千宗益)を与えられ、禁中会では豊臣秀吉の後見人まで務めたのである。

大友宗麟豊臣秀長と並ぶ政権内の有者とまで言われたほどの千利休であったが、正19年(1591年)に切腹を申し付けられる。有名な理由付けとしては大徳寺で千利休の木像の下を通らせることを不敬と因縁づけられたものだが、少なくとも前年の小田原攻めには従軍しており、本当に急に降ってわいた話のためよく分からない。

かくして、豊臣秀長も亡くなってしばらくした2月に追放され、千利休はに自身を菅原道真に例える文を残しながらも、前田利家の養護の買って出も断り、切腹した。

なお、豊臣秀吉期は史料の残存関係でよくわからないことも多く、この千利休の死も最近いろいろ唱えられているが、正直よくわからないことになっているため、あくまでも概説的な記述にとどめておく(ただでさえ人に関する本は政治史の認識が数周遅れている文化史の研究者が書いていることも多いので)。

遺偈

人生七十 囲希咄(じんせいしちじゅう りきいきとつ)
共殺(わがこのほうけん そぶつともにころす)
提る得具足の 一太刀(ひっさぐる わがえぐそくの ひとつたち)
時ぞ に抛(いまこのときぞ てんになげうつ)

創作の中の千利休

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける千利休の力一覧。

武将ではないのになぜかいる。大志で急に政治しかできなくなった。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 - 政治 - - 野望 -
武将風雲録(S1) 戦闘 - 政治 - - 野望 - 教養 -
覇王 采配 - 戦闘 - 智謀 - 政治 - 野望 -
天翔記 戦才 - 智才 - 政才 - - 野望 -
将星 戦闘 - 智謀 - 政治 -
烈風 采配 - 戦闘 - 智謀 - 政治 -
世記 采配 - 智謀 - 政治 - 野望 -
蒼天録 統率 53 知略 90 政治 80
下創世 統率 - 知略 - 政治 - 教養 -
革新 統率 - 武勇 - 知略 - 政治 -
統率 - 武勇 - 知略 - 政治 -
創造 統率 58 武勇 30 知略 91 政治 89
大志 統率 56 武勇 32 知略 65 内政 83 外政 94

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