千早城 単語

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千早城
日本100名城 55
別名 楠木金剛
千早の詰め
千早のかくれ
構造 式山
守構造 なし
楠木正成
1332年(元2年)
1392年(明徳3年)

千早城とは、鎌倉時代南北朝時代に存在したである。日本100名城(55番)。

概要

楠木正成鎌倉幕府に奪われた赤坂の奪還のための拠点とするために1332年に築いたである。1333年には幕府軍が千早城に攻め込んできたが、1000人で篭し、100日間100万人の軍勢を退けた(誇の可性大ではあるが守りきったのは事実)。幕府が千早城攻略に手間取っている間に手薄になった鎌倉新田義貞らに攻撃され、鎌倉幕府は滅亡することとなったのだった。その後、楠木の居となっていたが、1392年に南方の楠木正勝が、北方の畠山攻略され、落となった。

河内大和にある金剛山から伸びる尾根の一つに築かれている。それだけだと大したことはないように聞こえるが、実際に地図で見るexitとわかるように、域となる狭い尾根は金剛山へと伸びる尾根以外は南西方向を千早峡谷、北西方向を北谷川、北東方向を井戸、南東方向を妙見に囲まれ、しかもはどの方向も急峻、その深さは約200mあるという中々えげつないであった。大手は西側の狭い平野地に伸びる千早と北谷川に挟まれた較的緩やかな尾根で、そこから本尾根上に上り、金剛山側に登っていくに従い四の丸・三の丸・二の丸・本丸という縄張りになっていた。搦手となる金剛山への尾根は一のっ当な尾根であったが、当時楠木正成金剛山山頂にあった転法輪寺と連携を取っていたと伝わっており、当時はこちらも付け入る隙がなかったと思われる。現在かつて千早城があった場所には明治時代に整備された千早神社と広場があるが、これによって当時の遺構はやや破壊されてしまっている。住所大阪府南河内千早赤阪村千早

太平洋戦争末期1945年2月に編成された伊44伊368、伊370からなる回天特別攻撃隊「千早隊」はこの千早城から名前を取っている。

史跡は1934年3月13日の史跡に定されている。3月13日元日から数えて72に当たるのは何の因果だろうか。

1972年のあさま山荘事件では犯人側の立てこもった山荘が「昭和の千早城」と呼ばれた。また72か。

2006年日本100名城に選定された。番号55番。72だの55だの、あの歌姫を意識せざるを得ない。

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