南モンゴル 単語

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ウブルモンゴル

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南(ウブル)モンゴルとは、現在内蒙古自治区と呼ばれる地域のモンゴル人による呼称である。「内古」「外古」というのはあくまで人から見た他称のため、モンゴル人自身は南モンゴルと呼ぶ。

ちなみにウブル・モンゴルの対として現在モンゴル国を北(アル)モンゴルと呼ぶこともある。

概要

元々近世に至るまで「内古」「外古」という区別は存在せず、ゴビ砂漠を基準とする「漠南」「漠北」という分類が存在するにすぎなかった。

17世紀、満洲清朝(ダイチン・グルン)が成立すると南北モンゴル清朝に征されたが、そこで先に清朝に降った地域を「内古」後に降ったハルハ族の領域を「外古」と呼んだ。これが内古の始まりである(正確には清朝の時代の内古は現在内蒙古自治区と一致しない)。

第二次世界大戦前後には盛んに独立運動が行われたが、結局は成功しなかった。

南モンゴルにおけるモンゴル人の人口は約400万で、これは北のモンゴル国の人口(270万人)の約二倍に近い。それでも現在の南モンゴルにおけるモンゴル民族の占める割合は一割程でしかなく、民族が人口の7割程を占める最大民族である。

住民の化によるモンゴル伝統文化の断絶が危険視されている一方、モンゴル国で失われた伝統が保持されていることもある(モンゴル文字の使用など)。

歴史

モンゴルの歴史も参照。

地理

フルンボイル(Хөлөнбуйр)
南モンゴル最北部の。名称はフル(ダライ)とボイルに由来する。
清朝時代にはトゥングース民族ソロン・オロチョンとモンゴルダグール、バルガ族からなるソロン八旗が設立された。
南モンゴルの中でも最北に位置するため清末においても民族の移住は少なかったが、中華人民共和国成立後はやはり民族が多数となっている。
満州国の時代には安省が設置され、遊牧民の伝統的な生活の保護が図られた。
ハルハ河戦争(ノモンハン事件)が勃発したのもこの地域である。
ヒンガン(Хянган)盟
名称はヒンガン山脈(大安嶺)に由来する。
清朝の時代には「内古六盟」の一つ、ジェリム盟の一部とされた。
(Тонляо)
中央部を西河が流れており、と同様に鮮卑・烏丸・契丹・奚といった部族が勢圏としてきた。
北元の時代以降はチンギス・カンジョチ・カサルを祖とするホルチン部がこの地方を根拠地とし、満洲人が後(後の清朝)を建するといちはやくこれに帰順した。
清朝の時代には「内古六盟」の一つ、ジェリム盟の一部とされた。
峰(Улаанхадウラーン・ハダ)
の領域ではシラ・ムレンラオハ・ムレン(ムレンモンゴル語で河の意)が流れ、両河川は合流して西河となる。シラ・ムレンの流域ではキタイ人が4世紀から14世紀にかけて遊牧し、10世紀にはこの地方を中心として(キタ帝国)を建設した。
清朝の時代には「内古六盟」の一つ、ジョーウダ盟が置かれた。
シリーンゴル(Шилийн Гол)盟
シリーンゴル原が広がる。
ウラーンチャブ(Улаанцав)
16世紀頃にダヤン・ハーンがモンゴルの諸部族を再編した際に、この地方一帯はトメト部の領域とされた。
清朝の時代には「古六盟」の一つ、ウラーンチャブ盟が置かれている。
フフホト(Хөх хот)
南モンゴル全体の中心都市。16世紀、トメト部のアルタンによって築かれた。
この地域の重要性は古くから知られており、遊牧部族の拓跋氏が建した北も当初はこの地域に首都の盛楽を置いていた。
アルタンによって明とモンゴルの和が成立すると、帰化と呼ばれたフフホトは交易都市として急速に発展し南モンゴル最大の都市へと成長した。
ちなみにホト(хот)はモンゴル語で「(都市)」を意味するため、「フフホト」は正確には誤りである(漢字表記は呼和浩特となっているが)
包頭(Бугат)
名称は「鹿のいる地」を意味するモンゴル語に由来する。そのため、鹿とも呼ばれる。
1936年には日本軍の後押しを受けた内モンゴル軍が中華民国軍と衝突する綏遠事件が起こっている。
清朝の時代にはウラーンチャブ盟の一部だった。
バヤンノール(Баяннуур)
バヤンノールとはモンゴル語で「豊かな」を意味する。
包頭バヤンノールにまたがる陰山山脈は匈奴・トメト部といった遊牧民の重要拠点であった。
・唐といった北方に領土を拡した中国陰山山脈を北方としたため、代の万里の長城陰山山脈に沿って建設されている。
清朝の時代にはウラーンチャブ盟の一部だった。
(Үхай)
1975年バヤンノール盟(現バヤンノール)のウダとイェケジョー盟(現オルドス)の勃湾が合併してできた新都市
オルドス(Ордос)
匈奴の時代以来の中国モンゴルの係争地。
オルドス地方とは「」の字行する河に囲まれた地方し、中国では古来河西とも呼ばれた。気土的にはモンゴル高原の一部に属しながら、河の存在によってある程度の農耕もできるという土地柄のために頻繁に中国・遊牧国家の係争地となった。
16世紀にダヤン・ハーンによってモンゴルの諸部族が再編されるとオルドス部がこの地方を支配するようになり、以後この地域がオルドス地方と呼ばれるようになった。
清朝の時代には「内古六盟」の一つ、イェケ・ジョー盟が置かれている。
アラシャー(Алшаа)盟
南モンゴル最西部の盟。
10世紀頃にはチベット系タングート部が移住し、現在のオルドスアラシャン盟・甘粛省にまたがる西を建設した。アラシャン盟で発見された西時代の遺跡、カラ・ホト()では様々な史料が発見されている。
17世紀にはオイラート系部族が移住し、これが現在モンゴル系住民の祖となった。
そのため、清朝の時代には「内古六盟」には属さないエジネ・トルグート部とアラシャー・オーロト部という独立した遊牧地が設置されている。

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