南宗継(?~1371)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
南氏(もしくは高南氏)とは高師氏(高師直の祖父)の弟・高頼基(南頼基)に始まる庶家であり、大高氏らと同族である。南宗継は南頼基の孫にあたり、南惟宗の五男であったが早世した南惟潔の猶子となり、三人の兄を越えて、南氏の嫡流となった(ちなみに高師直とは又従兄弟である)。
鎌倉時代には高一族が代々務めた公方沙汰頭人を務め、実務的な文筆官僚として足利氏の家政機構を支えていた。その後建武政権下には高師直や大高重成とともに、後醍醐天皇に従った足利尊氏の行列に参加するなど、足利氏の一被官としてそれなりに重要な役割を担っていた。
やがて中先代の乱から足利尊氏の建武政権の離脱を経ると、兄の南宗章を失う一方で、尊氏と行動を共にし、矢作川の戦い、多々良川の戦い、西坂本の戦いなどに参戦している。
そして室町幕府が設立されると高師泰の次の侍所頭人に任命され、また北条氏の有力一門が任じられていた遠江守になるなど幕閣としてはかなり高い位置にいたと思われる。また1343年ごろに高師兼に代わって三河守護に一時的になっているが、宗継の妻は師兼の妹で、彼女との子である南宗久が師兼の猶子となるなど高一族本家とも強いつながりを持っていた。
一方彼の地位として特筆すべきことは長期にわたって備中守護を務めたことである。高一族は基本的に対南朝目的で短期間のみ守護を務めるケースが多く、長期にわたって守護を務めたのは武蔵、三河、そして宗継の備中のみであった。
その後観応の擾乱が起きると、足利直冬に対する抑えとして備前の石橋和義、備後の高師夏とともに配備された。そして備中での高師泰軍対上杉朝定軍との戦いで師泰が勝利する一因になったのである。しかし南宗継はその後師泰には従わず現地にとどまり、1351年の高一族の惨殺を免れることとなった。しかし直義派が幕政を掌握したことで備中守護を解任されている。
その後観応の擾乱が終了すると執事は仁木頼章が務めることになった一方、どうも南宗継はもう一人の執事になっていたのではないかという文書が散見している。また上総、安房の守護を務め、新田義興、脇屋義治らが鎌倉に攻め込んできた武蔵野合戦では息子の南宗直を失うほどの激戦の中、足利基氏を守り続けた。晩年の動向は不明だが、南氏は以降関東にのみその活動がみられるため、関東に残り続けたようだ。
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最終更新:2024/04/25(木) 09:00
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