吉田稔麿 単語

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吉田稔麿とは幕末の志士である。松下塾の三秀、もしくは四天王の一人と呼ばれる。旧名栄太郎

概要

保12年(1841年)1月24日長門松本にて足軽に生まれる。9歳の頃久保五郎衛門の私塾に通い、13歳の頃江戸騒動を体験する。

安政3年(1856年)に吉田松陰催した松下塾に入門陰は稔麿を高く評価し、

(久坂玄瑞)の才は縦横尽なり。暢夫(高杉晋作)は陽頑、逸(吉田稔麿)は陰頑にして皆人の駕を受けざる高等の人物なり(中略)常にこの三人を推すべし

と賛辞を残している。

安政5年(1858年)、陰が再度投されると入江九一らと庁に抗議するが逆に謹慎を命じられる。家族の養い手だったため以後は陰に近づかぬようになるが、その死後喪にしてから万延元年(1860年)に脱

文久元年(1861年)、体制内部から勤王を説こうと幕臣の付・妻木田宮に仕える。

文久2年(1862年)、妻木に意を打ち明けて去り、上京京都長州世子の毛利定広に脱罪を許されて帰した。

文久3年(1863年)7月、士分に取り立てられ屠勇取り立てを建。屠勇取立方を命じられ被差別層からなる屠勇隊を組織した。8月に発生した朝陽丸事件では対応を命じられ、問題を解決。この年に稔麿と改名。

その後再度脱し、京都で潜活動を続ける。

元治元年(1864年)6月5日新撰組が旅籠池田屋で会合中の尊攘志士達を襲撃した。この時稔麿池田屋に居合わせ応戦したが殺されたとされる。享年23。

池田屋で闘死したかどうかについては異説が多く、京都留守居役の美織江の言では、稔麿遺体長州邸隣の加賀別邸の前にあったとされる。また近年の調研究では稔麿池田屋にはそもそも居合わせなかったのではないかとする説もある。なお池田屋で沖田総司られたというのは作家の子沢寛が「あれは作り話」と話している。

逸話

松下塾時代、稔麿は絵を描いて山県小に見せた。裃を着た坊主輪を付けない木刀、棒切れが描かれており、「坊主久坂玄瑞高杉晋作木刀入江九一、棒切れがお前だ」と言ったという。また、伊藤俊輔瓢箪と呼んでからかったという逸話から、人をからかうのが好きな人物だったことがえる。

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