吉見氏頼(?~?)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
源範頼の子孫で、鎌倉時代に名越氏の能登守護就任に従って移住した分家の能登吉見氏の出身である。1333年に鎌倉幕府が滅びると父・吉見頼隆とともに足利尊氏に従い、後醍醐天皇からの離反にも与した。
1337年に新田義貞が越前金ヶ崎城に入ると、越前守護・斯波高経とともに、能登守護・吉見頼隆は義貞の討伐に向かい、息子である吉見氏頼も当然これに従った。金ヶ崎城落城や藤島の戦いでの義貞の戦死があったものの、依然として脇屋義助や畑時能の南朝勢が北陸で活動し、南朝軍は何度も能登に侵攻していったのである。氏頼はそんな中各地を転戦し、1346年の木尾嶽城の戦いで勝利をおさめるなど、大活躍をしたのである。こうして父の後を継ぎ1348年に能登の守護についた。
観応の擾乱が起きると吉見氏頼は足利尊氏方につき、足利直義方についた井上俊清や桃井直常と戦っていったのである。これに対抗して1352年には能登の有力国人・飯川家を味方につけ、1362年には木尾嶽城にこもった南朝の富来俊行らと戦いこれを打ち破っている。
このように北朝方、尊氏方として非常に活躍した彼だったのだが、1379年細川頼之が斯波義将らのクーデターで失脚すると巻き込まれて能登守護を罷免。その後1383年の文書を最後に消息を絶ってしまった。この辺りは加賀守護である富樫昌家と似通っているのだが、富樫氏と違い能登吉見氏はその後復権することはなかった。
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最終更新:2024/04/23(火) 21:00
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