名古屋電気鉄道とは、かつて存在した鉄道事業者である。
通称は「名電」や「名古屋電鉄」。
名古屋市の地方公営企業の名古屋市交通局(名市交)と大手私鉄の名古屋鉄道(名鉄)の前身となった企業である。
日本で2番目に営業用の本格的な電車を走らせた企業で、これは日本で初めて営業用の本格的な電車を走らせた京都の京都電気鉄道に次ぐものであった。
路面電車の「市内線」と郊外電車の「郡部線」を運営していた。
現在の名古屋市交通局はこの企業の市内線部門を、名古屋鉄道は郡部線部門をルーツとしている。このため、両者のルーツは同じである。
なお、名古屋電気鉄道が敷設した路線のうち、郡部線は一部が廃止されたものの名古屋鉄道の路線として現在も運行が継続されているが、名古屋市に買収されて名古屋市電となった市内線は1974年に全線が廃止されている。
名古屋電気鉄道は1894年に設立された「愛知馬車鉄道株式会社」を起源とする。これは電気鉄道ではなく馬車鉄道の特許を出願して取得したためだが、結局馬車鉄道としてではなく電気鉄道として建設する方針となり、電気鉄道の特許を申請し認可されたことから、社名を「名古屋電気鉄道株式会社」へ変更して本格的な電気鉄道を開業させることになった。
1898年5月6日、名古屋電気鉄道として初めての路線となる市内線 笹島町 - 愛知県庁門前間(後の栄町線)を開業させた。これは営業用の本格的な電車としては日本で2番目、名古屋では初めて走った電車となった。
この開業用として用意されたのが名古屋電気鉄道の創業車両である「名電1号形」であった。開業時用意された数は7両であったとされている。
1901年2月、柳橋 - 押切町間(押切線)が栄町線に次ぐ路線として建設された。1903年1月には、広小路通を使用し、栄町線が千種まで延伸された。
栄町から熱田町へ向かう熱田線は、住民の賛同が得られず着工が遅れたことから1908年5月まで開業がずれ込んだ。
1910年には公園線、築港線、枇杷島線が開業している。
1911年6月に江川線、同年8月に覚王山線が開業、1913年11月に御幸線、1914年11月に大曽根線が開業した。
1919年4月には熱田電気軌道を合併している。(後述)
1921年12月に堀内線の開業によって旧熱田電気軌道区間を合わせた営業キロは合計42.5kmとなったが、名古屋電気鉄道時代の新規路線開業は堀内線が最後となった。
熱田電気軌道は1910年4月に会社設立され、同年7月に路線を開業した企業である。
だが、開業間もない1912年9月23日台風によって変電所が使用不能になる被害を受けた。この時は名古屋電気鉄道の変電所を借りることで急場を凌いでいる。
しかし、もともと沿線がほとんど開発されていなかったので営業成績は良くなく、愛知県知事が名古屋電気鉄道への合併を斡旋した。名古屋電気鉄道の常務の上遠野富之助が熱田電気軌道の株主となっていた縁もあり、1919年4月に名古屋電気鉄道が熱田電気軌道を吸収合併した。
これにより旧熱田電気軌道線は名古屋電気鉄道の路線網に組み込まれ、その一部となった。
その後の名古屋電気鉄道市内線部門の名古屋市による買収においては、名古屋電気鉄道の路線共々買収され、名古屋市電の一部となっている。
開業以来路面電車専業だった名古屋電気鉄道であるが、1906年頃になると本格的な郊外路線を建設する計画が持ち上がる。
同じ頃、知多電気鉄道(愛知電気鉄道の前身)が熱田 - 常滑間、尾張電車鉄道が名古屋 - 岩倉 - 犬山間、一宮電気鉄道が名古屋 - 岩倉 - 一宮間の軌道敷設を申請していたが、名古屋電気鉄道でも対抗して市電に接続する押切町を起点とし津島や一宮間へ向かう路線や熱田 - 半田間の軌道敷設を申請した。
後に名古屋電気鉄道は尾張電車鉄道と一宮電気鉄道から事業を譲受することに成功した。
これにより本格的な郊外路線の建設が始まった。まず、計画区間の一部である押切町 - 枇杷島間が枇杷島線として1910年5月に先行開業した。残りの区間は庄内川橋梁の完成を待ち、1912年8月6日に押切町 - 岩倉 - 西印田間の一宮線と岩倉 - 犬山間の犬山線が全通した。これらの区間は軌道条例の適用である既存の市内路線とは異なり、軌道条例ではなく軽便鉄道法の適用区間とされた。これは従来の市内路線が路面電車、郊外線が鉄道線を走る郊外電車であることを意味する。従来の市内路線は「市内線」、郊外路線は「郡部線」と通称されるようになった。
この郡部線は、市内線用電車とは違う専用車両で運行されており、開業用に用意された車両は「初代168号形(後の500形)」であった。
さらに1913年1月に一宮線西印田 - 東一宮間が延伸、1914年1月には枇杷島橋 - 新津島間の津島線が開業し、鉄道敷設免許を持つ3路線が全通した。また、1913年11月に柳橋駅を開設し、郊外路線の電車が市内線に乗り入れるようになっている。
この乗り入れはアメリカのインターアーバンをモデルとしている。
1914年9月には須ヶ口 - 清洲間の清洲線が開業、1920年9月には岩倉 - 小牧間の小牧線が開業した。
この小牧線開業を最後に名古屋電気鉄道時代の新規路線は最後となった。
この時点の営業キロ合計は54.9kmであった。
名古屋電気鉄道が順調に発展していくにつれ、会社に対する批判や改善要求、市内線の市営化論が沸き起こるようになった。名古屋市と名古屋電気鉄道は1908年6月に純利益の3/100を名古屋に支払う代わりに市内電気軌道の独占を約束する報償契約を結んでいたが、これには25年後に市内線を名古屋市に譲渡するという内容が含まれていた。しかし名古屋市は報償契約を締結したばかりであったこと、買収資金の調達の目途が立たないことから買収には消極的だった。そのため、市民の関心は運賃問題へ向けられていった。
市内線の運賃はどこまで乗っても運賃が変わらない均一運賃制ではなく、乗った距離により運賃が上がっていく区間運賃制が採用されていた。これは開業時から路線が延長されていってもずっと変わっていなかった。そのため、遠距離の利用者は高負担を強いられた。
後に名古屋電気鉄道は運賃改定をしたが、その内容は区間運賃制を維持し、運賃を最低1銭・最高10銭とするなど、基本的に従来の制度と変わらなかった。
1914年9月6日5時、鶴舞公園で「電車運賃値下問題市民大会」が開催された。簡単に言えば市民によるデモ大会であり、3万人とも5万人とも言われる市民が集結した。
この大会では運賃を最低1銭・最高6銭とすることなど5項目の決議が行われた。
大会解散後の午後7時頃、興奮した参加者が通りかかった電車を破壊したのを手始めに、数グループへ分かれて電車を破壊・放火していった。名古屋電気鉄道本社に侵入して荒らし、倉庫を放火したグループや、柳橋駅構内に乱入し、ガソリンを撒いて放火して全焼させたグループもあった。この放火事件で柳橋駅は完成から僅か1年にして全焼し、2代目の駅舎が完成したのは、(旧)名古屋鉄道へ移管された後の1922年だった。
翌7日になっても緊張状態が続いたことから、遂に軍隊が出動した。しかし8日も騒動が起き、9日になってやっと沈静化した。
一連の事件により、市内線用車両ばかりでなく郡部線用車両も被害を受け、市内線用車両4両と郡部線用車両1両が全焼し使用不能になるなど、23両の電車が被災した。
これらの事件は現代で言えばテロそのものであり、完全な犯罪である。
この事件後、名古屋電気鉄道では社長や専務取締役が責任を取って辞任する事態となり、運賃は11月から最低2銭・最高6銭に値下げされ、市民の要求がほぼ反映された。
焼き討ち事件後も運賃に関する議論は続いた。他都市では既に均一運賃制を導入している都市が多かったので、名古屋もこれを導入するべきと要求された。
そこで名古屋電気鉄道は1920年3月に運賃を全線4銭均一に改正する申請書を市に提出した。
均一運賃制の導入は市営化の第一歩と社内外に受け取られた。
1920年6月7日、主力の車両基地の那古野車庫が失火により全焼した。これにより市内線用車両の半数が焼失し、郡部線用車両の一部も焼失した。更に悲惨だったのは、落成直前の最終艤装の段階であった新車の郡部専用電車1500形の新車がこの火災で完成することなく焼失してしまったのである。この車両は10両製造されていたが、この火災により半数以上の7両が焼失し、火災から逃れられたのは僅か3両だけだった。
後にこの7両は設計を変更して車体を再度新製して落成しているが、もともと同じ車両として製造されたにも関わらず、名岐鉄道移管後に火災に遭わなかった車両と形式が分かれてしまったのが更に悲惨であった(後述)。
この火災により市内線市営化の動きが急激に加速した。前年に公布された道路法(旧道路法)により市に道路管理の権限がなくなり報償契約が無効となる恐れがあったことや、第一次世界大戦後の不況による株価の下落や会社の危機により買収価格が安価になること、不況により買収のための公債を発行するのに好都合だったのが理由だったと言われている。(火災という会社の危機に便乗して買収を仕掛ける名古屋市、あまりにもやり方が汚すぎる)
名古屋電気鉄道としては収入のおよそ70%を占める市内線を手放すことに難色を示したが、最終的に郡部線に活路を見出すことにして買収に応じることになった。
1921年6月に名古屋電気鉄道は名古屋鉄道株式会社(旧名古屋鉄道)を設立し、7月1日に同社に郡部線部門を譲渡した。この名古屋鉄道は名岐鉄道に社名変更し、愛知電気鉄道との対等合併を経て現在ある名古屋鉄道株式会社となった。
1921年10月に市との買収契約が成立し、市会で可決された。1922年8月1日、名古屋電気鉄道の市内線部門を名古屋市が市営化し、「名古屋市電気局」が発足した。これは後に現在ある「名古屋市交通局」に改組された。旧市内線は名古屋市電となった。
同年9月27日、名古屋電気鉄道は臨時株主総会を開いて会社の解散を決議し、清算会社に移行、28年の歴史に幕を下ろした。
名古屋電気鉄道の消滅後、名古屋市に買収された市内線部門は名古屋市電気局となり、市内線は名古屋市電となった。この組織は1945年10月2日に現在の名古屋市交通局(名市交)へと改組された。名古屋市電は1974年に全廃されている。なお、名古屋市交通局は名古屋電気鉄道の市内線部門を市営化した1922年8月1日を開局としている。
郡部線部門は(旧)名古屋鉄道に事業譲渡された。この企業はその後、名岐鉄道と社名変更の後、愛知電気鉄道との対等合併により(現)名古屋鉄道株式会社(名鉄)となった。この対等合併に際しては、名岐鉄道を存続会社としたうえで愛知電気鉄道は解散している。このため現在の名鉄は(旧)名古屋鉄道が設立された1921年6月13日が登記上の設立日だが、名古屋電気鉄道との企業としての繋がりが意識され、名古屋電気鉄道の前身である愛知馬車鉄道が設立された1894年6月25日を創業記念日としている。このため、名古屋電気鉄道は現在の名鉄の直系前身であるといえる。
名古屋電気鉄道からの名古屋市交通局・名古屋鉄道への組織の繋がり
市内線部門
名古屋電気鉄道 市内線部門 ━ 名古屋市電気局 ━ 名古屋市交通局
(事業譲渡・市営化) (交通局へ改組)
郡部線部門
名古屋電気鉄道 郡部線部門 ━ (旧)名古屋鉄道 ━ 名岐鉄道 ━ (現)名古屋鉄道
(事業譲渡) (社名変更) (社名変更)
また、もともと一つの会社の路線であった市内線と郡部線は、柳橋駅から郡部線車両が市内線へ乗り入れしていた。この乗り入れは市内線が名古屋市電となり、郡部線が(旧)名古屋鉄道→名岐鉄道となって以降もしばらく維持されていた。デセホ700形・750形(後の名鉄モ700形・750形)の製造当時の写真を見るとトロリーポールとパンタグラフが両方搭載されているのが確認できるが、これは押切町 - 柳橋間が名古屋市電と(旧)名古屋鉄道との共用区間だったことから、この区間ではトロリーポールで集電するためである。これはもともと同じ会社の路線だった名残だった。名岐鉄道への社名変更後に製造された大型車両に対応できなくなったことから、押切町駅での車両接続という形に変更されたが、名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併して現在の名古屋鉄道が発足した後、名岐線(旧名岐鉄道側路線で、名古屋電気鉄道・(旧)名古屋鉄道・名岐鉄道・名鉄・尾西鉄道・美濃電気鉄道の各路線から形成された。)と豊橋線(旧愛知電気鉄道側路線)との直通運転が計画された際、愛電側の神宮前駅をターミナルとして使用することになったため、この直通に伴う路線変更により押切町駅や柳橋駅、押切町駅 - 東枇杷島駅間にあった平野町駅は廃止された。
なお、1974年に名古屋市電を全廃した名古屋市交通局であるが、その後名古屋市営地下鉄を建設し、そのうち鶴舞線と上飯田線では名鉄と直通運転を行うようになった。ルーツを同じくする両者の乗り入れであり、歴史的快挙であったことは間違いない。もしこの直通列車に乗る機会があったら、ぜひ名古屋電気鉄道のことを思い出してほしい。きっと歴史とロマンが感じられるはずである。
もともと名古屋電気鉄道という一つの会社の部署であった市内線部門と郡部線部門は、市内線部門は名古屋市電気局、郡部線部門は(旧)名古屋鉄道という全く異なる組織に分かれることになった。しかも一方は公営、もう一方は民営として分かれた。
元名古屋電気鉄道の社員もそれぞれに分かれたが、市内線部門の社員は名古屋市の公務員として、郡部線部門の社員は(旧)名古屋鉄道の社員として分かれることになり、1922年7月31日(市内線部門の市営化の前日)には名古屋電気鉄道の本社のあちこちで別れを惜しむ社員の姿が見られたという。
※押切線が指す区間は時期によって変動があり、1922年8月の市営化時点では途中の志摩町から押切町までの約1.62kmを指していた(柳橋・志摩町間は、後の上江川線・下江川線にあたる区間もあわせ「江川線」とされていた)
名古屋電気鉄道の車両は名古屋電気鉄道時代に廃車となった名電1号形を除き、市内線部門市営化と郡部線部門の(旧)名古屋鉄道への事業譲渡により、路線と共に譲渡された。
また、名古屋電気鉄道の電車は全て木製であった。そのためほとんどが戦前の段階で廃車か鋼体化されており、戦後まで残ったものは少ない。現存する車両は札幌市交通局が所有する名電1号形の譲渡車両1両のみである。
名古屋電気鉄道の創業車両で、1898年に市内線の開業用として登場した車両である。最初は7両であったが、1907年まで増備され、最終的に37両となった。外観は典型的な明治の電車そのもので、前面窓の無いオープンデッキ構造で、車体裾には絞りがあった。側面窓は7枚である。
創業当初は主力車両だったが、後述の名電38号形が登場すると小型の名電1号形は余剰となり、車庫で保管されていた。これらの車両は後に大半が札幌電気軌道(札幌市電の前身)の開業用として譲渡された(後述)。
譲渡されずに残った車両はそのまま保管されていたと考えられるが、市内線部門市営化の段階で名古屋市や(旧)名古屋鉄道が継承した記録が無いことから市営化前の名古屋電気鉄道時代に既に廃車となっていたと考えられる。
なおこの車両は名古屋電気鉄道最初の車両であると同時に名古屋市電と名鉄の最初の電車であるとも言えるが、名古屋市や(旧)名古屋鉄道に車両が継承されておらず、郡部線での走行記録もないことから郡部線最初の電車だった後述の500形が名鉄最初の電車として扱われることが多い。
前述の名電1号形の札幌電気軌道への譲渡車両である。
もともと札幌石材馬車鉄道という軌間762mmの馬車鉄道だった札幌電気軌道は、電化・改軌して路面電車化することを計画していた。
計画はイギリスから新車を輸入し、軌間は1372mm(馬車軌間)とする予定だったが、第一次世界大戦の影響で海上輸送が困難となり同年開催の北海道博覧会に間に合わない可能性が出てきたことから、急遽中古車両の導入へ計画を変更し、中古車両を探していたところ、ちょうど名電1号形の余剰車両が発生していたことからこれを導入することになった。
導入にあたり、前面窓の取り付けが行われ、車体裾の絞りをなくし直線にするなどの改造が行われた。扉は取り付けられなかったので冬季の運転は乗務員にとって厳しいものだったという。この改造は後述する名電38号形の改造を手本にしたと言われている。なおこの車両の軌間が1067mm軌間だったことから札幌電気軌道も1067mm軌間への改軌に変更された。
改造を受けた名電1号形は札幌電気軌道10形となった。
1918年、この電車により札幌電気軌道が開業、結局北海道博覧会開催までには間に合わなかったものの、なんとか開催期間中には間に合い、電車はあちこちで満員の札を掲げて走ったという。
1927年に札幌電気軌道は札幌市によって買収・市営化され、現在の札幌市交通局の前身となる札幌市電気局が発足。路線とともに車両も買収され、札幌電気軌道40形・100形・110形や事業用車などとともに10形も札幌市に買収され、路線は札幌市電となった。
札幌市による継承後も10形はそのまま使用されたが、1936年頃までに全て廃車となった。
名古屋市交通局・名古屋鉄道による保存車はないが、札幌市電10形となっていた車両が1両現存しており保存されている。
この車両は1901年に製造され、札幌電気軌道29号→札幌市電気局29号となっていた車両で、1936年8月に廃車後、車庫で保管されていた。
札幌市電気局が1943年1月に札幌市交通事業所に名称変更され、1947年6月に札幌市交通局と名称変更された後、1951年に円山動物園の開園にあたり、遊戯物として展示された。
1960年に円山動物園から札幌市交通局へ返還され、40形の廃車発生品の部品を利用して走行可能に復元され、黄色に塗装され車籍を復活させて1977年まで動態保存された。この際名電時代の22号へ車番を変更しているが、これは復元中に名電時代の番号が見つかったためと言われている。
1977年の走行を最後に動態運転は行われなくなり、車籍を維持したまま札幌市交通資料館に静態保存された。
1993年に除籍され、正式に静態保存となった。
2015年に迎える明治村開村50周年記念事業の一環として、2014年から「名電1号形 里帰りプロジェクト」として札幌市交通局から明治村へ貸し出され、札幌電気軌道開業当時の姿に復元されて展示されている。
この復元にあたっては、名古屋電気鉄道時代の姿への復元も検討されたが、白黒写真しか残っておらず色が不明なため、絵葉書が残っている札幌電気軌道時代の茶色い塗装での復元となった。
2020年に札幌市へ返却予定である。
名電1号形の札幌市電への譲渡により、札幌市電は名鉄と同じ1067mm軌間となった。(名電1号形は市内線用車両だが、郡部線用車両が市内線へ乗り入れていたため、市内線と郡部線はどちらも1067mm軌間である。)
規格が同じであることが後に札幌市電A830形の名鉄美濃町線への譲渡(名鉄モ870形)に役立つことになった。
この車両は美濃町線が廃止された2005年まで使用された。
名電38号形は1907年から増備された車両で、38~167号がこれにあたる。番号は名電1号形の続番である。
外観は名電1号形とほとんど変わらないが、側面窓が8枚であることや車体が大きいことなどが異なる。
後に前面窓を取り付けて車体裾の絞りを直線にするなどの改造が行われ、この改造が行われた車両は「ウバ車」と通称された。(由来は不明。)
名古屋市電気局に継承後は名古屋市電SSA形となり、LSA形の一部とともに一部が半鋼製単車の種車として鋼体化され、残存した車両は昭和初期に廃車された。
廃車された車両のうち2両が桑名電軌へと譲渡され、同路線の廃止後に名古屋市電気局に譲渡され出戻ってくるという珍事があったが、もともと老朽廃車された車両であったことから営業運転には復帰できず、倉庫として利用され名古屋市交通局となった後の1947年に廃車となった。
一方、SSA形の60と118は1926年に運転台部分だけを残して無蓋貨車化し、FSA形貨車 貨1・貨2に改造された。1955年に貨1が廃車となり、1969年に貨2が廃車となった。
貨2は名古屋市電展示場に保存され、1979年の展示場閉鎖後は東山動植物園に移転展示された。現存する名古屋電気鉄道の車両として貴重な存在だったが、1995年に老朽化と同園の整備のために解体された。部品の一部は現在も名古屋市交通局に保存されている。
他に部品単位で東武伊香保軌道線デハ27の台車(後述)がある。
1915年から増備された168~337号がこれにあたる。番号は名電38号形の続番だが、同じ番号を使っていた郡部線用の車両があったため、こちらは1918年に500形501~538号へと改番された。(後述)
市内線で初めて前面窓が装備された車両である。
名古屋市電気局に継承後はLSA形となり、SSA形の一部とともに一部が半鋼製単車の種車として鋼体化され、残存した車両は廃車となった。
廃車後、一部が豊橋鉄道へ譲渡され、SSA形の台車、機器と組み合わされてモハ300形として使用された。
この車両は1963年まで使用された。
廃車後、モハ301が個人に引き取られたが山林に放置されて朽ち果て、台車と骨組以外ほとんど残っていない状態となった。後に台車が回収されて東武伊香保軌道線デハ27の復元整備に使用された。
1921年に登場した、名古屋電気鉄道時代に製造された市内線最初で最後のボギー車で、1001~1015号まで製造された。
名古屋電気鉄道の最末期の時代に製造された車両だった。
名古屋市電気局に継承後はSB形となった。
1943年にMB形と共に全車が1050形への改造種車となって消滅した。
名古屋電気鉄道が吸収合併した熱田電気軌道は、1910年に10~13号の4両の電車を製造し所有していた。
前面に窓はあるが、側面にドアが無い形態の単車だった。名古屋電気鉄道への合併後の動向は不明である。
1912年に郡部線開業用として登場した郡部線最初の電車。当初市内線用の名電38号形の続番の168~205号として製造されたが、1915年に市内線に同じ番号を使っている車両があり番号が重複したことから1918年に500形の形式が付与され、501~538号へ改番された。
1920年6月の那古野車庫の火災により504・506・521・527・541の5両が被災焼失し、廃車となった。
(旧)名古屋鉄道へ継承後、名岐鉄道時代にデ(電動車=デンドウシャからデ)シ(四輪単車からシ)の記号が付与され、デシ500形と呼ばれるようになった。
小型の四輪単車のため輸送量の増加に追い付かなくなったことから早期に他社への譲渡・廃車が行われた。1931年には511・516・529にボギー台車・コンプレッサー・直通空気ブレーキ・パンタグラフを搭載し電気機関車に改造し、デキ50形が誕生している。
営業用車両としては1938年に全廃されたが、1943年に東美鉄道(後の広見線・八百津線)が戦時統合により名鉄に合併され、そこに電化開業用として譲渡されていた元デシ500形3両が名鉄に出戻るという珍事が発生する。
この出戻り車両にはモ45形(初代)の形式が与えられ、モ45 - 47となった。
その後1943年にモ47が日本油脂武豊工場の専用鉄道に譲渡され、残るモ45、46も1949年に熊本電気鉄道に譲渡されてモ45形(初代)は全廃された。
一方、デキ50形に改造されていた車両は、デキ52、53が直通空気ブレーキ・ボギー台車から手動ブレーキ・2軸台車に戻されてデキ30形となった。
これらデキ50形・デキ30形3両が1960年に廃車となったのを最後に元名電500形は名鉄から姿を消した
。
なお、前述の通り名古屋電気鉄道の創業車両は名電1号形だが、この車両は名古屋市にも(旧)名古屋鉄道にも継承されておらず、また名電1号形の郡部線での走行記録もないため、名電1号形ではなくこの500形が名鉄最初の電車とされることが多い。
1920年に名古屋電気鉄道初のボギー車として登場した車両で、1501~1510の10両があった。しかし、製造途中で最終艤装の段階であった1920年6月に発生した那古野車庫の火災で7両が焼失するという事態となった。この7両は車体の設計を変更して改めて車体が新製され落成している。
(旧)名古屋鉄道へ継承後、名岐鉄道時代に焼失せずに落成した3両と焼失後に設計変更した車体を新製した7両とに形式が分けられた。
なお、この名電1500形は(旧)名古屋鉄道でも製造され増備が続けられたが、ここでは(旧)名古屋鉄道発足後の新製車両については省略する。
1507 - 1509(名岐鉄道デボ300形)
名電1500形のうち「火災から難を逃れた」3両。
設計当初の車体を持つ。
名岐鉄道時代に「デボ300形」という形式が与えられた(デボ301 - 303)。
1501 - 1506・1510(名岐鉄道デボ350形)
名電1500形のうち「火災で焼けてしまい新しい車体を作った」7両。
設計変更した車体を持つ。
名岐鉄道時代に「デボ350形」という形式が与えられた(デボ351 - 357)。
1938年にデボ302・デボ303が、同年内にデボ301・デボ357が郵便合造車へ改造された。
1941年2月にデボユ310形はモユ310形、デボユ320形はモユ320形、デボ350形はモ350形と形式称号のみが改定された。
1943年にモ350形353が火災で車体を焼失した。この車両は愛知電気鉄道の木造車に近い車体を新製することで復旧されたが、この車両は2度も火災で車体を焼失するという憂き目に遭った。
1948年7月に郵便合造車に改造されていた車両が車内郵便室撤去と客室化・電装解除を実施して形式称号・形式番号がク2270形2271 - 2274と改められ、架線電圧600V区間用の制御車に転用された。
ク2270形は後年ク2271が国鉄制式台車TR10へ換装され、最終的に全車瀬戸線に転属、ク2272・ク2274が1959年7月6日付、ク2271・ク2273が1962年8月に廃車となった。
一方のモ350形は電動車のまま残存し、最終的に全車竹鼻線の所属となった。
このうち、モ352は1959年11月20日にトラックと踏切事故を起こし、1960年(昭和35年)1月に廃車となった。
残るモ351・モ353 - モ356も1962年6月の竹鼻線の直流1500V昇圧により同年8月に廃車となった。
これらの経緯により旧名電1500形は全廃された。
1913年1月に貴賓車としての運用を前提として製造された車両で、トク1・トク2の2両が存在した。
168号形(初代)(後の500形)をベースとしつつ、豪華な装飾が施されていた。
1920年6月7日に発生した那古野車庫の火災により検査入場中だったトク1が被災し全焼、そのまま廃車となった。
(旧)名古屋鉄道へは残ったトク2のみが継承された。
その後新たな貴賓車トク3が導入されたことから、トク2は一般列車運用に転用され、小牧線などで使用され、1931年12月に形式・記号番号がデシ550形551と改められ正式に一般車となった。
しかし、(現)名古屋鉄道発足後に大型ボギー車の増備が進んだことからデシ551は1940年6月11日に廃車となった。
しかし、太平洋戦争激化により戦時体制に移行したことにより輸送需要が激増、更に物資も不足していたことから一度廃車としていたデシ551を1942年11月再整備の上車籍を復活、モ40形(初代)モ41として再デビューを果たす。
モ41は西尾線(安城支線)で電気機関車代用として使用、1945年の豊川市内線(後の豊川線)開通に際し転属したが後年再び安城支線へ戻り、旅客運用にも用いられた。
1948年にモ41はモ85形85と形式および記号番号を改められ、1960年3月の西尾線・安城支線直流1500V昇圧まで用いられ、同年3月28日に廃車となった。
この時点でモ85は名鉄最後の旅客用4輪単車となっており、この車両の廃車をもって名鉄の旅客用車両は全て2軸ボギー車となった。
1912年に35両が製造された電動貨車である。
新製早々の1918年に22両(14 - 35)が電装解除され、有蓋貨車に改造された。
残存した1 - 13も1940年に廃車となった。
なお、有蓋貨車に改造された車両のうち、ワフ50形となっていたものは、1980年頃まで残存していたとされる。
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