呉質 単語

3件

ゴシツ

6.4千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

「呉質」(ゴシツ ? ~ 230)とは、皇帝曹丕の4人の友の一人であり、軍事的・政治的な功績について史書に記述がくて曹丕に取り入る事で出世し、傲慢で性格の悪さがにじみ出ている様な小物臭あふれるエピソード定評のある曹丕ペンフレンド

字は季重。

iM@S架空戦記での称は「ごっつん」

曹丕の四友
陳羣
司馬懿
呉質
朱シャク(朱鑠)

概要

博識ではあったものの、低い身分の出であった為、正攻法では出世が望めないと考えた呉質は、なんとか曹操の配下に加わると、文学の才に全部持っていかれているが自分も一応詩人だと言いたい曹丕に気に入られ、得意のご機嫌取りと、同じ四友に名を連ねる陳羣司馬懿べて軍事的な素養が壊滅的にかった上にオーラの如く漂う小物臭が安心させたのか曹丕に気に入られて、皇帝になった後も時にマブダチとして、時にペンフレンドとして曹丕友達付き合いをした。

曹丕皇帝となると列侯に取り立てられたが、根が小物な為か悪智恵に長け(しかも発覚しても死につながる程のものでもないところがまた小物っぽい)、曹丕の寵をかさにきて傲慢勝手にに振る舞う事も多く、出自が低い身分であることのコンプレックスもあわせて他者を貶めたりする等多くの人から嫌われてい眼で見られる様な醜い行動にも定評があり、死後は「醜侯」と言う諡を与えられて曹叡からその小物振りを皮られている。(息子が変更してもらう様に何度も嘆願したが「威侯」にめられたのは、司馬炎によってが滅んだ後だった)

※その他「呉質」の詳細についてはWikipediaの該当記事exit参照の事。 

嘘泣き伝授

 曹操が出征する際の対応について曹丕から意見をめられた時に、呉質は

王(曹操)が出発されるときに、ひたすら悲しく泣いておれば良いでしょう

と助言した。

後継者争いの最大のライバルだった曹植は、曹操を称える歌で盛り上げる中、曹丕は黙り込んで大粒のを流して今生の別れになるやもしれぬ事を悲しんでいるとアピールした。

これには周囲も貰い泣きせざるを得ず、詩吟の才は曹植が上だが、実さは曹丕が上と言う評判を得る事に成功した。

悪智恵=100

呉質が歌の県長や元の県に就任して曹丕と離れていた頃、曹植との後継者争いに不安を感じた曹丕は、呉質を任地より秘密裏に呼び出し、その際に呉質は任地を見た的には勝手に離れる事になり後で面倒な事になると考えて、に乗せた荷物の中に隠れて曹丕の元に赴いた。

かしこの事が曹植の参謀を務める他人の心を読みすぎて嫌われる事に定評のある修に察知されて一度は曹操に報告されて、勝手に任地を離れた件で詰問されるかと思いきや、曹操が取り合わなかった為事なきを得ると、今度は「悪智恵なら負けないぜ」とばかりに呉質が

今度は行(荷物)にを入れて参内させましょう。
脩がこのことを再び報告するとかえって罰を受けることになりましょう。

修をハメる策を考え出し、実行してまんまと釣り上げられた修が再度曹操に呉質が任地を勝手に離れていると報告し、その拠としてを調べさせたが、呉質の策により拠が発見されなかった為、逆に修が、曹植のために曹丕の人材をはめようとしているのではないかと思われて、曹操からの信頼がガタ落ちした。

結果、曹植は後を継ぐ事が出来ず、太子は曹丕に決まったのだった。

小物臭あふれた宴会

 曹丕が後継者と決まると、歌から正式に呼び戻され、曹丕位につくと北中郎将・使持節督并諸軍事に任ぜられた。

しかし偉くなっても小物ぷりはあいかわらずで、曹丕の命により呉質の邸宅で大規模な宴会を催す事になった際に、宴会の催し物として太った役者と痩せた役者による体を皮った出し物を用意しところ、この時参加者の中に肥満体の曹真と痩身の朱シャク(朱鑠)がいた為、プライドを傷つけられた両者は、呉質の傍若人で下衆な感覚にを地面に突き立てて不快感をあらわにして会場を去った。

郷里を憎む

低い身分の出自である呉質にとって郷里とは、名士との人脈もく、も持たない事や、軍事的にも政治的にも功績をあげていないのに曹丕に取り入ってのし上がっている事をさげすまれるところでしかなく、人望はゼロだった。

その事を気にしていた呉質は、郷里の先輩である董昭に対して

私は郷里に小便を引っ掛けてやりたいのだ

と言ったところ、董昭から

私はもう八十歳で、君の小便のために地面にを掘る体力はないからおやめなさい。

となだめられてしまい、小物っぷりをまたひとつ史書に残すこととなった。

友を貶める 

後ろであった曹丕して曹叡が後を継ぐと、呉質は中となり、四友に並べられていた陳羣司空と尚書を兼任して行政トップとなった。

しかし呉質は友として協するどころか、陳羣の大臣の器ではないという悪口同然の進言を盛んに行って曹叡をたき付けて司馬懿と交代させようとする等した。

結果、曹叡から陳羣に対して問責の文が与えられたのだが、人々は呉質の言い分が基本的に間違っていて、陳羣こそ適任であると論じたと言われてしまう。

そしてこういった醜い発言を繰り返した為か、呉質の死後「醜侯」と送り名された。

皇帝の友人

根本的にやることなすこと小物臭が漂うところが、スペックが高い陳羣司馬懿べて、権を与えても何もやらかさないと曹丕に判断されたのか、呉質は曹丕の個人的信頼によって出世していった。

その信頼を表すものの中には、曹丕から呉質に送った手紙があり、ドS定評のある曹丕

胸襟を開いた相手には身分を越えたを示し、時として身分にふさわしくなく、軽佻に見えることもあった

と評されるのが解る史料とされている。

※呉質の一の小物臭のしない歴史事実である。

魏文帝与呉質書

ドS定評のある曹丕が、建安七子との交流と彼らに対する評価、そして自らの不才と太子としての孤独や不安を呉質に吐露した手紙

『三国時代の文学スレッド』まとめサイト 曹丕(曹子桓/魏文帝) > 魏文帝與呉質書exit より引用

※現代和訳のみ引用。原文と書き下し文は引用元に掲載されています。(訳者に感謝

 二月三日、より、謹啓。日のたつのはいもので、あなたと別れて来てからもう四年です。
三年間会えなかっただけで、(経-豳の)東山のではその疎遠さを嘆いていますが、 ましてや々はそれよりも長い間会っていないのですから、どうやってこの思いに耐えればよいのでしょうか。
手紙のやりとりはわずかにしていますが、それもこの結びのようにかたくなった私の心労を解きほぐすにはまったく足りません。
 昔(217年の)疫病がはやった年には、類やむかしなじみの者が多くその災いに患し、徐幹、陳琳、応瑒、楨はみな一度にし、その痛ましさをどう言えばいいのでしょうか。
むかし遊んだ日々では、移動中は輿を連ねてゆき、ついたらば席をくっつけてすわり、そうしていたのでほんのわずかの間もたがいを失うことはなかったのです。
宴席で皆にお酒が注がれて行き渡るたびに、管弦楽団あまね演奏をし、宴のたけなわにを熱くさせ、を仰いではをうたい、そのときには陶酔してぼうっとなっていて、自分の楽しさを知ることができなかったのです。
そのときは年の寿命を自分の身の程と言い、ずっと一緒にやってゆきましょうとしたものです。
それが数年の間にこのようになり、皆(してしまって)いなくなりわびしく寂しくなってしまうとは、言うだけでも心が傷つけられることです。私はこのごろ、彼等の遺文をえらんで、一冊の本にまとめましたが、その(書かれている)姓名をみると、すべてはした人のものなのです。昔遊んだことを思いをはせれば、なお彼等の姿は心のありありとあるのに、この学者たちは、いまはきたない土に変わってしまっているとは、いったい私はなんと述べればよいのでしょうか。
 古今の文人をみてみますと、皆ささいな礼法を護らなかったので、名誉と節操をひとり立ちさせられた(それぞれに賞賛を得られた)者は少ししかいません。しかし偉長どの(徐幹のあざな)はひとり、学問もよくおさめて内面もちゃんとあり、心がさっぱりと落ち着いていて欲がなく、(堯から高位を授けられることをきらった立な隠者の許由が)山にこもったような志があり、はなやかさと内面を兼ね備えた君子である人物というべきでしょう。
(徐幹は)『中論』二十編あまりを著して、彼独自の見識や考えを形にし、その文章と論理は典で、後世に伝えるに足り、 彼はその功績によって不朽の学者となりました。徳どの(応瑒のあざな)どのの書く文章はいつもあやなした美しさがあり、その才と学問は書を著すのに充分であったのに、りっぱな志を遂げなかった
(遂げずにした)ことは、大変に痛ましく惜しむべきことです。
このごろ彼等の文章にひとつひとつを通していると、この文章に対してがでて、私は既にした者を痛ましくおもい、自分のゆくすえも考えるのです。
どの(陳琳のあざな)の章と表はことのほかにりっぱですが、少しだけ繁雑です。
幹どの(楨のあざな)は世俗を越してすぐれた気質がありますが、それは未だ勢いだけですけれども、その五言のなかでもよいものは、同時代の人のなかでも非常にすぐれています。
どの(阮瑀のあざな)の書と記はで才気にすぐれ、楽しませてくれるのに充分です。
仲宣どの(王粲のあざな)の辞賦はすばらしく個性的で、惜しいことには彼は体が弱く(/文体が弱く)、その独自の文章を創始するまでには足りませんでしたが、しかしそのすぐれた部分は、昔の人でも駕するものはおりません。むかし琴の名手だった楚の伯牙は、それを理解して喜んでくれていた友の鍾子期がしたときに琴の弦を切り、孔子子の子路が殺されてシオカラにされたと知るとシオカラを床にぶちまけて、伯牙は自身の音の理解者がひどいことになったことを痛ましく思い、孔子は二人といない子がいなくなってしまったことを傷ましく思ったのです。
さきほど列挙した学者たちは、ただやった仕事がいまだ昔の人には及ばないだけで、おのおのは当代にすぐれていたのです。今生きている人は、すべて彼等にはおよばないのです。
 年はすでに非常に多くながれ、私の心の思いは千々にあります。
ときに深く考えをめぐらせることがあると、じゅうずっと眠れず、私のこころばえはいつまた昔の日々のように(快活な心もちに)なるのでしょうか。わたしはすっかりじいさんになり、ただまだ頭が白髪ではないだけです。
光武帝は、三十年余り生きて、うち十年は兵中にあったが、立場はひとつではなかったと言いました。
私の徳は彼にはいまだ及ばず、ただ過ごした年だけは彼と同じなのです(*この手紙曹丕即位後の三十代のときに書かれています)。
私はのような内面をもってして、虎やのようなはなやかなをまとい、ぼしの明るさもないのに、太陽月の光をかりて、バタバタキロキョロとし、いったいいつ安らぐことができるのでしょうか。
おそらくは永遠にまた昔の日々のように遊ぶ機会は得られないでしょう。
三十代の血気さかんな仕事盛りにがんばって仕事をしていますが、年はひとたび過ぎてゆくと、どうやっても引き止めることはできず、昔の人が(古十九首の生年不満で)ろうそくをつけて
通し遊びたいと思ったのは、そういった理由のあることなのです。
このごろあなたはどんなことをして楽しんでいらっしゃるのでしょう、またたくさん著述をなさったりしているのでしょうか。
私の直轄領より(呉質のいる)東をながめ、手紙を書いて私の心のうちを申し上げました。より、敬。 

 

魏文帝与朝歌令呉質書

呉質の近況を気遣う手紙

『三国時代の文学スレッド』まとめサイト 曹丕(曹子桓/魏文帝) > 魏文帝與朝歌令呉質書exit  より引用

※現代和訳のみ引用。原文と書き下し文は引用元に掲載されています。(訳者に感謝

 五月二十八日、より、謹啓。
 季重(呉質のあざな)どのにはお変わりありませんか。
(呉質が赴任している歌までの)のりはせいぜい限られた距離なのですが、宮廷での仕事は限りなくあるので、いつもあなたを懐かしく思うことに耐えるのが大変です。
あなたの任地はとても地で不便なところなので、手紙で安否を問うことも簡単ではなく、私は心配でますます心労が増します。
 いつも昔に南皮で遊んだ日のことを思い、まったく忘れることができません。
(一緒に遊んだ人々は)みな六経の思想につうじており、諸子を気ままに楽しくり、たまにおはじきの試合をして、それが石をではじくボードゲームになって終わり、みなさんのお話に心をたのしませ、琴のものがなしい調べにをかたむけましたね。
また、を北のほうの平原にほしいままに走らせ、つらなって南の館で食事をしたり、甘いをきれいなに浮かべたり、スモモをつめたいに沈めたりしましたね。
太陽がすっかり隠れて明るいがそのあとを継ぐと、一緒にに乗ってわだちを並べ、後園に遊びにいって、輪はゆるやかに動き、ついてくる音はなにもせず、きれいな夜空おこり、悲しげなあしぶえが小さな音で鳴り、楽しかったことはいってしまうと、寂しさがやって来て、とても悲しくなってしまいます。
私は余韻を顧みながら、「こんな楽しいことは常にはありません」と言い、みなさんがたもその通りであるとしましたね。はたして今は(常ならぬとの言葉どおり)遠くに
別れ別れになってしまい、それぞれがいろいろな場所におり、元どの(阮瑀のあざな)は遠くへ行ってしまい(してしまい)、幽霊となってしまいました。
いつも々の人生の時間はとても短くてすぐに終わってしまいますが、いつあなたとおしゃべりできるようになるでしょうか。
 今はまさに時は五月で、南風が物にそよぎ、天気はなごやかで暖かく、すべての果物は繁りそろっています。たまにはで遊びに出て、河曲(河沿いの地名)にしたがって北に行き、従者はあしぶえを鳴らしての露払いをし、文学(官職名)は後からついてくるに乗っています。
季節はいつも同じですがその年度は異なり、物は人ではないので(物は季節のようにいつも同じですが、いっしょに遊びに行く人は年度のように異なるので)、
わたしの心労はいかばかりでしょうか。
 今、を鄴まで遣いにやるので、ついでに寄りをしてこの手紙をお届けします。
 これからも(お仕事に)がんばって、ご自ください。より、敬

・・・もしかして・・・曹丕って・・・萌えキャラ属性有ったりするのかな・・・ 

関連動画

▼「ごっつん」の称でしまれている伊織軍の最初の登用成功者として活躍する「美妓皇帝


水瀬伊織と呉質は共に素直になれない性格ゆえ、損な役を押して付けられたりぶつかる事もあるが、お互いを認めて支えあう相棒の様な関係となっている。

補足

コーエー三國志シリーズにおける呉質の力一覧。

統率 政治 身体 運勢
三國志
三國志II
三國志III 42 61 73 64 35 16
三國志IV 37 34 63 78 63
三國志V 34 69 81 69
三國志VI 43 37 69 84 68
三國志VII 37 74 58 16
三國志VIII 39 67 58 32
三國志IX 17 27 57 56
三國志X 17 34 64 56 9
三國志11 16 29 68 57 37

関連商品

関連コミュニティ

関連項目

この記事を編集する

掲示板

  • 30 ななしのよっしん

    2018/07/04(水) 23:50:56 ID: 15jiWUwstT

    司馬師に離縁されても孫は西で尚書にまで昇進し、おそらく陳羣の孫より官位は上。成り上がり呉質大勝利

  • 👍
    0
    👎
    0
  • 31 ななしのよっしん

    2019/02/17(日) 16:09:09 ID: wi6/+PFHmw

    讒言で陳羣を失脚させようとしたけど、当人の仕事振りはどんなもんだったんだろ?結構な出世ぶりだしアレな人格がピックアップされたけど、文官としての仕事はあんま言われてないような。

  • 👍
    0
    👎
    0
  • 32 ななしのよっしん

    2021/10/30(土) 09:01:50 ID: cJsKGhKwZ7

    博識と書いてあるんだから
    「こんな事も知らないのかねチミ~?」
    とか言いながらさっさとさばいてたんじゃないの

    難しい仕事皇帝に泣きついて変えてもらうというのも重要なスキルよw

  • 👍
    0
    👎
    0

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/24(水) 22:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/24(水) 22:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP