「呉質」(ゴシツ ? ~ 230)とは、魏の皇帝曹丕の4人の友の一人であり、軍事的・政治的な功績について史書に記述が無くて曹丕に取り入る事で出世し、傲慢で性格の悪さがにじみ出ている様な小物臭あふれるエピソードに定評のある曹丕のペンフレンド。
字は季重。
曹丕の四友 |
陳羣 |
司馬懿 |
呉質 |
朱シャク(朱鑠) |
博識ではあったものの、低い身分の出であった為、正攻法では出世が望めないと考えた呉質は、なんとか曹操の配下に加わると、文学の才能を弟に全部持っていかれているが自分も一応詩人だと言いたい曹丕に気に入られ、得意のご機嫌取りと、同じ四友に名を連ねる陳羣や司馬懿に比べて軍事的な素養が壊滅的に無かった上にオーラの如く漂う小物臭が安心させたのか曹丕に気に入られて、皇帝になった後も時にマブダチとして、時にペンフレンドとして曹丕と友達付き合いをした。
曹丕が皇帝となると列侯に取り立てられたが、根が小物な為か悪智恵に長け(しかも発覚しても死につながる程のものでもないところがまた小物っぽい)、曹丕の寵愛をかさにきて傲慢勝手にに振る舞う事も多く、出自が低い身分であることのコンプレックスもあわせて他者を貶めたりする等多くの人から嫌われて白い眼で見られる様な醜い行動にも定評があり、死後は「醜侯」と言う諡を与えられて曹叡からその小物振りを皮肉られている。(息子が変更してもらう様に何度も嘆願したが「威侯」に改められたのは、司馬炎によって魏が滅んだ後だった)
※その他「呉質」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
曹操が出征する際の対応について曹丕から意見を求められた時に、呉質は
王(曹操)が出発されるときに、ひたすら悲しく泣いておれば良いでしょう
と助言した。
後継者争いの最大のライバルだった弟の曹植は、曹操を称える歌で盛り上げる中、曹丕は黙り込んで大粒の涙を流して今生の別れになるやもしれぬ事を悲しんでいるとアピールした。
これには周囲も貰い泣きせざるを得ず、詩吟の才は曹植が上だが、誠実さは曹丕が上と言う評判を得る事に成功した。
呉質が朝歌の県長や元城の県令に就任して曹丕と離れていた頃、曹植との後継者争いに不安を感じた曹丕は、呉質を任地より秘密裏に呼び出し、その際に呉質は任地を見た目的には勝手に離れる事になり後で面倒な事になると考えて、車に乗せた荷物の中に隠れて曹丕の元に赴いた。
しかしこの事が曹植の参謀を務める他人の心を読みすぎて嫌われる事に定評のある楊修に察知されて一度は曹操に報告されて、勝手に任地を離れた件で詰問されるかと思いきや、曹操が取り合わなかった為事なきを得ると、今度は「悪智恵なら負けないぜ」とばかりに呉質が
今度は行李(荷物)に絹を入れて参内させましょう。
楊脩がこのことを再び報告するとかえって罰を受けることになりましょう。
と楊修をハメる策を考え出し、実行してまんまと釣り上げられた楊修が再度曹操に呉質が任地を勝手に離れていると報告し、その証拠として車を調べさせたが、呉質の策により証拠が発見されなかった為、逆に楊修が、曹植のために曹丕派の人材をはめようとしているのではないかと思われて、曹操からの信頼がガタ落ちした。
結果、曹植は後を継ぐ事が出来ず、太子は曹丕に決まったのだった。
曹丕が後継者と決まると、朝歌から正式に呼び戻され、曹丕が魏の帝位につくと北中郎将・使持節督幽并諸軍事に任ぜられた。
しかし偉くなっても小物ぷりはあいかわらずで、曹丕の命により呉質の邸宅で大規模な宴会を催す事になった際に、宴会の催し物として太った役者と痩せた役者による体型を皮肉った出し物を用意しところ、この時参加者の中に肥満体の曹真と痩身の朱シャク(朱鑠)がいた為、プライドを傷つけられた両者は、呉質の傍若無人で下衆な感覚に剣を地面に突き立てて不快感をあらわにして会場を去った。
低い身分の出自である呉質にとって郷里とは、名士との人脈も無く、影響力も持たない事や、軍事的にも政治的にも功績をあげていないのに曹丕に取り入ってのし上がっている事をさげすまれるところでしかなく、人望はゼロだった。
その事を気にしていた呉質は、郷里の先輩である董昭に対して
私は郷里に小便を引っ掛けてやりたいのだ
と言ったところ、董昭から
私はもう八十歳で、君の小便のために地面に穴を掘る体力はないからおやめなさい。
となだめられてしまい、小物っぷりをまたひとつ史書に残すこととなった。
後ろ盾であった曹丕が没して曹叡が後を継ぐと、呉質は侍中となり、四友に並べられていた陳羣が司空と尚書を兼任して行政のトップとなった。
しかし呉質は友として協力するどころか、陳羣の大臣の器ではないという悪口同然の進言を盛んに行って曹叡をたき付けて司馬懿と交代させようとする等した。
結果、曹叡から陳羣に対して問責の文が与えられたのだが、人々は呉質の言い分が基本的に間違っていて、陳羣こそ適任であると論じたと言われてしまう。
そしてこういった醜い発言を繰り返した為か、呉質の死後「醜侯」と送り名された。
根本的にやることなすこと小物臭が漂うところが、スペックが高い陳羣や司馬懿と比べて、権力を与えても何もやらかさないと曹丕に判断されたのか、呉質は曹丕の個人的信頼によって出世していった。
その信頼を表すものの中には、曹丕から呉質に送った手紙があり、ドSに定評のある曹丕も
胸襟を開いた相手には身分を越えた親愛を示し、時として身分にふさわしくなく、軽佻に見えることもあった
と評されるのが解る史料とされている。
ドSに定評のある曹丕が、建安七子との交流と彼らに対する評価、そして自らの不才と太子としての孤独や不安を呉質に吐露した手紙。
『三国時代の文学スレッド』まとめサイト 曹丕(曹子桓/魏文帝) > 魏文帝與呉質書 より引用
※現代和訳のみ引用。原文と書き下し文は引用元に掲載されています。(訳者に感謝)
二月三日、丕より、謹啓。月日のたつのは早いもので、あなたと別れて来てからもう四年です。
三年間会えなかっただけで、(詩経-豳風の)東山の詩ではその疎遠さを嘆いていますが、 ましてや我々はそれよりも長い間会っていないのですから、どうやってこの思いに耐えればよいのでしょうか。
手紙のやりとりはわずかにしていますが、それもこの結び目のようにかたくなった私の心労を解きほぐすにはまったく足りません。
昔(217年の)疫病がはやった年には、親類やむかしなじみの者が多くその災いに罹患し、徐幹、陳琳、応瑒、劉楨はみな一度に没し、その痛ましさをどう言えばいいのでしょうか。
むかし遊んだ日々では、移動中は輿を連ねてゆき、ついたらば席をくっつけてすわり、そうしていたのでほんのわずかの間もたがいを失うことはなかったのです。
宴席で皆にお酒が注がれて行き渡るたびに、管弦楽団はあまねく演奏をし、酒宴のたけなわに耳を熱くさせ、天を仰いでは詩をうたい、そのときには陶酔してぼうっとなっていて、自分の楽しさを知ることができなかったのです。
そのときは百年の寿命を自分の身の程と言い、ずっと一緒にやってゆきましょうとしたものです。
それが数年の間にこのようになり、皆(没してしまって)いなくなりわびしく寂しくなってしまうとは、言うだけでも心が傷つけられることです。私はこのごろ、彼等の遺文をえらんで、一冊の本にまとめましたが、その(書かれている)姓名をみると、すべては没した人のものなのです。昔遊んだことを思いをはせれば、なお彼等の姿は心の目にありありとあるのに、この学者たちは、いまはきたない土に変わってしまっているとは、いったい私はなんと述べればよいのでしょうか。
古今の文人をみてみますと、皆ささいな礼法を護らなかったので、名誉と節操をひとり立ちさせられた(それぞれに賞賛を得られた)者は少ししかいません。しかし偉長どの(徐幹のあざな)はひとり、学問もよくおさめて内面もちゃんとあり、心がさっぱりと落ち着いていて欲がなく、(堯帝から高位を授けられることをきらった立派な隠者の許由が)箕山にこもったような志があり、はなやかさと内面を兼ね備えた君子である人物というべきでしょう。
(徐幹は)『中論』二十編あまりを著して、彼独自の見識や考えを形にし、その文章と論理は典雅で、後世に伝えるに足り、 彼はその功績によって不朽の学者となりました。徳璉どの(応瑒のあざな)どのの書く文章はいつもあやなした美しさがあり、その才能と学問は書を著すのに充分であったのに、りっぱな志を遂げなかった
(遂げずに没した)ことは、大変に痛ましく惜しむべきことです。
このごろ彼等の文章にひとつひとつ目を通していると、この文章に対して涙がでて、私は既に没した者を痛ましくおもい、自分のゆくすえも考えるのです。
孔璋どの(陳琳のあざな)の章と表はことのほかにりっぱですが、少しだけ繁雑です。
公幹どの(劉楨のあざな)は世俗を超越してすぐれた気質がありますが、それは未だ勢いだけですけれども、その五言詩のなかでもよいものは、同時代の人のなかでも非常にすぐれています。
元瑜どの(阮瑀のあざな)の書と記は粋で才気にすぐれ、楽しませてくれるのに充分です。
仲宣どの(王粲のあざな)の辞賦はすばらしく個性的で、惜しいことには彼は体が弱く(/文体が弱く)、その独自の文章を創始するまでには足りませんでしたが、しかしそのすぐれた部分は、昔の人でも凌駕するものはおりません。むかし琴の名手だった楚の伯牙は、それを理解して喜んでくれていた親友の鍾子期が没したときに琴の弦を切り、孔子は愛弟子の子路が殺されてシオカラにされたと知るとシオカラを床にぶちまけて、伯牙は自身の音の理解者がひどいことになったことを痛ましく思い、孔子は二人といない愛弟子がいなくなってしまったことを傷ましく思ったのです。
さきほど列挙した学者たちは、ただやった仕事がいまだ昔の人には及ばないだけで、おのおのは当代にすぐれていたのです。今生きている人は、すべて彼等にはおよばないのです。
年月はすでに非常に多くながれ、私の心の思いは千々にあります。
ときに深く考えをめぐらせることがあると、夜じゅうずっと眠れず、私のこころばえはいつまた昔の日々のように(快活な心もちに)なるのでしょうか。わたしはすっかりじいさんになり、ただまだ頭が白髪ではないだけです。
光武帝は、三十年余り生きて、うち十年は兵中にあったが、立場はひとつではなかったと言いました。
私の徳は彼にはいまだ及ばず、ただ過ごした年月だけは彼と同じなのです(*この手紙は曹丕即位後の三十代のときに書かれています)。
私は犬や羊のような内面をもってして、虎や豹のようなはなやかな服をまとい、星ぼしの明るさもないのに、太陽や月の光をかりて、バタバタキョロキョロとし、いったいいつ安らぐことができるのでしょうか。
おそらくは永遠にまた昔の日々のように遊ぶ機会は得られないでしょう。
三十代の血気さかんな仕事盛りにがんばって仕事をしていますが、年月はひとたび過ぎてゆくと、どうやっても引き止めることはできず、昔の人が(古詩十九首の生年不満百で)ろうそくをつけて
夜通し遊びたいと思ったのは、そういった理由のあることなのです。
このごろあなたはどんなことをして楽しんでいらっしゃるのでしょう、またたくさん著述をなさったりしているのでしょうか。
私の直轄領より(呉質のいる)東をながめ、手紙を書いて私の心のうちを申し上げました。丕より、敬白。
呉質の近況を気遣う手紙。
『三国時代の文学スレッド』まとめサイト 曹丕(曹子桓/魏文帝) > 魏文帝與朝歌令呉質書 より引用
※現代和訳のみ引用。原文と書き下し文は引用元に掲載されています。(訳者に感謝)
五月二十八日、丕より、謹啓。
季重(呉質のあざな)どのにはお変わりありませんか。
(呉質が赴任している朝歌までの)道のりはせいぜい限られた距離なのですが、宮廷での仕事は限りなくあるので、いつもあなたを懐かしく思うことに耐えるのが大変です。
あなたの任地はとても僻地で不便なところなので、手紙で安否を問うことも簡単ではなく、私は心配でますます心労が増します。
いつも昔に南皮で遊んだ日のことを思い、まったく忘れることができません。
(一緒に遊んだ人々は)みな六経の思想につうじており、諸子百家を気ままに楽しく語り、たまにおはじきの試合をして、それが碁石を箸ではじくボードゲームになって終わり、みなさんのお話に心をたのしませ、琴のものがなしい調べに耳をかたむけましたね。
また、馬を北のほうの平原にほしいままに走らせ、つらなって南の館で食事をしたり、甘い瓜をきれいな泉に浮かべたり、赤いスモモをつめたい水に沈めたりしましたね。
太陽がすっかり隠れて明るい月がそのあとを継ぐと、一緒に車に乗ってわだちを並べ、後園に遊びにいって、車の車輪はゆるやかに動き、ついてくる音はなにもせず、きれいな風が夜空におこり、悲しげなあしぶえが小さな音で鳴り、楽しかったことはいってしまうと、寂しさがやって来て、とても悲しくなってしまいます。
私は余韻を顧みながら、「こんな楽しいことは常にはありません」と言い、みなさんがたもその通りであるとしましたね。はたして今は(常ならぬとの言葉どおり)遠くに
別れ別れになってしまい、それぞれがいろいろな場所におり、元瑜どの(阮瑀のあざな)は遠くへ行ってしまい(没してしまい)、幽霊となってしまいました。
いつも我々の人生の時間はとても短くてすぐに終わってしまいますが、いつあなたとおしゃべりできるようになるでしょうか。
今はまさに時は五月で、南風が物にそよぎ、天気はなごやかで暖かく、すべての果物は繁りそろっています。たまには馬車で遊びに出て、河曲(黄河沿いの地名)にしたがって北に行き、従者はあしぶえを鳴らして道の露払いをし、文学(官職名)は後からついてくる車に乗っています。
季節はいつも同じですがその年度は異なり、物は人ではないので(物は季節のようにいつも同じですが、いっしょに遊びに行く人は年度のように異なるので)、
わたしの心労はいかばかりでしょうか。
今、馬を鄴まで遣いにやるので、ついでに寄り道をしてこの手紙をお届けします。
これからも(お仕事に)がんばって、ご自愛ください。丕より、敬白。
・・・もしかして・・・曹丕って・・・萌えキャラ属性有ったりするのかな・・・
▼「ごっつん」の愛称で親しまれている伊織軍の最初の登用成功者として活躍する「美妓皇帝」
※水瀬伊織と呉質は共に素直になれない性格ゆえ、損な役を押して付けられたりぶつかる事もあるが、お互いを認めて支えあう相棒の様な関係となっている。
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志 | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
三國志II | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
三國志III | - | 42 | 61 | 73 | 64 | 35 | 16 | - | - |
三國志IV | 37 | 34 | 63 | 78 | 63 | - | - | - | - |
三國志V | - | 34 | 69 | 81 | 69 | - | - | - | - |
三國志VI | 43 | 37 | 69 | 84 | 68 | - | - | - | - |
三國志VII | - | 37 | 74 | 58 | 16 | - | - | - | - |
三國志VIII | - | 39 | 67 | 58 | 32 | - | - | - | - |
三國志IX | 17 | 27 | 57 | 56 | - | - | - | - | - |
三國志X | 17 | 34 | 64 | 56 | 9 | - | - | - | - |
三國志11 | 16 | 29 | 68 | 57 | 37 | - | - | - | - |
掲示板
30 ななしのよっしん
2018/07/04(水) 23:50:56 ID: 15jiWUwstT
娘が司馬師に離縁されても孫は西晋で尚書にまで昇進し、おそらく陳羣の孫より官位は上。成り上がり呉質の大勝利!
31 ななしのよっしん
2019/02/17(日) 16:09:09 ID: wi6/+PFHmw
讒言で陳羣を失脚させようとしたけど、当人の仕事振りはどんなもんだったんだろ?結構な出世ぶりだしアレな人格がピックアップされたけど、文官としての仕事はあんま言われてないような。
32 ななしのよっしん
2021/10/30(土) 09:01:50 ID: cJsKGhKwZ7
博識と書いてあるんだから
「こんな事も知らないのかねチミ~?」
とか言いながらさっさとさばいてたんじゃないの
難しい仕事は皇帝に泣きついて変えてもらうというのも重要なスキルよw
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/24(水) 22:00
最終更新:2024/04/24(水) 22:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。