告白教会とは、かつてドイツに存在したキリスト教福音主義者の組織。
ナチス・ドイツによる宗教統制に反発した若手の牧師たち(前身は牧師緊急同盟)により1934年4月に結成され、翌月に第一回総会が開かれ結成された。福音主義派牧師の三分の一に迫る数まで支持を得たが、ナチス当局による指導者の逮捕により1938年に活動を停止した。
主導者の一人だったディートリヒ・ボンヘッファーはその後も抵抗運動を継続し、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件にゲルデラーグループ(国防軍反ヒトラー派、黒いオーケストラの文民グループ)を通じて関わったとされ処刑された。
ナチス政権誕生後、もっとも早くナチスに対して異議を唱えたことで知られる。
1517年のマルティン・ルターによる「95ヶ条の論題」により、ドイツを震源としていわゆる宗教改革の口火が切られた。改革側の福音主義者(プロテスタント)とカトリックの闘争は泥沼化したが、1530年には福音主義者による初の信仰告白(信者が守るべき信条)「アウグスブルク信仰告白」が出され、和解を求めた神聖ローマ帝国皇帝カール五世はこれを認めた。以降、福音主義者も組織化が進み、1555年の「アウグスブルクの和議」により帝国内の諸侯に信仰の選択を認め、領民をそれに従わせることが認められた。
その後も両派の対立は続き、勢力拡大のための激しい闘争が繰り広げられ「三十年戦争」の遠因にもなったが、19世紀初頭までには概ね福音主義の北ドイツとカトリックの南ドイツと言う今日まで続く勢力図を構成した。
ドイツ発の福音主義(実際にはスイスが先駆けている)が宗教改革の発端となり世界史に対して大きな影響を与えたことから、ドイツの諸教会は国家主義や民族主義的な傾向が強かった。19世紀中盤、北ドイツにおいてプロイセンが主導権を握ると、その後の対外戦争やドイツ統一にも協力。1871年のドイツ統一後に行われた文化闘争と呼ばれるカトリック教会への弾圧にも積極的に関与した。
最終的に自由主義者や社会主義者の伸長を恐れたビスマルクはカトリックと妥協し、ドイツを宗教面で統一すると言う事態には至らなかったが、キリストの権威の前に世俗の政権を積極的に認めるある種の「近代的二元性」(二王国論)は20世紀を前にドイツでは下地が存在していた。
アドルフ・ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の国政における躍進を背に、福音主義者からもこれに協力する牧師が現れ始める。1929年にはナチス牧師団が結成され、ドイツキリスト者信仰運動に発展。民族主義的な教会や若手の牧師を糾合し、ドイツ全国の20%の牧師を傘下に収めた。
1932年6月、彼らの手による基本方針が発表され「一つの帝国教会」「民族教会」「反ユダヤ主義・反国際主義」が確認された。
1933年1月、ついにナチスが政権を掌握。公約通りに公職からユダヤ人を追放した(アーリア条項)。
ナチスは宗教界にもこの条項の遵守を求め、1933年9月に古プロイセン合同福音主義者教会がこれに応じてユダヤ人からの改宗者やルーツを持つ牧師を教会から追放した。
同月にはヒトラー信奉者の牧師であったルートヴィヒ・ミュラーが帝国教会監督の地位につき、宗教統制のさらなる強化を図った。
ドイツ国内の教会や牧師はこれを受け入れたが、マルティン・ニーメラーやディートリヒ・ボンヘッファーらの牧師・神学者は反発。即座に牧師緊急同盟を結成して異を唱えた。彼らはユダヤ人改宗者への非人道的な扱いはもちろん、信仰や聖書にのみ拠り所を求める「アウグスブルク信仰告白」にドイツキリスト者が反していると考え、一部保守派も巻き込み全ドイツの牧師人口の三分の一にあたる7000人に上る支持を得た。
1934年1月には反ファシズム的言動で1920年代から著名であった神学者カール・バルトを交え、ベルリンなどで集会が開かれた。4月22日には告白教会へと発展し、5月29日にはヴッパー・タールのバルメン・ゲマルケ教会で第一回総会が開かれた。
この総会においてカール・バルトは、ドイツキリスト者が教会を破壊し信仰を妨害し「教会を教会でなくしている」と痛烈に批判。神とその言葉が書かれた聖書以外に権威を認めない姿勢を強調した宣言を採択した(バルメン宣言)。
しかし、アウグスブルク信仰告白に続く信仰告白に位置づけようとする彼らの動きは中立派から激しい批判を浴びた。ドイツキリスト者側は冷静に無視する方法を取ったため、かえってこちらの支持者を増やしてしまったとも言われる。第二回は10月19日から開催されたが、早くもバルメン宣言に対する教会内での対応が問題となり、内部対立は深刻化した。
支持を失ったことやナチス当局による弾圧の強化により活動から離れる牧師も相次いだ。総会も1936年の第四回大会を最後に開くことが出来なくなる。
1937年には創始者のニーメラーが逮捕され、これが決定的となり教会はドイツ宗教界への影響力を喪失した。1938年以降、反ユダヤ暴動や公民権のはく奪は激烈化するが、表立った活動を見せることは出来なかった。
告白教会としての歴史は5年に満たず、宗教界から排除された告白教会だったが、残されたボンヘッファーは先鋭化し、俗界にあった兄のクラウス、従兄のハルナック兄弟、義兄のハンス・フォン・ドナーニーを通じて宗教外の勢力との結びつきを強め、反ヒトラー活動を主導した。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ボンヘッファーは敗戦を予期しドイツの壊滅を憂慮した国防軍内の反ヒトラーグループ(黒いオーケストラ)と接触。元ライプツィヒ市長であったカール・ゲルデラーの下、宗教対策や滞米経験を生かした各国教会との連絡、連合国への情報の提供や将来の和平交渉への土台作りを始めた。
いわゆる「売国」と呼ばれるこれらの行動の他にも、ユダヤ人の亡命を援助するなど人道にかなう行いもしている。また、聖職者でありながらもヒトラー暗殺計画に積極的に賛同した。
1943年4月5日、ユダヤ人の亡命を幇助したことを理由にボンヘッファーは逮捕された。期待を寄せていたヒトラー暗殺計画も1944年7月20日に決行されたが失敗し、ドイツは多数のユダヤ人殺戮を続けたまま本土決戦で壊滅する他ない最悪の情勢に追い込まれた。
1945年4月にドイツ国防軍の情報部長で協力者だったヴィルヘルム・カナリスの日記から、ボンヘッファーの関与が発覚。正当な裁判を受けることもないまま4月8日に他の首謀者たちと共に収容されていた強制収容所で絞首刑に処せられた。ヒトラーの自殺の三週間前のことであった。
彼らも初期に問題としていたのがユダヤ系キリスト教徒の処遇であり、ユダヤ人そのものを救おうと考えていた訳ではなかった。もちろん、これはドイツキリスト者のように迫害を歓迎したのではなく「国家は国家、教会は教会」「国家が裁いて教会が救済すれば良い」と言うドイツの伝統的な考え(二元論・二王国論)によるものだった。このため、のちに教会を主催したバルト自体、当初はむしろ「民族主義自体は喜ばしい」と公言していたニーメラーらを非難していたほどだった。
しかし、ボンヘッファーはヒトラーやナチスを頂いた上で教会の権威を振りかざすやり方に早い段階から反感を抱いていた。福音主義者として、神と聖書以外の権威はあってはならない。
無論、聖書の教えでは世俗の権力も認めなくてはならない(ペトロ第一の手紙2・17)。だが、ルターと同様に地上の権威への服従には留保があることも見逃さなかった(使徒行伝5・29またはアウグスブルク信仰告白16条)。
ボンヘッファーはここから「車にひかれた人の手当てをするだけでなく、車自体を止めるべきだ」と言う結論に至った。つまり、神の教え(マタイによる福音書26・52)に背く剣を取った上でのヒトラーの暗殺である。
ここで凡夫であるなら「非常時には例外的に神の教えに背いて暴力を振るっても罰は当たらない」と考えるところであるが、ボンヘッファーはそうとも考えなかった。それどころか、よく対極とされるマハトマ・ガンジーの非暴力主義には惜しみない賛辞を与え、剣を取るものは剣によって滅び等しく神の裁きを受けることを積極的に認めた。だが、非合法によるものしか選択肢がない状況下、安易に地上の権力者になびくことは「他律」に過ぎず、これこそがナチスの正体とみた。そこで神の律法を成就するためにまたは傷つく隣人のために「罪を被る」人が求められているのだと確信を持った。
また、キリスト教徒にとってこの世は「通り過ぎるもの」ではなく「神の下にいたる道」なのだとも考えた。極限状態の中で神秘主義に偏りつつも実践活動はより先鋭化した。
実際のところ、ボンヘッファーは剣によって滅んだ。しかし、ヒトラーも時を置かず許されることはなかった。
戦後、ナチス・ドイツに協力したドイツの福音主義教会は国内外から激しい批判にさらされている。特に共産化されたドイツ民主共和国での信仰は危ういものとなりつつあった。だが、告白教会のボンヘッファーはじめ命をかけた反対者がいたこともあり、最終的に生存は許された。逆に迫害を受ける身となった終戦直後はもちろん、厳しい社会主義統制下の中にあってもドイツ人の心の拠り所となり、多くの人を慰めている。
一方、数千万人もの戦死者と600万人ものユダヤ人の犠牲を前にしても神は現れず、人々に直接語り掛けることもなかった。この凄惨な現実は貧困や紛争と言った「憎しみ」の形をとり戦後も繰り返された。近現代主義の伸展もあり、多くの人の間で「神の死」がまことしやかに語られ始める。カトリック聖職者の中にもむしろ積極的に「神の死」を認め、実践をもって社会へアプローチをかけキリスト社会の再編を求める動き、「解放の神学」が生まれた。彼らは異端とされつつ、先駆者ボンヘッファーに倣い、いまだ憎しみ渦巻く中南米で犠牲を払いつつ活動を行っている。
カール・バルト(1886年5月10日-1968年12月10日)
スイス出身の神学者。1920年代から既に反ファシズム・反ナチスを掲げ、共産主義勢力との対抗を期待する保守派の聖職者や神学者を一蹴し、早くからキリスト教進歩主義派の中心人物とみられていた。1930年にはボン大学の神学教授についたが、1935年にはヒトラーへの忠誠宣誓を拒否しスイスに帰国している。告白教会ではバルメン宣言の立役者となったが、当時は批判が強く評価されることはなかった。戦後、ナチスへの協力の反省から、このバルメン宣言は多くのルター派教会で基本信条とみなされている。バルト自身も戦後世界へ大きな影響力を保ち、現在でも20世紀を代表する神学者の一人と評価されている。日本では西田幾多郎に影響を与えたことや、没後に開かれた大阪万博においてスイス館が彼の祖国観を紹介に利用したことで知られている。
ディートリヒ・ボンヘッファー(1906年2月4日-1945年4月9日)
ドイツ・ブレスラフ(現ポーランド領・ヴロツワフ)出身のルター派牧師。滞米経験があり、そこでアメリカの人種問題を見ていたため、ユダヤ問題にも早い段階で気づいていた。戦時中の告白教会の活動は実質的に彼の非合法活動である。バルトと同様に20世紀を代表する神学者となったが、あまりにも早すぎる死により十分な教えを残すことは出来なかった。とは言え、ドイツにおいてはその名と活動を知らぬ者がいないほど反ナチ活動家としての顕彰が行われている。各地に像や記念碑が存在し、イギリスのウエストミンスター寺院の「20世紀の10人の殉教者」像には戦後になって彼に着想を与えたアメリカ黒人問題に立ち向かったキング牧師と並んで像が置かれた。家族のうち、兄や義兄も処刑されボンヘッファー家は抵抗運動に大きな犠牲を出した。
マルティン・ニーメラー(1892年1月14日-1984年3月6日)
ドイツ・リップシュタット出身のルター派牧師。八年に及ぶ強制収容所生活から辛くも生還。戦後は牧師職に復帰し福音主義者間の重鎮となった。平和運動に積極的にも関与し、東側諸国にも影響を与えている。以下の詩が世界のみならず日本でも有名。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
前述の通り非常に保守的な聖職者であり、ユダヤ系牧師の追放を始めるまでは軍隊経験からむしろナチスに好意的ですらあったと言われる。だからこそ、戦後になって自己批判の意味を込めてこの詩を残したのであった。また、オリジナルの詩にユダヤ教徒が入っていないことからも分かる様に、反ユダヤ教意識はきわめて強かった。ただし、戦後も継続していたと言うのは誤りで、ユダヤ人問題についても積極的に言及を行っている。彼が投獄された1937年の段階では、まだナチスのユダヤ人対策は公職追放に止まっていた点は留意すべきであろう。つまり、ユダヤ人よりもはやく攻撃を受けていた人物であったから載っていないだけなのである。実際、ニーメラー自身も特にオリジナルの詩に拘りを見せず、世界中で様々な団体に当てはめて標語として使われている。
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最終更新:2024/04/20(土) 01:00
最終更新:2024/04/20(土) 01:00
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