和智誠春(わち・まさはる ? ~ 1568)とは、備後国の戦国武将である。和智豊郷の長男。子に和智元郷。
和智氏は藤原秀郷の末裔を称し、和智氏祖の和智実成から数えて9代目の子孫にあたる。当初は備後守護を務めていた山名氏に仕えていた。のちに備後に勢力を広げてきた尼子経久に仕え、次に毛利元就に仕えて所領を安堵された。和智氏は南天山城(広島県三次市)を本拠として代々居城としており、1553年の江田氏討伐の際に士気を高めるための舞台としても使われた。
備後国の有力豪族であった和智氏を更に結びつかせようと考えた元就は内藤興盛の娘、または福原広俊の娘を誠春に嫁がせた。こうして毛利氏準一門である重臣の娘を娶ったことで更なる力を強めた。
しかし、1563年に出雲遠征に赴く毛利隆元を饗応するが、直後に隆元が急死してしまい、元就により毒殺の疑いを持たれて不信な目で見られる。ただし、この時は別に罪も問われずに赤川元保が幽閉される程度に止まる。誠春も謀叛を企むこともなく、内政・外征とそつなくこなす。また隆元が死去した時期が9月のため、秋とはいえ残暑もあるとされ、食中毒の可能性も十分考えられる。
1567年に元保が隆元急死の件で責任を問われて自害に追い込まれるが、のちに冤罪であると判明すると(誠春の饗応に反対したから)、翌年の伊予征討からの帰途で弟・湯谷元家と共に厳島神社に監禁されてしまった。殺されることを察した2人は脱走して抵抗を試みるが、熊谷就政・児玉元村によって誅殺された。隆元の死から5年経過しての誅殺であり、毒殺であればとうの昔に行動を起こしてもおかしくない。何か不穏な動き、伊予征討で何か失策をしてしまったのだろうか。元家の子・湯谷実義はこの件で激怒して抵抗するも殺され、誠春の子・和智元郷は元就に謝罪して和智家の存続を許された。
典型的な二級内政官である。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 17 | 知略 | 57 | 政治 | 56 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
創造 | 統率 | 24 | 武勇 | 23 | 知略 | 64 | 政治 | 64 | ||||||||
大志 | 統率 | 28 | 武勇 | 27 | 知略 | 63 | 内政 | 63 | 外政 | 65 |
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最終更新:2024/04/25(木) 05:00
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