和賀忠親(わが ただちか 1576~1601)とは、旧領回復を目指して戦った和賀の忘れ形見であり、時代に敗れ去った敗者であり、粛々と最期を迎えた高潔な武士である。通称主馬、又四郎。
1590~91年の葛西大崎一揆、和賀稗貫一揆、九戸政実の乱といった時代の波に反抗しようとした動きがことごとく鎮圧され、奥州に新たな時代が訪れつつあった中で、復権の機会をじっと狙い続けていた。
そして1600年の関ヶ原の戦いの際、奥羽で慶長出羽合戦が勃発すると、その隙を突いて挙兵する。
伊達政宗の野心の駒にされた存在であったが、ただ己の運命を受け入れ、死んでいった。
1576年出生。父は和賀義忠。
和賀氏は本来その姓を多田といい、本姓は源氏とされる。源頼朝の非嫡子・多田式部大輔忠頼を祖と称し、頼朝の奥州平定に伴い奥州和賀郡(岩手県北上市周辺)を領有したことから和賀を名乗ったのが起こりという。
ただし現在では武蔵七党の中条氏が刈田郡(宮城県刈田郡)の地頭となって刈田氏を起こし、のちに刈田義季が新領の和賀へ移住して和賀氏とした、との説が有力視されている。
戦国時代には「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われた南部晴政に圧迫され、和賀家は一族縁者の合力によってなんとか自領を保つことに成功していた小領主であった。
1590年、天下平定を推し進める豊臣秀吉によって小田原参陣要請が全国に下った。鎌倉の世から長きに渡り権勢を競っていた奥羽の諸将は新興の秀吉に反発する者も多く、また伊達政宗のように謀略を駆使してさらなる騒乱を巻き起こした者もいた。
和賀家は最後まで参陣を怠り、奥羽仕置の討伐対象となってしまった。その真意は滅亡による資料散逸のためはっきりしていない。「秀吉卑賎の身より天下を取り ~中略~ これを本意なく思い参礼を逃す族も多かるけるよし」との記録が家臣によって書き記されている。名家名族の誇りにかけて弓矢を交える道を選んだのだろうか。
※南部信直の計略によって家中に間者を入れられ、北条滅亡を知る間もないほど軍議が混迷したとの説もある。
やがて浅野長政を奉行とした仕置軍を信直が率い、居城・飛勢城へと進撃してくる。太閤検地を行い縄張りを新たに布く仕置軍に対し、抵抗する国人衆であったがあまりに多勢に無勢であり、豊臣方の代官に次々と入城を許してしまう。城を奪われた和賀一族は四散、この時同族の稗貫氏も鳥谷ヶ崎城を追われた他、大崎・葛西の大名も滅亡に至る。
同年秋、豊臣方の政治に対する不満の高まりとともに奥羽各地で旧領勢力が蜂起、また政宗の煽動もあり葛西・大崎一揆が発生し、それに呼応する形で和賀・稗貫一揆が巻き起こった。
父・和賀義忠とその庶兄・稗貫広忠率いるおよそ2000の一揆勢は浅野の家臣を追い落として飛勢城を奪還し、続いて鳥谷ヶ崎城を攻め囲んだ。そして救援に現れた南部勢を冬まで戦い抜いた末に退却させ、ついに城を奪い返すことに成功する。
1591年、奥羽で頻発する大規模一揆に対し、豊臣政権は総勢6万を超す仕置軍の再編を決定し、これにより北奥で挙兵した九戸政実の乱を含めて各地の反乱はことごとく鎮圧されていった。仕置軍の攻撃を受け落城した飛勢城は廃され、同じく鳥谷ヶ崎城は花巻城と改められて南部領に編入された。
敗戦によって父・義忠は土民による落ち武者狩りに遭い無念の内に殺害され、伯父・広忠は大崎氏を頼って落ち延びたが程なく死去してしまった。
全てを失った忠親は兄とともにわずかな家臣に連れられて仙北郡(秋田県仙北市周辺)に逃れたという。
1592年、文禄の役が起こり、兄弟は戦功を立てて旧領復帰を目指すことを決意し、山深い仙北の地から西へと旅立つ。しかし途中の下野国で兄が病没し、気落ちした家臣とともに引き返すことになってしまった。
1598年、南部家と領を境にする伊達家の庇護を得ることに成功し、政宗から胆沢郡(岩手県丹沢郡金ケ崎町)の地を500町歩賜り、移り住む。この地は南部の手に落ちた和賀郡からまさしく目と鼻の先であった。
1600年、上杉征伐をきっかけに関ヶ原の戦いが起き、伊達政宗は隙を突いて南部領侵攻を画策する。
支援を受けた忠親は好機到来とばかりに旧臣・残党をかき集め、荒廃した飛勢城跡に入って敵の出城を攻め立てた。南部方は大半の軍勢が対上杉戦で苦境に陥った最上義光の救援へ赴いており、残った城方は手薄でありながらもよくこらえた。この堅い守りに一揆勢は数名の将を討ち取ったところで撤退を余儀なくされる。
一計を案じた忠親は花巻城を夜襲し、三の丸二の丸を破った(花巻城の夜討ち)。この時既に上方では東軍の勝利が決まっていたが、奥羽の諸将はそれを知らずに合戦を続けていた。守備側・北信愛はわずかな兵力を補おうと農民から女性まで本丸に引き入れて決死の防戦を行う。やがて夜明けとともに援軍の到着を知った一揆勢はまたもや敗北し、飛勢へ逆戻りとなった。
その後一時は出城を制圧した忠親だったが、野戦での敗走を重ねた末に飛勢城跡を捨てて伊達領近くの岩崎城に立てこもった。もはや抜き差しならない状況へ追い詰められたといえる。
同年秋、自領にて態勢を立て直した南部方が岩崎へ向けて一気に進軍を開始する。ところが岩崎城は天然の要害であり、積雪の時期までに落とすこと叶わず結局撤退していった。
1601年再出陣した南部軍に対し、政宗の密命により白石宗直(白石宗実の養嗣子)が援軍を差し向けたが、出向の日取りを見破られて大敗を喫する。ここを勝負の分水嶺と判断した総大将・南部利直(南部信直の嫡男)は火攻めを決行し、西風に煽られた城は炎上。和賀一族の長きに渡る執念もついに本懐を遂げることなく火煙に消えていった。この一連の和賀氏の反乱を「岩崎一揆」「和賀兵乱」などと呼ぶ。
上杉討伐に際し必要以上の苦戦を強いられた義光は一連の件を幕府へ報告していた。徳川家康は政宗へ詰問の使者を遣わし、不埒の輩を召し捕らえて上洛せよとの命を下す。
辛くも胆沢郡へ逃げ帰っていた忠親はこのことを知り、善後策を協議に訪れた宗直に対して
武運拙く敗れ去った上、恩義ある政宗公に迷惑までかけてはこの上ない恥である。
さて、わしはこのまま腹を召そうかそれとも貴殿に討ち果たされようか。
と胆を据えた。まさかの言葉に宗直は「そなたのような忠義の士を斬ることはできぬ」と答えるのみであった。されば、と忠親は7人の家臣とともに従容として割腹に臨み、ここに激動の一生を終えた。
※事実の露見を恐れた政宗により上洛途中に謀殺されたという説もある。
墓所は陸奥国分尼寺。享年26。
戒名:自光院殿霊源性徹大居士
忠親亡き後、夫人は残党を率いて江刺郡白旗城にこもり、自ら陣頭に立って最後まで南部軍に抵抗し続けた。男装して葦毛の馬を駆る姿に尼将軍の称賛を受けたが、衆寡敵せず弓矢鉄砲の前に散った。
遺児は家臣に匿われて生き延び、伊達家に仕えたとも、そのまま養子入りして名を変え隠棲したともいわれている。殉死者の一人、毒沢義森の孫娘・勝女姫は政宗の側室となり、後世に伊達騒動を巻き起こす伊達宗勝を産んでいる。
戦闘力は二線級といったところだが、どうしてか知略が壊滅的なまでに低い。政宗に都合よく使い捨てられてしまったからであろうか……。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 60 | 知略 | 7 | 政治 | 12 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
創造 | 統率 | 65 | 武勇 | 48 | 知略 | 14 | 政治 | 21 | ||||||||
大志 | 統率 | 64 | 武勇 | 48 | 知略 | 29 | 内政 | 27 | 外政 | 24 |
掲示板
1 ななしのよっしん
2016/03/16(水) 17:23:21 ID: QKaturkjy4
>忠親は7人の家臣とともに従容として割腹に臨み、ここに激動の一生を終えた。
>※事実の露見を恐れた政宗により上洛途中に謀殺されたという説もある。
本当はどちらなのかね?真逆の二説だし、これによって政宗の評判も真逆になる
2 ななしのよっしん
2016/05/14(土) 04:41:57 ID: WuNZMCobKY
普通に考えれば政宗の後始末で死んだと見たくなるところだけど…
でも忠親の一生を振り返ると、武力で領地を切り取るという秀吉以前の戦国的
スタイルの中で生きてた人のようでもあるし。やるだけのことはやった末に
だけどもう再興の目は無いのだと実感して、ここが限界だと自分に見切りを
付けたようにも思えてくるからなぁ
3 ブロート
2021/08/26(木) 19:25:42 ID: bi2BdnfVei
稗貫家は信長の野望で独立した大名としてブレイできるのに和賀家はできない。この差は何だ
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最終更新:2024/04/26(金) 00:00
最終更新:2024/04/26(金) 00:00
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