四侯会議とは慶応3年5月に京都で行われた、雄藩諸侯による一連の会議である。
慶応3年初頭、京都政局において政治的課題として長州処分と兵庫開港という二つの問題が懸案事項に上がっていた。薩摩藩士・西郷吉之助、大久保一蔵、小松帯刀はこれらの問題を梃子として、薩長同盟に基づく長州藩の赦免運動、幕府から朝廷への外交権移譲、雄藩諸侯による公議政体の樹立などを目指し、島津久光の許可を得て2月から3月にかけて行動を開始。西郷は土佐藩の山内容堂と宇和島藩の伊達宗城、小松は越前藩(福井藩)の松平春嶽にそれぞれ京都への集合を促した。
一方将軍・徳川慶喜は3月5日、朝廷に対し兵庫開港の許可を求めており、朝廷からは拒否されていたが、25日に大坂城で諸外国公使を接見した慶喜は公使一同に兵庫開港を明言していた。朝廷や大名諸侯を無視する形で開港を独断で決定しようとする慶喜の態度に朝廷内や諸侯から批判が高まっていく事になる。
4月15日、駐日英国公使パークスの敦賀旅行に関し、京都所司代から武家伝奏に伏見を通行する旨が伝えられた。なお攘夷感情を持ち続けていた正親町公董、滋野井実在・公寿、鷲尾隆聚らは摂政二条斉敬に対し、外国人を京都に近づける事を黙認したとして佐幕派の朝彦親王に近い議奏の広橋胤保、六条有容、久世通煕、武家伝奏の野宮定功の罷免を要求。17日にこの四名は罷免された。また、外国人の京都潜伏を疑った朝廷は同日、薩摩・因幡・備前の三藩に京都周辺の警備を命じた。武家伝奏は日野資宗が就任し、議奏の三席が空白となった。この後任人事を巡り、幕府と雄藩、就中薩摩藩の間で激しい駆け引きが行われた。
4月12日に島津久光、15日に伊達宗城、16日に松平春嶽、5月1日に山内容堂がそれぞれ入京した。四者は何度か会議を行い、その中で久光は長州処分問題と兵庫開港問題を雄藩側に有利に解決させるための先鞭として、武家伝奏と議奏の速やかな後任人事を二条に要求する事を提議した。薩摩藩が推薦していたのは武家伝奏に万里小路博房、烏丸光徳の二名、議奏に正親町三条実愛、中山忠能、徳大寺実則、中御門経之、大原重徳の五名で、いずれも反幕府的な気質の公卿達であった。
幕府側も対抗し、慶喜の腹心である原市之進や会津藩、そして慶喜自身も罷免された広橋、六条、久世、野宮を復職させるよう二条や朝彦親王に入説した他、慶喜は三藩への京都周辺警備を朝廷が独断で決めた事を攻め立ててこれを取り消させるなど、各勢力による朝廷工作が活発化した。幕府と雄藩との間で板挟みに陥った二条は、どちらにも与しない人事として経験者を再任することとし、この結果武家伝奏は日野のままで、正親町三条と長谷信篤の二名が議奏に就任した。
この人事問題について、伊達宗城は久光に同調したが、松平春嶽は朝廷の人事に介入すべきでないと久光を窘めており、正親町三条が大原・中御門の二人を議奏や国事御用掛に推薦しようとしていることを警戒して老中板倉勝静に対策を取るよう助言している。また、山内容堂も薩摩への警戒心から板倉と秘密裡にやり取りしていた。表向き足並みを揃えていたかに見えた四侯の関係はこの時既に分裂の兆しが見えていた。
5月14日、久光ら四侯は二条城の慶喜に謁見した。四侯の共通認識として兵庫開港は当然の事としつつ、先に解決すべきは長州藩の問題であった。前年の第二次長州征伐の完全な失敗により幕府の権威は著しく低下しており、この失敗を幕府自ら認めて反省し、長州藩に対して嘆願等を強要しない寛大な措置を朝廷の名の下に行えば諸藩の賛同も得られ、兵庫開港も難なく実現出来るであろうとしていた。また、西郷は5月中旬久光に対し以下の建白を行なっていた。政権を朝廷に返上し、幕府を大名諸侯と同列にさせるべしというこの建言は、5ヶ月後の大政奉還と同様の考えを既に西郷らが持っていた事を覗わせる。
いずれ天下の政柄は天朝へ帰し奉り、幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に朝廷を補佐し、天下の公議をもって所置を立て、外国の定約においても、朝廷の御所置に相い成り候て、万国普通の定約をもって御扱い相い成り候はヾ、たちまち御実行相い挙がり、万民初て愁眉を開き、皇国の為に力を尽んことを願い、人気振い起こり、挽回の期に至り、一新致すべし
(『大西郷全集』)
慶喜と四侯の最初の会談では長州と兵庫の問題の優先順位について話し合われた。兵庫開港予定日の慶応3年12月7日(1868年1月1日)の半年前になる6月7日が公布日として決まっており、慶喜はこの期日に間に合わせる必要から兵庫問題を優先すべしとした。これに久光が反発して公布の延期を求めたが、春嶽が二件同時に解決すれば良かろうと折衷案を出した。会議終了後には慶喜の手配で四侯の写真が撮影され、晩餐会が行われた。
19日、再度慶喜と四侯の会議が催された。久光から長州処分については既に過去に提出済みの嘆願書を受け入れる形での解決を主張したが、慶喜は藩主父子や家老の嘆願書でなければ受け入れないと拒否した。長州藩の処分について折り合いがつかないため四侯側からは23日の参内を中止(春嶽のみ参加)し、四侯の連署による幕府への建議案を提出した。この建議は、第二次長州征伐は誤りだったとして幕府へ反省を迫るものであり、長州藩を無罪放免にする事は認められない幕府・慶喜にとって到底受け入れられないものであった。
一方、同日から始められた朝議には慶喜自身も参加し、長州藩への嘆願書提出要求及び兵庫開港の勅命を求めた。二条以下、朝議に参加した廷臣はどちらも認める考えであったが、24日に参内した大原重徳、正親町三条実愛ら反幕府派の公卿がこれに反対すると、朝議に参加していた国事掛らが辞任すると言い出し、更に正親町三条らを非難したため今度は正親町三条らが議奏の辞職を主張するなど、朝廷内は異常な混乱状態に陥った。
徹夜に及んだ2日間の協議の結果、慶喜の主張通りの勅命が出されることになり、四侯、そして裏で暗躍した西郷や大久保、小松らによる幕府から政治主導権を奪う試みは失敗に終わった。27日には度々会議を欠席し続けていた容堂が病気を理由に帰国し、四侯会議も解散となった。
この一連の政争は慶喜の勝利に終わったものの、その強硬な態度は朝廷内での反発を招き、中御門経之、正親町三条実愛らが『討幕の密勅』作成に関わる事になる。また、西郷、大久保、小松らは言論のみによる平和的な政体変革は不可能であると認識するに至り、以降武力討幕路線の傾向を強めていく事となる。
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2 ななしのよっしん
2014/05/31(土) 22:35:20 ID: 43TM86Y4yh
大体「幕府(江戸)・朝廷(畿内)・薩長(九州)」だけで話が完結しちゃうからね、仕方ないね
3 ななしのよっしん
2015/08/21(金) 11:55:57 ID: ZNshe55sJI
>>1
わかりやすいw
ありがとうございます
宇和島藩は「明日腹痛になるんで休みます」って途中からすっぽかしたからですかな
4 ななしのよっしん
2018/10/26(金) 19:24:00 ID: 9xFjGsZaq2
どの作品や説明においても、四侯会議は徳川慶喜の勝利として書かれているが、
結局、これが原因で薩摩の決定的離反が確定し、後の徳川政権崩壊・江戸開城に繋がるのだから
ある意味では敗北であったのかもしれない
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最終更新:2024/04/24(水) 11:00
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