四国征伐 単語

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四国征伐とは、正13年(1585年)に四国で発生した羽柴秀吉を中心とする中央勢長宗我部元親の間で起きた戦いである。四国攻め、四国定、四国の役と呼称には議論がある。戦いの結果、四国の雄であった長宗我部元親が降し、中央勢秀吉)の下となった。豊臣秀吉天下統一事業の一環としてられている戦いである。

なお、当記事ではそれ以前における織田信長ら中央勢四国進出についても述べることとする。

織田政権と長宗我部元親(友好から断絶へ)

長宗我部元親が中央勢外交交渉を始めたのは正三年(1575年)の前後と言われている。当時中央で強固な勢を誇っていたのは織田信長であった。畿内では強な勢を誇っていた織田信長であったが、当時は中国毛利輝元四国波を中心とする三好長治十河存保兄弟などの三好氏、また北陸上杉謙信など各方面に敵を抱えていた。

特に中国方面は足利義昭を擁立した毛利輝元が、宇喜多直家山名豊国本願寺顕如をはじめ多くの勢と連携しており、侮りがたい勢を築いていた。また毛利輝元三好長治らについては前後して長宗我部元親とも敵対関係を取っており、共通の敵をもった両者は次第に結びつきを強めるようになった。

長宗我部元親の嫡男でもあった弥三郎が、織田信長の「信」を与えられ、長宗我部信親と名乗るのもこの頃である。当初は正三年(1575年)のこととされていたが、現在では正六年(1578年)のこととされている。織田政権では織田信長の命のもと、明智光秀が取次役を勤めており、光秀を通じて信長・元の友好関係が築かれていたが、戦局の転換に伴い徐々に暗が立ち込め始める。

大きな転換点は、三好長慶を輩出したかつての四国の大勢であった三好氏の処遇である。三好氏は当初、織田長宗我部両勢と敵対していたが、両勢によって徐々に衰退させられ、三好の有者であった三好長治長宗我部元親と戦って敗死すると、いよいよ危急存亡の事態となる。十河存保を中心とする残る三好氏勢、既に織田に下っていた三好康長の仲介で織田に降しようと考えたのである。

これだけ見れば「なんてのいい話だ、ありえん」と思われるかもしれないが、織田方にも大きなメリットをもたらす可性のある条件があった。当時、織田信長毛利輝元とその協調勢と争っていた。織田方は戦局をより優勢にすべく、三好氏が所有する強軍を持って陸両面から毛利氏を圧迫しようと考えたのである。一説には羽柴秀吉三好氏との提携を強めたと言われている。

しかし、長宗我部元親を邪険に扱うわけにもいかず、織田信長長宗我部氏元三好氏らとの協調を説いた。その上で、長宗我部元親に土佐一波半の領有を認めた。しかし、は自らので切り取った領土の返還を拒否する。さらに、長宗我部元親毛利輝元に味方した。一説には信長が朱印状を与えたためとも言われるが定かではない。

織田方(特に明智光秀ら)の必死の説得も虚しく、正九年(1581年)頃には織田長宗我部はほとんど外交断絶関係になってしまったと言われている。しかし近年ではあくまで長宗我部元親が領土安寧のために毛利氏との関係重視を選んだという説も根強くなっており、織田との外交も意識していたとされている。

長宗我部元親の中央恭順と抗戦(信長への臣従から秀吉派との対立)

しかし、長宗我部元親を取り巻く外交環境は徐々に悪化していた。かつて敵対していた三好氏は三好康長の養子に織田信長の三男である織田信孝が入り、織田政権で確たる地位を築いていた。また織田信長の勢自体、既に元外交交渉を初めた頃とはべ物にならないほど強大になっていた。既に織田信長は北は東北南部伊達名、南は九州大友龍造寺島津といった諸氏と誼を通じてを発揮し、正十年(1582年)三月には織田信長に逆らった武田勝頼織田信忠を中心とする軍勢によって滅亡の憂きにあっていた。

正十年(1582年)五月織田信長中国四国方面への兵を決断する。四国方面へは織田信孝三好康長丹羽長秀らを中心とする軍勢が派遣されることになった。織田信長は同年五月七日、三男にあたる信孝に対して

今度四国に至って差し下すに就きての条々

一、讃岐の儀、一円その方に申し付くべき事、
一、の儀、一円三好守に申し付くべき事、
一、その外、両国の儀、信長、淡州に至って出の刻、申し出ずべき事、
右の条々、聊かも相違なく相守り、人等の忠否を相糺し、立て置くべきの輩は立て置き、追却すべきの族は追却し、政以下堅く申し付くべし。万端、山守に対し、君臣・の思いをなし、馳走すべきの事、忠節たるべくくよくその意をなすべく也。

書状内容の適当な現代

一、讃岐一円おまえ(宛先である織田信孝)に任せる
一、一円三好康長三好守)に任せる
一、伊予、土佐(その外、両国)は、わし(差出人信長)が淡路島(淡州)に行ってから申し伝える

右に伝えたことは固く守るように。領人)の対応(忠否、従うか向かうか)を精し、
安堵すべき輩は安堵し、滅ぼすべき一族は滅ぼし、下の政を固守するように。
万事において三好康長(山守)に対して、君、と思い、丁重に対応して忠節を尽くし助けるように

と、書状を送っており、戦争のみならず、政治的な意図を含めた軍勢派遣であった。既に長宗我部方でも元を見限る動きが出ており、元自身、織田信長が大軍によっていよいよ四国を仕置しようと考えていると思ったかどうかは定かではないが、正十年(1582年)五月、ついに長宗我部元親織田信長への恭順を決断する。五月二十一日、織田重臣であった明智光秀の重臣、斎藤利三に書状を宛て、条件付きながら従を認めるなど当初の信長の意向に従う態度を示したのである[1]織田信孝を中心とする軍勢の四国派遣前に迫っており、ギリギリでの対応であった。同時期には中国毛利輝元も和を模索しており、三職推任などで朝廷信長下人と認めるなど、織田信長天下統一もが思った。


だが、その数日後、下は暗転する。本能寺の変により織田信長織田信忠が自し、織田政権の中枢に致命傷が与えられた。本能寺の変明智光秀の動機は定かではない。一説には四国の対処があったのではないか?と言われているが、あくまでも説止まりである。その後、山崎の戦いを経て織田なんとか三法師を中心とする新体制を確立したが、地方への減した。

織田新体制の地方への干渉低下は、四国にも騒乱をもたらした。もともと織田信長の裁定にも不承不承であった長宗我部元親であったが、本能寺の変織田混乱すると、三好氏残党にあたる十河存保を攻撃する。織田方の後ろが消えた三好勢は長宗我部元親に対して劣勢となり、同年九月頃ついに三好勢が波を放棄し、長宗我部元親波を定した。

だが、長宗我部元親のこの動きを制そうと考える人物がいた。羽柴秀吉である

羽柴秀吉の四国進出と長宗我部元親の暗雲

もともと、羽柴秀吉信長存命期の頃から三好氏との協調を考えていたと言われており、信長存命期における織田長宗我部外交にもがあったとさえ言われている。秀吉は元が攻めていた十河存保を救援し、四国における長宗我部元親覇権に待ったをかけていたのである。

しかし、羽柴秀吉は当時織田の内部抗争の対処も迫られていた。これにをつけた長宗我部元親柴田勝家織田信孝めに応じて、彼らに味方する。このあたりは上杉景勝同様「敵の敵は味方」という発想があったのやもしれない。だが、元論見ははずれ、柴田勝家織田信孝は敗れて自した。つづいて織田信雄徳川家康と結びついて、なお秀吉との対立を続けようと考えたが、これも結局、信雄家康秀吉と和して頓挫した。

にとって不運だったのは、瀬戸内でも毛利輝元との戦闘が始まっていたことである。伊予方面では長宗我部元親が優勢であり、毛利氏が支援する河野氏をはじめ、多くの勢を下した。この時点で長宗我部元親四国制圧、四国統一はなったとも言われている。

だが、中央体制でますます勢を強めている羽柴秀吉と、中国地方で確たる強大な権を築いていた毛利輝元が結びつきを徐々に強めていた。本能寺の変の際には秀吉を中心とする閥と、毛利輝元毛利氏は利関係などで連携性を欠いていたが、秀吉が中央で確たる地位を築く頃には、両者は昵懇な関係を築いていたのである。

羽柴秀吉が中央体制で確たる地位を築き、再び下が安寧に向かおうとしている時流を見た長宗我部元親は、制圧(統一とも)していた四国四ヶのうち、讃岐波を割譲する代わり、伊予・土佐を安堵してもらい、秀吉下に入るという交渉を行っていた。秀吉もそれで一度は納得したが、これに異を唱えたのが伊予を争っていた毛利輝元だった。

結局、毛利長宗我部氏の交渉は遅々として進まず、秀吉としても意に沿わない元を扱いづらくなったのか、結局四国征伐という名の長宗我部氏を軍事的に下す方向に移行するようになる。この時出された「讃岐波は秀吉を含む中央体制側」「伊予毛利側」という案は、戦後の論功行賞に概ね反映された。

開戦(中央体制側は約12万、長宗我部軍は約4万と伝わる)

な中央体制側の武将 長宗我部軍の武将
羽柴秀長
織田臣。羽柴秀吉
羽柴秀次
臣。羽柴秀吉の甥
蜂須賀正勝
織田臣。
黒田孝高
織田臣。
宇喜多秀家
宇喜多宇喜多直家息子
小早川隆景
毛利重臣。毛利輝元叔父
吉川元長
毛利重臣。毛利輝元従兄弟
十河存保
三好一門。三好長治
仙石秀久
織田臣。これ以前にも元と抗争
筒井定次
織田臣。筒井信長婿
藤堂高虎
羽柴秀長重臣。
加藤嘉明
臣。もと織田秀勝臣。
小早川秀包
毛利一門。秀吉人質。元の叔父
長宗我部元親
長宗我部。土佐の出来人。
長宗我部信親
長宗我部元親の嫡男
香川親和
長宗我部元親の次男。香川養子
香宗我部親泰
長宗我部元親。重臣一門。
戸波
長宗我部一門。重臣。
江山
長宗我部一門。戸波武の
長宗我部
長宗我部一門。
谷忠澄
長宗我部重臣。
佐竹
長宗我部一門。元婿
福留儀重
長宗我部重臣。
金子元宅
石川重臣。伊予者。
河野通直
河野長宗我部

中央体制側では、紀州征伐の直後、あるいは東方面の佐々成政への備えや前年の秀吉包囲網における小牧長久手の戦いのこともあり、織田からの参秀吉の一部武将などごく僅かに留まった。代わりに、本能寺の変以降における新体制において昵懇な関係を築いてきた宇喜多毛利といった新規下勢が軍の一を占めており、特に小早川隆景吉川元長を中心とする毛利勢は約4万と言われるなど遠征軍の中核一となる。

長宗我部でも特に伊予においては河野石川西園寺を初めとする地元勢の協があり、双方とも多数の下勢を抱き込んでの大合戦となる。

この戦いの最中7月羽柴秀吉関白に就任関白相論)。秀吉信長に続く天下統一の為政者としての地位を不動のものとし、豊臣政権の礎が誕生する。この戦争は「本能寺の変以降における織田の内乱」のえ、以降の戦役を含めて「関白秀吉を中心とする定体制における戦争」としての特徴を強めた。

戦争の経過

中央体制側は伊予讃岐波の三方から大軍を派遣して長宗我部勢を圧迫した。概ね、伊予側は小早川隆景吉川元長を中心とする毛利讃岐側が宇喜多秀家を中心とする宇喜多波側が羽柴秀長を中心とする羽織田)勢、そして全方面にそれぞれ幾人かの織田・羽臣がつけられるといった様相であった。

一方、に在したものの、三方から大軍で攻められることになった長宗我部元親の軍はその対応に迫られることになった。讃岐方面を中心に守りを固めて分断策を企図したと言われているが、讃岐勢の宇喜多秀家らが転進して波勢の羽柴秀長らに合流したため、この策は崩れたとされる

また伊予方面は長宗我部勢が援軍としてかけつけていたものの、意気盛んで大軍であった毛利勢に蹴散らされることとなる。長宗我部元親に協した金子元宅、石川丸は奮戦して戦死、大野直昌河野通直などは降するなど、伊予方面では露長宗我部氏劣勢の色が濃くなり始める。波、讃岐方面では長宗我部元親率いる軍に警を敷きながらも大軍をもって諸攻略理な攻めを避け、あくまで兵糧、断ちなどをもって諸攻略する。

6月下旬から始まった戦役は、7月下旬には長宗我部敗色が色濃くなった。元の在するは挟撃されつつあり、さらに援軍の乏しい戦地では寝返りや降が相次いだ。果敢に抵抗した武将たちも戦死を遂げるなど劣勢を覆すのは難しい段階に来ていた。長宗我部方では谷忠澄を中心として降論がされ、一時は元を始め反対徹底抗戦を唱えたが、やがてそれも下火になり、7月25日長宗我部元親羽柴秀長へ降し、8月6日に講和が成立した。長宗我部元親は土佐一のみを安堵され、中央勢となった。人質には長宗我部元親の三男である津野親忠が選ばれた。

その後の四国と中央体制(秀吉政権と四国国分)

四国征伐が終わった後、四国及び中央の体制は一気に刷新された。讃岐波、そして伊予にはそれぞれ中央勢毛利の所領となった。特に戦争中に秀吉関白に就任したこともあり、同年の十三年(1585年)8月には、その背景に四国征伐、そして前年の秀吉包囲網における大規模な論功行賞が秀吉色の強い差配で行われた

代表的なものとしては、秀吉の甥でもあり四国征伐でも戦功を上げた羽柴秀次戦後近江43万石を領したことが挙げられ、この羽柴秀次近江入りをもって織田信長が築いた安土城となる。安土城は既に本能寺の変混乱守が焼け落ちていたが、秀吉が秀次のために築いた八幡によって残った安土城も多くが使われ、また下町も全移転することになり、信長の築き上げた安土城はここにほぼ消滅する。

その他の例としては羽柴秀長が戦功を褒賞され、大和に領地を貰い、秀長の勢は播磨但を含む100万石近い勢になったと言われている。一方で織田重臣でもあった丹羽長秀が同年死去し、跡を継いだ丹羽長重が領土を大幅に削減されるなどの処置も行われた。概して中央では、織田に一定の配慮こそ行ってはいたものの、秀吉政権における「脱織田体制」「秀吉新体制構築」が行われており、今日豊臣政権の誕生と言われている

一方の四国では、新体制である織田・羽毛利系の武将が四国の大部分を占めるようになる。土佐一を安堵された長宗我部元親讃岐3万石を安堵された十河存保以外の旧勢は、そのほぼ全てが落の憂きにあった。特に伊予においては凄惨であり、のちの豊臣新体制が構築されるにつれ西園寺公広河野通直などどの旧領が謀殺され、新勢がそれぞれ領地を治めることになった。(ただし、河野通直については病死説もある)

四国における新勢としては、伊予小早川隆景波は蜂須賀政、讃岐には仙石秀久に入った。その後、九州征伐のを受けて仙石秀久易となり(のち信濃で復帰)、かわって讃岐には生駒親正が入る。また同じく九州征伐の論功行賞によって小早川隆景筑前が与えられ、代わって伊予加藤嘉明藤堂高虎戸田勝隆らが入った。九州征伐で十河存保が戦死して十河氏が易され、関ヶ原の戦い長宗我部元親の跡を継いだ長宗我部盛親易されると、四国の旧勢はついに全滅した。(土佐は山内一豊が入封、十河領は生駒親正が接収)

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関連項目

脚注

  1. *2014年に発見された石文書より。ただし、この書状が実際に信長に届いたかは不明。
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