今に始まったことではなく、天皇家は直系男系親族が全然いない状態で中世末期から近世を過ごしていた。結果、ふんわり室町時代から続いてきた伏見宮家に加え、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家の4家が血のスペアの役割を担うことになり、幕末に実際に光格天皇が四親王家から迎えられたというわけである。
なお、木寺宮など室町時代には他にもいたが、これらは江戸時代に突入しなかった。
ただし、実のところ男系皇族が全然誕生しないのはこの四親王家においても全く同じであり、何度か系統が変わった末に、結局伏見宮家系統以外今は存在しない。ただし、伏見宮家は幕末にやたらと男系皇族が誕生し、近代十五宮家に枝分かれしていった。とはいえ、第二次世界大戦後の臣籍降下によって、現在は明治天皇以後の直宮家以外の親王家は皇室を離れ、親王家ではなくなっている。
なお、宮内省が編纂した親王家の史料が埋もれてしまっているのが現状であり、研究者もまだ頑張って複写を進めているのが令和の現在進行形の状況だったりする。
全ては南北朝時代、崇光天皇らが南朝に攫われたことに始まる。崇光天皇の系統は結局世襲親王家・伏見宮家となってふんわり京都に帰ってきて、ちょっと扱いに困る遠い親戚となっていった。ところが、後光厳天皇の系統がまさかの断絶に至り、後南朝に譲るのも何なので、伏見宮家から後花園天皇が誕生した。というわけで、現在の天皇家は全員系図上は伏見宮家とも言える。
以後、後花園天皇の弟・貞常親王の系統が伏見宮家として続いていき、邦忠親王でついに直系が途絶える。というわけで弟らがどんどん還俗させられていき、近代において天皇家にとってはちょっと面倒な存在、伏見宮家皇族が成立したのであった。
後陽成天皇の弟で、豊臣秀吉の養子にさせられた智仁親王に始まる。しかし、ふんわり養子が解除され、八条宮家として第二の世襲親王家となった。常磐井宮→京極宮と名前を変えていくうちに、さらに以後何度も何度も養子入りし、最後には淑子内親王が入った。彼女は特に後継者を迎えなかったため、明治14年に断絶した。なお、名跡は直宮が継いだ。
名前だけ知名度が高い気がする家である。後陽成天皇の息子・高松宮好仁親王に始まり、2代花町宮良仁親王が後西天皇になり、結局3代目までは皇子が当主となっている。途中からは実系が続いていき、幕末の有栖川宮熾仁親王が有名である。しかし、皇室典範の都合上養子をとれず、大正2年に断絶した。高松宮の名前だけは直宮が継承した。
ちなみに、21世紀にもなって子孫を騙った詐欺事件があったことでも有名である。
新井白石に作られたことで極めて有名な家である。かくして、ふんわり四親王家になったわけだが、後桃園天皇の代で天皇家がいったん途絶える。そこで白羽の矢が立ったのが閑院宮家であり、光格天皇が天皇家に迎えられた。しかし春仁王・後の閑院純仁に子供がおらず、昭和63年に断絶した。
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最終更新:2024/04/20(土) 00:00
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