回天とは主に、
である。本稿では2.および3.について説明する。
第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)時に日本で開発された兵器である。いわゆる特攻兵器の一つ。
日本軍が誇る93式魚雷(酸素魚雷)を改造し炸薬量を増やし大型化させ、操縦席を設置して隊員1名が乗り込み人力で操縦して敵艦に体当たり攻撃をする兵器。
『回天』という名称は海軍特攻部長大森仙太郎少将が後述の幕府海軍軍艦『回天丸』に因んで命名したとされるが、敗勢の日本を一変させる切り札という意味合いもあったものと思われる。
最高速度時速55km/hで23kmの航続力があった、また弾頭の炸薬量は1.55トンと93式酸素魚雷最大の炸薬量となった3型の780キロの倍もあり、一撃で戦艦さえ撃沈できる破壊力を期待されていた。
運用方法としては、母艦となる潜水艦に搭載されて目標まで接近し、母艦から発進した後は搭乗者が操縦して目標に突っ込むという方式が取られた。
但し水中を高速で直進する魚雷を改造した兵器であり、操縦は非常に困難であった、その為に操縦にはかなりの熟練が必要であり、後に回天特攻の島と呼ばれる山口県の大津島で猛訓練が行われたが、それでも命中率や戦果は期待を大きく下回るものであった。
日本軍における人間魚雷の歴史は古く、一説には1931年にまで遡り、海軍軍縮条約で英米比で主力艦の保有を制限された日本海軍がそれを補う手段として検討していたという説もある。
但し具体的に検討が始まるのは、ソロモン海域で日本海軍の敗戦が続き、制海権制空権を米軍に奪われつつあった1943年中頃であった。伊36に便乗してトラック島から帰投した第7潜水戦隊参謀泉雅爾中佐と呂103の艦長渡辺久大尉は7月26日、海軍大臣嶋田繁太郎大将に「潜水艦に特攻兵器を搭載し、特攻作戦に徹するべき」と上申。更に12月、特殊潜航艇(甲標的)の訓練を受けていた黒木博司大尉と仁科関夫中尉が、特殊潜航艇よりもコストや手間をかけない必殺兵器として、当時大量に死蔵されていた日本海軍が誇る93式魚雷(酸素魚雷)に操縦席を設け、人力で誘導し敵艦に命中させるという案を大本営に上申したのがそのきっかけであった。しかしこの時は海軍省・大本営に上申を一蹴されている。軍令部総長の永野修身大将も「それはいかんな」と否定的な意見を述べた。
しかし1944年初頭になって中部太平洋に米軍が侵攻し、奪取された諸島や環礁に大艦隊が停泊できる泊地を整備され、日本本土近郊への侵攻の拠点とされることを恐れた大本営が、米軍泊地や拠点を攻撃する手段を検討していたところ、黒木・仁科が人間魚雷がもっとも相応しいと再度上申し、ついに1944年2月に回天開発が大本営に認可され(その認可をしたのが当時軍令部第二部長であった黒島亀人少将)、正式に海軍大臣から開発の指示が呉海軍工廠魚雷実験部長になされた。
開発に当たっての海軍からの指示は、『脱出装置』をつけることであったが、開発現場では改造が大掛かりになることや、高速で直進している魚雷から実際に脱出は無理だろうという考えから、脱出装置の設置は開発時点で見送られ、海軍もそれを黙認する形となった。
1944年4月、マル六金物一型という仮称で開発が命令され、7月に試作型のテストが終了。8月頃には完成して本格的な訓練を開始。9月6日、回天発案者の1名である黒木大尉が事故死。黒木艇は水中でバランスを崩し、水中に突き刺さってしまいその状態のまま10時間閉じ込められて同乗していた樋口大尉と酸欠により死亡したが、死亡するまでの間に、今回の事故の対策としての回天の改善点や遺書を艇内に残していた。しかし、回天はこの事故の後も大きな改善をされることもなく実戦に投入されることとなった。
11月、山口県の光市と大津島に回天基地が設置され、志願者2000名の内から選抜された100名余りの隊員が訓練場で回天の操縦法を学んだ。志願制だけあって全員士気が非常に高く、当初上層部は「発射の機会に恵まれず帰還した搭乗員は理由に関係なく出撃任務から外し、後進の育成にあたらせる」という方針だったが、これを不服とする搭乗員が司令官に直接強訴した事で再出撃が認められたり、他にも家を守る長男なので十死零生の回天任務から外された者が、血書を書いてまで搭乗員になろうとしたケースもある。
回天搭乗員は出撃前に辞世の句や家族にあてた遺書を遺している。伊48に乗艦した塚本少尉はレコードに遺言を遺していたのだが、これは回天搭乗員唯一の肉声であるとして歴史的価値が高く、現在山口県周南市の回天記念館にて公開されている。
当初回天はその開発経緯より、米海軍の基地や泊地を襲撃し停泊中の艦船を攻撃するという目的で運用される計画であった。
1944年11月、「第一次玄作戦」が発令。伊36、伊37、伊47からなる回天特攻部隊菊水隊が結成され、3隻の母艦には12基の回天が搭載された。伊36と伊47は中部太平洋の米軍の最大の泊地であったウルシー環礁を、伊37はコッソル水道を攻撃目標に定め、11月8日に大津島を出撃した。11月16日早朝、トラック諸島から飛来した彩雲がウルシーを偵察し、伊36と伊47に在泊艦艇の情報を送った。そして11月19日朝、伊47はウルシーの南西から、伊36は北東から接近。翌20日黎明に回天を射出し、武装油槽艦ミシシネワを撃沈。これは伊47の戦果とされる。弾薬や燃料を満載していたミシシネワは何度も爆発を起こし、アメリカ軍に大きな衝撃と恐怖を与えた。故に泊地における米軍の対潜警戒を強化させ、今後の回天攻撃を不利にする逆効果を引き起こすこととなった。ちなみに回天を開発した仁科関夫中尉は伊47の回天に乗り込み、射出された。一方の伊37はコッソル水道付近で米駆逐艦の対潜攻撃を受けて消息を絶ち、喪失と判定された。菊水隊帰投後に行われた第6艦隊の研究会では「戦艦3隻、空母2隻撃沈」とされた。
第一次玄作戦の戦果に満足した第6艦隊は、規模を大きくした「第二次玄作戦」を発令。伊36、伊47、伊48、伊53、伊56、伊58からなる金剛隊を編成し、1945年1月に大津島や呉から続々と出撃。6隻の母艦と24基の回天により、同じウルシー泊地の他にグアムやアドミラルティの各泊地を攻撃したが、警戒が強化されており戦果は小型の歩兵揚陸艇1隻撃沈と輸送艦1隻大破1隻損傷にとどまった上に伊48を喪失することとなった。
この2回の攻撃により、米軍泊地の対潜警戒が著しく強化され接近が困難となった為、三次以降は洋上に航行している艦船を攻撃する戦術に変更を余儀なくされた。
回天は穏やかな泊地攻撃を主目的とした設計や訓練であり、外洋では更に操縦の難易度が増した上に、かねてより指摘されていた問題点も噴出し(主燃料の酸素に点火されず点火用の空気だけで発射されてしまう冷走故障や潜望鏡が低く外洋の高い波ではまともに前が見れない等)殆ど命中させる事ができず戦果は挙がらなかった。(外洋でまともに命中したのは護衛駆逐艦アンダーヒルを撃沈した勝山中尉艇のみ)
その為に、夜半で視界が悪い時など艦長の判断により回天ではなく通常魚雷で攻撃するケースもあった。(回天作戦中の伊58の橋本艦長は回天作戦中に月明かりも少ない夜半に遭遇した重巡インディアナポリスに対して、回天ではなく通常魚雷で攻撃しこれ撃沈している。)
但し、護衛駆逐艦アンダーヒルが船体が真っ二つになって轟沈した事や、至近爆発ながら沈没寸前の大きな損傷を被った弾薬輸送船マザマの例を見る限り、まともに命中爆発した際の威力は凄まじいものだったと思われる。
また他の欠点としては、回天を搭載することで、母艦となる潜水艦の行動までが制限を受けたことである。潜水艦は敵の攻撃を受けた場合、深く潜水して攻撃を回避することが有効であり、伊号潜水艦であれば、一般に水深100m以上の潜水が可能であった。ところが、回天には最大でも80メートルの耐圧深度しかなかったため、回天を搭載した母艦は、水圧で回天を壊さないようにするために動きが制限されてしまい、結果として母艦の被害拡大につながってしまった。(但し回天を搭載したまま100m潜水し米駆逐艦の追撃を振り切った伊47みたいな例もある)
また回天は潜水艦の他にも回天訓練用に改造された『北上』等の軽巡洋艦や、大戦末期に建造された松型駆逐艦にも搭載され、本土決戦時には水上艦により運用される計画もあった。
しかし殆どが実戦に出る前に沈没或いは終戦を迎えた為、詳しい情報が分かっていなかったが、終戦後に松型駆逐艦『梨』が引き上げられた際に回天搭載用の架台が搭載されていた事が判明している。
また、地上基地より回天を発射する基地回天隊の編制もなされ、第一次の基地回天隊が沖縄に送られたが、到着前に搭乗輸送艦が皮肉にも米潜水艦に撃沈されて、隊員資材もろとも全滅している。本土決戦の為にも多数の基地回天隊が編成され、日本各地に展開していたが実戦に参加することなく終戦を迎えている。
生還を期さない特攻兵器という性質より、人道的に極めて問題が大きい兵器であることや、その挙げた戦果の少なさから現代での回天への評価は厳しいものが多い。
但し一方で、戦争当時は敵の米軍は泊地に神出鬼没に表れる回天にかなりの恐怖感を抱いていた模様で、各泊地はウルシー環礁での回天作戦以降は対潜警戒の強化を余儀なくされていた。
また、日本軍降伏後に武装解除の打ち合わせの為にフィリピンに飛んだ日本軍使節は、マッカーサー元帥の参謀であるサザーランド大将から真っ先に回天の動向を聴かれ、速やかに作戦行動を中止するよう強い申し入れがあったと証言している他、米海軍オルデンドルフ大将は「戦いを継続してゆく上で、回天は最大の脅威になっていた。日本本土を基地とする回天が実際に使用されたなら、連合軍は甚大な損害を受けていた」と高く回天を評価していたと言われ、挙げた戦果以上に米軍に多大な恐怖感や影響を与えていたという評価もある。
艦名 | 年月日 | 戦闘状況 | |
---|---|---|---|
ミシシネワ | 1944年11月20日 | 艦種大型武装油槽艦。初の回天隊となった菊水隊伊47号のウルシー泊地での戦果。一般に回天発案者の内の一人仁科中尉(戦死後少佐に特進)艇の戦果とされている。仁科中尉は出撃の際に、同じ回天発案者の一人で事故死した黒木少佐の遺骨を抱いていた。同艦は撃沈された際は14万バレル(約590万ガロン)の航空燃料と艦船用のディーゼル燃料を満載していたが、その燃料と共に海没。この攻撃により米軍63名戦死(未だに50名の遺体が回収されず)92名戦傷。 | |
LCI600 | 1945年1月12日 | 艦種歩兵揚陸艦。第二次の回天隊金剛隊伊36号のウルシー泊地での戦果。3名の米兵が戦死。 | |
アンダーヒル | 1945年7月24日 | 艦種護衛駆逐艦。第九次の回天隊多聞隊の伊53号のフィリピンエンガノ岬沖での戦果。戦車揚陸艇等からなる船団護衛中に日本軍潜水艦を発見し攻撃するも、伊53号から射出された勝山淳中尉の操縦する回天が命中し真っ二つになって轟沈、ニューカム艦長以下112名の戦死者を出し、生存した122名の大半が負傷。伊53号は生還し終戦まで生存した。アンダーヒルは身をもって護衛船団を守った殊勲艦と賞され、戦死したニューカム艦長にはシルバースター勲章が授与され、戦没艦で唯一アナポリス(米海軍士官学校)内の教会で戦友会の慰霊会開催が許可されている。 |
艦名 | 年月日 | 戦闘状況 | |
---|---|---|---|
ポンタスHロス | 1945年1月9日 | 艦種リバティ船(輸送艦)第二次回天隊金剛隊の伊47号の戦果。船体に命中する命中時点で爆発せず、そのまま船体を滑って船首方面から船体を離れた時点で爆発した為、船体に大きな損傷なく死傷者もなし。命中した際に爆発しなかったのは、搭乗員が安全装置を解除しておらず、命中後に解除した為、船体から離れた後に爆発したと推定されている。爆発していれば沈没ないし大破していたと思われる。 | |
マザマ | 1945年1月12日 | 艦種弾薬輸送艦。第二次の回天隊金剛隊の伊36号のウルシー泊地での戦果。命中ではなく艦体から36mでの距離で至近爆発であったが、それでもその爆発の衝撃で乗組員8名が海に投げ出され死亡、13名が負傷。隔壁が破れ大量の海水が浸入し、また火災も発生したため、搭載していた弾薬を投棄する等のダメージコントロールを行った結果沈没には至らなかったが、至近爆発で修理に5か月を要する大きな被害を被り、回天の破壊力の凄まじさを証明することとなった。 | |
アンタレス | 1945年6月25日 | 艦種大型輸送艦。第八次の回天隊轟隊の伊36号がサイパン島沖で回天と通常魚雷により攻撃。命中はしなかったが回避活動と対潜水艦攻撃の際に合計11名負傷(自艦船体への誤射と砲撃の爆風によるもの)。 | |
エンディミオン | 1945年6月25日 | 艦種上陸用舟艇修理艦。第八次回天隊轟隊の伊36号がサイパン島沖で回天と通常魚雷により攻撃。船底にて魚雷が爆発(回天か通常魚雷か不明)舵を損傷、操舵不能につき修理の為エニウェトク基地に後退。 | |
ロウリー | 1945年7月28日 | 艦種駆逐艦。第九次回天隊多聞隊伊58号が発射した回天をグアムレイテ間で発見し、他艦と共同で砲撃撃沈、その際に小破するも死傷者なし。(損傷の内容不明) | |
RⅤジョンソン | 1945年8月4日 | 艦種護衛駆逐艦。第九次回天隊多聞隊伊53号がレイテから沖縄への船団護衛中の同艦に向け回天を発射。回天は至近で爆発し舵と機関が損傷するも死傷者なし。但し同艦が機関と舵が損傷し航行に支障が出たため、伊53号は同艦の追尾を逃れ生還した。 |
艦名 | 年月日 | 戦闘状況 | |
---|---|---|---|
インディアナポリス | 1945年7月30日 | 艦種重巡洋艦。第九次回天隊多聞隊伊58号の戦果。回天作戦中であったが、橋本艦長が夜半で視界も悪く、回天での命中は困難と判断し通常魚雷で攻撃。6発発射した魚雷の内3発が命中、内1発が弾薬庫の誘爆を誘い轟沈。1199名の乗組員の内即死者300名を除く全員が海に投げ出されたが、同艦が原爆輸送の極秘任務に従事していた事、また沈没地点がグアム(海軍)フィリピン(陸軍)の管轄地域の境にあり救助が遅れ、最長5日間海に漂流することとなった生存者は溺死やサメに襲われるなど多数の死者を出し、最終的な戦死者は883名に上り、1隻の艦の死者としては米海軍最大の死者となった。生存した316名の殆ども負傷。 |
江戸幕府海軍が所有した軍艦。木造外輪船のコルベット。明治維新では旧幕府艦隊(通称:榎本艦隊)の一隻として戊辰戦争を戦った。榎本艦隊においては旗艦『開陽』に次ぐ主力艦で、『蟠竜』『千代田形』らと共に艦隊の中核となる存在であった。『開陽』が江差沖で座礁・沈没した後は旗艦の役目を引き継ぎ、最終的には、箱館湾海戦で激戦の末、失われた。
最も有名な『回天』の活躍は、宮古湾に停泊していた明治新政府艦隊に奇襲をしかけた宮古湾海戦であろう。新政府軍の新型艦『甲鉄』を奪取すべく行われたこの作戦は、最初の奇襲には成功したものの、目的を達成することはできず、『回天』艦長の甲賀源吾が戦死するなどの大きな損害を受けて失敗してしまった。だが、新政府艦隊の一員としてこの海戦に参戦していた東郷平八郎(後に日本海海戦で活躍)は、奇襲の衝撃を「意外こそ起死回生の秘訣」として後年まで忘れなかったという。
現代の宮古市には、東郷が残したこの海戦に関するメモが石碑となっており、観光地になっている。石碑の中で東郷は、危険な作戦を勇敢に戦った甲賀源吾についても、勇士であった、と高く評価している。
掲示板
394 ななしのよっしん
2022/08/15(月) 02:40:56 ID: 4d2O6eieYU
通常の攻撃をすればいいのにとか言われるが、それがすでに自殺行為だったのを無視する奴が多すぎなんだよな
帝国海軍は物量の差で負けたとか信じてる奴
命中率90%超の爆撃機やら高度10メートル以下を安定飛行できる攻撃機やらの搭乗員はすぐ死んだわけで
どうせ一回で死ぬ使い捨てならせいぜいラッキーヒットした時の威力を求めたろってのは合理的と言える
まあ狂ってるけどな
降伏しろよ
395 ななしのよっしん
2023/09/24(日) 23:38:57 ID: 73ikBcho29
「乗員を乗せた後入り口をねじ止めした」って体験談(おそらく訓練時のこと)を読んだけど、さすがに年月の経過による記憶の混濁だよね?それか潜水艦のハッチについてるハンドルを回して閉めたってことだよね?
396 ななしのよっしん
2024/01/31(水) 16:21:08 ID: MA2UuF8dNf
呉の大和ミュージアムで乗組員の肉声を聞いて、こんなに素晴らしい20歳の若者が、彼をこんなクソみたいな兵器に乗せて自爆攻撃させたカス共と同じ英霊として祀られているってのはあまりに彼に失礼すぎると思ったのが反靖国合祀派への入口だったなぁ。
急上昇ワード改
最終更新:2024/11/05(火) 17:00
最終更新:2024/11/05(火) 17:00
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