囲碁は日本の伝統文化として長い歴史の中で大いに発展し、日本人の国民的ゲームとして愛されてきた。囲碁はルール自体はシンプルなため、長い歴史を経ても基本となる部分は変わらずに、今日まで世界の多くの人に愛好されてきた。
既に紀元前の春秋時代の古典で囲碁が登場し、孔子も囲碁について言及している。
囲碁は歴代の王朝にも保護され、また「琴棋書画」(棋は囲碁のこと)の言葉が示すように上流階級の教養のひとつとされ、広く愛好された。
三国志演義には、戦いで怪我をした関羽が、麻酔がわりに馬良と囲碁をしながら華陀という医者の手術を受けたという話がある。囲碁は手術の痛みを忘れるほど楽しいのである。
また、同じ三国志の時代(西暦200年頃)に孫策対呂範とされる世界最古の棋譜が残されているが、これは後の創作だという説もある。
西暦600年代の唐代には詩人および当時の名手の王積薪により囲碁十訣が作られ、現在でも囲碁の教訓とされている。
西暦1200年代の南宋代には玄玄碁経という棋書として完成度の高いものがすでに作られており、勢の部(詰碁・手筋問題)は現在でも囲碁の勉強に使われている。
日本において、囲碁は日本の国技と呼ばれるほどに大発展を遂げ、その歴史は、多くの天才的棋士達と無数の碁好きの人々によって彩られてきた。
日本への伝来時期については諸説あるが、7世紀の隋書・倭国伝には早くも日本人は囲碁を好むという記載がある。
古今和歌集、源氏物語、枕草子、徒然草等多くの古典にも囲碁が登場するなど、古くから上流階級の間で大いに好まれた。(ヒカルの碁の藤原佐為も平安時代の天皇の囲碁指南役の設定である。)
中世以降、庶民にも普及するようになる。
室町時代後期には、もともと双方とも所定の置石をしてから打ち始めていたのが(事前置碁)、自由布石で打たれるようになった。自由布石は今日では世界のスタンダードとなっている。
武田信玄を始めとする多くの戦国武将も碁を好んだ。信長、秀吉、家康もかなりの打ち手であったと伝えられているが、特に家康の碁好きが有名である。本因坊算砂は碁打ちとして彼ら3人に仕えて活躍し、江戸時代における囲碁・将棋の家元制度の基礎を作った。
江戸時代には、碁の家元と呼ばれる本因坊家・井上家・安井家・林家の四家が幕府から俸禄を受け、弟子を取って棋士を育てて切磋琢磨していた。年に1回、将軍の御前で対局する御城碁が行われていた。幕府の役職として全国の囲碁棋士を統括する名人碁所(ごどころ)が置かれ、その座を巡って競い合った。豪商などの保護も受けて多くの棋士達が活躍した。
史上最強の棋士として、しばしば江戸時代の本因坊道策や本因坊秀策の名が挙げられることがある。
本因坊道策は、その圧倒的な実力だけでなく、手割理論の開発や段級位制の制定でも知られる。道策が定めた段級位制は、将棋や柔道など様々な分野にも広まって、全世界で使われている。
本因坊秀策は、御城碁19勝無敗の大記録を打ち立てた棋士で、特にファンが多い。(ヒカルの碁では佐為がとり付いた史上最強の棋士として登場。)
他にも本因坊丈和、井上幻庵因碩、本因坊秀和などが有名であり、彼らの名記譜は古碁として現代でもよく鑑賞される。
囲碁は一般でも広く愛好された。坂本龍馬も碁を楽しみ、龍馬が打ったとされる碁盤が現存している。大久保利通も碁好きであったが、薩摩藩の最高権力者島津久光が碁好きであったので、久光の対局相手であった人物と囲碁友達になることで久光に接近することができた。
歌舞伎や浮世絵の題材としてしばしば登場するほか、古典落語の演題でも、碁に夢中になる人を題材とした笠碁(かさご)や碁泥(ごどろ)があるなど、庶民文化の中にも広く浸透した。
このようにして、戦国時代から江戸時代に囲碁のレベルは飛躍し、黄金時代を迎えたのである。
新聞に囲碁欄が登場するようになり、多くの読者が棋士たちの対局を楽しんだ。1879年に本因坊秀甫らによって「方円社」が設立されるなど複数の囲碁団体ができ、大久保利通、井上馨、犬養毅、岩崎弥太郎、渋沢栄一など、政財界の要人達が支援した。伊藤博文、大熊重信、岩倉具視など、碁好きの大物は多かった。
明治・大正期は方円社などの団体が分立してきた状況であったが、関東大震災を機に、東西の棋士が集まって日本棋院が設立される。二十一世本因坊秀哉(しゅうさい)・呉清源・木谷實などが活躍した。
日本棋院の発足直後に雁金準一(かりがね)らが「棋正社」を結成して離脱、本因坊秀哉が代表する日本棋院との間で「院社対抗戦」が行われた。これを読売新聞が掲載して大変な人気を博し、発行部数を一挙に3倍に伸ばして一流紙の仲間入りを果たした。(初戦の秀哉vs雁金の対局譜は、ヒカルの碁のヒカルvs加賀の対局で使用された)
初タイトル本因坊戦が開幕。初代保持者は関山利一。橋本宇太郎・岩本薫・高川格・坂田栄男などがタイトルを獲得する。
1969年に木下門下の大竹英雄が十段を獲得して以来、木下門下の石田芳夫・加藤正夫・趙治勲・武宮正樹・小林光一・小林覚が囲碁界を席捲。また木谷門下以外では藤沢秀行・林海峰などが活躍した。
この時代から木谷實門下の趙治勲・小林光一が3大タイトルを独占し始める。趙治勲が本因坊位10連覇、小林光一が棋聖位8連覇・名人位6連覇を達成。また挑戦者としても2人は激突した。
この頃から王立誠・依田紀基・王銘エン・柳時熏などがタイトルを取り始める。これは木谷實門下時代から平成四天王への転換期となった。
国内棋戦では、山下敬吾・張栩・高尾紳路・羽根直樹の平成四天王が君臨。現在までタイトル獲得数が50を突破する。中でも2008年の平成四天王七大タイトル独占、09年の張栩の五冠王達成が特筆される。
2009年に井山裕太が名人位を獲って以降次々とタイトルを取り続け、2013年六冠、2016年には七冠を達成した。
囲碁は戦国時代以降日本で大きな発展を遂げたため、かつては中国、韓国とは圧倒的な実力差があった。プロ棋士制度の整備も遅れ、呉清源(中国出身)、趙治勲(韓国出身)らが代表するように、囲碁を志す者は日本にやってきてプロを目指した。
しかし、趙南哲(趙治勲の叔父)が日本でプロ棋士となり、韓国に戻って戦後韓国棋院の設立に尽力したように、日本の影響で韓国、中国でも次第に囲碁が盛んになった。近年では子供向け囲碁教室が各地で盛況になるまでとなり、数多くの棋士が育ったことで、まずは韓国、続いて中国でレベルが驚異的に向上した。韓国からは李昌鎬(イ・チャンホ)や李世ドル(イ・セドル)、朴廷桓(パク・ジョンファン)、中国からは常昊(じょうこう)や古力、時越、他、多数の棋士が活躍。若手が続々と育ち、中国の柯潔(かけつ)が10代にして世界ランキング1位となるなど、世代交代がめまぐるしい。
一方で日本は囲碁人口の大幅な減少・高齢化に悩まされ、若手棋士も実力を上げてはいるものの、現在は棋士の実力、囲碁の人気ともに中国、韓国に追い越されている状況である。
台湾でもプロ棋士制度は創設されているが、林海峰、王立誠、王銘エン、張栩、余正麒など、台湾から日本に来てプロとなり日本囲碁界の歴史を彩ってきた棋士が多数いる。
西洋には明治時代になって日本から紹介され、以降世界中に広まっている。英語でも囲碁用語は日本語が用いられる(go、joseki、ko、danその他諸々)。
著名な愛好家としては、アインシュタイン、ビルゲイツなどが知られる。1996年にはアメリカの宇宙飛行士ダニエル・バリーと日本の若田光一による宇宙での対局(棋譜の再現)が実現した。2012年にはアメリカ囲碁協会がプロ制度を創設し、14年にヨーロッパ囲碁連盟が続いた。欧米では理工系の専門家に囲碁愛好家が多いと言われる。
東南アジアでも人気が高まっており、特にタイでは若者を中心に普及が進んでいる。2015年にはタイで世界アマチュア選手権が開催されたが、日本、中国、韓国以外の国では初めての開催であった。
人工知能研究の分野ではコンピュータが人間に勝てない最後のボードゲームとして囲碁が注目され、Google、Facebookや日本を始めとする各国の大学などが研究を行ってきた。2016年には、Googleの開発したアルファ碁が、アマ6段程度であったコンピュータ囲碁の棋力に革命的なブレークスルーをもたらし、イ・セドルとの番勝負を行って勝利、世界を驚かせた。
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最終更新:2023/06/03(土) 01:00
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