坂井三郎 単語

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坂井三郎(1916年大正5年8月26日 - 2000年平成12年9月22日)とは、元日帝国海軍戦闘機搭乗員である。
大戦中のエースパイロットとして、また戦後においても積極的な著作、活動などにより著名なパイロットの一人ともいえるだろう。

概要

戦闘機搭乗員(パイロット)へ

故郷で飛行艇の旋回を見て、飛行機に対しての憧れを持ち「海軍少年航空兵」募集のポスターを見て受験。二回受験したが不合格だった。それでも、飛行機のある海軍なら近くで触れるだろうと海軍に志願。周囲は反対したが1933年昭和8年5月に四等兵として佐世保兵団に入団した。

最初の所属は戦艦霧島」に配属。15サンチ副手になる。1935年昭和10年)に海軍砲術学校に入校。翌年には次席で卒業1936年昭和11年5月には戦艦榛名」に配属。大鑑巨全盛期の時代、形の二番手に命じられるものの、「榛名」での演習艦載機の射出を見て、改めて操縦練習生をすことを決意する。そのことを上官に打ち明けた途端、手の任から弾薬員へ回される、あるいは上官からのほとんど言いがかりに等しい体罰などに苦労したものの事、最後のチャンス(年齢制限)をモノにして、操縦練習生になる。

1937年昭和12年3月霞ヶ浦航空隊に入隊。4月には初飛行。練習生の中では上手い方ではなく単独飛行も卒業間近になってからだった。卒業後の延長教育での射撃訓練も芳しくなかった。
それでも努力を重ねた結果、席で卒業卒業式では恩賜の銀時計を拝受した。晴れて搭乗員となった。

1938年昭和13年5月三等航空兵曹に進級。高雄航空隊付。

初出撃〜負傷まで

時は支那事変中であり、若き坂井三郎は中国大陸に展開する第十二航空隊に配属。ここで歴戦の搭乗員達からの教育を受けつつ、経験を積む。

1938年昭和13年10月襲で初出撃。またこの日には革命軍の戦闘機I-16を初撃墜。1939年昭和14)5月に二等航空兵曹に進級。各地を転戦しながら実績を重ねる。

1940年昭和15年)には内地へ帰還。横須賀航空隊で当時の最新鋭である三菱零式艦上戦闘機を見ることになった。同年10月には高雄海軍航空隊に所属する。名古屋から台湾高雄基地まで零戦輸する任務に就く。1941年昭和16年)に再び第十二航空隊に所属、大陸へ再進出する。6月一等航空兵曹に進級。後の回想録では支那事変での実戦は数える位しかやらないと回想している。

1941年昭和16年10月台湾に新設された台南航空隊に配属。台南航空隊で坂井は下士官搭乗員をまとめ、士官搭乗員を補佐する立場である先任搭乗員となる。

彼が操縦する機体はどれだけ不調の機体であってもく間に低燃費航行をしてみせるなど当時から技量に対する評価は高く、先任搭乗員となったことで多くの下士官搭乗員、上官たる士官搭乗員らの教育を担当した。その中には、以後彼の上官となり戦うことになる井醇一中尉の姿もあった。

1941年昭和16年12月の開戦、彼の所属する台南航空隊はフィリピンクラーク基地に襲するべく出撃待機していたが濃いの為出撃が遅れしまうものの、これが幸いし燃料補給の為地上に待機中の敵戦闘機を強襲、アメリカ極東空軍の戦力を半減させた。坂井P-40ウォーホークを1機大破させている。その後もフィリピンの制権奪取の為出撃を重ねる。この時にの要塞B-17爆撃機と交戦している。

1942年昭和17年1月半ばにはオランダ領東インドに進出する。東南アジアを転々としつつ、戦果を重ね、セレベスジャワ島で熾戦を繰り広げることなる。

同年4月運命ニューブリテンラバウルへ進出。翌日ニューギニア・ラエに進出。ラエは当時の最前線基地だった。この基地から連合軍基地ポートモレスビー基地に近くここから同基地を攻撃した。

同年8月ガダルカナル島での最初の襲に参加中、列機がF4Fワイルドキャット1機に追われているのを発見。射撃で牽制しつつ得意の格闘戦に引きずり込む。撃墜後、行きがけの駄賃と編隊飛行をしているSBDドーントレス(艦上爆撃機)をF4Fの編隊と誤認して後ろから接近し、SBDの後部旋回連装機の集中火を浴び、その一発が頭に命中した。右側頭部を挫傷し、左腕は麻痺、計器も満足に見えないという重症を負った。被弾時のショックで意識を失ったが、面に向かって急降下していた機体を半分意識で飛行に回復させた。一時は帰還は理だと考え敵艦への体当たりを考えたが、敵艦を見つけられなかったので帰還を決意。出血多量による意識喪失を繰り返しながら、4時間に渡る操縦を続け、ラバウルに帰還した。

帰還後、高度な治療が出来ないラバウルから内地に帰することになる。

中尉から虎が描かれているベルトバックルを受け取る。中尉から「貴様と別れるのは、貴様よりつらいぞ。」と言われる。その後中尉ガダルカナル島戦で戦死するが、仲の良かった坂井には半年の間がっかりするだろうとの配慮から知らされずにいた。知らされた時は地団太を踏みながら悔しがった。

横須賀海軍病院で治療を受ける。1942年昭和17年)飛行兵曹長に進級。翌年には大村航空隊で訓練教官に異動、配属する。

復活〜終戦まで

負傷のため右の視力を失い、左の視力もかなり落ちてしまう。戦前、「間でもが見える」(視力2.5を誇っていた)と語していた往時の視力を失い、教官の任についていたが時勢は彼を教官の任につくことを許さなかった。

1944年昭和19年4月横須賀航空隊に配属。硫黄島へと進出することになる。
のみの視力で戦闘参加することになるが、やはり片のみでは戦闘機搭乗に理があったようで、ここで彼はF6Fヘルキャットの編隊15機に包囲される。
 しかし、それまでの経験と力により身につけた高度な戦技は彼を最後まで救い、15対1でみごと攻勢に転じて、一発も被弾することなく事切り抜けることに成功した(しかし敵機は15機ではなく4機だったという言がある)。
だが、この戦闘で僚機の柏木一飛曹と野口飛長を失ってしまう。
その後、海軍初の特攻により艦隊特攻任務(公式記録なし)に就くものの、途中でアメリカ軍機の襲撃にあい編隊の多くを失う。列機の搭乗員の命などを鑑みて、難しい状況の中、事に基地へと帰還することが出来た。その後、本土へ帰還する。同年8月海軍(特務士官たる)少尉に進級する。

12月には最新鋭機紫電改を装備した第三四三海軍航空隊へ配属。紫電改の操縦導に当たる。自身の経験に基ずく訓練を行うが若い搭乗員から不評を受ける。開戦初期に活躍した坂井と、態勢を立て直し本格的な反攻を行った連合軍を相手に戦った若い搭乗員達との隔たりも大きかった。たびたび鉄拳制裁を行ったことも大きな溝を作った。特に撃墜王杉田少尉との仲は最悪だった。事態を重く見た飛行長志賀淑雄少佐横須賀航空隊に武藤金義少尉との交換を申し込む。しかし横須賀航空隊は片が見えない坂井との交換は割に合わないと断るものの最終的には搭乗員を1人付けて2対1での交換が成立する。再び横須賀航空隊へ転出。交換で推薦した盟友でもある武藤金義少尉が第三四三海軍航空隊へと配属されるが、武藤少尉はその後の戦で命を落とす。まるで身代わりのようだと坂井がその後生涯にわたって悔やんでいたという。


1945年昭和20年8月15日ポツダム宣言受諾。その後17日に偵察の為日本本土に飛来したB-32ドミネーター爆撃機2機を迎撃の為出撃。零戦52に搭乗する。これが日本海軍最後の戦だった。        B-32ドミネーター2機に損傷与え1名戦死させる。その後B-32は沖縄に帰投した。

9月にポツダム進級により海軍(特務士官たる)中尉に進級する。

「大空のサムライ」へ

戦後は、印刷会社を経営するなどの傍ら、有名な著作「大空のサムライ」を記述した。この本は各で訳され、ベストセラーとなる。第二次世界大戦中、日本軍パイロットの姿が見えない中、氏の手による(後述)若き戦闘機パイロットたちの群像と生き様は共感を呼び、日本国内だけでなく海外戦闘機パイロットすものたちにとっても良く読まれていたという。特に敗戦により自信をくした日本人には大変好意的に受け止められた。
この本については氏の口述などを取りまとめられているため、若干事実誤認、誇、記述者による脚色などが摘されている。
よく語られる台南エースパイロット三人による「敵基地上3回連続編隊宙返り」のエピソードについては相手側からの言など確を得られるものが乏しいものもあることを付しておこう。
(こういう話は各戦闘機パイロットの自伝では多いもので、これ一点のみをして氏の著作の信憑性を疑うなどの摘は論外である)
特に現在読まれている「大空のサムライ」はアメリカで出版された「SAMURAI!」の逆輸入版であるのだが、この作品はアメリカ向けにエンターテイメント性を重視したため、坂井の戦果や行動などかなりの部分に脚色を入れているのである。
有名な「撃墜数64機」というも、アメリカライター宮本武蔵真剣勝負数に引っ掛けて考えた脚色である。(坂井公式撃墜数は28であり、戦課誤認や見落としの可性もあるためこれも正確ではない。後年の取材で坂井本人も自身の撃墜数は把握できていないと言している)

また、戦後は積極的にアメリカ軍パイロットたちとも交流を持ち多くの大戦に参加した日本軍パイロットたちとアメリカ軍パイロットたちの仲をつないだだけでなく、多くの著作、雑誌のインタビューTVなどにも出演して様々なエピソードを残すことになった。
もっとも本人は海軍上層部に対する批判を口にしており元海軍高級士官達からのウケはあまりよくなかった。しかしそれは、海軍時代に尊敬していた上官達を批判された為仲間であるはずの下士官兵達が反坂井に回ってしまうこともあった。

一時期、発起人が元部下であったことなどから、日本初のネズミ講団体と言われた宗教団体「一家の会」の広告となっていた。
一家の会の広報の一環として先述の「大空のサムライ」の映画化を行ったことや、本人もかつての戦友をネズミ講に誘うなどしたことなどから、ネズミ講によるイメージ低下を嫌った他の零戦搭乗員の思惑もあり、この一件以降零戦搭乗員の戦友会から距離を置かれることとなった。
本人は発起人となった元部下の思想に感銘を受け、全くの善意で参加・活動していたと述べている。

航空自衛隊戦闘機パイロットたちには、圧倒的不利な迎撃専門の任務につかざるをえない立場である以上よく訓練するようにと言ったとかいわないとか。彼が雑誌の企画航空自衛隊の基地に訪れたときは、彼の孫、ひ孫のような若き戦闘機パイロットたちがならんでサインを欲しがるのを叱責した団が実は…といって色を取り出したとかいう逸話があるとかないとか。

一方で航空自衛隊幹部達からの評判は芳しくない。「自己宣伝が過ぎる」との批判が相次いだ。坂井より熟練の搭乗員が大勢居るのにもかかわらず坂井だけ有名なのかと疑問が上がった。また大日本帝国海軍にはエースパイロットは存在しないというのが公式的な見解だった。エースパイロットと言う個人の戦果で決まる称号チームワークを推奨する航空自衛隊には受け入れられなかった。

2000年平成12年9月22日在日米軍厚木基地の夕食会出席後体調不良を訴え入院。そのまま死去した。最後の言葉は、主治医に遠慮、あるいは配慮したのか「もう眠っても良いか」と尋ねたのだという。
その死は海外にも伝えられ、報道されることになる。享年84歳。

坂井葬儀の近くで約30人が集まる元零戦搭乗員の会合があったのにもかかわらず、葬儀に出席した元海軍関係者は4人だけだった。

坂井三郎氏の空戦技術とは?

基本的に格闘戦が得意とされていた零戦に搭乗していたものの、氏本人は格闘戦(戦)では撃墜は難しいと考え、敵機をいちく発見し、視覚外(後方下方)などから接近した一撃離脱をよくとっていた模様。
これは第二次世界大戦における日本海軍エースパイロットたちに共通する戦法と言えるかもしれない。

ただ、氏が活躍していたのは大戦初期、日本帝国海軍航空隊にとって熾航空戦となったガダルカナル航空戦初頭で負傷して長らく戦場から離れていたため、「大空のサムライ」やその他の著書で描かれている戦闘機パイロットや戦術がその後どう変化していったのかは、他の大戦経験者の著述を読むのが良いだろう。

彼は誇や問題行動が多く、良人物ではなかったのかもしれない。
しかし大戦を戦い、戦果を上げ、何より生き延びたという点は決して揺るがぬものであろう。

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