坂本龍馬単語

サカモトリョウマ

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何?坂本龍馬のことが聞きたい?

ずつと昔ブン屋に話したやうな事の繰り返しになるかも知れんが、よいかノー

槪要

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坂本龍馬は保六年(1835年)十一月十五日に生まれた。諱を直陰(なおかげ)、後に直柔(なおなり)とえておる。

の生坂本。才谷屋と言ふ商から分して、わざわざ薄給の士身分になつたはり者の一族だ。

長男とは年が二十一も離れており、このとの千鶴乙女といふ三人のがおつた。

十二の頃母親の幸が亡くなり、その後はの後妻であるに育てられた。

幼少期は何やら冱えない感じで、尿のある洟垂れ小僧だつたらしく、この繼三女乙女には特にしく躾けられた。

乙女は身の丈5尺8寸(176cm)、重30貫(113kg)といふ堂々たる格で、「坂本のお仁王」と呼ばれる女傑だつた。

が亡くなる前後に、一度下町の塾に入門したが、上士の子と喧嘩したのが原因でやめてしまつたため、それ以後は乙女から問や術を習つた。

嘉永元年(1848年)、十四の頃に近所の小栗日根野場に通い始めてからは、人がはつたかの如く稽古にみ、周りの者たちの見るはつていつた。

場へは心機一おねしょうも、泣きも一ぺんに飛んでしもうた。
はまっ先に、夕べは最後まで、飯を食わんでもの稽古一筋。愉快でたまらん、おもしろうてたまらん。
そんな氣持ちでなんぼでもやる。
坂本もうよかろう』というと『先生もう一本、もう一本』といくらでもうってかかる」
(詰延『坂本龍馬の師匠』)

嘉永六年(1853年)、十九の時に日根野場にて「小栗流和兵法事」を授けられると、更なる修行めて江へ行く事になつた。

さて、嘉永六年といふと何の年か分かるかね?まあそのは追々、といつてもすぐ話す事になるだらうヨ。

注 誕生日11月15日と斷定しているが確定ではないことに注意。

黑船來航

日根野場でを得た後、は土佐から十五ヶ修行を認められて、修行の爲江に赴いた。著いたのは四月もしくは五月と言はれておる。

では北流の千葉場に通つていたが、六月利加の艦隊が江にやつて世情々しくなつてきた。この時は土佐の警備隊として出動していて、が去つた後、九月十三日付で手紙を書いている。

一筆啓上仕り
氣次第に相々御機嫌(よく)御座成らせらる可く、出度千存じ奉り
次に私儀異に相暮申し 御休心成下らる可く
御許にアメリカ沙汰申し上げに付、御覽成らせらる可く
先ずは急用御座候に付、書御推覽成らせらる可く
御手宛の儀は先ず免ぜられが、は又人に加わり申す可く在じ奉り

  恐惶謹言
  
 九月廿三日

 尊
下せられ、有難き次第に在じ奉り
金子御送り仰せ付けられ、何よりの品に御座候
々にへば、軍も近き内と在じ奉り
其節は異の首を打取り、仕る可く かしく
(『嘉永六年九月十三坂本直足宛 坂本龍馬書』)

「異人の首を打ち取る」など隨分勇ましい事を書いておるノー。後年のからは一寸想像が付かないが、あのご時世ぢやこのぐらいの氣槪はあつて然るべきだらうヨ。際にやるかだうかは別だがノー

この後十二月に西洋砲術ぶ爲、佐久山の塾に入門しておる。この佐久と言ふのは奇妙なつきをしたちよこちよこした男でノー識に任せて相手を脅しつけるやうなところがあるから、もこの男に習ひ事をするのは苦したんぢやないかネ。

高知にて

嘉永七年(1854年)六月は一旦修行を終えて土佐に戾つた。戾るとすぐに高知下有の知識人と評判だつた河田と言ふはり者と面し、時勢をり合つている。好奇心が强かつたのだらう。

「時態の事にて君の意見必ずあるべし、聞きたし」

が問ふと河田

「如何ともして、一艘の外を買いめ、同志の者を募り之に附せしめ、東西往客官私の荷物等を運搬し、以って通便を要するを商用として中の入費を賄い、上に練習すれば、航の一端も心得べき小口も立べきや」

と答えた。この答えには手を打つて喜び、の購入を、河田は有志となる人材の確保をお互いに約束した。河田子である近藤長次長岡謙吉新宮馬之助など、後に援隊の同志となる人材がの下に集まつていく事になる。

しかし、この時分から既に蒸氣を利用した貿易をす志を持つていたなら、やはり夫ではあるマイよ。

再び江戶へ

安政三年(1856年)七月、二十二になつたは再び江に向かい、以前通つていた千葉場で再度修行んでいる。安政五年(1858年)の正月には『北流長兵法』を授かつた。技もなかなかのものだつたやうだ。

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千葉周作、定吉、重太に混じつて女性名前のあるのが分かるだらう。これはたつての願いといふ事で師である定吉が書き加えたものだ。定吉も滿更でもなかつたやうで、名前の載つている佐那の證言によると、自分との緣組のため手紙を書いたりしていたさうだ。

…何?が授かつたのはではなく薙刀ではないか?

確かにその通り。だが、前述の佐那の證言として「さんを塾頭に任じ、北を授けました」といふのもあるからノーに現存していないだけ、といふことも有り得る。マアそんな詮索は福澤みたいな者に任せておけばイイサ。

安政五年(1858年)九月してからしばらくのはこれといつて立つ活動はない。土佐過激派に呼び出されてしたことくらいしか記つていないやうだ。

の活動についての記が再び確認できるのは文久元年(1861年)、土佐勤王の結成まで待つ必要がある。

注 平成27年(2015年)、薙刀以外に『北流兵法皆』を取得していたことを示す文書が見つかったと報道された。リンクexit照。

土佐勤王黨

この一年前、ち安政七年(1860年)の三月三日、江で大事が起きた。いはゆる櫻田門外のだ。井掃部守が登中に薩摩の浪士に暗殺され然、各地の血氣盛んな浪士達も觸されて鬨のを上げ始めた。

おれはこの頃利加に渡つていたんだが、して賀に上陸した途端いきなり幕吏が現れて「の者はいるか」などと聞くから「利加には人は一人も居ないから直ぐれ」と冷やかしてやつたよ。しかし、櫻田について聞いた時分には幕府はとても駄だと思つたサ。

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武市半平太

さてだが、この年土佐ではその後の政局にはる出事が起こつている。土佐勤王足だ。首領は武市瑞山、通武市半平太といふ男だ。この者は江場で術師範を勤めたほどの達人で、土佐でも場を宰しており、土佐士達から多いに人望を集めていた。また友人でもありお互いに「武市アゴ」「のアザ」と呼び合うくらい仲がよかつたといふことだ。

その武市士達を糺合して文久元年(1861年)の八月に結成したのが土佐勤王だ。勢190名以上が血判し、土佐内の一大勢を形成した。はこの血盟書の九番に署名している。

勤王に加盟した十月十一日に讃岐の丸修行に出向いている。土佐士・樋口吉の日記『遣倦』にある「坂飛騰」といふやつだ。その後、長州久坂玄瑞と面するため萩に向かつた。讃岐に赴いたのは表向きの理由は修行だつたが、的は各地の情勢視察と武市の書を久坂に屆けることだつたやうだ。萩に著いたのが翌年の正月十四日と久坂の日記『江』にある。

度、坂本君御出浮在らせられく御談合仕り頃、委曲御聞取り願い奉り。竟に諸恃むに足らず、卿恃むに足らず、莽志士糺合義の外には迚も策之き事と私共同志中申し合い居り事に御座候。失敬乍ら、尊も弊も滅亡しても大義なれば苦しからず」

(久坂玄瑞『江』)

越な尊攘論者で知られる久坂と話し合い、何か思ふところがあつたのかも知らん。この後は土佐に戾り脫することになる。

脫藩

文久二年(1862年)二月末、高知還した。その頃地元では武市政・吉田東洋して盛んに勤王論を建していたが、吉田は書生論として取り合はなかつた。そこで吉田を暗殺しやうといふ動きが勤王で持ち上がつてきた。そして三月廿四日、は土佐を離れ、脫浪人と相成つた。

何故が脫といふ思い切つた行動に出たのかについては諸あるが、おれは勤王の過な路線に違和感を感じたんぢやないかと思ふヨ。古今暗殺で大業を成す者はおらんからネー。

因みにこの時の有名な逸話で、が猛反してを隱し、次女のおを授けたといふのがある。だがお化年(1844年から1847 年)、つまり脫の十五年以上も前に亡くなつていることが分かつている。おそらく後世に誤つた承がえられたのだらう。

話を戾す。その後の路だが先に脫していた澤村惣之といふ男がを迎えに内海を渡り、廿九日に下に到著。商・白石正一の屋敷に泊まつてから九州に向かい、薩摩に入ろうとしたが入できなかつたため、斷念して大坂に向つたとはる。「はる」といふのは、この時期のの足取りには確かな證がなく、聞に基づくらざるをえないのだ。

の動が確認されるのは七月樋口吉の日記に「つて一を贈つた」とある記述がそうだ。

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松平春嶽

樋口はこの時分大坂に居たから大坂に居たのだらう。

いて九月、土佐士の崎滄浪が江滯在中に書いた書の中に登場する。七月から九月までのに江に移動していたやうだ。この後また京都と江を行きしている。

十一月、今度は久坂玄瑞日記に現れる。日付は十一月十二日で、久坂の他高杉作と武市瑞山居合はせてんだとある。中々愉快な面子ぢやないか。

十二月五日、今度は大膽にも越前松平春嶽の元を訪れている。これには崎滄浪と近藤長次も同行していたやうだ。この時大坂防策について意見を述べた後、おれへの紹介を書いてくれとんだ。そして十二月廿九日、文久二年の大晦日はおれの元を訪れたワケだ。

注 坂本龍馬脫の理由をっているが、これはあくまでもの1つと見た方がいい。

勝麟太郞

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勝海舟

この時千葉場の若先生こと千葉重太を伴つてやつてた。らはおれをりにたんだが、おれは笑つて受けながら鎖の非と開の是なる事、海軍の必要性と詳細な海軍創設計を聞かせてせた。するとは、もしおれのいかんによつてはおれを刺そうと思つたが、そのを聞いて自らの固陋を恥じ、これよりおれの門下生になりたいと言つたのサ。

…何やら不さうだが。何か聞きたいことでもあるかエ?

…ヘー。には初めから殺意などく、おれに子入りするために面しにた、と言ふがあるのか。更に初面は廿九日ではなく九日だつたのではないか、と。

なるほど確かに文久二年十二月のおれの日記にはかうある。

、有志三輩訪、形勢の議論有り」(十二月九日)

(勝海舟日記』)

この有志三輩の内の一人がではないかと言ふことか。さう言えば廿九日につた場所は兵庫だつたかも知れんノー。忘れてしまつたワイ碌しとるからノー。往時茫々のごとくだ。

だが確かに憶えている事はある。あいつは落ち著いて、何となく冒しがたい威があつて、よい男だつたよ。

勝に弟子入り

さてもさても、人の一世はがてんの行かぬは元よりのこと、運のいものは風呂より出でんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。それとべては私などは運が强く、なにほど死ぬる場へ出ても死なれず、自分で死のうと思うてもまた生きねばならんことになり、今にては日本第一の人物勝憐太殿という人の子になり、日々思いつくところを精といたしおり。其故に私四十になる頃まではウチにはらんように致し申つもりにて、兄さんにも相談致し所、この頃は大いにご機嫌よろしくなり、そのお許しがいでのため下のためを盡くしおりもうし。どうぞおんよろこびねがいあげ、かしこ

三月廿

御つきあいの人にも極御心安き人には内々見せ かしこ

(『文久三年三月廿日 坂本乙女宛 坂本龍馬書』)

おれのところにてから四ヶほど後に乙女宛てに書いた手紙だ。に生き生きしてし氣だ。「日本第一の人物」だつてサ、アハゝゝ。

話は少し遡る。おれの門人になつた大坂に向かつた。この時分おれは海軍奉行として幕府のみならず諸有志も含めた一大共有の局をす事に苦心していて、その爲の根しをしていた。もその活動に付き合はせたのサ。

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山内容堂

文久三年(1863年)一月大阪兵庫に居たおれのところにやつては、土佐同志を何人かおれの門人として入門させた。の甥である高松菅野覺兵、この時分は千屋寅之助と名つていたつけ。それに望月彌太。この三人はみな土佐勤王加者で、土佐から海軍修行を命じられていたこともあつて、おれの元で修行することになつた。

府する時はもおれと一緖に幕府の軍艦順動丸に同した。その途、下田に入港した際、土佐山内容堂が停泊していた。ちやうど良い機だつたので、容堂つてら脫者の赦免を願うことにした。容堂宕、襟落、英雄の資質を備えたお方で、や書にも通曉しておられた。おれが直談判して、容堂が赦免の證として瓢箪のを描き「侯」と記した扇を頂いたのがこの時だ。

に戾ると昭德路で京都に向かう計が持ち上がつていて、一月廿三日にが順丸で出帆、もこれに同行した。

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大久保一翁

大阪に著いた二月廿二日に京都の土佐邸に出向いて三日後の廿五日に脫の罪を正式に免じられた。三月六日には土佐から航術の修行が命じられている。そんな中書いたのが先の手紙だ。

は再度江に戾り、澤村惣之人を引き連れて四月の初め頃に大久保一翁と面している。

この面で一翁は澤村を「大解すべき人」と判斷して「素意の趣」をつたところ、人は手を打つばかりに解した、と井小宛の手紙に書いている。

「素意の趣」とは恐らく時一翁が唱えていた政返上論だらう。朝廷の攘夷督促を拒否出なければ政を返上して德東海地方の一大名になるべきであるといふ後の大政奉還に連なる考えだ。この時のは後のの活動において大きな意味を持つので覺えておくとヨイ。

勝塾にて

四月廿三日、この日はおれにとつて忘れ難い日だ。大阪の視察にやつてた昭德しておれが海軍操練所の創設を直接申し上げた。この時の軍は昭德、つまり第十四代軍・德だが、この方はまだ若年ではあつたがなかなか明なお方で、決でご快諾頂いたのだ。それまでの苦が一に吹き飛ぶほど嬉しかつたヨ。

操練所開設前のお立てとして海軍塾を開くことにしたのだが、塾を開くのには何かと入用だつた。そこでに資援助を受けるため、越前に向かはせた。五月十六日のことだ。

頃は二の軍者勝といふ大先生門人になり、ことの外ほかかはいがられて、先ず客分のよふなものになり申

ちかきうちには大阪より十里あまりの地にて兵庫といふ所にて、おおきに海軍所をこしらへ、又四十五十もある舟をこしらへ、子どもにも四五人も諸方よりあつまり事、私初高松)なども其海軍所に稽古問いたし、時々の稽古もいたし、稽古の蒸氣をもって近々のうち土佐の方へもり申。その節御にかかり可申

私の存じ付けは、このせつ兄上坂本)にもおおきに御同意なされ、それわおもしろい、やれやれと御申しの都合にてあいだ、いぜんも申通り、軍さ(いくさ)でもはじまり時はそれまでの命。

ことし命あれば私四十になりを、むかしいいし事を御引合なされたまへ。

すこしヱヘンかおしてひそかにおり申。達人の見るまなこはおそろしきものとや、つれづれ(徒然)にもこれあり。猶ヱヘンヱヘン。 かしこ

五月十七日 

乙女御本

右の事は、まずまずあいだがらへもすこしもいうては、見込のちがう人あるからは、をひとりにて御聞きおき。 かしこ

(『文久三年五月十七日 坂本乙女宛 坂本龍馬書』)

「ヱヘン」など得意になつているワイ。おれもこの時分はヱヘンだつたヨ。

越前に著いたのが五月の下旬で、から千支援を受けることに相成つた。この越前行きの際に、後年新政府融財政政策をる三や、政治顧問をしていた井小と知遇を得、なりに人脈を築いていつたのだ。

おれの塾も盛況で、さつきげた連中の他にも、と脫した澤村惣之饅頭屋こと近藤長次岡田以藏といふ凄腕の客も居たつけ。岡田は刺客を擊退しておれの命を救つてくれたが、「人を殺すのを嗜んではいけない」と忠告したら、「先生それでもあの時私が居なかつたら先生の首は既に飛んで居ませう」と返されて流石のおれも一言もなかつたよ。他には紀州から伊達小次といふ腕者が居つた。後に陸奧宗といふ名で知られる。あれはおれが紀州から連れてた連中のウチの一人で小利口な才子だつたよ。

塾頭カエ?塾頭はだつたよ。マア聞きたいことはおゝよそ察しがつく。「海軍塾の塾頭はではなく佐藤之助だつたのではないか」といふことだらう。答えはカンタンだ。二人とも塾頭だつたんだよ。これを見なさい。

同人義、この節順動丸組手足り申さず、(かたがた)組み申付け置き義にもこれあり、且御屋敷より修行仰せ付けられ居り四五輩は、かねて容堂へ御直に申上げ熟達も仕り同人輩も別段奮致し居り、その上坂本義は塾頭申付け置き、御手足り申さざる節は組ませ儀に

(『文久三年十二月六日 土佐付宛 勝海舟』)

「これはあくまでも土佐浪士たちの筆頭がだつたと言うだけであつて、塾頭であつたことを示すものではい」だつて?ヘーさうたか。だがおれは確かにを塾頭にしたヨ。

サアーどつちがか?そのりはものの本でもんで自分で考えて御覽。ドーダおれはずるいだらう、エ。

日本をせんたくいたし申候

ともあれ、こんなあばれものを集めての進運を妨する門閥階級を打破し、大いに人材登用のを開いてやらうと思つていたのサ。

だが時勢は徐々にきな臭くなり、操練所の先行きにも陰が差し始めた。五月十日、幕府が朝廷約束した攘夷決行の日に、長州が本に攘夷を開始したのだ。まさか本にやるとは思つてかつたから幕府も慌てた。しかし一旦は異を打ちうことに成功した長州だつたがすぐ逆襲に遭つて苦に立たされることになる。

日本を今一度せんたくいたし申」といふ詞はこの時のものだ。少々長いから全文は引用せぬ。全文が見たけりグーグルで調べるがよい。

然にになげくべき事はながとのに軍(いくさ)初り、後より六度の日本甚利すくなく、あきれはてたる事は、其長州でたたかいたるを江でしふく(修復)いたし 又長州でたたかい申
是皆姦吏の夷人と内通いたしものにて
右の姦吏などはよほど勢もこれあり、大勢にてへども、二三の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先づ州をたもつの大本をたて、夫より江同志はたもと大名其段と心を合せ、右申所の姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申事にいたすべくとの願にて
思付を大にもすこむる同意して、使者を内内下さるる事度。

(『文久三年六月廿九日 坂本乙女宛 坂本龍馬書』)

要旨は「幕吏が外と内通し、軍艦を修復して長州はせているのはけしからん二三の大名や江同志朝廷の元に集めてこの姦吏を打ち殺してしまいたい。この思いは大も頗る同意している」といふ事だ。いかに長州の攘夷が謀であろうと、外軍艦修理してあまつさえ同じの者にけしかけるとは何事だと憤つている。この頃から幕府に代はる新しい政治制が必要だと思い始めたのだらう。大といふのは越前の事で、時このでは上京して諸とした新政を立てる計があつたやうだが、この件についてはマアそのうち別の場所でられることもあるだらう。

神戶海軍操練所

かれこれするうちに京都で政が起きた。いはゆる文久三年八月十八日の政といふやつだ。薩摩の提攜によるこの政で尊王攘夷京都から逐はれ、武合朝廷を握つた。土佐でも勤王係者が捕縛され、十二月にはら土佐出身の塾生にもが出た。おれはさつき見せた書のとおりの延期をめたんだが土佐が承知しなかつた。畢竟は再度脫せざるを得なくなつた。

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井小

年あけて文久四年(1864年)二月京都から呼び出しを受けて上京すると、慶喜から「佛蘭西が下を攻めるらしいので、長崎に行つて阻止するための交をせよ」と命じられた。

マラン仰せ付けだと思つたが他の的も兼ねて行くことになつた。門人も同行させている。十九日だつたかに肥後に到著してはここでを降り、おれはそのまま長崎に向かつた。が肥後で降りたのは越前から肥後に戾つていた井小はせるためだ。

井は時、屋から逃げで閉門を食つてる時だつた。から操練所の況を聞いた井は「海軍問答書」を長崎にいたおれに送り、二人の甥を操練所に入れるために預けた。この「海軍問答書」といふのがエラ期を成す内容で、その思想の高調子な事は、おれなどは梯子を掛けても及ばぬと思つたヨ。

四月十三日に大坂に戾つたんだが、この時期には後の伴侶であるおこと楢崎龍と知り合つている。ずつと後になつておつたところによると、時お京都新地の「扇岩」といふ籠に勤めて居つた。母親が方寺に留守居として住んでいたため通つていたところ、そこを根にしていたと出つたんださうだ。お一目惚れした母親に掛けあつて、そのまま婚約してしまつたといふことだ。

五月十四日、おれは軍艦奉行に正式に就任し、廿九日に海軍操練所が開設した。紆曲折あり、必ずしも思い通りに運んだワケではなかつたが、漸く幕府・諸の壁えた海軍への第一を踏み出した。

だがその矢先に大事件が立てけに起こつた。

注 「井は時、屋から逃げで閉門を食つてる時」とは、井小が江滯在時に襲擊を受け、りで逃走した士事件の事。

池田屋事件・禁門の變

元治元年(1864年)六月五日分、籠・池田屋で新選組と尊攘浪士による事件が起きた。肥後の宮部藏、長州吉田稔麿の他、可哀想にがおれの塾に連れてきた望月彌太も殺されてしまつた。この事件のとばつちりで佐久山も河上といふ恐ろしい男に殺されてしまつたがそれは本筋でないので置いておく。

らせを受けた長州ではの進論が抑えられなくなり京都入。宮闕を犯して薩摩の兵と衝突したのは七月十八日のことだつた。あの日おれは海軍局に居たところ、になると東のに見えたからこれはなにかはつた事が起きたに違いないと思つた。

大阪城では何がどうなつているのか斥を出せと議論があつたが、も深入りしないからおれが自ら斥になつて行つてみると、を下つてくるに三人の長州人らしき連中がつていて、おれの前に上陸してきたから何をするかと思つていたらいきなり刺し違えて死んでしまつた。これは長州は既に敗れたのだなと悟つた。

これらの事件で先の望月のやうに塾生達がはつていたことが幕閣に露見し、馬鹿馬鹿しい話だがおれに謀反の嫌疑がかけられた。操練所の存も危なくなりら塾生達の身の上をどうにかしてやらねばと思つていたところにあの男が現れたのサ。

注 禁門の7月19日

西鄕吉之助

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西

おれは今までに下で恐ろしいものを二人見た。すなはち井小西鄕南洲とだ。

この年の九月におれは西つたが、その前にが西つて見たいといふから添書を書いてはせてみた。その後が戾つてて言ふには、

なるほど西といふはわからぬだ。少しくけば少しくき、大きくけば大きくく。もし馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大きな利口だらう

と言つた。に知言だと思つたよ。面した時、その意見や議論はむしろおれのほうが優るほどだつたけれども、いはゆる下の大事を負するものは、はたして西ではあるまいかと、おれはひそかに恐れたよ。西に及ぶことの出ないのは、その大膽識と大意とにあるのだ。

おれは西達の保護を要請し、西は快くじてくれた。薩摩にしても、達のやうな航技術者はその時どうしても慾しかつたから、この機に人材を確保しておこうと思つたのだらう。

近藤長次同志を先に薩摩へ送り出したはしばらくのに居たが、元治二年(1865年)三月に江ち、四月五日までには京都薩摩邸に入つた。この日、同じ土佐脫浪士の土方門とつたことが土方日記に見られる。土方時既に中岡と共に和解を模索して奔走していた最中で、もその話を聞いたかも知らん。

注 日記元治元年(1864年)8月3日に「吉井幸輔にて上京」とあり、薩摩吉井幸輔上京後、吉井紹介で西ったと思われるため、勝の紹介というのはか勘違い。

奔走

元年(1865年)4月廿ニ日、は西小松らと共に鹿に向かつた。幕府がまたぞろ長州再征を言い始めたためにとしての方針を仰ぐ必要があつたためだ。

二週ほど西宅に滯在したは、薩摩の方針が長州再征には反でむしろ長州との和解を望んでいることを見屆けて、五月十六日に鹿つた。土方の話を聞いて、この先下を制するのはと見込んだ和解のための奔走を始めた。

的地は文久の政京都を逐はれた五卿の居る筑前太宰府だが、その前に肥後に立ち寄つて逼塞中の井小と面した。二人は長州征伐の是非について議論し、井は肥後長州征伐に加することを是としていた。そのため意見が立した井から緣宣言された。この時分井は逼塞していたから長州が密かに開策にじたことを知らなかつた。だからこの時はと意見が別れたのだらう。後にが手掛けた大政奉還については贊意を示している。

井と別れた太宰府に向かつた。廿三日に到著し、五卿と面した長の和解について話した。この時の面に入つたのか、五卿の一人東久世卿がこんな事を日記に書いている。

五月廿五日

土州坂本龍馬面、偉人なり、奇なり

(『東久世日記』)

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中岡

この後太宰府に居た長州士達に和解の策を申し入れ、小五と名つていた木菊にその旨をえさせた。廿八日に大宰府を出て五月朔下に入つた。六日に木の元を訪れ、西との面を了承して到著を待つことになつた。

二人とも西の到著を心待ちにしていたが、豈らんや西なかつた。廿一日、西を連れてるはずだつた中岡は一人で下の元に現れた。ワケを聞くと、京都に重大な用件が出たとか言つて京都に向かつてしまつたと言ふ。仕方なく二人で木いに行つて明すると、案の定プリプリ怒り始めた。「薩摩に一杯喰はされた!もういい、る!」つてネ。

二人で何とか宥めると、木薩摩との和解件として、相手側から正式の使者を出す事、武器軍艦の購入を長州の代はりに薩摩名義で行う事を達にえた。時幕府による長州再征が噂されていて、長州としては少しでも武備を整えておきたいと思つていたのサ。

の要請を受けた二人は、廿九日に下ち、西に談判するため京都に向かつた。

龜山社中

七月十六日、らの談判の結果を確認した木は、伊藤俊輔井上聞多の二人を武器購入の交役として長崎派遣した。前年の禁門の朝敵扱いの長州は、武器の購入を幕府から差し止められていたので、薩摩士の名義を借りての隱密活動だつた。

廿一日、長崎に著いた二人は千屋寅之助高松つた。千屋と高松については憶えているカエ?かつてがおれの塾に連れてきた連中だ。千屋と高松の他、新宮馬之助澤村惣之近藤長次らも薩摩から長崎に出て居つて、この時分にいはゆる山社中を足させている。これは薩摩支援の元、運事業や交易の旋を行う組織で、株式社の嚆矢などと言はれている。

さてこの山社中だが、達はこの結社を「山社中」としたことは一度もく、に「社中」とのみ呼んでいた。そもそも社中と言ふのは「神社の氏子仲」と言ふ意味の言葉が「仲」を意味する言葉として利用されるやうになつたもので、特別な名詞ではない。山は長崎にあつた製陶所の地名で、慶元年(1865年)に廢窯(はいよう)になつた後にされた住居を點とした爲、後世山社中と呼ばれるやうになつたのだ。

この社中の者達を仲介役として、伊藤井上はグラバーから四千三百挺のミニエーと三千挺のゲベールを購入する事に成功した。軍艦については近藤長次が購入のため周旋していたが、これについては後で話さう。

薩長同盟

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大久保利通

その頃京阪で別行動を取つていた。時問題になつていた兵庫開港の件や長州再征について、何らかの活動を行つていたやうだ。九月廿一日、朝廷から長州再征の許が下ると大久保一藏が「非義の命は命ではない」と言つて薩摩を通告した。はこの大久保の書簡を持つて九月下旬に大坂ち、廿九日に防州上著。山口まで赴いて京都の情勢を長州えた。同時に西からの言で、京阪に滯在している薩摩兵のために兵糧支援して慾しいと願い出、これが承諾され和解下地が整つた。

十二月中旬、薩摩から田了介が使者として長州派遣された。田は木して頻りに京都行きをめたが、前の事もあつて木は他の者に行かせたがつたやうだ。だがからの要請もあり、結局木京都で西と面することになつた。

十二月廿八日に三田港を出た木は翌年慶二年(1866年)一月九日に京都の二本薩摩邸に到著した。初同行することになつていたが、とある理由でれた。木からの要請で京都て慾しいといふ連絡があり、一月十日に長府士の三吉藏を伴つて下つ。出前に高杉作と面し、高杉からピストルを贈られを受けた。

大阪に著いたは十八日に大久保一翁いに行つた。一翁は役だつたが、長州分に困つた幕閣に呼び出しを受けて大坂に居つた。久々つた一翁はし、「長州人と入したことが既に通報され手配されているから々に退去するやうに」と警告したさうだ。

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孝允

十九日、寺田屋に入り、ここで同行していた三吉と別れ、廿日に二本薩摩邸に入つた。木つたは同盟の是非を尋ねたが、このと西でこれまでのいきさつと今後について話し合はれたものの、同盟にする具的な話がかつたものだから、憤懣やるかたない木ろうとしていたのだ。が非難すると木は、「薩摩然と朝廷や幕府、諸侯と交えるが長州は違う。全てが敵といふ況でこちら側から薩摩行動を共にすることをめればそれは助けをめることと同じだ。それは長州の本意ではなく恥じるところであるから出ない。薩摩が王室に盡くすことが分かればたとえ長州が滅びたとしても構はない。」と言つた。それを聞いたは木を非難するのを止めてその場を離れた。

その後具的にどんなやり取りがあつたのかは記されていない。だがが西小松に談判した結果、定されていた木の出立を引き止めて再度談の場が設けられたといふのが衆の一致するところだ。

談にはも立い、以下の六ヶの盟約が交はされた。これがいはゆる長同盟だ。

  • と相成時は、すぐさま二千の兵を急速差登し、今在の兵と合し浪へも一干程は差置き、所相固め
  • 自然勝利と相成り氣鋒相見えとき、其節延へ申上げきっと盡カの次第これありとの事
  • 一敗色に相成りとも、1年や半年に決して潰滅致しと申す事はこれなき事に付其には必ず盡の次第これありとの事
  • 是れなりにて幕兵東せし時は、きっと延へ申上げすぐさま冤罪延より御免に相成り都合にきっと盡との事
  • 兵土をも上の土、、桑も今の如き次第にて、なくも延を擁し奉り、正義を抗し、周旋盡カのを相遮り時は、終に決に及ぷほかこれなくと の事
  • 冤罪も御免の上は.方とも心を以て相合し、皇の御爲めに碎身盡カ仕り事は申すに及ばず、いづれのにしても、今日より方皇の御爲め皇威相 き、御復に立ち至り途にしを盡して盡カ致すべくとの事

この六ヶの盟約は談の場では明文化されなかつたため、木廿三日付でに「この内容で違いないか」と書を送つた。そのため後世にこの盟約の具的な内容がえられたのだ。コレがかつたら恐らく歷史上のの一つとなつただらう。木は西べると非常に小さいが、かういふ綿密なことにはい男サ。その書が「相違なし」と朱筆したのがこれだ。

薩長同盟裏書薩長同盟裏書薩長同盟裏書
薩長同盟裏書薩長同盟裏書薩長同盟裏書

チョツトみにくいのでここに書いてやらう。

表に御記しなされは小(小松)西(西氏および老(木()等も御同席にて談合せし所にて、毛も相違これなく。後といえども決して事はこれなきは明の知る所に御座候

二月五日   坂本 

一介の浪士に過ぎないが、歷史を動かす場に立い、その證人になつたといふ事を、どう見るエ?

「こんな裏書には何のもない。などいなくても代はりの志士はいくらでもいたといふ意見もある」だつて?

それこそ「行藏はに存す、毀譽は他人の」サ。どうだ、寓意が分かるかね、おさん。

寺田屋遭難

廿三日、漸く大きな仕事を終えた寺田屋に戾り一息ついた。寺田屋につていた三吉藏と祝宴を開き、深夜まで談笑した。風呂に入つてサア寢るかと思つたら、階下からおけ上がつてて捕吏がていると知らせた。高杉から贈られたピストルを、三吉はを構えた。スルトもなく何十人もの捕吏が二階に上がつてきて「上意により尋問する!座れ!」と言つた。一翁の警告通り、奉行所の方では既に調がなされ、「坂本龍馬なる浪士が寺田屋にし、長のを取り持つている疑いがある」と知られていたのだ。薩摩士であると名つたが否定され、もなくが始まつた。

ピストル擊つてし、人に命中したが、捕吏のを持つり付けられて擊てなくなつた。の名手である三吉が必死して敵が怯んだ隙に裏手から上手く脫出できたが、外にも多の捕吏が彷徨いていたから踵を返して濠の土手にある材木小屋まで辿り著くとそこで隱れた。は出血がひどく、意識が朦朧としていた。

三吉はもう逃げきれないと覺悟して割しやうと申し出たが、はかう言つた。

死は覺悟の事なれば、君はこれより邸に走附けよ。もし途にして敵人にわば必死、これまでなり。もまた、ここにて死せんのみ、と。時すでに曉なれば猶むつかし、とう。

(『三吉日記』)

勇氣づけられた三吉はと別れ、伏見薩摩邸に急いだ。邸では既におが窮を訴えて救出制を整えていた。三吉が邸に著くと、吉井幸輔に跨つて士達を引き連れ救出に向かい、はどうにか九死に一生を得ることが出た。奉行所の方では薩摩邸に逃げ込んだ事も突き止めていたが、薩摩はそのやうな者は居ないと突つ撥ねた。奉行所も邸内に手を出す限はいのでく引き下がつた。木もこの事件に肝を冷やしたやうでに見舞いの手紙を送つている。

三十日に伏見から京都邸に移つてしばらく療養し、快復しつつあつたところへ陸奧陽之助がやつてた。く、近藤長次切腹したとの事だつた。

注 ここで急におが登場するのは、元治元年に京阪を離れる際寺田屋に預けられ、そのまま居けたため。

社中内紛

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近藤長次

近藤長次について話す必要があるから少々前に戾る。

近藤長次、又の名を上杉宗次と言つた。と同じ時分におれの門人になり、操練所の閉鎖薩摩に身を寄せ、社中の一員になつた。長州軍艦購入の周旋を任された近藤ユニオンといふ軍艦を購入補としたのだが、これに長州海軍局が異議を唱えた。させることでとりあえず了承して矛をめたが、このユニオン厄介な問題を抱えることになる。

元年(1865年)九月長州に呼ばれた近藤子に謁し、薩摩子への感謝を預かつた。それを持つて十月鹿に著いた近藤は正式にユニオンを受け取り、そのままり込んで下まで持つていつた。十一月には再び謁して美まで貰つた。ここまではよかつた。

ると、ユニオンを巡る諸利について、長州と食い違う點がある事が分かつてきた。近藤は購入費は長州が負し、籍は薩摩、運用は社中が行うといふ事で伊藤井上から承諾されたものと思つていたところが、海軍局では承知せず、購入費は長州全額つたのだから運用の利も屬も長州にあるはずだと言い出したのだ。

困つた近藤海軍局と交して十二月約と言ふ約定を結び、一旦まつたやうに見えたがすぐに再燃して再び拗れ出した。この時には長州に滯在していて、拾がつかないため割つて入り、約を大幅にする形で修正して漸くまつたが、この結果ユニオンは社中では自由に運用できなくなつた。さつき「とある理由で上京れた」と言つたのは、この交に足を取られたためだ。

翌年一月近藤長州から貰つた報を使い、社中の同志つて英吉利に密航する計を立てていた事が露見した。これが原因で慶二年(1866年)一月十四日に詰めを切らされる羽になつた。二十九だつた。

近藤の死を聞いたは手に「術まりありて至足らず、上杉氏の身を滅ぼす所以なり」と書いた。お想によると「オレが居たら死なせはしなかつた」と言つたさうだ。の言つた通り、策にりすぎて至が足らなかつたのだらう。可哀想な事だ。

注 ユニオンの一件で同志薩摩に詫びるために切腹したというもある。近藤命日は23日もしくは24日の違い。

ホネー・ムーン

はお、三吉と共に二月いつぱい薩摩邸で養した。この時正式に結婚式げて、二人は夫婦になつたといはれる。二月廿九日、とおは西小松に同行して京都ち、三月五日に大坂から出航。途中下長崎由して十日に鹿に著いた。

鹿ではしばらくのと遊んで暮らした。霧島に行つたり、湯治していた小松を尋ねたり、魚釣りしたり、一番よく知られているのは霧島の高千穗峰山頂までおと登つてに刺さつていたの逆を引つこいたといふ話だらう。これは後に乙女宛ての手紙の中に詳しく書いている。御丁寧にまで描いているのが微笑ましい。

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天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛
天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛
天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛

後のにとつておそらく一の安息の日々だつたに違いあるまい。この時の旅行が後に坂崎の『千里駒』でホネー・ムーンつまり新婚旅行紹介され、やがて日本で最初の新婚旅行されるやうになつたのサ。

注 「最初の新婚旅行」という言い方について、これより10年前に小松夫婦旅行に出かけていることからこちらを最初とするがある。というか、新婚旅行に初も何もあるのだろうか。

ワイルウエフ號難破

との旅行しんだは、四月十二日に鹿に戾つた。この先薩摩ではグラバーからワイルウエフといふ帆船を購入している。先のユニオンの一件で自由に扱えなくなつた社中に代はりとしてえただ。

ワイルウエフの運用を任された社中では、ちやうどユニオン丸がかねてより約束の兵糧鹿に搬送する途中長崎に入港していた。鹿に一緖に行かうといふ事になり、船長因幡出身の木小太、士官にを掛けていた土佐出身の池内藏太が選ばれた。

四月末頃に丸に航されて長崎を出航、鹿に向かつたが、急に化し航は危と判斷されて切り離された。その後ワイルウエフ暴風雨の中どんどん離されて行き、五月二日、り上げて大破した。この事故木、池を含めた十二人が牲になつてしまつた。

想だにしなかつた不慮の事故達は大層嘆いたが、嘆いてばかりもいられない。幕府と長州の開近に迫つていたのだ。

第二次長州征伐

この年の六月、おれは久方ぶりに上阪した。二年前に軍艦奉行を罷免されて役になつたおれは、江の氷の屋敷で聊をかこつていたが、五月末頃急に奉書が屆いた。 何でも急いで大坂へ行けといふから御用向を老中に尋ねたが、軍直々の御命といふ事以外分からなかつた。行つてみると、薩摩長州征伐にひどく反するからお前得していといふ。言はれた通りに周旋したが今度は薩摩とつるんでいるのではと疑はれだした。馬鹿馬鹿しいからくお暇を貰いたいと言つたが、軍がもう少し居てくれと仰るので何もせずに大坂の宿につたヨ。

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高杉

六月七日、幕軍の艦隊が内海周防大島擊したのを合に幕長のが始まつた。大島口、州口、石州口、小倉口の四方面で峙したので長州では四と呼んでいる。

幕軍は大島を占したが、十三分に高杉作がオテントといふ小軍艦り、幕軍艦隊の居る域に突つ込んで手たり次第に擊しまくつた。驚いた幕軍艦隊は情けない話だが大島つた兵を置いて逃げてしまつた。いて州口、石州口において開した。幕軍は三百年も昔のやうに具足を著込んで、や太鼓でヒユードンユードンと囃し立てて進んで行つたが、長州軍は全軍隊の拾ひか何ぞのやうなでやつてて、幕軍はこれに蹴散らされてしまつた。

は十四日に丸で下に到著した。高杉と協議して峽の制確保のため、十七日未明にオテントつた高杉が田ノを、丸を揮して下の門をそれぞれ攻擊し、小倉口でのを握つた。に直接加したのはこれだけで、後は情報集や況の觀察に努めていたやうだ。薩摩も盟約に則り、諸へのさぶりや幕府への決姿勢をあからさまに示し始めた。

幕軍の敗報がく中、七月廿軍が亡くなられた。死因は脚氣衝心だつた。瓦解しつつある幕府を背負つて心身ともに蝕まれたのだらう。

おれが大阪城へ行つてみると、皆閉息してひどいものだつた。板倉と話したら、おの事をすぐに決めねばなどと言ふから、そんな事は後見職の慶喜にお任せすればよろしいと言つたら納得した板倉は慶喜にいに行つたヨ。慶喜はその頃役人皆から嫌はれていたが、それでいよいよ慶喜がると皆送迎するから、に人情の覆といふものは、それはひどいものだと思つたヨ。

慶喜はそれから急におれにをかけやがつて、「長州に談判に行つてくれ」などと、ひどくをかけやがつた。馬鹿馬鹿しい役を仰せ付けられて承知すまいかと思つたが、「これまでの幕府のやり方をめる」と言ふから、どうせ長州で殺されるかもしれないが行つて見やうといふので往つたのサ。

宮島に行つて澤兵助と井上聞多の二人と交して、分をするから撤退する幕軍の追擊はしないやうにとんだらその通りにしてくれた。ソレ大坂に戾ると、慶喜がおれの交無視して勝手に朝廷から停許を貰つていた。「軍が死んだから長州は停し、侵地を引きえ」といふ一方的な内容だつたから長州側は受け取りを拒否した。おれの交など全てどこかへ吹き飛んでしまつたヨ。おまけに勝は長州ともつるんでるとたからいよいよろうと思つていたら、府のお達しが出て江つたサ。

注 板倉は老中板倉宮島神社のある廣島宮島

社中の苦境

幕府と長州が終りを迎えつつあつた七月下旬、長崎つたが、ここで困難に遭遇する。

先のいでしていた丸は長州の要請で既に引き渡しており、正式に長州のものとなつてしまつたのだ。代はりだつたワイルウエフは知つての通り事故で大破。社中は念願だつたを失つてしまつた。運業をやるといふ標が頓挫して資繰りにも困るやうになつた。社中の者達に出す給にも事く有りだ。サアー困つた。素寒貧だ。は社中の者達に暇を出そうとしたが、どの者は「死ぬまで付いていく」と離れない。

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小松

困つていた薩摩支援の手を差し伸べた。五代才助の旋で所有のいろは丸といふを運用するために何人か人を貸し、社中の者達にも三二分の給を支う事になつたのだ。十月には西小松と談判して、夷の資開發をするための購入の保證を薩摩にして貰う事になつた。この時購入したのが大極丸と名付けられた西洋帆船で、費用は七千三百十月廿九日にを受け取り、漸く本格的に利活動を開始することになつた。

また、この時分に薩摩長州商社といふのが持ち上がつていて、これは薩摩を使つて長州の物品を兵庫りに運んでろうといふもので、もこの計に一枚噛んでいたが、これをやるためには峽を封鎖しなければならないため、長州に拒否されて現しなかつた。

因みに八月下旬頃のことだが、越前士の下山尙といふ者が長崎を訪うている。ここでは自分の口から初めて幕府の政返上論、すなはち大政奉還論を述べた。いつか大久保一翁から聞いた政返上を今なら行に移せるのではないかと思つた下山にかう言つた。

其後一夕、氏が門をく。氏、出て迎へ坐、久しくて談下の事に及ぶ。氏危坐低つてく、方今鎖攘のして討幕の議相踵ぎ起る。して幕府自反の念なく、日甚だし、恐くは救ふ可からず、子以て如何んとなす。且、子は德氏の親藩に生れ、上にを戴き宜しく思ふ所あるべし。
奉還の策を速かにに告げ一身之れにらば幸ひにすべきあらん。

(下山尙『西南紀行』)

の依を引き受けた下山は、途の途中肥後の井小宅を訪れてこの大政奉還論を話したところ、手を打つて贊同したといふ。ただ越前に戾つた下山に獻策したが、は「思ふところあり」と言つて採用しなかつた。

も一翁と同に、文久年から既に政返上するべきだと度々幕府に建議していたのサ。この時分にも慶喜に政返上を訴えていたのだが聞き入れられないから越前に戾つていた。採用しなかつたのは多分そのりの緯によるものだらう。

土佐藩との和解

その頃土佐長の突出にれを感じて焦り始めて居つた。山内容堂は幕長のの際、長州など烏合の衆く見ていたが、結果はご覽の有ダヨ。そこで各地に配下を派遣して情勢視察をさせてみると、坂本龍馬・中岡名の名が浮かび上がつてきた。その時はまだ半信半疑の長同盟を仲介したとかで、コレは得難い人材だといふことで土佐の方から接觸をめてきたのだ。中岡の活躍を土佐上士達も認めざるを得なくなつたのサ。

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後藤

同じ頃長崎武器軍艦の購入に出掛けていた後藤の噂での事を聞いたのだらう。後藤は溝渕といふ者を使つて子を探らせた。溝渕はかつて江と同門になつた事があるのでその役にうつてつけだつた。その後溝渕はから木紹介されて談し、長州の方針を確認して後藤に報告した。

三年(1867年)一月末から二月の初め頃、後藤と初めて面した。世にいふ談だ。社中の者達の中には土佐勤王を彈した本人の後藤を殺してやりたいと口走る者もあつたが、談した二人はそれらは昔の事としてサラつとに流して提攜する事にした。談の詳しい記つてないが、長州と土佐との善についてやら土佐の今後の方針やらについて話しあつたやうだ。

一方二月十七日、西が容堂謁した。この時分京都でいはゆる四賢侯を集めて議をさせやうと薩摩が躍起になつていて、西は容堂上京を促していたが、その見で西中岡の脫罪赦免をめた。容堂も承知して、の一超法規的措置により二人の赦免が決まつた。

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援隊士。左から長岡謙吉、溝渕
坂本龍馬、山本洪堂千屋寅之助白峰駿馬

三月中旬、後藤は土佐重役の福岡籐次と社中の扱いについて協議した。社中は土佐の外とし、達には自由に活動させて土佐の利益を計る事とし、社中援隊と命名することにした。後藤はこの他にも、以前社中が購入した大極丸の支いがんでない事から全額いを引き受けたり、にとつて心强い味方になつた。

だが後藤と協係を結んだことを知つた乙女はひどく怒つた。く「姦物役人に騙されている」「利を貪りを忘れたのか」と。手紙で「援隊士五十人を養うためには一人り年に六十は必要で、その爲に利をめている」「もう土佐からは赦免されており、この頃は私も京都に出向いて日々下のために働いている」「五人や七人を率いるよりも土佐廿石を率いてに盡くした方がよい」と反論した。かつて武市半平太が提唱した一勤王論を、が望む形で復活させたのだ。

因みにこの年の3月長崎岩崎彌太が著任して土佐商計の切り盛りをしていた。援隊士がしよつちゆうをせびりにくるからしばしば面でしたと、一度だけつた時に言つてたヨ。

いろは丸事件

いろは丸といふについて一度話したかと思ふが、このがまた厄介な事件の種になつた。このいろは丸といふは、達がから借り出しただつたが、四月廿三日内海を運行中に大の蒸氣と衝突した。相手は德御三家・紀州所有の明丸だつた。をはじめいろは丸の員三十五人は皆明丸にり移つて命に別はなかつたが、航も虛しくいろは丸は沈沒しての藻となつた。

陸に戾つたはすぐさま明丸の船長に掛け合つて賠償の一部として一を要したが、紀州側はこれを拒否して長崎奉行所で法に基づいて話しあおうといふのでも同意し、五月十日に長崎に著。十五日から紀州側との談判が始まつた。

談判ではお互いの航日誌を交換しあつて、いろは丸のブーフランプ(舷燈)が點いていただのいなかつただの、航路は東南だつた、いや東北だつたとが食い違つて埒があかない。そこで後藤支援を要請して後藤も談判の場に出席することになつた。後藤は明丸の甲上に直士官が居なかつた事と二度衝突したことを理由に押しまくつた。またこの談判の最中長崎屋や料亭で「を沈めたそのつぐないは をとらずにをとる を取つてミカンを食らう」などといふ戲れ歌を作つて流行らせ、長崎の世論を味方に付けた。

土佐背景にした後藤の强談判に怯んだ紀州側の代表者は、薩摩の五代才介に仲介を依し、過失を認めて八四千の賠償いを約束した。紀州でも大揉めになつて後で七に減額されはしたが、後藤勝利には違いかつた。

注 この事件については注意を要する。というのも明治になって明丸の元船長が「ブーフランプが點いていなかったのは本だった」と證言しており(ブーフランプが點いていなかった場合、いろは丸側の重大な過失となる)、他の係者は「いろは丸の積荷は砂糖だったのがいつのにかミニエー400挺とし始めた」とも證言しているからである。ちなみに平成17年に行われた海底調ではミニエーは見つかっていない。

船中八策

この五月京都では政局が大きく動きだそうとしていた。いはゆる四賢侯が京都に集まつて議によつて政を決めやうとしていたが、皆意見がてんでんばらばらでまらない。特に軍慶喜と島津久光立は深刻で議は分裂し、三年前の議と同じ結果になつた。

この結果を受けて西大久保(一藏)は武倒幕に向けて動き始めた。土佐でも中岡の周旋で、退助や守部が西達と行動を共にしたいと言い出して、容堂に「決心しなければついに長の門におをつなぐにいたりますぞ」と言い放つ始末だつた。四侯議の失敗と薩摩のただならぬ動き、仕舞いには配下達すら倒幕をり始めた容堂みは深刻だつた。容堂京都から後藤を呼んでさせやうとした。

その頃後藤は、いろは丸事件の談判に付き合つてる最中で、自分りでは不安だからとも連れて行きたがつていたのだが、談判が長引き、れにれてそのうち容堂は土佐につてしまつた。

六月九日、漸く後藤と連れ立つて長崎を出航し、十二日に兵庫著。そして十七日、後藤は他の土佐重役達とので大政奉還策について議論し、贊同を得た。

サアついにた。大政奉還だ。だがその前に船中八策について話す必要がある。

この船中八策と呼ばれる策は、通では六月十五日、長崎から兵庫へ行く上で後藤に提示した八策だとされている。だが、はこれを裏付ける證何も無い。この八策には原本が現存しておらず、際に起したのもではなくの意を受けた援隊士の長岡謙吉だと言はれる。そもそもこの八策、初めは船中八策とは呼ばれていなかつた。大六月十五日にははもう兵庫に上陸した後なのに上で後藤に示したなら褄が合はんぢやアないカエ。上で提示したとしても十五日はかろう。

とはいへ、この八策が卓越した論策であることは言ふまでもいだらう。

  • 一、下の政朝廷に奉還せしめ、政宜しく朝廷より出づべき事。
  • 一、上下議政局を設け、議員を置きて機を贊せしめ、機宜しく議に決すべき事。
  • 一、有材の卿・諸侯及(および)下の人材を顧問に備へ、 官爵を賜ひ、宜しく有名の官を除くべき事。
  • 一、外の交際議を採り、新(あらた)に至の規約を 立つべき事。
  • 一、古を折衷し、新に窮の大典を撰定すべき事。
  • 一、海軍宜しくすべき事。
  • 一、御兵を置き、都を守せしむべき事。
  • 一、金銀物貨宜しく外均の法を設くべき事。
 以上八策は、方今下の形勢を察し、之をするに、之を捨てて他に時の急務あるべし。苟も 策を斷行せば、皇運を挽し、勢をし、立するも敢て難しとせず。て願くは明正大の理に基き、 一大英斷を以て下と更始一新せん。

返上や議の創設は、かつてが交流を持つた大久保一翁井小、それに松平春嶽が望み、未だ果たし得ぬ事だつた。これをは一翁達の意思を受け繼ぐ形で後藤に提示してみせた。武倒幕しうる卓見と見た後藤は他の重役達にも提議して土佐の論とすることに決したのだ。

による二條攻擊計など物な噂まで出始めたから、内が始まることを憂慮した後藤薩摩の動きを抑えるため、談の場を設けることにした。廿二日、薩摩から西大久保小松の三人、土佐から後藤福岡籐次ら四名、そして「浪士の巨」たる中岡の二人が出席した。この席で後藤は、政革の志は長土三共に共通し異論は特にいことをえて、以下の約定の元大政奉還建に同意を願つた。

  • 一、下の大政を議定する全は、朝廷にあり、が皇の制度法則、一切の機、師の議事堂より出づるを要す
  • 一、議事院上下を分ち、議事官は上卿より、下陪臣庶民に至るまで、正義のものを選し、尙且つ諸侯も、自分其の職に因りて、上院の任に充つ
  • 一、軍職を以て下の機を握するの理なし、自今宜しく其の職を辭して諸侯の列に順し、政朝廷すべきは、論なり
  • 一、各港外約、兵庫港にいて、新に朝廷の大臣緖太夫と衆合し、理明に、新約定を立て、の商法を行うべし
  • 一、朝廷の制度法則は、往昔より例ありといえども、今の時勢にし、らざるものあり、宜しく幣を一新革して、地球上に愧ざるのを建てん
  • 一、の皇復の議事に係する士太夫は、私意を去り、に基き、術策を設けず、正び、既往の是非曲直を問わず、人心一和をとして、議論 を定むべし

後藤から「出兵してでも幕府に大政奉還をませる」と聞いた西達は了承して、土の盟約が結ばれた。失敗すればその時こそ土佐き込んで幕府をくことができると見込んだのだらう。

薩摩への根しをませた後藤は、七月上旬に土佐に戾り、容堂に大政奉還策を建議した。容堂に異論はく、大政奉還の具化を命じられた。

後藤と協して方々に得していたが、ここで思はぬ足止めを喰らつた。英吉利夫が殺される事件が起こり、他ならぬ援隊士が疑はれたのだ。七月六日深夜長崎で英イカルス組員二人が何者かに殺され、翌日に見された。犯人擊した者が筒袖の援隊士のやうな犯人だつたと話したので土佐に疑惑が向けられた。十四日、長崎を訪れた英使パークスはカンカンに怒つて土佐商岩崎彌太長崎奉行所に怒鳴り込んだがマトモに相手にされないので老中に抗議したうえ土佐と直接談判するため高知に向かつた。は別件でたまたま土佐に戾ることになり、八月中旬から事者として後藤と共に談判に加している。長崎で再調といふことになつて英官のサトウと一緖に長崎に向かつた。

長崎での調も結局證が見つからないからお咎めしといふことになつたが、そりやソーダ犯人は既に死んでいたのサ。結論だけ言えば、犯人は翌年慶四年(1868年)一月に判明した。筑前士の金子才吉とかいふ者で事件の二日後に自害していた。動機は全く不明で心として筑前理されていた。この事件のせいでは一ヶほど足止めを食らい、大政奉還の周旋にも支障をたした。

注 八策の初出は管見では明治31年(1898年)頃初稿の瑞山編『坂本龍馬』。談話にあるようにこの八策にはが多く、原本も本も見つかっていない。

大政奉還

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慶喜

夫殺事件で足止めされていた頃、九月二日に上京した後藤京都で大政奉還の周旋をやつていた。八月廿日、容堂は大政奉還の建を正式に布告して後藤に命じたが、出兵については許可されなかつた。このため後藤は兵を連れてこれず、「兵も出さずに建とな?」と西が一に疑い始めた。

そんな況を見かねたのかは千挺のライフルを土佐に送りつけて、建が受け入れられない場合兵する覺悟を促すことにした。十五日にを入手して十八日に長崎を出航。廿日、下に入港した。二月頃から下生活していたおと二日ほど過ごし、廿二日に土佐に向けて再び出航した。

廿四日、土佐に著いたは翌日に土佐重臣達と談して、大政奉還を急がなければ長が兵してしまうとえ、武器の買取りをめた。武で威してでも大政奉還を慶喜に受け入れさせ、受け入れなければ武倒幕に切り替えるのがの方針だつた。廿七日、容堂を含めたの最高議が開かれ、の持つてきた武器の買取りを承認した。この後、文久二年(1862年)三月の脫から五年ぶりにを訪れた。突然つてきて世もあるから盛大な迎はできなかつたが、大物になつてつてきたを見て、乙女兄さんもさぞ嬉しかつただらう。

十月朔、高知から風雲急を告げる京都に向かつた。この先、おと再することも、長崎を眺めることも、家族との欒も、二度とい。

れて京都に入つたのが十月九日。このの三日に後藤は大政奉還を正式に建した。

内の形勢、古今の得失を鑒し、恐頓首再惟 皇復の基業を建てんと慾せは、を一定し、政度を一新し、王政復古世に不恥者を以て本旨とすへし、奸を除き良をけ、寬恕の政を施行し、幕諸侯大基本に注意するを以て、方今急務と奉存、前上京仕、一二獻言の次第も有之、容堂儀は病症に因て、猶又篤と熟慮仕に、に不容易時態にて、安危の決今日に有之哉に愚慮仕、因て速再上仕、右の次第一々乍不及警言仕志願に御坐、今に至て病症難仕、不得微賤の私共を以て、愚存の趣乍恐言上爲仕

下の大政を議定する全朝廷にあり、 皇の制度法則一切機、必す師の議政所より出つへし、
一議政所上下を分ち、議事官は上卿より下陪臣庶民に至る、正明純良の士ら選すへし、
一庠序校をの地に設け、長幼の序を分ち、術技導せさるへからす、
一一切外蕃との規約は、兵庫港にて、新に 朝廷の大臣と諸と相議し、理明確之新約ら結ひ、の商法を行ひ、信義を外に失せさるを以て要とすへし、
陸軍備は一大至要とす、軍局を攝のに築造し、朝廷守護の兵とし、世界類なき兵隊と爲んことを要す、
中古、政刑武門に出つ、洋艦港以後、下紛紜、多難、是、政動く、是自然の勢なり、今日に至り、古弊を新し、枝葉に馳せす、小理に止まらす、大根基を建るら以てとす、
朝廷の制度法則昔の例ありと雖、方今の時勢に合し、然ならさるものあらん、宜く其弊を一新し革して、地球上に立するの本を建つへし、
一議事の士大夫は私心を去り、に基き、術策を設けす、正直を旨とし、既往の是非曲直を問はす、一新更始、今後の事を見るを要す、言論多く、少き通弊を踏むへからす、

右の、恐らくは今の急務、内外各般の至要、是を捨てゝ他にむへきものは有之敷と奉存、然則、職にる者、成敗利鈍を不顧、一心協世にて貫致し有之度、若の事件を執り、難抗論、幕諸侯、互に相の意あるは然るへからす、是則、容堂の志願に御坐、因て愚昧不才を不顧、大意建言仕、就ては乍恐是等の次第、しく御聽捨に相成ては、下の爲遺憾不鮮、猶又、上寬仁の御趣意を以て、微賤の私共と雖も、御問被 仰付度奉懇願
                  土佐守内
 慶三年丁卯九月
                     寺
                     後藤
                     福岡
                     神山佐多

ここまでれたのは薩摩との調整に時が取られたからだ。九月九日に薩摩から盟約の破棄がえられていたが、その後建には反はしないと申し出があつたのが十月二日で、その直後に建施した。急がないと長が兵してしまうから後藤を叱し、引き長と土佐のの調整を取り持つたが、結局土佐からは兵はかつた。

十一日、慶喜は大政奉還諮問のため京都に居る諸重臣を二條に呼ぶ事にした。後藤もそれに呼ばれた。

御相談被遣之儀、一行はれざれば固より必死の御覺悟故、御下之時は、援隊一手を以て大樹内の道路に待受、社稷の爲、不戴を報じ、事の成否に論なく、先生に地下に御面
案中に一切政刑を朝廷還し一句他日幕府よりの謝表中に一遺漏有之歟、一句之前後を交錯し、政刑を還するの行を阻障せしむるか、上件は鐮倉武門にせる大を解かしむる之重事なれば、幕府にてはいかにも難斷の儀なり。
故に中の儀論の一欸あり。先生一身失策の爲に下の大機を失せば、其罪地に容るべからず。果して然らば小長二の督責を免れず。豈徒に地のに立べけんや。
   
 十月十三日   
後藤先生
左右

(慶三年十月十三日 後藤宛 坂本龍馬書)

先生」といふのは後藤で、「もし建が受け入れられなければ、援隊を率いて路上で慶喜を討つ」とまで書いて後藤に覺悟をめた。する後藤も返信で「死をもつてするが、兵のため戾るかもしれない。援隊の行動は任せるがむやうに」と息の荒いをいなした。

々謝領す。文中政刑を朝廷々之論不被行時者、論生還するの心御座候。倂今日の形勢に依り後日兵の事を謀り飄然として下致哉も不被計得共、多分以死廷論するの心事、若死後、援隊一手々は君之見時機投之に任す。妄被事。に途程度に迫れり、大意書之奉答。頓首
   十月十三日   後藤元曄
 坂本賢契

(慶三年十月十三日 坂本龍馬宛 後藤)

十三日、薩摩小松等と共に後藤が慶喜に直接意見を述べた。

諮問が終はり、後藤にすぐさま手紙を寄越した。

今下今日之趣不取敢申上大樹朝廷すのを示せり。の事を明日奏聞、明後日許を得て、直ぐ政事堂をりに設け、上院下院を創業する事に運べり。に千載の一遇、爲姓大慶不過之。不取敢奉申上々 頓首。
   十月十三日                後藤
  才報慶

(慶三年十月十三日 坂本龍馬宛 後藤)

大政奉還建成功の知らせだつた。後藤論、も、八策を起した長岡も、他の援隊士達も飛び上がらんばかりに喜んだだらう。に堂々たる事だよ。浪士の活動がの上士階級をさぶり、巡り巡つて軍をも動かしたのだ。

翌日、慶喜は朝廷して正式に大政奉還の上表文を提出した。

大政奉還上表文

臣慶喜謹て 皇時運之革を考に、昔し 王綱紐を解き、相を執り、保、政武門に移てより、祖宗に至り、更に 寵り、二年、子孫相受、臣其職を奉すと雖も、政刑を失ふこと不少、今日之形勢に至りも、畢竟薄德之所致、不堪慙懼、況や今外之交際日に盛なるにより、 一途に出不申者、綱紀難立習をめ、政を 朝廷に奉下之儀を盡し、 斷を仰き、同心協、共に 皇を保護仕得者、必す海外と可、臣慶喜に所盡、是に不過奉存、乍去、猶見込之儀も之有得者、可申聞旨、諸侯へ相達置、依之、段謹て奏聞仕、以上詢。
 十月十四日                  慶喜




祖宗以御委任厚御依被爲在得共、方今内之形勢を考察し、建の旨趣に被思食、被 聞食、尙下と共に同心盡を致し、 皇を維持し、可奉安 宸襟 御沙汰

上表文を受け取つた二條攝政は受け取りを拒否したがつたが、後藤小松が押し掛けて受け取りを迫り、十五日に大政奉還は朝廷より聽許された。

新體制構築

大政奉還が成つた後、行動を始めた。ここで雅樂といふ者が登場する。

イキナリ現れて誰だと思ふだらうから一明すると、田は文久三年の八月十八日の政京都を逐はれた三美卿の臣だ。 情勢探索のため長崎を訪れた際に噂の坂本龍馬につてみることにした。九月三日の事だ。 見した田は援隊にすつかり惚れ込んで、情勢探索ソツチノケで行動を共にする事にした。

朝廷の職制に素養のあつた田は、諸の身分の低い有望の人材をるべき新政に採用するため、に「新政府職制案」を提示して見せた。

 一人
卿中、最も德望・知識兼備の人を以て之に充つ、
上一人を弼し、機をし、大政を裁す、

内大臣 一人
卿・諸侯中、德望・知識兼備の人を以て之に充つ、
の副貳とす、

議奏 若干
王・諸王・諸侯の中、最も德望・知識兼備の人を以て之に充つ、
可否を獻替し、大政を議定、敷奏し、兼て諸官の長を分す、

議 若干
卿・諸侯・大夫・士庶人の才德ある者を以て之に充つ、
大政にし、兼て諸官の次官を分す、

各役職の内は以下の通りだ。


記名(三美を示唆)

内大臣
記名(德慶喜を示唆)

議奏
有栖川宮熾仁親王(宮
仁和寺宮嘉王(宮
山階宮王(宮
島津忠義(薩摩
毛利封(長州
松平春嶽越前
山内容堂(土佐)
鍋島閑叟(肥前
慶勝(尾
伊達宗城
正親町卿)
中山忠能卿)
中御門之(卿)


岩倉具視卿)
東久世卿)
大原重德(卿)
長岡良之助(肥後)
西吉之助(薩摩
小松薩摩
大久保一藏(薩摩
孝允(長州
助(長州
井小(肥後)
越前
後藤(土佐)
福岡次(土佐)
坂本龍馬(土佐)

これを見たは喜んで後藤覽し、岩倉卿にも覽されたやうだ。田はその後三卿に情勢を報告するため太宰府に戾つていつた。

二十四日、後藤の代理人として越前に向かい、廿八日に越前に到著して松平春嶽京都を要請した。 越前滯在時、三といふ者と談した。職制案の議に含まれているうちの一人だ。三は以前、越前財政再建に功があつたが、文久三年の 上京はつて居中の身だつた。は三に新政の財政政策について聞きたがつていたのだ。久しぶりにあつた二人は寒い中炬燵に入つて からまでんで延々とり合つたといふ。

越前つたのが11月の初めで、五日に京都に戾つた。京都に戾つたは、大政奉還の波で動がる中、船中八策く新たな八策を起して、新政を描いて見せた。これがいはゆる「新政府綱領八策」で、これは直筆の原本が二通現存している。これも同志後藤覽された。

第一義
 下有名の人材を招致し、顧問に備ふ
第二義
 有材の諸侯を撰用し朝廷の官爵を賜ひ、現今有名の官を除く
第三義
 外の交際を議定す
第四義
 を撰し、新に窮の大典を定む。既に定れは、諸侯伯皆を奉して部下を率ゆ
第五義
 上下議政所
第六義
 陸軍
第七義
 
第八義
 皇今日金銀を外均す

右預め二三の明眼士と議定し、諸侯盟の日を待つて。◯◯◯自ら盟と爲り、を以て朝廷に奉り、始て民に。强抗非議に違ふ者は、斷然征討す。貴族も貸借する事なし

丁卯十一月 坂本直柔

◯◯◯とあるのはの事を言つているのか議論が分かれるところだが、これは恐らく「慶喜」であらう。「强抗非議に違ふ者は、斷然征討す」とも書いている。時大政奉還に反する者も多かつたからこれにする威嚇の意味で書いたのかも知らん。

だがはあくまでも平和裏に新制に移行させたかつたやうだ。先の三との談では「にはしない」とつたといふ。また知人に「長土ので周旋してきたが、内を避けられないかも知れない」とみを打ち明けていた。

その傍ら、援隊の事業にも氣を配つていた。この時分援隊の商する事柄は陸奧に任せていたやうで、手紙に「陸奧さえウンと言えばヨイ」「陸奧大先生」などと書いている。

、御てもとの品いかゞ相成か、御見きりなくては又ふの(不能)と相成。
世界の咄しも相成可申か、儀も峰(白峰駿馬)よりより少々うけたまはり申
頃おもしろき御咄しもおかしき御咄しもに々山々にてかしこ

啓。
然に先生頃御上京のよし、諸事御盡御察申上
、咄聞所、先生の御周旋にて長崎よし、同人の事は元と太(高松)がの引もつれより、々共ゞ御案内の通のせ話相かけ人にて、ことに援隊外の者にも在之
先生御一人御引うけなればよろしく得ども、隊中人を見付け且、長崎度取入にて養なふなど少々御用心得ば、近立行かざるの御せ話がか〃りと存
小野(高松)生らが一にか〃る事は小を多少の儀論有之
先承りに付、々一筆さしあげ
   十一月七日   謹言
 
   後と丁中
 四通室町上る西側澤屋御宿
 陸奧   才
   御直披

といふ取引相手が長崎に行くから面倒を見てくれといふ手紙だが、これの追伸に「世界の咄し」とある。新しい時代の始まりに、一躍世界にその事業をげて行きたいと考えていたのだらう。世界援隊つテエだ。忙しい事この上いが、まだやり足りいことは澤山あつただらう。夷の開發もさうだ。これから全てが始まらうとしていたのだ。

注 「新政府綱領八策」は後世の史が付けたの名で、時なんと呼ばれていたかは不明。

近江屋の變

十一月十五日、京都河原町の近江屋といふ醤油屋に居た。すぐ近くにある土佐邸に入るつもりだつたが、「御許の不都合で邸に入れなかつた」といふ手紙を書いている。赦免されはしたが、内の保守的な雰氣がそれを許さなかつたのだらう。薩摩吉井幸輔は「ウチの邸にればいい」と言つていたが、土佐にする面を氣にして行かうとしなかつた。

午後五時頃、中岡が訪れて話し合つていると、元新選組で御陵士といふ組織に分離した伊東甲子太といふ男がやつてた。く「狙はれているから邸に入つた方が善い」と言ふ。は特に何も言はず、中岡が「ご注意かたじけない」とだけ言つた。

伊東が去つた後、午後八時頃、「十津川士」と名るものがやつてた。した吉といふ者が階段を上がつてえに行かうとした所、突然後ろからられた。物音でが「ほたえな!」と一した。十津川士と名人の刺客は中岡の居る部屋に飛び込んでりかかつた。は額をられ、後ろにあつたを取るが今度は背中からられた。で刺客のを防ぐが、頭に二擊を受けて倒れた。中岡したが、刺客に何度もり付けられて倒れ込んだ。用がすんだ刺客等はスグに立ち去つた。

刺客が立ち去つてからは立ち上がると行燈をもつてき、を手に取つて「腦をやられた。もう死ぬ」と言つて突つし、死んだ。

人の通報を聞いて同志達がけつけたが、手れだつた。吉は十六日に死に、事件の證言を遺した中岡も十七日に命した。昂した援隊士と土佐士らは、新選組いろは丸事件で立した紀州が怪しいと思い、その後新選組や紀州士を襲擊する事件を起こした。翌年になつてからも新選組が怪しいといふのははらず、江で捕縛された近藤勇は土佐から「坂本龍馬暗殺」を罪に問はれて斬首された。

だが新選組犯人ではかつた。明治三年(1870年)二月の役の時、函館で捕縛された今井なる者が、近江屋の一件について詳細な供述をしたのだ。今井京都見廻組に所屬しており、日見頭の佐々木に呼び出され、近江屋に向かつた。行犯は佐々木今井の他、渡邊吉太高橋安次桂早之助土肥仲藏、櫻井大三の計七人で、全て見組の組士だ。

佐々木の元、近江屋に向かい、渡邊高橋の三人が二階に上がつて中岡つた。今井土肥櫻井と一緖に下で見りをしていたが、佐々木示したのかまでは分からないと言つた。供述を受けた刑部省は、時見組を配下に置いた元京都役の小笠原彌八を取り調べたが、小笠原は「見組は佐々木揮しており、自分は知らない」と言つた。供述が認められたため、それ以上は追及されなかつた。

おれもこの件について幕臣と話したことがあつたケド、その話の中では榎本が怪しいと言はれた。榎本と言つても釜次(武揚)ぢヤあなく、付の榎本對馬守といふ者だが。

結局佐々木に命じたのか、ハツキリした事は分からなかつた。ただ、佐々木出身である事、の用人・手代木直右門は佐々木で、浪士の取り締まりをやつていた事。そして近江屋がちやうど京都守護職と見組の域にある事。これらを含めて考えれば、手代木から佐々木に命が下つたと考えるのが妥だらう。手代木から命じられたか。それはまう言ふまでもなからう。

の死後、西等が王政復古し時勢は急した。慶喜は君側の奸を除くと言つて、鳥羽伏見でヘマをやつて逃げつてた。それで正月の何日であつたか、急に呼び出しがて「上がおりになつた。安房守を呼べといふ仰せだ」との事だ。海軍局に行つてみると、慶喜も他の者も菜のやうで少しも勇氣はない。おれはひどく罵つたが、かくまで弱つているかと淚のこぼれるほど嘆息したよ。

つたら慶喜が泣きつくから陸軍裁になつたヨ。それで一翁と一緖に待ち構えていたら、果たして西が出てきおつたワイ。官軍に西が居なければ話はとてもまらなかつただらうヨ。手紙一本で芝、田町の薩摩屋敷までのそのそと談判にたヨ。いよいよ談判となると、西はおれのいふ事をいちいち信用し、その一點の疑念も挾まなかつた。「いろいろむつかしい議論も有りませうが、私が一身にかけてお引受けします」西のこの一言で江の生も、その生命と財を保つことが出、また德氏もその滅亡を免れたのだ。

ナアニ、江明け渡しの時は、スツカリ準備してあつたのサ。イヤだと言やあ、仕方がない。あつちが辜の民を殺す前に、コチラからき討ちのつもりサ。後で西と話して「あの時は、ひどいにあはせてやらうと思つてた」と言つたら、西め「アハゝ、その手は食はんつもりでした」と言つたよ。

維新の殘夢

が遺した援隊だが、その後慶四年(1868年)四月に土佐の命で解散せられている。おは三吉藏の元にしばらく身を寄せていた。はもし自分の身になにかあつたら三吉に保護して貰うやうにんでいたらしい。その後、坂本に預けられたが、あまり長く居けることができなかつた。その後は各地をフラフラして、西やおれのところにもたことがあつた。明治八年(1875年)に大人と結婚して細々と暮らした。

「新政府職制案」「新政府綱領八策」がどうしたか?アーあれは新政府が受け繼いだヨ。王政復古の時の裁・議定・はほぼ「新政府職制案」と同じだからネー。多分岩倉りが採用したんだらうよ。「新政府綱領八策」は、翌年の「五箇の御誓文」の原になつた。

維新のことは忘れられていつたが、明治十六年(1883年)、高知の土陽新聞主人公にした小千里の駒」が連載され、大層評判になつた。これによつて坂本龍馬といふ男がかつて大活躍したことが世に知られるやうになつたのサ。それから後世の史作家によつてく人口に膾されるやうになつたことは言ふまでもあるマイ。

サテ、おれの話はこれでおしまいだ。何か聞きしはあるカエ?

坂本龍馬の人氣の密?さうさナー。志半ばで斃れたが故に性を感じさせるのかも知らん。「もしアイツが生きていたら」つて思はんカエ?板垣は「坂本が生きていたら五代才介や岩崎彌太のやうなになつていただらう」なんて言ふけどネー。しかしよくまあこれだけたくさん出版されるモンだ。それにべておれの本なんか本に少ネー。

マア色々んで御覽なさい。もしかしたら、自分が考えていた像と違う新たな側面が見えてくるかも知れない。ことによつたら滅するかも知れない。ひよつとしたらますます氣に入るかも知れない。毀譽貶、過大評、過小評、異、奇、いろいろあるだらう。

だが子、あいつは人物だつたよ。

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