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士会単語

シカイ

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「士会」(し・かい ? ~ ?)とは、中国時代の将軍・正卿(宰相)であり、五覇の一人に数えられる楚荘王(侶)を一打ち破り、左氏伝において

歴史上、士会こそが最高の宰相である」

と絶賛されている名将である。

字(あざな)は「季」。

「范」の地に封じられ、二番尊い諡号「武」を諡された事から「范武子」と呼ばれたり、随を領地としていた事から「随会」「随武子」「随季」とも呼ばれる。

息子は范文子こと「士燮」と彘恭子こと「士魴」。

晋から秦へ

士成伯こと「士」の末子として産まれる。祖は、法を定めて繁栄の基礎を築いた名臣「士蔿(士イ)」。

と同じくに出仕した。なおこの頃のの君は、

  • :紀元前636年~紀元前628年(在位8年)
  • :紀元前628年~紀元前621年(在位7年)
  • :紀元前620年~紀元前607年(在位13年)
  • :紀元前607年~紀元前600年(在位7年)
  • :紀元前600年~紀元前581年(在位19年)

の様に在位年数が短かい人物が続いた為、士会は「)」から「拠)」の5代に渡ってに仕える事となった。

紀元前632年6月18日濮の戦いに従軍し、軍が帰還する際には、五覇の一人で斉桓文と「斉桓(姜小)」と共に時代を代表する君として讃えられている「)」の右(上の護衛役)を務めた。

※前任の右である「舟之」は、役を放棄して先に帰還してしまったため、捕らえられて敵前逃亡の罪で処刑された。

)」が亡くなり、後を継いだ「驩)」も亡くなると、紀元前621年ににいた子雍を新たな国王に迎える為、宰相「」の命をうけた士会は「先蔑」と共にに赴いた。しかし士会と先蔑がに滞在している間に、子雍ではなく驩)の子の夷皋を後継者とする事になり、夷皋を即位させてとした。

何も知らずにから戻ってこようとした子雍は、の地にての攻撃をうけてに戻った為、怒った士会は先蔑と共にからへと亡命した。

しかしでは士会は先蔑に会おうとせず、その事を従者に訪ねられると、

私は先蔑と同罪を犯したのでへと逃げてきたのだ。
先蔑を立な人物と慕ってついて来たのではない。

と答えた。

紀元前615年に、に追い返された子雍の恨みをらす為に、「(嬴罃)」はを攻めて羈の地を奪った。

も出撃して軍と河曲で突したが、軍は塁を高く築いた砦をこしらえて守りにした為、(嬴罃)は士会に攻略法を尋ねた。

士会は、

この策は臾駢が立てたものでしょう。
穿という者は、君の寵を受けていますが年若く、軍事は念頭になく勝敗など気にせず、勇気にはやって狂気じみており、臾駢が上軍の佐になっていることを恨んでいます。
軽鋭の兵を敵に突撃させたら、穿をおびき出せるでしょう。

と進言し、士会の策を用いた軍の攻撃に自を乱してまで穿ホイホイした為、の全軍が砦を出て戦う事になったが、決着がつかず軍はの間に一度撤退したが、再度、を攻撃して瑕を攻めた。

秦から晋へ

の六卿は、穿の誘き出しなど軍の内情をよく理解している士会が軍にいる事を恐れ、その軍才に着した「郤」の策略により士会をへ連れ戻す事になった。

手始めに、寿余にを裏切らせるふりをさせる事になり、寿余はのうちにを脱出してに逃げ込み、封地であるの地をへ帰させる事を願い出た。

(嬴罃)は聞き入れる事にしたが、寿余は

元はの者で、の役人たちと話せる者を出してください。私はその人と先発しましょう。

の地をに組み入れるにあたり、役人と交渉する際の手助けがほしいと(嬴罃)に申し入れた。

(嬴罃)は、寿余と共にに向かう者として士会を抜したが、寿余が自分をに連れ戻そうとしている事を看破していた士会は、

の人は虎のようで信義の心がありません。
もし寿余が約束を破ってに渡さなければ、私はで殺され、妻子はで殺され、君にとっても利がありません。

と言って辞退した為、(嬴罃)は、

たとえその様になったとしても、その際は、妻子を必ずに帰そう。

と返し、士会は寿余と共にの地へと向かう事になった。

出発にあたり、の「繞」は士会にを贈り、

に人がいないと考えなさるな。

と忠告して、繞もまた士会がに連れ戻されようとしている事を看破した上で、を見くびるなと釘を刺した。

士会と寿余ら一行が河を渡ると、領であるの民は士会の帰還を喜んで歓をあげ、士会がに戻る事になると、、(嬴罃)は約束通り、士会の妻子をに送り届けた。

の大夫となった士会は、末子でを相続できなかった為に分を立てる事になり、封地として随や范の地を授かる事となり、士会の立てた分は「随氏」「范氏」と呼ばれるようになった。

ある時、の手の料理がよく煮えていなかったからと言う理由で、夷皋)が料理人を殺し、死体を婦人に運び出させようとしたところで、士会とが通りかかり、が諌めようとすると士会が

正卿の方が諌めて聞き入れられなければ、後に続く者がおりません。まずは私が諌めてみましょう。

と言って夷皋)の前に進み出た。士会を視しようとした夷皋)だったが、士会が三度前に進みでて拝した為に立ち止まり、

罪は解っている。今後はめるつもりだ。

と士会に言った。士会は、

過って後にめる事が出来れば幸いです。

と返した。

しかし、その後も事あるごとに夷皋)を諌めたが、死後に最低評価と言える「霊」という諡号を諡される様なダメ君だった為、聞き入られる事はなく、に反抗し続けた夷皋)は、ついにに対して刺客を送り、が亡命する騒ぎとなった為、従兄弟の「穿」により殺された。

を越える寸前だったは急遽舞い戻り、亡き驩)の臀を新たに立ててとした。

范武子の法

紀元前606年、は軍を出して鄭を攻撃し、鄭はと和する事になった為、士会は鄭に赴いた。

さらに士会は、臀)の命で周のを訪れる事になった。

周定王()は、宴の席を設けての使者となった士会を歓待したが、この際に細かく切った「餚烝」と言う料理)が出された為、士会は、

王室の礼には全烝ばかりであり、切った料理はないと聞いています。
これはいかなる礼でしょうか。

と周定王()に尋ねた。

周定王()は、臣の「原」を呼んで事の次第を確認し、

天帝る禘と郊には、生贄を丸ごと供える全烝の礼があり、王が立食する宴には、動物を半切りにする房烝の礼があり、親戚の宴には餚烝の礼がある。
そなたは他でもない叔父侯が遣されて徳をあたためています。
先王の親戚饗宴の礼を方に贈ろうと思うのです。

と答えた。士会は返答する事が出来ずに宴を退席し、無知を恥じて帰後に・商・周三代の礼を研究して執秩の典礼を修めた。

紀元前593年のに、「王孫」が反乱により乱れた周王室を治めた際にも、周定王()よりその労を労う宴が催されたが、その席でもまた宴の礼について知識不足を感じる事があり、帰後にさらなる儀礼の礼法の研究を行っての礼法を整えた。

士会が整えたの礼法は、「范武子の法」と呼ばれてで長く尊重された。

晋の士会が倒せない

紀元前599年、鳴かず飛ばずの故事で知られる行動のあるニートで、後世に楚の歴代君の中でも最高の君と評価され、五覇の一人に数えられている「楚荘王(侶)」が、楚軍を率いて鄭を攻撃した。

鄭から援軍をめられた拠)は、士会に兵を与えて鄭への救援とした。

日の出の勢いの楚軍を率いる楚荘王(侶)と潁突した士会は、楚軍を破って楚荘王(侶)の戦歴に数少ないをつける事に成功し、士会に撃退された楚軍は鄭から撤退した。

しかし楚荘王(侶)は、紀元前597年に、楚を代表する賢臣と言われる尹「蔿猟(イ猟)/孫叔敖」を従え、三軍には、

  • 中軍:沈尹
  • 左軍:子重(斉)
  • 右軍:子反(側)

といった将を配して再び鄭を攻撃した。

再び鄭に救援を送ることにした拠)は、三軍

  • 上軍
    • 将:士会
    • 佐:郤
    • 大夫:鞏朔、穿
  • 中軍
  • 下軍
    • 将:
    • 佐:欒書
    • 大夫:荀首、

を任命し、司馬には「厥」を任命して出撃させた。

しかし軍が河に到着したところで、鄭は楚に降伏して和した事が伝わり、中軍を預かる正卿(宰相)の「荀」は帰しようとし、上軍を預かる士会も、

戦は敵の隙を見ていくものです。
徳・刑・政・事・礼の六つが正しく行われている楚には敵対すべきではありません。

と言った。この時、楚荘王(侶)や蔿猟(イ猟)/孫叔敖は、鄭を降伏させたのでと戦う意義はく撤退しようとしていた為、両軍は突する事なく退くかに思われた。

しかし、楚軍では参が、

が軍の将帥は一の君であるのに、一の宰相が将帥の敵軍を前に退いては下に示しがつきません。

と額を叩きわらんばかりに低頭して決戦を進言し、熟慮の末に楚荘王(侶)が鄭内にを構えてから軍に和睦の使者を送り、荀と士会は和を受け入れたようとしたものの、の中軍の佐である「先縠」が戦う事を望んでいた為に先んじて和を拒絶する使者を送ったものの、楚荘王(侶)が不審に思って再度和睦の使者を送った為、両軍は和する事が決まった。

これで本当に両軍は突することなく軍を退くかに思えたが、の荀和睦の使者として楚のに送った「錡」と「旃」が、和するつもりが元々かった為に、これ幸いとばかりに楚荘王(侶)を討たんと楚の本を攻撃してしまい、邲の戦いが
始まった。

結局、錡と旃は余計な事をしたあげくに、楚の守りを崩せずに退却したうえ、錡と旃の軍を追って楚軍が突出した為、本が薄くなる事を恐れた蔿猟(イ猟)/孫叔敖の命により楚軍は軍に対して全軍突撃を敢行した。

和睦の使者錡と旃と聞いて、士会が率いる上軍の佐を務める「郤」が、

錡と旃は和を望んでいません。防備を固めておかないと楚に攻め込まれるでしょう。

と進言したが、中軍の「先縠」が、

が軍には戦うか和するか決定的な命が出ていない。防備をしたとしても役に立つまい。

と答えて防備を怠っていた為、和となるはずだったのに何故か全軍突撃をうける破となった荀混乱し、

一番河を渡って退却したものに褒美を出す。

と布告した為に、の中軍と下軍は先に退却をはじめ、河にを渡ろうとする兵の数に対して軍の船はまったく足りていなかった為、船に乗れたの兵が転覆を免れようと船に群がるの兵のを切り落とすという、左氏伝において

舟中の掬す可し

と書かれてしまう事態が発生し、烏合の衆と化したの中軍と下軍はあっという間に楚軍に壊滅させられてしまった。

この時、士会の率いる上軍は、郤の進言に対して、

防備をしておくのは良いことだ。もしも楚が悪意を持って攻めてきても、防備があれば破らる事はない。

と納得した士会が「鞏朔」と「穿」に命じて上軍を七箇所に分けて伏兵として配置しておいた為、楚の「潘党」が攻撃を仕掛けてきたものの、

楚は勢い盛んである。
が上軍を集中攻撃したならば、が上軍は全滅するであろう。
今は退却するのがよい。

と士会は撤退を即断し、自ら殿(しんがり)を務めて速やかに撤退し、楚軍に打ち破られる事三軍では一ほぼ傷で撤退に成功した。楚荘王(侶)は士会を倒すことどころか傷つけることすら出来なかった。

に帰した荀は、拠)に

私は督軍となって楚軍に敗れました。この罪は誅殺に値します。

と言って死を賜らんとしたが、士会が、

むかし)が楚と濮で戦った時、敗将の子玉が殺されたを聞いて)は非常に喜ばれました。
楚軍に敗れたからと将軍を誅するという事になれば、楚の為にそのを殺すようなものです。

と進言して荀い、拠)は荀を許した。

楚荘王(侶)との戦いの後も士会は軍を率いて戦い、紀元前594年に狄を滅ぼして長狄焚如を討ち取り、紀元前593年には、狄の甲氏や吁や鐸を滅ぼした。

紀元前594年3月拠)は狄の捕虜を周定王()に献上し、荀の後任として士会を正卿(宰相)に任命する事を認めるよう願い出て許された。士会は、正卿(宰相)および中軍の将となり、太傅も兼ねることになった。

正卿(宰相)となってから2年、の盗賊は士会を恐れてに逃亡したと左氏伝に記される治世を実現したが、斉のに出向いていた「郤」が自らのブサイクぶりを辱められたと激怒し、斉に復讐したいと願い出た事から、

人の怒りの邪魔をすればそのを受ける。
今、郤の大変に怒っており、斉に対してその心をらさなければ、必ず内でらすだろう。
私は政権を郤に渡して彼の怒りをらさせようと思う。
おまえは諸大夫に従って君命を奉じ、ひとすじに敬うように。

息子士燮(范文子)に言い、正卿(宰相)を辞職して隠居することにした。

士会が隠居生活を続けていたある時、士燮(范文子)が遅くに帰宅した。何事かと士会が尋ねると士燮(范文子)は、

から客が来て朝廷を出し、大夫のもが答えられなかったので、私が三つ答えました。

と言った。士会は激怒し、

大夫らは上のに譲って黙っていたのだ。
お前朝廷で三回も人を侮辱したのだ。

といって士燮(范文子)を冠の留めが折れる程までで殴りつけた。

士会の没年は不明であるが、功績が評価されて死後に上から二番に高い諡号「武」を諡された。

紀元前573年。周)の頃に、士会の子の士魴(彘恭子)は、

范武子は執秩の法を明らかにしてを安定させ、その法は今でも用いられている。

と評価され、士会の功績により新軍の将に任命された。

その他「士会」の詳細についてはWikipediaの該当項目参照の事exit 

関連動画

春秋戦国時代や史記をモチーフにした歴史替え歌では、楚荘王とセットになっていることが多い。


息子士燮(范文子)と共に孔子の子孫の孔融の配下として登場する架空戦記戦国三国志

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関連項目

関連人物
  • 士蔿(士イ):祖
  • (士成伯):
  • 士燮(范文子):子
  • 士魴(彘恭子):子
関連人物(晋):公
関連人物(晋):臣
関連人物(秦)
関連人物(周)
関連人物(楚)
関連人物(鄭)

掲示板

  • 2叔山冉

    2011/05/04(水) 15:45:47 ID: zTNwG0NGVZ

    ったのは士握濁じゃなかったっけ

  • 3ななしのよっしん

    2011/08/12(金) 13:32:35 ID: Bk/kqDUJOB

    史記と左伝で記述が違う。史記は士会が、左伝では士握濁が、荀をかばった。

  • 4ななしのよっしん

    2019/09/11(水) 23:05:58 ID: o7VQ/5nXlW

    士会の記事あったのか

    最後の息子をぶん殴ったエピソードは以前自分が王都で恥をかいたのを思い出して荒ぶってるように思えてきたw

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最終更新:2019/12/15(日) 02:00

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最終更新:2019/12/15(日) 02:00

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