「士会」(し・かい ? ~ ?)とは、中国の春秋時代の晋の将軍・正卿(宰相)であり、春秋五覇の一人に数えられる楚荘王(熊旅/熊侶)を唯一打ち破り、春秋左氏伝において
「晋の歴史上、士会こそが最高の宰相である」
と絶賛されている名将である。
字(あざな)は「季」。
「范」の地に封じられ、二番目に尊い諡号「武」を諡された事から「范武子」と呼ばれたり、随を領地としていた事から「随会」「随武子」「随季」とも呼ばれる。
士成伯こと「士缺」の末子として産まれる。祖父は、晋の国法を定めて繁栄の基礎を築いた名臣「士蔿(士イ)」。
の様に在位年数が短かい人物が続いた為、士会は「晋文公(姫重耳)」から「晋景公(姫拠)」の5代に渡って晋に仕える事となった。
紀元前632年6月18日の城濮の戦いに従軍し、晋軍が帰還する際には、春秋五覇の一人で斉桓晋文と「斉桓公(姜小白)」と共に春秋時代を代表する君主として讃えられている「晋文公(姫重耳)」の車右(車上の護衛役)を務めた。
※前任の車右である「舟之僑」は、役目を放棄して先に帰還してしまったため、捕らえられて敵前逃亡の罪で処刑された。
「晋文公(姫重耳)」が亡くなり、後を継いだ「晋襄公(姫驩)」も亡くなると、紀元前621年に秦の国にいた公子雍を新たな国王に迎える為、宰相「趙盾」の命をうけた士会は「先蔑」と共に秦に赴いた。しかし士会と先蔑が秦に滞在している間に、公子雍ではなく晋襄公(姫驩)の子の姫夷皋を後継者とする事になり、趙盾は姫夷皋を即位させて晋霊公とした。
何も知らずに秦から戻ってこようとした公子雍は、令狐の地にて趙盾の攻撃をうけて秦に戻った為、怒った士会は先蔑と共に晋から秦へと亡命した。
しかし秦では士会は先蔑に会おうとせず、その事を従者に訪ねられると、
私は先蔑と同罪を犯したので秦へと逃げてきたのだ。
先蔑を立派な人物と慕ってついて来たのではない。
と答えた。
紀元前615年に、趙盾に追い返された公子雍の恨みを晴らす為に、「秦康公(嬴罃)」は晋を攻めて羈馬の地を奪った。
晋も出撃して秦軍と河曲で激突したが、晋軍は塁壁を高く築いた砦をこしらえて守りに徹した為、秦康公(嬴罃)は士会に攻略法を尋ねた。
士会は、
この策は臾駢が立てたものでしょう。
趙穿という者は、君の寵愛を受けていますが年若く、軍事は念頭になく勝敗など気にせず、勇気にはやって狂気じみており、臾駢が上軍の佐になっていることを恨んでいます。
軽鋭の兵を敵陣に突撃させたら、趙穿をおびき出せるでしょう。
と進言し、士会の策を用いた秦軍の攻撃に自陣を乱してまで趙穿がホイホイ出陣した為、晋の全軍が砦を出て戦う事になったが、決着がつかず秦軍は夜の間に一度撤退したが、再度、晋を攻撃して瑕を攻めた。
趙盾ら晋の六卿は、趙穿の誘き出しなど晋軍の内情をよく理解している士会が秦軍にいる事を恐れ、その軍才に着目した「郤缺」の策略により士会を晋へ連れ戻す事になった。
手始めに、魏寿余に晋を裏切らせるふりをさせる事になり、魏寿余は夜のうちに晋を脱出して秦に逃げ込み、封地である魏の地を秦へ帰服させる事を願い出た。
元は晋の者で、魏の役人たちと話せる者を出してください。私はその人と先発しましょう。
と魏の地を秦に組み入れるにあたり、役人と交渉する際の手助けがほしいと秦康公(嬴罃)に申し入れた。
秦康公(嬴罃)は、魏寿余と共に魏に向かう者として士会を抜擢したが、魏寿余が自分を晋に連れ戻そうとしている事を看破していた士会は、
晋の人は虎狼のようで信義の心がありません。
もし魏寿余が約束を破って魏を秦に渡さなければ、私は晋で殺され、妻子は秦で殺され、君にとっても利がありません。
たとえその様になったとしても、その際は、妻子を必ず晋に帰そう。
秦に人がいないと考えなさるな。
と忠告して、繞朝もまた士会が晋に連れ戻されようとしている事を看破した上で、秦を見くびるなと釘を刺した。
士会と魏寿余ら一行が黄河を渡ると、晋領である魏の民は士会の帰還を喜んで歓声をあげ、士会が晋に戻る事になると、、秦康公(嬴罃)は約束通り、士会の妻子を晋に送り届けた。
晋の大夫となった士会は、末子で家を相続できなかった為に分家を立てる事になり、封地として随や范の地を授かる事となり、士会の立てた分家は「随氏」「范氏」と呼ばれるようになった。
ある時、熊の手の料理がよく煮えていなかったからと言う理由で、晋霊公(姫夷皋)が料理人を殺し、死体を婦人に運び出させようとしたところで、士会と趙盾が通りかかり、趙盾が諌めようとすると士会が
正卿の貴方が諌めて聞き入れられなければ、後に続く者がおりません。まずは私が諌めてみましょう。
と言って晋霊公(姫夷皋)の前に進み出た。士会を無視しようとした晋霊公(姫夷皋)だったが、士会が三度前に進みでて拝した為に立ち止まり、
罪は解っている。今後は改めるつもりだ。
と士会に言った。士会は、
過って後に改める事が出来れば幸いです。
と返した。
しかし、その後も事あるごとに晋霊公(姫夷皋)を諌めたが、死後に最低評価と言える「霊」という諡号を諡される様なダメ君主だった為、聞き入られる事はなく、趙盾に反抗し続けた晋霊公(姫夷皋)は、ついに趙盾に対して刺客を送り、趙盾が亡命する騒ぎとなった為、趙盾の従兄弟の「趙穿」により殺された。
国境を越える寸前だった趙盾は急遽舞い戻り、亡き晋襄公(姫驩)の弟の姫黒臀を新たに立てて晋成公とした。
紀元前606年、晋は軍を出して鄭を攻撃し、鄭は晋と和睦する事になった為、士会は鄭に赴いた。
さらに士会は、晋成公(姫黒臀)の命で周の国を訪れる事になった。
周定王(姫瑜)は、宴の席を設けて晋の使者となった士会を歓待したが、この際に細かく切った「餚烝」と言う料理)が出された為、士会は、
王室の礼には全烝ばかりであり、切った料理はないと聞いています。
これはいかなる礼でしょうか。
天帝を祀る禘と郊には、生贄を丸ごと供える全烝の礼があり、王公が立食する宴には、動物を半切りにする房烝の礼があり、親戚の宴には餚烝の礼がある。
そなたは他でもない叔父晋侯が遣されて徳をあたためています。
先王の親戚饗宴の礼を貴方に贈ろうと思うのです。
と答えた。士会は返答する事が出来ずに宴を退席し、無知を恥じて帰国後に夏・商・周三代の礼を研究して執秩の典礼を修めた。
紀元前593年の冬に、「王孫蘇」が反乱により乱れた周王室を治めた際にも、周定王(姫瑜)よりその労を労う宴が催されたが、その席でもまた宴の礼について知識不足を感じる事があり、帰国後にさらなる儀礼の礼法の研究を行って晋の礼法を整えた。
士会が整えた晋の礼法は、「范武子の法」と呼ばれて晋で長く尊重された。
紀元前599年、鳴かず飛ばずの故事で知られる行動力のあるニートで、後世に楚の歴代君主の中でも最高の君主と評価され、春秋五覇の一人に数えられている「楚荘王(熊旅/熊侶)」が、楚軍を率いて鄭を攻撃した。
鄭から援軍を求められた晋景公(姫拠)は、士会に兵を与えて鄭への救援とした。
日の出の勢いの楚軍を率いる楚荘王(熊旅/熊侶)と潁水で激突した士会は、楚軍を破って楚荘王(熊旅/熊侶)の戦歴に数少ない黒星をつける事に成功し、士会に撃退された楚軍は鄭から撤退した。
しかし楚荘王(熊旅/熊侶)は、紀元前597年に、楚を代表する賢臣と言われる令尹「蔿艾猟(イ艾猟)/孫叔敖」を従え、三軍には、
といった将を配して再び鄭を攻撃した。
しかし晋軍が黄河に到着したところで、鄭は楚に降伏して和睦した事が伝わり、中軍を預かる正卿(宰相)の「荀林父」は帰国しようとし、上軍を預かる士会も、
戦は敵の隙を見ていくものです。
徳・刑・政・事・礼の六つが正しく行われている楚には敵対すべきではありません。
と言った。この時、楚荘王(熊旅/熊侶)や蔿艾猟(イ艾猟)/孫叔敖は、鄭を降伏させたので晋と戦う意義は無く撤退しようとしていた為、両軍は激突する事なく退くかに思われた。
しかし、楚軍では伍参が、
我が軍の将帥は一国の君主であるのに、一国の宰相が将帥の敵軍を前に退いては天下に示しがつきません。
と額を叩きわらんばかりに低頭して決戦を進言し、熟慮の末に楚荘王(熊旅/熊侶)が鄭国内に陣を構えてから晋軍に和睦の使者を送り、荀林父と士会は和睦を受け入れたようとしたものの、晋の中軍の佐である「先縠」が戦う事を望んでいた為に先んじて和睦を拒絶する使者を送ったものの、楚荘王(熊旅/熊侶)が不審に思って再度和睦の使者を送った為、両軍は和睦する事が決まった。
これで本当に両軍は激突することなく軍を退くかに思えたが、晋の荀林父が和睦の使者として楚の陣に送った「魏錡」と「趙旃」が、和睦するつもりが元々無かった為に、これ幸いとばかりに楚荘王(熊旅/熊侶)を討たんと楚の本陣を攻撃してしまい、邲の戦いが
始まった。
結局、魏錡と趙旃は余計な事をしたあげくに、楚陣の守りを崩せずに退却したうえ、魏錡と趙旃の軍を追って楚軍が突出した為、本陣が薄くなる事を恐れた蔿艾猟(イ艾猟)/孫叔敖の命により楚軍は晋軍に対して全軍突撃を敢行した。
和睦の使者が魏錡と趙旃と聞いて、士会が率いる上軍の佐を務める「郤克」が、
魏錡と趙旃は和睦を望んでいません。防備を固めておかないと楚に攻め込まれるでしょう。
と進言したが、中軍の「先縠」が、
我が軍には戦うか和睦するか決定的な命令が出ていない。防備をしたとしても役に立つまい。
と答えて防備を怠っていた為、和睦となるはずだったのに何故か全軍突撃をうける破目となった荀林父は混乱し、
一番早く黄河を渡って退却したものに褒美を出す。
と布告した為に、晋の中軍と下軍は我先に退却をはじめ、黄河にを渡ろうとする兵の数に対して晋軍の船はまったく足りていなかった為、船に乗れた晋の兵が転覆を免れようと船に群がる晋の兵の指を切り落とすという、春秋左氏伝において
舟中の指掬す可し
と書かれてしまう事態が発生し、烏合の衆と化した晋の中軍と下軍はあっという間に楚軍に壊滅させられてしまった。
この時、士会の率いる上軍は、郤克の進言に対して、
防備をしておくのは良いことだ。もしも楚が悪意を持って攻めてきても、防備があれば破らる事はない。
と納得した士会が「鞏朔」と「韓穿」に命じて上軍を七箇所に分けて伏兵として配置しておいた為、楚の「潘党」が攻撃を仕掛けてきたものの、
楚は勢い盛んである。
我が上軍を集中攻撃したならば、我が上軍は全滅するであろう。
今は退却するのがよい。
と士会は撤退を即断し、自ら殿(しんがり)を務めて速やかに撤退し、楚軍に打ち破られる事無く晋の三軍では唯一ほぼ無傷で撤退に成功した。楚荘王(熊旅/熊侶)は士会を倒すことどころか傷つけることすら出来なかった。
私は督軍となって楚軍に敗れました。この罪は誅殺に値します。
と言って死を賜らんとしたが、士会が、
むかし晋文公(姫重耳)が楚と城濮で戦った時、敗将の子玉が殺されたを聞いて晋文公(姫重耳)は非常に喜ばれました。
楚軍に敗れたからと将軍を誅するという事になれば、楚の為にその仇を殺すようなものです。
楚荘王(熊旅/熊侶)との戦いの後も士会は晋軍を率いて戦い、紀元前594年に赤狄を滅ぼして長狄焚如を討ち取り、紀元前593年には、赤狄の甲氏や劉吁や鐸辰を滅ぼした。
紀元前594年3月、晋景公(姫拠)は狄の捕虜を周定王(姫瑜)に献上し、荀林父の後任として士会を正卿(宰相)に任命する事を認めるよう願い出て許された。士会は、正卿(宰相)および中軍の将となり、太傅も兼ねることになった。
正卿(宰相)となってから2年、晋の盗賊は士会を恐れて秦に逃亡したと春秋左氏伝に記される治世を実現したが、斉の国に出向いていた「郤克」が自らのブサイクぶりを辱められたと激怒し、斉に復讐したいと願い出た事から、
人の怒りの邪魔をすればその毒害を受ける。
今、郤克の大変に怒っており、斉に対してその心を晴らさなければ、必ず晋の国内で晴らすだろう。
私は政権を郤克に渡して彼の怒りを晴らさせようと思う。
おまえは諸大夫に従って君命を奉じ、ひとすじに敬うように。
と息子の士燮(范文子)に言い、正卿(宰相)を辞職して隠居することにした。
士会が隠居生活を続けていたある時、士燮(范文子)が遅くに帰宅した。何事かと士会が尋ねると士燮(范文子)は、
秦から客が来て朝廷で謎を出し、大夫の誰もが答えられなかったので、私が三つ答えました。
と言った。士会は激怒し、
大夫らは目上の父兄に譲って黙っていたのだ。
お前は朝廷で三回も人を侮辱したのだ。
といって士燮(范文子)を冠の留め金が折れる程まで杖で殴りつけた。
士会の没年は不明であるが、功績が評価されて死後に上から二番目に高い諡号「武」を諡された。
紀元前573年。晋悼公(姫周)の頃に、士会の子の士魴(彘恭子)は、
范武子は執秩の法を明らかにして晋を安定させ、その法は今でも用いられている。
と評価され、士会の功績により新軍の将に任命された。
※その他「士会」の詳細についてはWikipediaの該当項目参照の事
▼春秋戦国時代や史記をモチーフにした歴史替え歌では、楚荘王とセットになっていることが多い。
▼息子の士燮(范文子)と共に孔子の子孫の孔融の配下として登場する架空戦記「春秋戦国三国志」
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