士燮 単語

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シショウ

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士燮(シショウ 137 ~ 226)とは、後漢末期から三時代にかけて南の・交州において勢を築いた温厚篤実な人格者であり、ベトナム古代史で讃えられている大王様であり、外交において戦争を最後の選択肢として使用せずに勢を維持した事に定評のあるもっと評価されるべき英雄

ベトナムでは、近代においても歴史上の偉人として歴史教科書で扱われている。

字(あざな)は「威」。

時代の「士燮」はの悼から父親の「士会」と共に

范武子(士会)は執秩の法を明らかにしてを安定させ、その法は今でも用いられている。
文子(士燮)は一身を勤労して諸侯を鎮定従させ、その功は今でもが頼っている。
この二人の徳行を忘れて良いものだろうか。

と評された范文子こと春秋時代の士燮についてはWikipediaの該当記事参照の事。exit

概要

名前読みが難しい為に「士なんとか」と言われる事もある士燮は、祖先は魯の出身だったところを王莽の乱の時に現在ベトナム北部を含む交州に逃れて土着したとされる一族の出である。この後に紹介する歴史でも、なぜか士一族のことは三国志においては大きく扱われない。というのも交州付近は流刑地だからである。

-交州の今昔-
交州はベトナム北部と、今の中国でいう広東省(三時代の南海広州)&広西チワン族自治区の沿いの辺りを言う。ちょっと内陸も含む。
今でこそ、香港マカオ広州という中国の大都市を抱えた、中国において貿易&商業&観光の重要地で、ベトナムにおいてもハノイをはじめとして経済の中心地なのだが、士燮さん在中当時は、南亜熱帯海洋性季という年中暑い上に、年中が多いという気、更には珠江周辺は地がとても少ない上によく荒れた為、作物が根付き難く、その為に流刑地とされていた。
耕シテモ、耕シテモ、ガ暮ラシ楽ニナラザリ。洪水スグクル。

士燮は若い頃に陽などを遊学して知識人と交わり、名士・陶の教えをうけて教養を身につけ、その才はの人材ハンター荀彧荀イク)に絶賛されるほどであったといわれる。の死後、茂才より推挙されて交阯の太守となった。

当時の交州は南越の異民族がよく襲撃を仕掛ける難儀な地であったが、同時に中国-印度南海貿易、ぶっちゃけシルクロードの中継港であったため、ここを支配すればその日暮らしの劉備や農民兵を使う曹操よりかに左団扇な暮らしができた(一帯も貿易で財を得ていたが士燮の上がりの方が多かった)。そのため、先任刺史が南越賊に殺されると、混乱防止を理由に実士壱を含む士一族を、わざわざ異民族だらけである交州の各所に配置、さらに陸の貿易路を握っていた雍闓とも通じ、電光石火の勢拡大を果たした。

士燮は中華などの野心がさほどなく、その持てる才は全て交州の防衛と一族の繁栄に費やした。
教養よし、勢よし、収入よしの士一族は中央にも名が知れ渡り、特に中原での戦争で嫌気が差した二流~三流の文人がよく士燮を頼ってきたが、士燮はあえてこれら文人を恩を着せたまま好きに仕官させた。各地に散った文人は折に触れて士燮に手紙を出したため、これら文人による独自の諜報ネットワークを構築することに成功する。
次に、そのネットワークにより情勢を読んだ。中原混乱が落ち着くと、まずは朝廷に毎年使者を送って貢納を行い、の前は曹操へついて孫一族への牽制を、での曹操敗北後は当時爺と孫くらいの年の差がある孫権息子を送り、さらに前述の雍闓までも孫権に送ってまで追従する全方位土下座政策を行い、これら諸勢の干渉を退けた。当時の情勢を考えれば驚くべき保身術である。
その間に南海貿易へ資を投入し、現地では儒教をとりいれた善政を敷き、交州の教化と一族の繁栄に努めた。

しかし敵が全くいないわけでもなかった。というのも上述のように南海貿易におけるの上がりを奪っていたためである。、孫権の頃にもなるとさすがには士燮をウザく思い、侵攻準備を整え始めた。しかし、現在ベトナム北部を含む広大な領域を支配し、戦乱の三時代にあって一切の戦争を持ち込まなかった士燮は、迷信・俗話までも駆使して90歳まで孫権との情報戦に勝ち、孫権を封殺したまま大往生を遂げた。
一説には「大王」の偉業に敬意を示し、孫権も士燮存命中は交州攻めを遠慮していたともいう。

一代の英雄を失った士一族は、その後やっと介入する口実が手に入った孫権により攻め取られ、交州から広州分割される等して勢圏を減らされ、それに反抗した士燮の息子士徽が反乱を起こすも、呂岱に敗れて一族皆殺しにされ、士一族の栄は終わりを告げた。

この功績のため、中国から見れば単なる一地方の「太守」、ベトナム(南越)から見れば文明をもたらした「大王」という極端な扱いの差を受ける人物である。ある意味シムシティCiv4における理想的な市長像の体現者だ。

その他「士燮」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。exit

ベトナムの英雄

上述のように士一族は交州を支配する際に現地住民を民族儒教などに教化させることに努めていたが、同時に中国における最新技術をも教え、越南の文明化にも努めたため、当時の住人は士燮を「シー・ヒェップ(シーティェップ、シー・ニエップ)」の名で称え、現在でのベトナム古代史「大越史記全書」においても「士王」と絶賛され、士燮がつくりあげて維持した安寧の年代は「士王紀」として評価されている。

その後、たびたび「人」によってベトナムにも戦乱が及んだり、共産化の波が押し寄せたりしたが、それでも士燮はベトナムの偉人・英雄として現代でも賞賛されているという。

仮想世界(三国志演義)上では

三国志演義では、士一族は・・・登場しない。 何しろ南蛮の上に流刑地、しかもだった戦闘が晩年の孫権による戦争のみで、およそ後漢にもにもにも一切かかわらない勢であり、そもそも前述のように中国史からすれば、特にべれば南蛮のほんの細な太守であっただろうという認識に立っているからであろう。

そのせいか、三国志ゲーム全般においても交州一帯は異民族(南越勢)のリスクがあるか、超ド級の寒扱いか、南蛮といっしょくたにされているかであり、士一族もその評価の割には低く見られている。また、前述の文人らもいない上に情報戦そのものが再現しにくいこともあり、「南の変なの」という程度の印しかないことも多い。

しかし、交州周辺は南蛮同様未開の空白地が多いため、新規旗揚げプレイをする際にはそういった空白地に建する場合がある。その際には士一族とかかわる事になるだろう。

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▼三時代にやってきた765プロ社長高木順一朗の器量を見抜いた「765プロ亡史」

補足

コーエー三國志シリーズにおける士燮の力一覧。

地理上の都合で、交州のタイトルには登場できないが、いにしえ武将として追加可な場合もある。
三國志Ⅲデータ三國志DSデータ 

力一 統率 政治 身体 運勢
三國志
三國志II
三國志III 31 76 80 86 59 53 9
三國志IV
三國志V
三國志VI 63 61 71 69 74
三國志VII 46 63 76 84
三國志VIII
三國志IX
三國志X 53 31 76 80 86
三國志11

三國志Ⅲデータ三國志DSデータ。その他は「義理75、野望15、冷静12、勇猛8、寿命B」である

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