夏目漱石とは、明治・大正時代期の日本の小説家・英文学研究家・東京帝国大学英文学教授・英文学博士・漢詩人・英詩人である。
一般常識が長けている人は「日本の小説家、評論家、英文学者」と言い、
前者のコトバが出てこない人は「昔の千円札のおじさん」と言う。
夏目漱石【本名・塩原金之助/夏目金之助】 (1867~1916)享年49歳(数えで50歳)。生きた時代は江戸・明治・大正。
英文学の研究家であり、かつ数多くの小説・漢文・俳句・英詩を残した文人。現代日本語を築き上げた人物の一人でもあり、司馬遼太郎は漱石の文体を「恋愛から難しい論文まで書くことの出来る万能の文体」といった評価をしている。現に漱石以外の同時代の作家、泉鏡花や森鴎外などの文は古文調か漢文調の固い文体であったが、漱石一人が口語的であり、かつ約150年を経た現在でも普通に通用する文体である。日本の小説は漱石以前と以後で別れると言っても間違いではない。その一方で、漢詩にも通暁し、詩病(漢文における禁忌)や平仄・韻など中国人ぐらいにしか理解出来ないような漢詩の決まりをきっちりと守った良作を多数残しており、中国でもその詩が評価されている、更に、幻想的な英詩も残している。文学の神様のような人物である。
ただ、漱石は若い頃から被害妄想が激しく、精神病に罹っていた形跡がある。英国に留学してからは追跡症という、常に自分が誰かに監視されているといった被害妄想を抱く精神病を患い、一生を通して精神病患者であった。この精神異常と天才的な文学の才能との間に何らかの関係があったのではないかという、病跡学的な指摘もある。ただし病気の多い人物であり、精神病の他にトラホーム・腹膜炎・胃腸炎・痔・糖尿病なども患っていた。
1867年(明治元年)1月5日(旧暦)、大政奉還の年に名門武士の夏目家に生まれる(この年の12月に大政奉還が行われているため、漱石は江戸時代の生まれである)。本名・夏目金之助。生後数ヶ月後に貧しい物売りの家に養子に出されるが、その姿に憐れんだ姉のお陰で夏目家に帰る。ただし、父はなおも金之助(漱石)を養子に出すことを考えていた。
1868年、金之助1歳(以後、名前を省略して年齢だけ表記)。父が親友の塩原昌之助の元に金之助を養子に出す。その為、塩原金之助へ改姓。
1874年に昌之助の浮気により養夫妻が不和となり、養母と共に養父の家を去る。そして、養夫妻の離縁により養父・夏目直克の家に引き取られる。
1876年、9歳。養父が職を失い、金之助は塩原金之助のままで実家である夏目家に帰ることになる。紆余曲折の末、実家にまたも舞い戻った。この年、廃刀令が公布される。
1878年、11歳。市ヶ谷学校上等小学を卒業。錦華学校小学尋常科に入学。
1879年、12歳。小学尋常科を卒業。東京府第一中学校正則乙科に入学。
1880年、13歳。東京牛込馬場下の火災で実家が土蔵を除き、全焼。
1881年、14歳。実母・夏目千枝が逝去。また、東京府第一中学を中退して漢学塾二松学舎に転校。
1884年、17歳で東京大学予備門予科に入学する。が、入学直後に盲腸炎を患う。
1886年、19歳の頃に腹膜炎を患い、卒業試験を受けることが出来ず落第する。不幸続きな人生ながら、同年18に塾教師として働きながら、第一高等中学校に入校することに。頑張る金之助。この年、大学予備門は第一高等中学に改称される。
1887年、金之助が20歳の頃に敬愛していた長兄・夏目大助と次兄が肺結核により相次いで逝去。更に、9月には第一高等中学予科へ進学・英文学を学ぶも、トラホーム(目の疾患)を患い通院する羽目になる。何処までも上手くいかない。
1888年、21歳。この頃から多少運が開けてくる。それまで「塩原金之助」であったが、実父・直克が養父・昌之助に手切れ金を支払い金之助を夏目家に復籍させ、夏目金之助に帰名する。
1889年、22歳。第一高等中学校予科で後の親友・正岡子規と知り合う。大日本帝国憲法が発布。
1890年、23歳にして文部省貸費学生(奨学生)となり、帝国大学文科大学英文学科に合格する。この年、第一回総選挙が行われる。
1892年、25歳の頃には学生の身分で東京専門学校教師となる。また、戸籍を北海道に移し、兵役を逃れる(北海道民は開拓民として兵役を免除されていた)。更に、この年に高浜虚子に出会う。
1893年、26歳。大学を卒業して大学院に進学。高等師範学校英語嘱託となる。
1895年、28歳で愛媛第五高等学校に赴任。子規と同居する。子規はこの頃から肺病を病んでおり、感染を恐れて余り人が近寄らなかったが、金之助は平気な顔で同居していた。
1896年、29歳の頃に熊本の第五高等学校に赴任。愛媛の馴れ馴れしい人々に辟易としていた金之助は、教師を尊敬し敬慕する熊本の学生の態度に満足し、一生熊本に居ても良いとご満悦だった。この年、中根重一の長女鏡子と婚約し、同年に結婚。
1899年に長女・筆子が誕生。鏡子が字が下手だったことから、字が上手い子になるようにと付けた名だったが、鏡子に輪を掛けた悪筆で笑いの種になる。
1900年、33歳にして文部省給費留学生として大英帝国へ留学することとなった。留学中に金之助の妻の父である中根重一が職を失い、また、金之助の給与もほとんど入らなくなったため、夏目家の家計は火の車となり、着物を着潰し、食うにも困る暮らしとなった。が、鏡子はこの窮状を留学中の夫・金之助には一切知らせずに耐え抜いた。
1901年、34歳。英国でヴィクトリア女王の葬儀を見学する。大英帝国の衰退が始まる年である。また、この年、次女・恒子が誕生する。
1902年、35歳。金之助が英国に留学中に親友の正岡子規が死去。子規が死去する直前に夏目金之助の妻・鏡子は子規を見舞っており、金之助はこの妻の行動を大いに喜んだ。また、この年に日英同盟協約がロンドンで調印される。
1903年、36歳の頃に日本に帰国。乞食のような貧乏生活をしていた家族の姿に愕然とする。文部省を通して熊本の第五学校の給料を貰い、また、留学費も貰っていたのだが、金之助は神経の病を理由に第五学校の職を辞す。これは違約であり大分揉めたようだが、金之助の精神病はこの頃には周知のことで、自殺さえ噂されていたためか、異例の待遇で第五学校を辞し、東京へ帰る。しかし、精神病を理由に職を辞したくせに東京帝国大学文学部教授となり、更に、第一高等学校の英語教師も兼任する。ただ、この年の暮れには、神経病により夫婦関係が冷え込み、妻・鏡子は里に追い返され、一時離別した。離別中、三女・栄子が誕生。
1904年、37歳。明治大学高等予科講師を兼任。この年、日露戦争が勃発。
1905年、38歳。四女・愛子が誕生。ここまで子供は全部女の子だった。ポーツマス条約により日露が講和。
1907年、金之助は40歳にして遂に教師を辞し、破格の給与と待遇を受けて朝日新聞社に入社(社長よりも遙かに高い給与と自分勝手な用件を押しつけた)。東京帝国大学教授という栄職を捨てて一介の作家になる。プロ作家「夏目漱石」が誕生したのはこの時からである。また、この年に、ようやく長男・純一を得る。男の子が誕生したことで金之助は大喜びし、祝い品の鯛を見ながら子供の名前を「鯛一」にしよう、などと戯れ言を言いつつ上機嫌で、また、「男の子だ男の子だ」と言いながら家を歩き回っていたらしい。
1908年、41歳。次男・申六を得る。
1909年、42歳。朝鮮を旅行する。また、元養父である塩原昌之助に金銭を支払い義絶する。
1910年、43歳。五女・雛子が誕生。しかし、夏頃に体調を崩し、修善寺にて病床に伏す(この際、避暑地の修善寺で療養していた)。そのため、妻・鏡子や知人が相次いで修善寺に駆けつける。が、病症思わしくなく、同年8月24日500グラムのおびただしい血を吐き、人事不省に陥る。この時、長与病院から駆けつけて来ていた掛かり付けの医師が、壊れた注射器を武器にして懸命の延命治療を与え、奇跡的に生還。金之助自身は血を吐いてから目を覚ますまで一秒の間もなく感じていたが、後に実際は30分以上仮死状態だったと聞いて衝撃を受ける。有名な修善寺の大患である。
1911年、44歳。五女・雛子が逝去。末っ子の死を憐れみ、「他の子が死ねばよかったのに」「考えてみると雛子が一番可愛かった」と言いふらし家族を辟易させる。
1916年12月9日6時45分、胃潰瘍のために自宅で逝去。享年49(数えで50歳)。同月12日に青山斎場にて葬儀が行われる。死後、鏡子の許可を得て金之助の脳は解剖され、いまでも脳が保存されている。
「夏目漱石」は多くの傑作を残したが、プロ作家として活動したのは僅かに9年である。
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最終更新:2024/11/24(日) 21:00
最終更新:2024/11/24(日) 20:00
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