多功綱継単語

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多功綱継(1543?~1593?)とは、戦国時代の武将である。

概要

多功房朝の次男と『下野誌』にある存在。・多功秀、もしくは『石崎藤原系図』で間に挟まっているの多功綱賀の後を継ぎ、戦国時代末期の多功氏を保たせた。

多功綱継の戦いの日々

石崎藤原系図』によると、文12年(1543年)生まれとされ、『下野誌』によると(なお、なぜか『上三町史』はこの部分を史料編に載せていない)正12年(1584年)4月17日北条氏直が攻めてきた際、宇都宮営でいちく出した。なお、佐竹義久から多功綱継宛てに4月12日に連絡を受けて準備していたことが、『下野誌』に残っている。

ともあれ、佐野表で突し、石崎通長が定武と一騎打ちをするなど、戦が繰り広げられる。この話は一次史料「石崎文書」に佐竹義久からの感状が残されているため、少なくともここで戦いがあったこと、宇都宮国綱ではなく佐竹勢が同盟軍として出張ってきたことがわかる。

以後、110日間の長期にわたる対となったが、両軍決着がつかず、退いた。

これに対し、多功房朝で多功綱継の叔父・慈心院尊紹が、多功綱継の見舞などで士気を鼓舞する等をしたほか、石崎通長が宇都宮国綱から官途状を受け取る等、それなりに史料の残っている戦いとなっている。

続いて、『下野誌』によると正13年(1585年)に北条氏直壬生皆川を攻め落とし、引き続き多功綱継がこれにあたったとされる。さらに『下野誌』によると正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原攻めに際して、多功綱継と芳賀高武が名代として豊臣秀吉を訪れ、宇都宮国綱が本領安堵されている。

なお、「石崎文書」によると、多功綱継がこの年に石崎通長に周防守の任官を与えている。引き続き『下野誌』によると、多功綱継は文の役にも宇都宮国綱の副将として出したという。

その後の多功氏

多功綱継は『石崎藤原系図』によると、文2年(1593年)4月14日に亡くなった。その後を継いだのは、『下野誌』によると多功綱、『石崎藤原系図』によると多功秀とされ、『宇都宮記』には多功綱継の役割を、多功秀が担っている。とはいえ、多功秀とは名前でもあり、名前子供に与えたともいえるが、事実かは不明。

この多功秀は『石崎藤原系図』によると永6年(1563年)生まれであり、慶長2年(1597年)の宇都宮国綱落に伴って多功氏も多功を追われたとされる。

多功秀綱/多功綱には『下野誌』と『石崎藤原系図』によると3人の子がおり、前者は多功孫太郎綱賀、多功孫二郎綱秀、多功孫三郎綱秀、後者は多功孫左衛門秀綱、多功伝右衛門綱宗、多功五郎衛門綱任と、順番と通称が全く違う。

前者によると、多功綱賀は息子の多功綱任とともに石崎に寄寓し、多功綱秀は定房に仕官し今も続き、多功綱宗は上杉氏に仕えたとされるが、そもそも上杉氏側の文書では上杉景虎に7歳のことに仕えたとされ、よくわからない

一方、後者には多功秀綱が定房に、多功綱宗が上杉景勝に仕え、多功綱任が石崎で死んだとされる。

補足

信長の野望に出たことはない。というか祖・多功長はそこそこ出ているのだが、父親多功房朝も大志が初参戦なので、今後に期待という所である。

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最終更新:2024/03/29(金) 06:00

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