多田野数人単語

タダノカズヒト

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多田野数人(ただの かずひと、1980年4月25日-)とは、東京都墨田区出身のプロ野球選手投手)である。メジャーリーグ勝利投手となった経験がある。切れ味鋭いスライダー超スローボールイーファスピッチ。意味は「ただのボール」)を投げることで知られる。

ただの概要

八千代松陰高校時代においては、3年次にエースとして、80回記念大会となり千葉県の出場が増え、東西に別れた幸運はあったとはいえ
4回戦以外では全く点を取られないという圧巻のピッチングを披露し東千葉大会を制覇。チーム甲子園に導いた。
ちなみにこの時の大会チーム打率は.196で、松坂世代スターがそろい踏みした大会にあって屈の貧打のチームであり
四回戦以外は失点で防御率0.23というたまげた大投手多田野がいなければ間違いなく県大会で消えていた。
そんな卓越したピッチャーだったのだが打線がダメでは本大会は勝ち抜けず、初戦で上重聡らを擁したPL学園敗北し姿を消した。

高校時代の実績を買われ入学した立教大学時代には通算56試合で20勝16敗、防御率1.51、奪三振334の成績を残し、全日本に選抜にも選ばれた。

そして2002年横浜ベイスターズ名するものと思われていたが、後述するスキャンダルを理由に名回避される(当時はそのスキャンダル表されなかった)。

2003年クリーブランド・インディアンスマイナー契約をし、2004年にはメジャー昇格を果たし、15試合に登板するも2006年解雇。3日後にはオークランド・アスレチックス下のサクラメント・リバーキャッツとマイナー契約を結んだが、翌年解雇となった。

2007年大学生社会人ドラフトにおいて、北海道日本ハムファイターズ多田野ドラフト1巡名(大場翔太服部泰卓を抽選で外したあとのハズレハズレ1位)し、年俸3000万円で契約メジャー帰りの秘密兵器・大新人として、鳴り物入りファイターズの一員となった。ちなみに、ドラフト名当日に日本ハムウインナーを食べて喜んでいた。

日本ハム時代

2008年は年明け々の1月6日不幸にもランニング中に転倒し左手首を骨折。その後、リハビリ及び調整を行い、同年5月2日に一軍登録、その日の内に東北楽天ゴールデンイーグルスから初先発勝利を成し遂げた。その後も観客のド肝を抜いた超スローボールなどで打者を翻弄し、先発ローテーションの一として7勝をマーク契約更改でもフロントから順当に評価され、来期は+800万円の年俸3800万円で一発サインした。


2009年7月10日、この日に一軍に復帰し、千葉ロッテマリーンズ戦で先発としてマウンドに上がり、あと一人でノーヒットノーラン達成というところまでこぎつけるも、大松尚逸ライトヒットを打たれ快挙を阻まれるがプロ入り初完封勝利を挙げた。
前述したようにマイナーリーグ経験が豊富なため、打撃は上手い。2008年にはセーフティーバントプロヒットを飾った(ただし、パリーグのため打席数が少なく、披露する場はあまりない)。


2010年は2試合しか登板しなかった為、10月2日に球団から戦力外通告を受けたが、その後多田野を獲得するチームは現れず、12月14日に年俸800万円(推定)に大幅ダウンの上、北海道日本ハムファイターズと再契約を結ぶこととなった。


2011年リリーフに転向。背番号も65となった。セットアッパーではなく、劣勢時の立て直し、ロングリリーフ役として安定した活躍を見せ、チーム2位に貢献した。この活躍が認められ、推定年俸は1900万円に大幅アップ2012年シーズンを迎える。


2012年は開幕一軍こそは逃すものの、怪をしたケッペルに代わって先発に復帰。そして4月16日埼玉西武ライオンズ戦において2009年8月27日以来、963日ぶりの勝ちを挙げ、観客、ファン監督コーチアッー!と言わせた。
3戦となる福岡ソフトバンクホークス戦においては松田宣浩に対し超スローボールを投げるなど会場を沸かせ、最終的には6勝5敗、防御率3.70というまずまずの成績で一年を終えた。
日本シリーズにおいては第5戦で登板を果たすものの4回の表に読売ジャイアンツ加藤健への初級が危険球と判定され(危険球での退場は史上初、日本シリーズでの退場処分は通算2人)退場処分となった。しかし投げた球は加藤には当たっておらず、この判定に対し多田野は「だます方もだます方。だまされる方もだまされる方」とコメントした。ただし相は、加藤が二回頭部死球を喰らった事によりをつぶった事、バットに当たったファール球が運悪く加藤ヘルメットに当たった事、審判が原監督抗議を受けて判定を変えてしまったという不運の重なりが原因であった。後に多田野相を知ると、加藤和解をしている。
オフ には3800万+出来高払いの倍にアップ、「マツコ&有吉の怒り新党」において岩田慎司投手と共に超スローボール紹介された。


2013年4月16日千葉ロッテマリーンズ戦、23日のソフトバンク戦に先発するも打ち込まれ二軍降格し、そこから長い二軍生活が始まりなかなかチャンスをつかめずにいたものの、9月楽天戦でロングリリーフとして復帰。
の30日のロッテ戦では勝ちはつかめなかったものの先発として7回失点の好投を見せ復活アピールした。 


2014年9月いっぱいまでで5試合登板して勝敗がつかず、防御率も5点台とぱっとしない成績に終わり、同年10月1日自由契約となることが球団から発表された。その後、年明けの1月15日ベースボール・チャレンジ・リーグ石川ミリオンスターズ投手兼任コーチとして入団することが決まりNPB復帰に向け新地でプレーすることとなった。

なお、栗山英樹とはアメリカ時代からの付き合いで、毎日ハンバーガーマイナー生活時に食事に誘うなど報道ステーションキャスター時代からかなり信頼されているもよう(ちなみに誕生日4月26日と1日違いである)。

日本ハム退団後

2015年から選手兼任投手コーチとして石川ミリオンスターズに所属した。

2017年に現役を引退石川を退団。古巣の北海道日本ハムファイターズスカウトに就任した。

スキャンダル

2002年大学在学中に野球部の部員とともにゲイビデオに出演していたexitネット週刊誌などで報道されたが、これに対して、立教大学野球監督事実を認めた。
ドラフト会議の時点では、名されなかった理由として「けが」とされていたが、実際には上記ビデオ出演が発覚したことによるイメージダウンを避けたためであった。

米国に渡った後、2004年メジャー昇格時にもそのことが採り上げられた。それに対して多田野本人が「お金が必要だったので出演した。今は後悔している。自分はゲイではない。」と説明した。
しかしその後はチームに却って受け入れられるようになった。その後もジョークネタにされるなど、出演については然の秘密と化していた。

ただの年度別投手成績

年度 所属 登板 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率 WHIP
2004年 CLE 14 0 0 1 1 0 0 .500 50.1 18 39 30 26 4.65 1.45
2005年 1 0 0 0 0 0 0 .--- 4.0 0 1 1 1 2.25 1.00
2008年 日本ハム 19 0 0 7 7 0 0 .500 105.1 22 61 57 56 4.78 1.22
2009年 13 1 1 5 5 0 0 .500 70.1 27 46 45 45 5.76 1.39
2010年 2 0 0 0 1 0 0 .000 8.2 3 8 5 5 5.19 1.50
2011年 19 0 0 0 0 0 1 .--- 34.1 6 40 12 12 3.15 1.20
2012年 18 0 0 6 5 0 1 .545 90.0 17 48 41 37 3.70 1.21
2013年 4 0 0 0 2 0 0 .000 19.1 11 6 8 6 2.79 1.14
2014年 5 0 0 0 0 0 0 .--- 5.1 0 1 3 3 5.06 1.69
MLB:2年 15 0 0 1 1 0 0 .500 54.1 18 40 31 27 4.47 1.42
NPB:7年 80 1 1 18 20 0 2 .473 333.1 86 187 168 161 4.43 1.26

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