大島光義 単語

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オオシマミツヨシ

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大島光義(おおしま・みつよし 1508 ~ 1604)とは、戦国時代の武将である。の名手であり、93歳で関ヶ原を戦った日本ロビン・フッドである。

概要

通称・八(うんぱち)。美濃国人。

チートといわんばかりのの名手であり、数多くの伝説を残している。

はじめ長井道利に仕えていたが、その後織田信長大将となる。清須会議後は羽柴秀吉(または丹羽長秀)に仕え、その後は豊臣秀次付きとなる。

関ヶ原の戦いでは93歳の高齢ながら関ヶ原本戦に参美濃関1.8万石の大名となった。

生涯53度の合戦に挑み、41通の感状を得た、まごう事なき名将であった。

生涯

美濃関に生まれる。10歳で幼くしてを亡くし、戚によって育てられる。子供の頃よりの名手であり、13歳のときには敵をで討ち取っている。

はじめ長井に仕えていたが、織田信長美濃をとると召し出されて大将となる。既にこの時60歳であるが、ここでもの腕はピカイチであり、坂本の戦いで活躍した際には信長よりをうがつような働き」「のような動き」と賞されて、以降「八」を通称とした。

以降も北陸方面で活躍、戦功を挙げる。

本能寺の変が起こった際には安土城におり(当時74歳)、なんとか美濃へ帰還することに成功している。この後の動向には諸説あり、丹羽長秀に仕えたとも羽柴秀吉に仕えたともいわれる。長秀の死後、丹羽長重が大減封を受けると以降は秀吉に仕えていたようで、豊臣秀次付きとなる。文の役でもやっぱり衆を率いて活躍。1598年には1.2万石を領し、で大名の仲間入りを果たした。

関ヶ原の戦いの際にはすでに93歳の高齢となっていたが、会津征伐に従軍して一貫して家康の側につく。そして関ヶ原本戦で大島勢が武功を挙げたため、次男・三男が西軍に付いたことは許され、逆に加増されて美濃1.8万石のとなった(この時、生まれ故郷の関を取り戻した)。

1604年に97歳で死去。関は4人の息子分割されたため旗本に降格となりした。なお用の甲冑は関市役所に展示されている。

チートじいちゃん

そのの腕はチートじみており、数々の伝説や逸話が残っている。

その腕は百発百中と評判で、豊臣秀次の命で京都・法観寺の八坂の5階のに矢を10本射込んだとされる(この時84歳)。更に相手がを持っていようが逆にで射殺、木の陰に隠れた兵を木を貫いて射殺などなど。

の戦いや小谷の戦いでもで武功を挙げている。そのの腕を買われて、安土城の矢(矢を撃ち出す)の建築奉行にも就いた。

豊臣秀吉徳川家康徳川秀忠といった下人からも一置かれるほどのの腕をもっていたようで、時に相談を受けたりもしている。

なおだけでなくも得意だったりする。実際、孫の大島吉綱は大島槍術を編み出し、徳川頼房槍術南役を務めた。やはり血は争えない。なお義は「でも多人数を相手にするならだよね!」という理由でを選んでいる。

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