大川春義(おおかわ はるよし)とは、昭和時代の北海道で活動していたマタギ。生涯で100頭以上のヒグマを仕留めた名ハンターであり、三毛別羆事件を経験した人物のひとりとしても知られている。
1909年(明治42年)生。父は大川与三吉(おおかわ よさきち)。
春義が6歳の頃、彼の人生を決定づける事件が起こる。三毛別羆事件─1915年(大正4年)12月9日から10日のわずか2日間で、1頭のヒグマにより7人もの人命が奪われた、日本史上最悪の獣害事件である。
事件発生から3日後の12月12日、この事件の対策本部が当時三毛別村長だった大川与三吉宅に置かれた。与三吉の息子であった春義は自宅に集まった大人たちから悲惨な事件のあらましを聞き、幼心ながらヒグマへの怒り、憎しみを感じていた。件のヒグマはその2日後の12月14日に山本兵吉の手で討ち取られたが、春義の怒りや憎しみは消えなかった。
「殺された人ひとりにつき、10頭のヒグマを仕留めてやる」─春義は犠牲者の霊前で誓った。これが、長い長い、復讐の戦いの始まりである─
山本兵吉への師事などを経て成人した春義は、猟銃を手にしマタギの道に一歩を踏み出した。当初はヒグマに恐れをなして銃を放つことすらままならない春義であったが、32歳の頃にはじめてヒグマの親子を仕留めると、これを励みに次々とヒグマを仕留めていく。第二次世界大戦にも従軍し、そこで培った度胸もあって戦後はますますヒグマ撃ちとして熟練していった。
春義がヒグマを仕留めるときまって風が吹いた、と春義の家族は語る。春義がマタギを志すきっかけとなった三毛別羆事件でもヒグマを屠った直後は大荒れの天気になったといい、地元民はこれを「熊風」と呼び伝えていた。そこからの連想で、春義のこのエピソードもまた「熊風」のひとつとして語り継がれている。
この頃、北海道の営林署に勤めていた木村盛武が「慟哭の谷」を著すために事件の取材を行っており、春義は数少ない生き証人として知識・体験談を提供している。
1977年(昭和52年)、当初の目標を大きく上回る102頭目のヒグマを仕留めたところで銃を置き引退。
引退後は三渓神社に熊害慰霊碑を建立し、三毛別羆事件の犠牲者の慰霊に努めた。
1985年(昭和60年)12月9日、三毛別羆事件の70回忌の法要が行われた。春義は法要後の式典に出席し、講演する予定であった。
春義が壇上に立ち、「えー…」と話し出した瞬間のこと。春義は突然その場で倒れこみ、そのまま帰らぬ人となった。春義が犠牲者の慰霊に生涯を捧げた三毛別羆事件…その発生日と同日に亡くなるという、因縁めいた急逝であった。
春義の長男に、高義という人物がいた。高義は晩年の春義に同行しており、彼もまた優れたハンターとして活躍した。特に、体重500kgを超える巨大ヒグマ(通称「北海太郎」)を他のハンターと2人がかりで仕留めた話が有名である。
掲示板
11 ななしのよっしん
2022/05/18(水) 21:27:22 ID: EUg3cU6+Cr
アイヌにとって、神(カムイ)とは人と同等の存在で、人に害なすカムイは人が罰しても良いという価値観だった
この人は和人だけど、立場上アイヌとの交流もあったらしいから影響を受けていたのかも知れない
この人を主人公にした物語が少ないのは、
敵討ちで羆をたくさん屠ったというエピソード以上の人となりがほとんど伝わっていないのが大きいと思う
兵吉爺は熊と一緒に写ってる有名な写真があるけど、この人は一般に公開されている肖像とかはないみたいだし
12 ななしのよっしん
2022/05/19(木) 21:03:34 ID: Rmo8ruwu4W
13 ななしのよっしん
2022/09/08(木) 06:26:57 ID: HVNcDeZ+HM
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最終更新:2024/04/25(木) 13:00
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