ある悲劇をきっかけに日本で初めて建造された本格的な砕氷艦、
名前を「大泊」と申します。戦闘を目的とした艦ではありませんが、
北方の漁業、航行、そして皆さんの生命をお護りします。
大泊とは、大日本帝國海軍に所属していた砕氷艦「大泊」をモチーフとする、艦隊これくしょん~艦これ~の艦娘である。(図鑑番号:595→600(改))
特務艦(砕氷艦)「大泊」は2025年3月8日、期間限定海域「北海道防衛作戦」E-1/E-2ドロップ艦として実装された艦娘である。例に漏れず入手(邂逅)できるかはイベント参加提督のリアルラック次第なのは言うまでもない。
艦名の「大泊」は樺太・亜庭湾北部の大泊港を由来とする。姉妹艦はなく、帝国海軍が保有した唯一の砕氷艦であった。
似たような機能と役割を有する「宗谷」(帝国海軍特務艦mode)やその艦名の由来からアイヌっぽい衣装が特徴の「神威」のような衣装(但し神威ほどの露出はなくタイツを着用している)をまとう栗色の髪が特徴。
2025年4月23日のアップデートで、12周年おめでとうグラが実装された。実装イベ中の期間限定グラ実装はデ・ロイテル等の例はあるが…。
物腰は柔らかく、特務艦娘つながりの平安丸に似た感じ(実際に結川あさきが演じていることが後に発表されている)。「大変恐縮です。」が口癖なのか、色々な場面で「大変恐縮です」が登場する。
時報で提督に”「恐縮」はいらない”と指摘されてるが、それでも時々言いかける。午前中に救難を求める民間船の救援に向かい、助けた民間人に温糧食を提供したため自分たちの昼食は改めて準備することに。夕飯は提督が間宮へご案内。時報で登場する他の艦娘は宗谷、間宮で出会う海外の重巡姉妹。
大日本帝國海軍唯一の新造砕氷艦「大泊」建造の経緯を語るには、彼女が艦隊合流時に言及する「ある悲劇」を抜きに語ることは難しい。
時はロシア革命・第一次世界大戦の時期。日本はロシア革命の日本への波及を恐れ欧米各国と協調してロシア出兵を行った。こうした情勢下、ニコラエフスク(日本名:尼港)駐屯の日本軍はパルチザンの攻勢に対し海軍陸戦隊の派遣を要請した。が、時期が1920年(大正9年)1月。厚い氷に覆われたオホーツク海を渡るため当時帝国海軍が保有していた砕氷艦は日露戦争での戦利艦の海防戦艦「アドミラル・セニャーヴィン」を改装した海防艦「見島」のみ。戦艦「三笠」海防艦「見島」は何度も尼港を目指すも厚い氷に阻まれ、ついに同年3月~5月にかけ、赤軍パルチザン及び朝鮮人・中国人により日本居留民(民間人を多く含む)が虐殺された(尼港事件)。
こうした経緯により大正9年度計画の野登呂型給油艦のうち1隻を砕氷艦に変更し大正10年度軍備補充費で建造されたのが砕氷艦「大泊」である。艦名の「大泊」は樺太の地名に由来しているのは前述の通り。
こうして神戸川崎造船所で1921年10月3日に進水し同年11月7日に竣工(誕生)した「大泊」だったが、極寒のオホーツク海で活躍するにも関わらず羅針艦橋が開放式だった。帝国海軍さん何を考えてるんですか…。当初「見島」が属していた舞鶴を母港としていたが後に母港は横須賀に移る。が、春から夏にかけて函館・大湊・横須賀で休養する以外はずっと極寒の北方海域で働き詰めだった。
大東亜戦争中も北方海域での砕氷艦はこの「大泊」の他なく、ソ連が日本の造船会社に発注したものの時局の変化で引き渡せなかった「地領丸」を改修し軍籍に編入した特務艦「宗谷」も南方海域に持っていかれ、結局終戦まで北方での砕氷艦は「大泊」ワンオペのまま終戦を迎えることとなる。
戦後、老朽化により解体されることとなり、「北方海域の守り神」の役割は海上保安庁に籍を移し南極観測船の任を終えた元特務艦「宗谷」が担うこととなった。
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最終更新:2025/12/08(月) 07:00
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