「大野幸太郎」(おおの・こうたろう 1933年6月6日~2009年10月30日)とは、特撮ヒーロー番組創成期において、「殺陣」をベースにした独自のアクションで「仮面ライダー」等の個性あふれるヒーロー達を生み出したアクション俳優集団「大野剣友会」の創設者・初代会長であり、殺陣師を育てた殺陣師である。
今日は・・・いい日だ この悔しさを絶対に忘れるな 今まで殺陣の総本山は、京都太秦にありと言われてきた・・・ だが・・・これから この関東には、お前たち大野剣友会がいることを教えてやれ お前達なら必ずできる |
仮面ライダーをつくった男たち 第2話「侍・大野幸太郎」より |
幼少時からのチャンバラ映画への憧れと体格や度胸の良さから映画俳優を志望し、殺陣師・大内竜生が率いる「大内剣友会」の門を叩き、大内竜生に師事した。
映画俳優としてデビューした大野幸太郎は、「白波五人男」「丹下左膳」「快傑黒頭巾」「眠狂四郎」等の時代劇映画に出演し、持ち前の度胸の良さと命知らずぶりから、危険なシーンの代役を担当する事が多く、その目覚しい活躍ぶりから、
大内剣友会に大野あり |
と言われるまでとなり、師匠の薦めと「殺陣師を育てる殺陣師になりたい」と言う思いから、1967年(昭和42年)に殺陣集団「大野剣友会」を創設し、初代会長となった。
役者志望ながら目の出ない岡田勝や中村文弥・高橋一俊・中屋敷鉄也らを直弟子に迎えて、殺陣の本場である京都太秦に対抗する集団となるべく切磋琢磨し、東映の時代劇の剣劇シーンで「本当に斬られた様な殺陣」を見せる活躍をしていた頃、東映のプロデューサー平山亨と巡り合った。
大野剣友会の活躍が映画からTVへと移り、「柔道一直線」のアクション全般を担当した後に、平山亨の誘いを受けて、後に日本の二大特撮ヒーローとなる「仮面ライダー」のアクション全般を担当することになった。
「仮面ライダー」の現場は、大野幸太郎自ら育てた殺陣師第一号の高橋一俊に任せていたが、「弟子の不手際には自分が腹を切る」と言って憚らず、それだけの覚悟をしていると言う意味で本当に切る気は無いだろうと思っていた平山亨が、ある時ふと大野剣友会のメンバーに聞いてみたところ、
切りますよ。オヤジは切りますよ |
と、ハッタリではなく有事には本当に腹を切ると言われたと後に書いており、大野幸太郎の実直且つ剛毅な武士道精神を物語っている。
と言った他のアクションクラブチームと異なる独自の迫力がみなぎる好演により「仮面ライダー」が大ヒットを記録すると、「超人バロム1」「変身忍者嵐」「イナズマン/イナズマンF」といった原作:石森章太郎/制作:東映タッグによる等身大特撮ヒーロー番組のアクションを数多く手がけるまでとなった。
そして大野幸太郎は、地方の営業の際に目の前でTVの中と同じ動きを見せるヒーロー達に目を輝かせる子供の姿に、ヒーローショーを思いつき、後楽園ゆうえんちでの仮面ライダーショーでは、自ら脚本を書き、ショーの開演中は舞台上の弟子達ではなく、ショーを見る観客席の子供達を見ていたと言われている。
その後は、「UFO大戦争戦え!レッドタイガー」の原作を自ら手がける等していたが、1976年(昭和51年)に起きた直弟子の高橋一俊の破門や、無断で高橋一俊を起用した東映に対抗して秘密戦隊ゴレンジャーの後半より大野剣友会を降板させる等したと言われ(高橋一俊とは後に和解し破門を解いた)、大野幸太郎もまた1979年(昭和54年)に大野剣友会の代表を退いて会長職につき、岡田勝に大野剣友会を託して芸能界から引退した。
※大野幸太郎の芸能界引退にあわせて、直弟子の中村文弥も33歳の若さで芸能界を引退した。
JAC(現:JAE)の台頭もあって特撮ヒーロー番組で大野剣友会の名を見なくなった後も、大野剣友会出身者の心の支えとしてイベントに出席する等していたが、2009年10月30日急性胆嚢炎により、先に旅立っていた直弟子の高橋一俊と中村文弥の元へと旅立った。
享年76歳。
▼大野幸太郎が原作を担当した特撮ヒーロー番組「UFO大戦争戦え!レッドタイガー」
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最終更新:2024/04/20(土) 10:00
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