大館尚氏 / 大館常興(1454~?)とは、戦国時代の武将である。
奉公衆番頭・大館氏の傍流。足利義尚の側近から、足利義晴の内談衆にまでなった長命の人物で、没年は不明ながら最低でも93歳以上は生きている。また、中世後期の史料『大館常興日記』の筆者。
大和家蔵書の『大館伊予守尚氏入道常興筆記』3巻によると、寛正4年(1463年)の父・大館教氏の死んだときに10歳とあるので、享徳3年(1454年)の生まれとされる。また三男だったが、兄二人は早世しているので家督を継いだ。ちなみに当初の名前は大館重信である。
大館教氏は嫡流である大館教幸の弟で、庶子というわけだが、足利義教に寵愛されて御供衆・申次を担っていた。大館尚氏が活動を始めたころ、嫡流の奉公衆番頭の家督はいとこの大館政重が継いでおり、こちらが足利義政に、大館尚氏が足利義尚に仕えたのであった。なお『翰林葫慮集』の『常徳院殿贈大相国一品悦山大居士画像賛』によると、足利義尚が5歳の頃にすでに仕えていたようで、大館尚氏自身も「条々」で御方衆だったと回想している。
ちなみにこの頃官途奉行にあり、摂津之親が駿河にいた間の代わりであった。
この頃になると、奉公衆を重んじる足利義尚と奉行衆を選んだ足利義政の父子対立が繰り広げられ、ついにこうした不満を背景に足利義尚による六角高頼討伐・鈎の陣が開始された。そして、この頃になると大館政重ではなく大館尚氏が奉公衆番頭として従軍している。時期・背景は全く不明ながら、あきらかに足利義尚によって人事が行われていた。
さらに、大館尚氏はこの頃、足利義尚の政務決裁を行う近臣「評定衆」の一角に名を連ねていた。足利義尚の時点で将軍の近臣集団はすでに身分が固定化されており、新たな抜擢人事による刷新が目論まれたのである。このメンバーは結城政広、二階堂政行、大館尚氏であった。
細川政元らが彼等評定衆の排斥を目論んだりもしたが、足利義尚によってかばわれ続けた。ところが、足利義尚はあっけなく病没。結城政広、その弟・結城尚隆、二階堂政行は身の危険を察知して遁世した。ところが、大館尚氏だけは免れ、伊勢貞陸と打ち合わせて足利義尚の葬儀を執り行っている。この背景は大館尚氏のみは奉公衆の番頭であり、奉公衆の代弁者としての役割を担っていたために切り捨てられなかったのではないかといわれている。
とはいえ、こうして大館尚氏の輝かしい夢は一瞬で終わった。「大和家蔵書」や「書札条々書」などにはこの時期の文書も残っているが、伊勢氏の巣窟と化していた足利義政幕府を離れて、自分の腕を振るった経験が、後にどのように影響したかははっきりとしたことは言えない。
足利義政が死ぬと、足利義視・足利義材父子が幕府を担った。しかし、日野富子が足利義澄支持を決め、細川政元らが与同する明応の政変へと向かっていったのがこの時期である。
足利義材の時期に、大館尚氏は、将軍近臣のままではあったが、番頭は大館政重に戻っていた。加えて、美濃在国から近侍していた遠い親戚という傍流中の傍流・大館視綱が頭角を現したのである。しかし、こうした側近偏重姿勢は幕府の身分が固定化されていた本来の近臣層の離反を招き、明応の政変の成功に至っている。
『蔭涼軒日録』4月27日条に大館政重らの奉公衆五番衆は摂津に撤退した。そして翌4月28日に大館尚氏は足利義澄将軍就任の祝言に参加したようである。ただし、『後法興院記』明応2年閏4月7日条を見る限り、こうした変わり身の早さは非難の対象だったようだ。
とにもかくにも『蔭涼軒日録』の閏4月2日には大館政重・大館尚氏は、完全に足利義澄側に着いた。後年大館尚氏は足利義視・足利義材について淡々と語っていたことから、足利義尚の側近だった彼は西軍方にしこりがあったのかもしれない。
とはいえ、実は明応の政変政権で彼の活動はほぼ見れない。ただし、大館政重・大館尚氏は、大館氏では初めて四品に叙爵されたので、重んじられていたようだ。しかし、大館尚氏の息子・大館元重はとにかく問題のあった人物らしく、父親としっくりいかなかった末に自害したようだ。
ところが、足利義材の逃走、ついで幕府分裂抗争が起こる。大館氏は庶流の福田駿河守を粛正して足利義澄方に徹した。さらに、永正の錯乱で足利義澄が没落するが、今度はそれにも付き従わず、足利義稙についた。足利義稙はかつて明応の政変を推進した伊勢貞宗・伊佐貞陸父子を招き、入京にあたって近臣集団になんらかの確約をして下準備をしたようで、ついに入京に至った。
とはいえ、『不問物語』によると、大館三郎という人物が足利義澄に従っている。設楽薫はあくまでも推測としながら、これを大館尚氏の息子・大館高信であり、その後足利義稙政権で逼塞する要因だったのではないかともしている。
大館尚氏・大館政信(大館政重の子)はそろって御供衆になり、安堵はされたようだが、大館尚氏の足跡が途絶えてしまう。おそらくこの頃に入道して大館常興となり、隠居というよりは閑職に回されたようだ。大館尚氏の息子・大館高信、大館晴光の姿もこのころ見えず、閉塞していたようだ。ところが、足利義晴の登場を機に大館政信の一門の足跡が途絶え、70歳も過ぎた大館常興とその息子たちが繫栄を謳歌しだすのである。
大永元年(1521年)に足利義稙が出奔し、四国に落ち延びていく。細川高国は赤松義村のもとにいた足利義晴を迎え、新将軍に就任する。というタイミングでずっと若狭にいたはずの大館常興が突然将軍就任にあたって活動を開始し、息子たちも活動を始めるのである。
足利義澄派として活動した大館三郎が大館常興の息子のだれであれ、大館常興は武田元光を通して細川高国に足利義晴への取り成しを依頼した。武田元光もまた足利義澄派であり、推定ではあるものの足利義晴の登場によってこうした人物が復権していたのではないかといわれている。
また、この背景には「佐子局(清光院)」との関係で、足利義晴の乳父的な立場にもあったのではないかとされ、春日局を抱えていた摂津元造と似た立場にあったのではないかともいわれている。
かくして、復権した大館常興は、幕府の長老格として、内談衆の一角となった。足利義晴は大館常興に非常に心配りをしていたものの、大館常興が86歳になって辞任を申し出ても、これを許さなかった。とはいえ「大館記」12巻の「雑条」の奥書をもとに、天文20年(1551年)には既に没していたとされるが、天文15年(1546年)の足利義輝の元服の頃にはまだ生きていたことが確かであり、大和晴完ほどではないにしろ、100年近い生涯を送ることとなった。
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最終更新:2024/09/19(木) 00:00
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