大鯨(たいげい、だいげい)とは、
日本海軍が建造した潜水母艦。のちに空母に改装することを予定して設計され、実際に太平洋戦争開戦後に航空母艦<龍鳳>となった。
当記事では<大鯨>時代について記述する。
艦隊随伴型潜水母艦である<大鯨>建造時の計画要目は、公試排水量1万500トン、速力20ノット、航続距離1万海里(巡航速度18ノット)、兵装は12.7センチ連装高角砲2基、40ミリ連装機銃2基、13ミリ連装機銃2基、水上機3機、射出機2基。後方に控える潜水母艦に求められる性能はそれ程高くは無く、老朽化した艦や商船を徴用する事が多かったのだが、<大鯨>の場合は新規に設計された最新かつ大型の潜水母艦であった。また、泊地や後方で待機する補給艦でありながら艦首に菊の御紋を戴く「軍艦」として建造されている。
ただし、後述する不具合もあって完成時の主要目は公試排水量1万4400トン、全長215.65メートル、最大幅20メートル、航続距離1万海里(巡航速度18ノット)、出力1万3000馬力、速力18.5ノット、喫水19.5メートル、乗員430名となった。
<大鯨>は洋上に展開する潜水艦を支援・補給する潜水母艦であるため、艦内には燃料、弾薬、衣服、食糧、真水、魚雷などといった作戦行動に欠かせない物資を積載。さらに艦内には大容量の補給用燃料タンク、真水タンク、被服庫、魚雷格納庫、弾薬庫、各種整備工場等があり、複数の潜水艦に対して補給が行える環境が整っていた。同時に魚雷、電池、潜望鏡などの調整や、損傷した潜水艦の修理を行える能力も有していた。多くの潜水艦を指揮するため司令部施設も内包しており、作戦室、会議室、司令部要員の居住室、無線通信設備、水中信号設備などがあった。そのため戦隊司令が座乗し旗艦となることも多かった。船体は、帝國海軍の艦艇では珍しい中央船楼型の構造をしている。<大鯨>は大型船であるが故、接岸できない港湾で小型船に移乗する時のために索梯子が備え付けられている。この索梯子は高所での作業や訓練、艦船の乗艦にも使われている。
また、普段狭い艦内での行動を強いられる潜水艦乗組員を休養させるために休憩室も用意されており、潜水艦全乗組員のうち3分の2を一度に収容出来たという。他にも浴室や調理室、果ては映写室など多岐に渡る娯楽施設が存在し、過酷な環境下に置かれている潜水艦乗組員たちの心身を癒した。医療施設も完備で手術室、治療室、病室があった。そして<大鯨>には棚式蒸気炊飯器が搭載されていた。実験的な導入とされるが、波浪時に内容物がこぼれる問題が発覚し、後発の新造艦には全く搭載されていない。このため搭載したのは帝國海軍広しと言えども<大鯨>と<龍驤>のみである。ちなみにこの2隻は同じ時期に横須賀で建造されている。
空母に改装する事を前提に設計されたため、所々に空母の面影が見え隠れする。甲板上の構造物は容易に取り払えるようになっており、取り払った後は航空機を搭載する飛行甲板となる。また潜水母艦の時点で艦載機用の昇降機を備えており、改装作業の手間を省いた。<大鯨>時代にはまだ艦載機を保有していないので水偵移送用軌条を設置し、格納庫に水上偵察機を運ぶ昇降機として利用された。補給物資の速やかな積み下ろしにも使われている。搭載機は九十四式水上偵察機で、船体の前部には水偵機専用の格納庫を配置。この偵察機を以って索敵をおこない、敵を発見した場合、指揮下の潜水艦に連絡して攻撃に向かわせることになっていた。一応<大鯨>も駆逐艦に対抗できる程度の兵装を持ち合わせている。
上部構造物が艦の全長4分の3を占めているが、これら構造物は改装の際に上部甲板や飛行甲板になる「素材」であった。上部構造物の先端は空母改装時に羅針艦橋となる予定で、その上には二層の小型艦橋が設けられた。中央に煙突が1本立てられているが、ディーゼル機関を搭載している大鯨には本来必要の無い物で、空母改装用に用意した格納庫を隠蔽するダミーであった。しかし米英には<大鯨>が空母改装を見越した艦である事を見抜かれていた。が、書類上は潜水母艦だったため見逃した。
大鯨は昭和8年度の追加計画として建造された1万トン級の潜水母艦で、少し前に廃案となった8000トン級の潜水母艦1隻と9800トン級空母1隻に代わる存在だった。
決戦補助戦力と考えられていた空母の建造をロンドン海軍軍縮条約によって止められ、仮想敵である米国に対して不利を強いられる結果となった日本海軍は頭を抱えた。しかし条約の「1万トン以下の補助艦艇には制限を設けない」という条文を抜け道に、日本海軍は空母と性質が似ている「潜水母艦」と「給油艦」を建造し、危急の際は空母へ改装してしまおうと考えた。こうして建造された補助艦艇のうちの一隻がこの潜水母艦<大鯨>である。同期の高速給油艦<高崎>、<剣埼>も同様の経緯で建造され、後にそれぞれ改装空母<瑞鳳>、<祥鳳>となっている。
軍縮条約の抜け道をついて建造される事となった<大鯨>であったが、実は同時期に潜水母艦の配備も急務とされていた。当時の海軍は迅鯨型潜水母艦<迅鯨>、<長鯨>の2隻を保有していたが、この艦は大正12年竣工の老朽艦であり、急速に発達する潜水艦に対して能力が追いつかず限界を迎えつつあった。そのため、<大鯨>には、伊号潜水艦3隻からなる1個潜水艦隊の3個分、つまり伊号潜水艦計9隻分を補給する能力が求められた。また、軍縮条約外での建造ゆえに他国を刺激しないよう速力や兵装などの各項目を制限内に収める必要があった。さらには1年限りの予算である昭和8年度予算で建造するため年度内での完成を強いられる事となり、上層部的にも潜水艦隊的にも最新鋭艦<大鯨>は一刻も早い竣工が望まれた。そのため、工期を一気に短縮できるような新技術が多く盛り込まれる事になる。基本計画番号「J-7」の仮称を与えられて、建造は始まった。
このような経緯で1933年4月12日、横須賀工廠で起工された。5月23日に<大鯨>と命名され、本籍地の仮定と類別等級の制定がなされた。しかしその前途は多難だった。
横須賀海軍工廠船殻工場長である藁谷(わらがい)英彦造船少佐は、新技術である電気熔接とブロック工法の使用を決断。電気熔接は肋板、肋骨、梁、ロンジ、サイドストリンガー、デッキガーダー、甲板、外板、鋼板の繋ぎ目など広範囲に渡って使用され、船体の大半に電気熔接が用いられていると言っても過言ではなかった。電気溶接を用いた大掛かりな建造になるため、急遽溶接工が急速に養成される事となった。
10月18日に信号符丁「JLJA」が付与され、同月20日に鍬柄玉造大佐が艤装委員長に就任。28日から工廠内に艤装事務所を設置し、作業が開始された。最新技術の導入により、11月16日に進水。起工から僅か7か月で進水という驚異的な早さを実現した。内令第364号により本籍地は横須賀鎮守府となった。
だが、これにより起工7ヶ月での進水を果たしたのはいいものの、新技術が災いして船体の歪みや馬力不足など故障支障が多発。電気溶接に関しては既に敷設艦<八重山>で先行導入されていたが、本格的な導入は<大鯨>が初で、熔接の技術はまだ確立されておらず、船台上で組み立てられた船体には熔接ヒズミが発生。前後に反り返る形になったという。これを修正するため、進水式を前に船体の中央部から切断・修復する羽目に陥った。こういった不具合は新技術にはつきものとはいえ、進水予定(同年11月16日)を既に昭和天皇に伝えていたため変更できず、しかも前述の予算の都合もあって不備を大量に抱えたまま進水式が執り行われた。列席した昭和天皇や海軍上層部、参観者に配られた進水記念葉書には、<大鯨>の船体と大きな本物の鯨が描かれていた。また郵便局では<大鯨>の進水を祝して記念スタンプが用意された。
こうして進水式を終えたものの艦内艤装の大半は手付かずで、主機は半分のみ搭載、再度熔接ヒズミで曲がった船体と、<大鯨>は無数の欠陥を抱えていた。むろんこのままでは航海もままならず、進水式後も予備艦の名目で工事が続けられた。建造中の切断修復の効果が不十分だと判断されたため<大鯨>は再び中央から切断され、今度は艦首部分も一緒に切断された。更に友鶴事件の発生で復原力が問題視されたため固定バラストを搭載。最上甲板に設置するはずだった補給用真水タンクも下部に移された。
電気熔接の他に、ディーゼルエンジンも不調であった。<大鯨>は海軍が開発した水上艦用ディーゼルエンジン「四十五型複動内火機械」を初めて搭載していたのだが、これによって航続距離の向上が期待され、ドイツが積極的に採用していた事もあり、成功したら戦艦などの主力艦にも搭載しようと考えていたようである。しかし、1万6千馬力を発揮すると予想されたディーゼルエンジンは公試では半分以下しか発揮されなかった。速力も18.5ノット程度と低速であった。ちなみに全力公試での速力は20.1ノットを記録している。余談だが、予算要求の時点ではディーゼルとタービンを併用する予定だった。
紆余曲折を経て1934年3月31日、形式上竣工する。艤装の工事が未了だったが、予算の都合で竣工扱いとなり横須賀警備戦隊へ編入された。初代艦長として鍬柄玉造大佐が着任。竣工に伴って艤装員事務所を撤去され、代わりに軍艦大鯨陸上事務所が設置される。6月1日、<八雲>航海長の細谷資彦少佐が<大鯨>航海長を兼任。7月1日に内令第273号により横須賀警備戦隊より除かれ、31日に呉鎮守府へ転籍する。工事が続く9月、潜水学校からアドバイスを受ける。11月20日、実質的に竣工。海軍潜水学校長の指揮下に入り、練習艦になった。しかし未だ全ての工程が完了していなかったため同月下旬、横須賀から伊勢湾を経由し、呉へと回航。工事を再開し、1935年の春頃に完了した。
どうにか竣工・就役した後の1935年9月26日、4年に1度の大演習のため空母<鳳翔>や<龍驤>が所属する主力艦隊に加わった<大鯨>は三陸沖に向かった。その途中で第四艦隊は超大型台風の直撃を受ける。第四艦隊事件である。容赦なく大波に曝され続けた<大鯨>の1万トン級の船体は50度まで傾き、後部防水扉が破壊されて浸水。この影響で電気系統も失われ人力での操舵を強いられる。<大鯨>は命からがら横須賀軍港へ辿り着いたが、調査で電気接合した部分に亀裂が認められ船体の強度不足が浮き彫りとなった。第四艦隊事件の被害と、この致命的な欠陥への対応により、<大鯨>は11月15日に第二予備艦となり、1936年1月から入渠。修理を受けると同時に、<大鯨>は搭載している内火艇一隻を特務艦<鳴戸>に譲渡。この修理により、再び戦線離脱を余儀なくされたのだった。ちなみに横須賀で修理を受けている時、<大鯨>は二・二六事件に遭遇している。1936年3月、運送艦知床が大鯨用の主機械や軍需品、便乗者を輸送。同月31日に佐世保へ到着し、物資を降ろしている。1937年5月22日にも、佐世保を出港した知床が横須賀まで主機械を運んできている。
1937年7月7日、支那事変が勃発。この危急に<大鯨>の工事が一旦中止となる。第一線に復帰した<大鯨>は第三艦隊所属となり、指揮下の潜水艦を率いて支那事変に参加。最新鋭潜水母艦の初任務だけあって、潜水艦隊から大いに歓迎されたという。1937年8月、第二次上海事変が勃発。少数の日本軍に中国国民党軍が大挙して襲い掛かり、武力衝突へと発展した。上海に派遣される第二三航空隊から補給母艦の指定を受けた<大鯨>は物資と要員を載せて佐世保を出港。上海方面に急行した。<大鯨>も上海付近で艦載機による偵察を行い、現地部隊を支援している。中国国民党軍が敗走し始め、事態が収束しつつあった10月2日、第二三航空隊は解隊され、<大鯨>も母艦任務を解かれた。同月、上海近海から戻った<大鯨>は工事を再開する。この工事で<大鯨>には船体の補強やバルジの装着、固定バラストの追加などが施された。そして新たに高射装置や射出機1基を搭載。これにより排水量が増加している。
1938年9月5日、<大鯨>は第一潜水戦隊に編入され、旗艦の座を<伊7>から譲り受ける。そして10月、潜水艦を引き連れて北支方面や南洋方面へ進出。20日から22日にかけてアモイに入港。この時に速力の遅さが仇となって、艦隊潜水艦について行けないという欠点が判明した。
1939年3月、中国方面に進出する。続いて帝國海軍料理コンテストに参加。奇しくもテーマは鯨肉であった。<大鯨>は「大鯨麺」を出品した。他にもフーカデンビーフを出品。茹でたじゃがいもを卵に包んだ料理で、こちらはレシピが残っているという。8月には南洋方面に進出している。11月15日、<大鯨>は予備艦となる。
1940年11月15日、練習巡洋艦<香取>等とともに第六艦隊第二潜水戦隊へと編入。
1941年1月16日、第六艦隊旗艦を1日だけ<香取>から引き継いでいる。
1941年4月、伊号潜水艦9隻を指揮下に入れ、日本から遠く離れたマーシャル諸島クェゼリン環礁へと身を移す。前々から真珠湾への攻撃を企図していた日本海軍はハワイ周辺に潜水艦を複数忍ばせており、その潜水艦の活動拠点がクェゼリンにあったのである。しかしクェゼリンは潜水艦基地としては未完成で、基地として機能するには潜水母艦の助力が必要不可欠という有様だった。5月3日、現地で第三潜水戦隊に編入され、<伊7>から旗艦を継承。7月、政府が南進政策強行を決定。それに伴い米国が空母戦力の増強を始めたため、帝國海軍も優秀商船の改装工事に着手。<大鯨>も空母化が決定する。
1941年11月中旬、真珠湾攻撃に向かう途中の潜水艦がクェゼリンに寄港。<大鯨>から燃料と弾薬の補給を受け、帽子を振って真珠湾に向かっていったという。
こうしてクェゼリン環礁での任務を終えた<大鯨>は本土に回航され、日米開戦直前の12月4日に呉軍港に帰還。15日に特設潜水母艦<靖国丸>に旗艦の座を譲り、第三潜水戦隊から抹消された。
12月20日、横須賀工廠に回航され本来の目的通り空母への改装に着手した。改装自体は3ヶ月という短期間で終わるはずだったが、欠陥が発覚したディーゼル機関を陽炎型と同じ機関に換装する大工事により予定に遅れが生じ、さらに1942年4月18日のドーリットル空襲で艦首付近に被弾、7名の負傷者を出した。<大鯨>に500ポンド爆弾を投下したB-25は、鹵獲対策としてボイコー照準器を外しており、爆弾が命中したのは不運としか言いようが無かった。改装に加え、この修理のため4ヶ月、工期が延長した。
改装要領は、一足先に空母となった瑞鳳型に準じた。
上部構造物を撤去して艦尾後部を延伸し、船体後部に一組、羅針艦橋に二組の支柱を追加、全長185メートル、中央幅23メートルの飛行甲板を設置した。もとから艦載機用の昇降機が1基設置されていたが、加えて船体後端部にもう1基を増設。端に昇降機を設置したのは、格納庫を広く取るためと搭載機整備の効率化を狙ったためである。遮風柵は瑞鳳型とは異なり、羅針艦橋の真上に装備された。着艦制動索も瑞鳳型から一索が追加され、計八索となった。飛行甲板両舷には隠顕式探照灯が左右1基ずつ搭載され、船体後部には艦載機回収用クレーンを設置した。
1942年11月28日、改装終了。30日に<龍鳳>と命名されて空母に生まれ変わった。同時に舞鶴鎮守府へ転籍。余談だが、改装の際に撤去された<大鯨>の艦橋は後に横須賀基地の管制塔になり、戦後しばらくは残っていたらしい。
<大鯨>が抜けた穴は大きかったようで、一度は引退させた旧式の<長鯨><迅鯨>を復帰させて、潜水艦隊の支援に充てさせたという。以降、旧型の迅鯨型と商船を改装した特設潜水母艦が潜水艦隊を支えていく事になる。
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最終更新:2024/04/23(火) 15:00
最終更新:2024/04/23(火) 15:00
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