天文の乱とは、天文11年から17年までの6年間(1542年 - 1548年)に伊達稙宗と伊達晴宗の間で繰り広げられた乱である。別名「伊達氏洞の乱」
伊達稙宗と伊達晴宗父子の間で数年にわたって繰り広げられた乱。それまで南奥で力を持っていた白河結城氏が衰退する中、権勢を増した伊達氏であったが、伊達稙宗の権力強化は反発を次第に生んでいた。また、その政策の結果、姻族関係が複雑化し、合従連衡が横行。非常に大規模な戦争になったのである。
しかし結果的には伊達晴宗の勝利で終わり、彼による新体制が構築。客観的に見れば「ガス抜き」となり、軍事を通じて発揮されたリーダーシップによって、新秩序が形成されていったのである。
時は平安時代から鎌倉時代にかけてのころ。奥州合戦で功績をあげた伊達氏は、伊達郡を本貫地として、広範な所領を有したのだ。あけて南北朝時代、伊達宗遠は当初南朝の主力であったが、北朝方に身を転じた後、一気に勢力を拡大させる。
細川氏との太いパイプを持っていた伊達氏は、鎌倉公方をけん制したい足利将軍家と結びつき、南北に統治範囲を拡大。諱も代々足利将軍家から偏諱を授かり、南奥の主要な勢力の一つとなっていたのである。さらに伊達氏は、嫡流の力が強大だったため、関東の伝統的豪族のような家督争いもほとんど起きず、伊達尚宗の代に至るまでで、後の伊達政宗の統治範囲をほとんど有していたのであった。
そして伊達稙宗の時代に入る。伊達稙宗は奥州探題であった大崎氏にならぶ左京大夫に任じられ、未曾有の陸奥国守護職に任じられたのである。さらに、蘆名氏と連携しながらその職に恥じぬよう外征を繰り返し、奥羽の上位調停者としてふるまったのである。そして天文7年(1538年)には越後国守護職・上杉定実に、自身の息子時宗丸(伊達実元)を後継者として送り込むことさえ内定させたのだ。
さらに伊達稙宗は棟役と段銭の徴収制度さえ整備させ、内政においてもその手腕を発揮した。紛争の調停者として、教科書でおなじみの塵芥集を制定したのもこの頃であった。さらにおおよそ五段階に分かれる家臣団統制も可能にし、まさにその権勢は頂点に達したのである。
と、ここまで見てきたように、伊達稙宗の統治はかなりの成果を上げ、伊達晴宗にバトンタッチされた。こうして東国でしばしばみられる、二頭体制が敷かれたのである。
ところが天文11年(1452年)6月、鷹狩りの途中で伊達稙宗は、伊達晴宗の手のものに捕らえられ、桑折西山城に幽閉されたのだ。
かつてこの原因は伊達実元の上杉定実への養子入りにあると考えられてきた。つまり、実子のいない上杉定実に伊達実元を後継者とさせることで、家臣団が多くこれに従い、伊達家中が空洞化する、といったものである。この原因は江戸時代の『伊達正統世次考』に記されていたものであった。
しかし東北や北陸の自治体史編纂の過程で多くの史料が新たに研究の対象とされ、今では実際には天文7年(1538年)に内定していたこの案件で乱がおきるのは不自然である、と言われるようになった。では、どうしてこの乱が起きたか、というので別に浮上してきた原因が、伊達稙宗の娘婿で、有力国衆の懸田俊宗と伊達稙宗の接近である。伊達晴宗はこれを警戒し、分断を図ったとするのである。
どちらにせよ、伊達晴宗によって伊達稙宗が幽閉された。しかし、小梁川宗朝に伊達稙宗はあっけなく救出され、懸田俊宗、金沢宗朝、堀越能登、富塚仲綱といった譜代家臣を率い、伊達稙宗は西山城の奪回をもくろんだのである。しかし、桑折景長、小梁川親宗、新田景綱、白石宗綱、中野宗時、牧野宗興といった有力な家臣団は、伊達晴宗方についたのである。
ここまで見れば、せいぜい家中の権力争いによる内紛程度に見える。しかし、この天文の乱が特徴的なのは、かなり広範囲の大名や国衆を巻き込んでいったことである。
伊達稙宗は上位調停者としてふるまう中で、周辺の大名、国衆をどんどん親族にしていった。その結果、伊達稙宗の子で養子入りした葛西晴胤、大崎義宣を筆頭に、娘婿の相馬顕胤、蘆名盛氏、最上義守、国分宗政、粟野長国、亘理宗隆、黒川景氏といった周辺領主はほとんど伊達稙宗方についたのである。一方小勢力ながらも、伊達晴宗方には、岩城重隆、大崎義直、留守景宗といった人々がついた。
こうして圧倒的な数の優位に立った伊達稙宗方は、天文15年(1546年)についに、本城である西山城を攻略する。耐えきれなかった伊達晴宗は、桑折郡白石城に退去した。
しかし、伊達稙宗方優勢のピークはここまでであった。西山城から北の白石城に本拠地を移した伊達晴宗方は、それまで大崎義宣、葛西晴胤に対し留守景宗が孤軍奮闘する状況だったのを打開。大崎義宣を送り込まれていた大崎義直が、これを掣肘し、大崎領内に押しとどめたのである。
さらに南部戦線では蘆名盛氏が、伊達晴宗方に寝返った。伊達晴宗は置賜の米沢城に移り、家中の支持を拡大。ついに天文17年(1548年)には、伊達晴宗の優位が確定したのである。
こうした状況下で、足利義輝による和解勧告が行われた。蘆名盛氏、岩城重隆、懸田俊宗、相馬顕胤、二階堂輝行らが仲裁に入り、ついに両者は和解したのである。
和解の結果桑折西山城は拝譲渡され、伊達晴宗は出羽国置賜の米沢城に、伊達稙宗は伊具郡丸森城に移った。そして伊達晴宗は伊達氏当主の地位を確保し、実質的な勝者となったのである。この背景には伊達稙宗の政策の反発から、家中の多くは伊達晴宗方についていたことが大きかったようだ。
そして伊達晴宗は、伊達稙宗の逆を行く。まず天文22年(1553年)には懸田氏を滅亡に追い込む。このように伊達稙宗方の所領を没収していく一方で、天文の乱で自分に寝返った伊達実元には信夫郡大森城主を任じ、自身の重臣としたのだ。
こうして乱の論功行賞を明らかにし、家中を統制していった伊達晴宗は、天文24年(1555年)に左京大夫に任じられ、ついに父・伊達稙宗さえ任じられなかった奥州探題に任命されたのである。守護代を桑折貞長、牧野宗仲とし、引き続き蘆名盛氏と同盟を結んだ伊達晴宗は以後しばらく目立った軍事行動に出ることはなかった。
しかし、歴史は繰り返す。伊達晴宗はやがて息子の伊達輝宗と対立していくのだが、それは別の物語である…。
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