天理村とは、
である。本記事では上記1.について記載し、一部で2.にも触れる。
1934年(昭和9年)に、天理教のバックアップの元に天理教信者らが当時の満州国に創設した、いわゆる開拓村である。満州国の浜江省阿城県第三区に在しており、大都市「哈爾賓」の近郊と言える位置にあった。中央集落「生琉里」(「ふるさと」と読む)と、後に人口増加によって追加として開拓された別集落「西生琉里」があった。
天理教の信者の中からの希望者らによって村の建設・運営が行われたため、団結力が強かった。また、初期には開拓に参加して間もない経済的に苦しい開拓者を支援するために村内紙幣の発行・貸付も行われるなど、珍しい試みも行われていた。
農作業を始めとした開拓事業を行っていたことはもちろん、現地人に対する天理教の布教も行われていた。一説によると、2500人の現地人信者を獲得していたとも言われる。
宗教を背景とした団結力や積極的・計画的な運営などが効を奏してか、開拓村の中ではかなり成功した部類であったという。天理教の教会・学校・診療所・電報電話設備・図書館・郵便局があり、請願巡査が配置され、さらにはハルビン市郊外から軽便鉄道までもが整備された。
ちなみに余談だが、日本語版Wikipediaには「天理村」の記事の他にこの軽便鉄道「天理鉄道」の記事も存在しているのだが、鉄道マニアの編集者による熱意によってか後者の方がやたらと詳細で、天理村について知るには「天理村」の記事よりも「天理鉄道」の記事を見た方がよいという奇妙な状態になっている(2020年2月23日現在)。
こういった「成功例」を確認するため、天理村には多数の視察者が訪れたという。そういった視察者らによる記録は、天理教内からの視点ではなく天理教外からの(時に偏見も交わった)視点を知ることが出来る資料となっている。
哈爾浜から五里くらい入った所に天理村というのがある、これは天理教の経営であって戸数は六十四戸、家族を併せて約三百三十名くらいである、土地は千五百町歩もっているが村民は信仰によって結ばれ、共同経営をやっている、場所が哈爾浜に近く農産物や加工品はトラックで哈爾浜に運ぶことが出来るので販買は或る程度成功している、この移民は移民の豪華版で集団部落には立派な土塀をめぐらし、その上に張りめぐらされた鉄条綱には電流をさえ通じてある、その上立派な教会兼集会所兼託児所をもち煉瓦建の小学校があり、請願巡査がおり、電信電話の設備がある、目下哈爾浜までの私設軽便鉄道を建設中である、従って村の建設費も一戸当り一万円を超すという贅沢振りで、他の移民村の千円か千百円に比すると格段の差である、移民には相違ないがこれは贅沢移民というべきで農業移民の見本には一向なり難い[1]
なお奇異に感じたことの一つは、この村の人たちのいずれも屈託のない、極めて楽天的な顔をしていることだ。信仰心によって安心立命を得ているせいかも知れぬ。かの国防を論じ国策をとなえ、眼じりをつり上げている拓務省移民にはややもすれば窮屈な悲壮な色が見られた。こういう、拓務省移民に慣れた僕等の眼には、何のくったくのないゲラゲラ笑っているこの村の人達の笑顔は気味悪い位に感ぜられた。何だか狐につまれた様な一日であった。[2]
など。
どちらもその成功ぶりを描写しているが、前者は「移民の豪華版」とか「贅沢移民」などと少しトゲを感じるような表現をしており、後者に至っては「何のくったくもなくゲラゲラ笑っている」「気味悪い」などと、かなり失礼な書き方をしている。
しかしその歴史の終盤では、他の開拓村と同様に戦況の悪化や終戦に伴って食料・安全事情は悪化していった。ソ連の軍隊も天理村に到達し、連行された住民らが銃殺される事件も起きたという。終戦後初の越冬は厳しいものとなり、多数の死者が出た。
終戦の翌年、1946年になると集団での引き揚げが行われ、千余名が日本に帰り着いた。いわゆる残留孤児も数人確認されていると言われる。天理教の信者となっていた現地人のその後については不明である。
引き揚げ後、一部の元天理村住民らは日本国内で集団で定住した。
三重県伊賀市と奈良県奈良市にそれぞれ「生琉里」という地名があるが、これは引揚者らが上記の天理村中央集落「生琉里」を偲んで名付けたものだとも言う。
これらのほか、かつては三重県一志郡八知村(2021年現在の三重県津市美杉町八知)にも「八知生琉里」という地名が存在していたらしい。上記の伊賀市の「生琉里」も創設当時は単に「生琉里」ではなく「伊賀生琉里」と呼ばれることがあったようだ。
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天理村のあった場所は現在の中華人民共和国では「天理屯」という住居区分となっている。
2018年に行われた「天理屯」の現地取材記録によると、わずかながら「天理村」当時に建造された建造物も現存しているという[3]。
この「天理屯」付近のバス停の名称が「天理村」となっているところを見るに、「天理村」の名称も使用され続けているようだ。
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最終更新:2024/04/24(水) 20:00
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