天理村 単語

テンリムラ

3.4千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

天理村とは、

  1. 満州国江省哈爾の近郊に1930~40年代に存在した、宗教団体「天理教」が創設した開拓
  2. 中華人民共和国江省哈爾にあるバス停。元をたどると1.に由来する

である。本記事では上記1.について記載し、一部で2.にも触れる。

概要

1934年昭和9年)に、天理教バックアップの元に天理教信者らが当時の満州国に創設した、いわゆる開拓である。満州国江省県第三区に在しており、大都市「哈爾賓」の近郊と言える位置にあった。中央集落「生里」(「ふるさと」と読む)と、後に人口増加によって追加として開拓された別集落「西生里」があった。

天理教信者の中からの希望者らによっての建設・運営が行われたため、団結が強かった。また、初期には開拓に参加して間もない経済的に苦しい開拓者を支援するために紙幣の発行・貸付も行われるなど、しい試みも行われていた。

農作業を始めとした開拓事業を行っていたことはもちろん、現地人に対する天理教布教も行われていた。一説によると、2500人の現地人信者を獲得していたとも言われる。

成功

宗教背景とした団結や積極的・計画的な運営などが効を奏してか、開拓の中ではかなり成功した部類であったという。天理教教会学校・診療所・電報電話設備・図書館郵便局があり、請願巡査が配置され、さらにはハルビン郊外から軽便鉄道までもが整備された。

ちなみに余談だが、日本語Wikipediaには「天理村」の記事exitの他にこの軽便鉄道「天理鉄道」の記事exitも存在しているのだが、鉄道マニア編集者による熱意によってか後者の方がやたらと詳細で、天理村について知るには「天理村」の記事よりも「鉄道」の記事を見た方がよいという奇妙な状態になっている(2020年2月23日現在)。

こういった「成功例」を確認するため、天理村には多数の視察者が訪れたという。そういった視察者らによる記録は、天理教内からの視点ではなく天理教外からの(時に偏見も交わった)視点を知ることが出来る資料となっている。

一部を抜して紹介すると

哈爾から五里くらい入った所に天理村というのがある、これは天理教の経営であって戸数は六十四戸、家族を併せて約三百三十名くらいである、土地は千五町歩もっているが村民は信仰によって結ばれ、共同経営をやっている、場所が哈爾に近く農産物や加工品はトラックで哈爾に運ぶことが出来るので販買はる程度成功している、この移民移民版で集団部落には立な土塀をめぐらし、その上にりめぐらされた条綱には電流をさえ通じてある、その上立教会兼集会所兼託児所をもち煉瓦建の小学校があり、請願巡査がおり、電信電話の設備がある、下哈爾までの私設軽便鉄道を建設中である、従っての建設費も一戸当り一万円をすという贅沢振りで、他の移民の千円か千百円すると格段の差である、移民には相違ないがこれは贅沢移民というべきで農業移民の見本には一向なり難い[1]

 なお奇異に感じたことの一つは、このの人たちのいずれも屈託のない、極めて楽天的な顔をしていることだ。信仰心によって安心立命を得ているせいかも知れぬ。かの防を論じ策をとなえ、眼じりをつり上げている拓務省移民にはややもすれば窮屈な悲壮な色が見られた。こういう、拓務省移民に慣れた等の眼には、何のくったくのないゲラゲラ笑っているこのの人達の笑顔は気味悪い位に感ぜられた。何だかにつまれた様な一日であった。[2]

など。

どちらもその成功ぶりを描写しているが、前者は「移民版」とか「贅沢移民」などと少しトゲを感じるような表現をしており、後者に至っては「何のくったくもなくゲラゲラ笑っている」「気味悪い」などと、かなり失礼な書き方をしている。

終焉

しかしその歴史の終盤では、他の開拓と同様に戦況の悪化や終戦に伴って食料・安全事情は悪化していった。ソ連の軍隊も天理村に到達し、連行された住民らが殺される事件も起きたという。終戦後初の越は厳しいものとなり、多数の死者が出た。

終戦の翌年、1946年になると集団での引き揚げが行われ、千余名が日本に帰り着いた。いわゆる残留孤児も数人確認されていると言われる。天理教信者となっていた現地人のその後については不明である。

引き揚げ後、一部の元天理村住民らは日本国内で集団で定住した。

三重県伊賀市奈良県奈良市にそれぞれ「生里」という地名があるが、これは引揚者らが上記の天理村中央集落「生里」をんで名付けたものだとも言う。

これらのほか、かつては三重県一志八知2021年現在三重県津市町八知)にも「八知生里」という地名が存在していたらしい。上記の伊賀市の「生里」も創設当時は単に「生里」ではなく「賀生里」と呼ばれることがあったようだ。

現在

天理村のあった場所は現在中華人民共和国では「理屯」という住居区分となっている。

2018年に行われた「理屯」の現地取材記録によると、わずかながら「天理村」当時に建造された建造物も現存しているという[3]

この「理屯」付近のバス停の名称が「天理村」となっているところを見るに、「天理村」の名称も使用され続けているようだ。

関連商品

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ(神戸大学経済経営研究所) 新聞記事文庫・東京日日新聞 1936.11.1 (昭和11) 移民および植民(23-177)exit
  2. *足立茂藤英『満洲の移民村を訪ねて : 昭和十二年八月一日-九月八日』という古書のうち、天理村について扱った章を抜粋紹介しているウェブページexitから転載。ちなみに原書は「関連リンク」に示したように国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。
  3. *長谷川怜. 『天理村十年史』解説 天理村の概要とその特徴. 2018exit
この記事を編集する

掲示板

掲示板に書き込みがありません。

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/24(水) 20:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/24(水) 20:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP