こんな人物が、ほんとうにいたのか。
『天竺熱風録』というのは、田中芳樹による小説作品でございます。
はじめ新潮社よりハードカバーにて出版されまして、のちには祥伝社にうつりノベルス、ついで文庫として刊行されました。祥伝社版では、藤田和日郎が表紙画を描いております。
2016年から2019年にかけては、伊藤勢により漫画化されました。月刊ヤングアニマルへの掲載でして、全6巻にて堂々完結と相成りましたが、これについて語るのはのちのことにしたく思います。
時は中国の唐代、遣天竺使節として3度(あるいは4度)にわたり、幾千里もの旅程を越えて天竺(インド)とのあいだを往還したことで史上に名を残しております外交官、王玄策を主人公とし、その第二回の天竺行と、彼が旅先でまきこまれることとなった騒動の顛末を描いた物語が『天竺熱風録』であります。
執筆にあたり、中国明清時代の章回小説、つまり回を分けての講談ふうの小説という体裁を取りましたのが大きな持ち味でありまして、作者本人は「疑講釈文」と表現しておりますが、いわば口語体の演義小説のようなものとお思いください。全10回、次回への引きで章を締めるのも特徴でございます。
王玄策は正史に伝もなく、著書は散逸して史料も少なく、学界の外ではほとんど知られぬ人物です。ゆえに『天竺熱風録』の物語の多くは、彼の功績と名を世の人々に広めたいと考えた作者による娯楽小説としての脚色ではありますが、しかし彼が実在したこと、中華と天竺とを往還したこと、そして世にまれな奇功をあげたことは、まちがいなく正史に残っていることであります。
さて、それでは王玄策は、故国をとおくはなれた天竺の地で、いかなるさわぎに遭遇したのでしょうか。それは次項で語ることといたしましょう。
『天竺熱風録』が物語りますのは、大唐王朝、太宗皇帝の御宇なる貞観年間に、王玄策なる、さほどえらくもない専門官僚が、はるかとおく天竺まで外交使節としておもむいた、その顛末でございます。
貞観21年春3月、王玄策を正使とする国使一行は、副使に蔣師仁、さらに王玄策の従弟王玄廓、学僧の智岸、彼岸などを随行として、唐の長安を出立いたしました。彼らは蜀の成都から密林と荒野をこえ吐蕃(チベット)の国都拉薩(ラサ)、天空の頭サガルマータを遠望する雪山(ヒマラヤ)をのぼりネパール国の都加徳満都(カトマンズ)を経て、ようよう天竺へと着いたのであります。
しかし天竺の都たる曲女城(カナウジ)で、王玄策は意外な報をうけます。天竺の盟主たる戒日王(ハルシャ・ヴァルダナ)がすでに身罷られ、阿祖那(アルジュナ)なる新王が即位したというのでした。王玄策と一行は新王阿祖那の兵にとらわれ、投獄されてしまいます。このままではいずれ殺されるのみ。その前に、なんとか脱走して事態を通報し、援兵を得なければなりません。そう考えた王玄策は、同じ牢にいた那羅延娑婆寐(ナーラーヤナスヴァーミン)なるあやしげな老バラモンの力を借り、蒋師仁とふたりで牢を抜け出ました。
脱走したふたりは、阿祖那に軟禁されておりました戒日王の老妹君ラージャシュリー殿下と隷僕の少女ヤスミナに出会います。彼女たちの助けで曲女城をのがれ、たどりついたのはネパールのナレーンドラ・デーヴァ王のもと。ついに王玄策は、若きラトナ将軍率いるネパール騎兵7000、論仲賛将軍率いる吐蕃の精鋭1200の援兵を得て天竺へと舞い戻り、象兵あわせて10万を誇る阿祖那軍と対決することとなるのです。
しかし、ここで終わりまですべてを語ってしまうのも興ざめなこと、ここからは趣向をかえて、物語に登場する方々について語りたく思います。興味のわいた方は、ぜひ次項もお読みください。
これより述べますのは、あくまで『天竺熱風録』の物語のうちのことでございます。史実と異なること、史書に述べられておらぬことも多いやもしれませんが、そこはそれ、物語のこととご承知おきください。
大中華(マハー・チーナ)の現王朝でございます。時の皇帝は太宗李世民、隋末唐初の混乱もいまだ記憶に新しくはあるものの、後世に「貞観の治」として知られる安定平和の時代のさなかにあります。
世に大天竺(マハー・バーラタ)と申すように、「天竺」とは文明世界の名でありまして、ひとつの天竺国をなしているわけではありません。この頃の天竺では伝統的に摩伽陀国が中心となっており、この摩伽陀国から天竺に覇をとなえた戒日王を実質的な天竺皇帝となしておりましたが、その下には東天竺国、金耳(カルナスヴァルナ)国、迦没路(カーマルーバ)国など無数の国、数多の王がいたのでございます。
雪山(ヒマラヤ)をこえた先の高地にある小国がネパール国です。時の国主はナレーンドラ・デーヴァ王で、小国ながら唐と天竺の二大国のあいだで存在感を発揮すべく立ち回っております。隣国の吐蕃には対抗意識がありますが、幼少のころ叔父に簒奪されたナレーンドラ・デーヴァ王が亡命したのも吐蕃であり、数代前の王の娘プリクティ姫が嫁いでもいるなど、親しい仲でもあります。
中華西方の山地にある国です。かつて吐谷渾が亡びたあとに勃興し、唐の西の強敵となりました。時の国主は英雄王ともいうべき名君ソンツェン・ガンポ王で、大唐より正三品・右衛大将軍に叙された大宰相、禄東賛(ガルトンツェンユルスン)の輔佐をうけております。お妃のひとりを文成公主といい、呼び名の通り大唐の皇族の姫君が降嫁したお方ですが、この婚姻により、この頃の大唐と吐蕃はおだやかな関係を保っております。王はもうひとり、ネパールからもお妃をもらっており、同様の友好状態でありました。
『天竺熱風録』の物語を彩る主な人々は、以上に述べましたとおりでございます。次項では漫画版にふれることといたしましょう。
伊藤勢によって、2016年より2019年まで漫画化が行われました。単行本は白泉社ヤングアニマルコミックスより刊行されておりまして、全6巻となります。
漫画化にあたりましては、活劇を得意とし、インド・ネパール方面への造詣も深い伊藤勢のこと、彼らしい作風でさまざまな改変がくわえられました。原作における小説ならではの講談調には無理に頓着することなく、“外交山師”としての王玄策のすがたを描きだす、また別の味をもった名作となっております。
第1話のみではございますが、ニコニコ静画マンガにて試し読みすることもできます。
そろそろ語るべきこともつきまして、『天竺熱風録』の紹介は、このあたりでおしまいといたしましょう。最後に関連する項目・語句を申し述べて、記事の締めとさせていただきます。
舞いあがり舞い落ちる花びらのなかへ、天竺全土を震撼させた男はゆっくりと歩みいり、音もなく姿を溶け込ませていきました。
王玄策がいつどのように死んだのか、彼の墓はどこにあるのか、後世の者は誰も知りません。
掲示板
1 ななしのよっしん
2020/05/08(金) 08:47:48 ID: QWffmsMgwS
めっちゃ気合い入った良記事乙
原作小説も好きだけど、漫画版も伊藤先生の味が出ててこちらもかなり名作
ネパール王宮とかカナウジの背景美術が素晴らしかったから、ぜひアニメで見てみたいな
2 ななしのよっしん
2020/05/08(金) 11:21:33 ID: 52RhzfVVrd
@KS60さんへ
記事作製お疲れ様です。
個人的には、原作中での講談口調は余り娯楽上の必然性を感じませんでした。
火牛の計が2回も登場した点は使い回しに感じましたし、ネパール&チベット騎兵を駆使した前哨戦での戦術も説明が回りくどいと思いました。
ナーラーヤナ・スヴァーミン尊師(グル)のコインマジックも史実厨と化して異議を唱えたいですし、史実通りとは言え一部を除き無力な山師的な描写は物足りませんでした。
読書感想文じみて恐縮ですが、「尊師のご偉業を中心として、漫画版との対比で今少し物語って頂きたいのでございます(口調が移った)」。
トリビアルですが、成龍ことジャッキー・チェン氏主演のアクションコメディー冒険超大作映画『カンフー・ヨガ('17年公開)』の冒頭で王玄策大使が登場してアルジュナ殿の軍との決戦が描かれ、出落ち的ながら秘宝の謎にも関与しています(玄策大使の記事に相応しい内容ですが…)。
以上、宜しくご検討の上で今後の更新に反映させて頂ければ何よりです。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/10(水) 01:00
最終更新:2025/12/10(水) 01:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。