天雷単語

テンライ

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天雷とは、

  1. の事
  2. 江戸時代に使われた、舞台天井に仕掛けられた鳴を出す装置
  3. 大東亜戦争時に日本軍が試作した局地双発戦闘機

である。本項では3について記載する。

概要

開発の経緯

大東亜戦争開戦劈頭に行われた南方作戦にて、日本軍フィリピンアメリカ軍B-17爆撃機傷で鹵獲する事に成功。機体を解析したところ強な装甲を備えている事が判明、またミッドウェー海戦で干を交えた際に零戦ではが立たず、現在開発中局地戦闘機を以ってしても零戦同様に苦戦するだろうと判断されたため、ここに更なる重武装を施した双発戦闘機開発計画が始動した。

1943年1月帝國海軍中島飛行機に十八試局地戦闘機の試作を命アメリカでは既にB-17越するB-29開発スタートしており対抗となりうる兵器開発は急務であった。元々は排気タービンを搭載する予定だったが、開発の遅れから局地戦闘機に変更。4月17日に第1回官民合同研究会が、5月11日に計画要書案審議会が開かれ、要として最大速360ノット以上、実用上昇限度1万1000m、誉エンジン2基を搭載し、高度6000mで667km/hを出せ、同高度までの上昇時間は6分以内、武装は20mm及び30mm機関それぞれ2基を装備、防弾装備等を提示した。後に月光が装備していた斜が対B-17戦に有効だと判明して追加装備している。

B-29の大群に攻撃を仕掛けるにあたって敵の集中火を突破する必要があり、防御装甲を前面に集中、操縦席前面には20mm、防には50mmの防弾ガラスを設置。燃料タンクにも装甲を施して防漏対策がなされていた。高速で攻撃する関係上背後からの攻撃はないだろうと想定して背面の防御装甲は撤去。前方からの敵弾が搭乗員背後の防御装甲に当たって跳ね返り、かえって搭乗員を傷つける事例が確認されていたためこの事も撤去にしていると思われる。そして機体をコンパクトにして生産を容易にするため抗減少と軽量化を図り、部品の数を減らして工数も削減。座席は零戦とし、操縦桿とフットバー零戦のものを流用、操作パネル等は月光と共通にするなど低コスト化にを入れていた。視界も広く確保されており、日本機最良とまで呼ばれたとか。重量の過には細心の注意が払われており双発戦闘機でありながら単発烈風とほぼ同じのになっていた。機体のアイデアは二式陸上偵察機(のちの月光)から取られているとされる。帝國海軍はこの機体を制式採用、海軍航空本部に務めていた伊東裕満大佐が「天雷」と命名した。奇しくも月光の命名も彼である。

中島側は月光や九七式艦攻を設計した中村勝治技師を主任に据えた。かつて月光開発した際、海軍が盛りだくさんの要したせいで機体の重量が過してしまった教訓を活かし、海軍の要は控えめに、中島側の発言を強化して同じ轍を踏まないよう配慮。開発途中で大野和男技師に交代したが、1944年1月に試作一号機が完成3月には初飛行を行ったが、肝心の誉エンジンに泣かされた。誉エンジンは小で大出だったが、よく故障に悩まされた。おかげで計画より数値が下回る事が頻発し、高度6000mで596キロまでしか出なかった。キャビンに排気ガスが入り込んで脚の引っ込み装置の故障を誘ったり、低速での旋回性の悪さが露呈したり、安定性にも欠くなど欠点が次々に発覚。テスト飛行中に1機が墜落事故を起こしてしまっている。アメリカ軍襲で2機が破壊され、1機が脚の故障で不時着大破というを覆いたくなるような事故が相次いだ。

悪い事に、海軍から技術ではない素人が性に口出しするようになり、中島を困らせた。渋々要を受け入れるも、重量過多になって完成が遠のいてしまう。それでも1945年1月には1000機の開発が予定されていたが、天雷の命運は突然断ち切られてしまった。トドメになったのは、B-29爆撃によって武蔵製作所が壊滅した事だった。この製作所は誉エンジンを製造しており、安定供給が見込めなくなってしまった。1944年海軍内での機種削減統一の玉に挙げられ、開発機の絞り込みテストに失敗。1945年1月、正式に開発中止を突きつけられ、天雷は歴史の闇に葬られた。

1945年2月に6号機が完成したのを最後に開発計画は凍結。既に完成していた6機の試作機のうち、5号機と6号機は夜戦用に複座へ改造機関用弾倉を外して計測員席を増やしている。残り3機が斜を装備して実験に使用された。試作機に250kg爆弾2発を搭載して特攻に使おうとしたが、改造前に1号機が胴体着陸で大破。2号機と5号機が事故で大破し、1945年7月襲で4号機も大破してしまった。マイナー機体だったせいか、終戦まで連合軍は天雷の存在を知らなかったという。エンジンを誉四一に換装した天雷が計画されていたが、実行には移されなかった。

終戦後、6号機のみが残っていて、アメリカ軍が技術調のため本に持ち帰っている。現在メリーランド州のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設にて展示されている。

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