天雷とは、
である。本項では3について記載する。
大東亜戦争開戦劈頭の南方作戦にて、日本軍はフィリピンでアメリカ軍のB-17爆撃機を無傷で鹵獲。機体を解析したところ強力な装甲を備えている事が判明した。続くミッドウェー海戦で干戈を交えた際は、爆撃の精度こそお粗末だったが、零戦では歯が立たず、現在開発中の局地戦闘機を以ってしても零戦同様に苦戦するだろうと判断されたため、帝國海軍は更なる重武装を施した双発戦闘機の開発計画を始動させた。基本設計については十三試双発陸上戦闘機(後の夜間戦闘機月光)をベースにしている。
1943年1月、帝國海軍は中島飛行機に、「超大型重爆撃機を一撃で撃墜可能な火力」「爆撃機を必ず捕捉出来る上昇力と速力」「基地周辺の局地的防空が可能」な十八試局地戦闘機の試作を命令。アメリカでは既にB-17を超越するB-29の開発がスタートしていて対抗馬となりうる兵器の開発が急務であった。
中島側は月光、九七式艦攻を設計した実績を持つ中村勝治技師を主任に据えた。かつて月光を開発した時、海軍が盛りだくさんの要求をしたせいで機体の重量が超過してしまった失敗を反省し、海軍の要求は控えめに、中島側の発言力を強化して同じ轍を踏まないよう配慮。また開発途中で主任が大野和男技師に交代した。
B-29の大群に攻撃を仕掛けるにあたって、敵の集中砲火を突破する必要があり、防御装甲を前面に集中、操縦席前面には20mm、風防には50mmの防弾ガラスを設置、燃料タンクにも装甲を施して防漏対策がなされた。一方、高速で攻撃する関係上、背後からの攻撃はないだろうと想定して背面の防御装甲は撤去。前方からの敵銃弾が搭乗員背後の防御装甲に当たって跳ね返り、かえって搭乗員を傷つける事例が確認されていたためこれが撤去を後押ししたと思われる。
B-17をも超越する銀翼の怪鳥を屠るには、広く採用されていた7.7mm機銃では威力不足のため、30mm機関砲と20mm機関砲2門を機首部に集中配備し、一斉射撃で敵大型機を撃墜出来るよう工夫した。
そして機体をコンパクトにして生産を容易にするため、抗力減少と軽量化を図り、部品の数を減らして工数も削減、座席は零戦の改修型とし、操縦桿とフットバーは零戦のものを流用、操作パネル等は月光と共通にするなど低コスト化に力を入れた。視界も広く確保されていて日本機最良とまで呼ばれたという。重量の超過には細心の注意が払われ、双発戦闘機でありながら単発の烈風とほぼ同じの主翼になっていた。本来は排気タービンを搭載する予定だったが開発の遅れから局地戦闘機に変更。
帝國海軍はこの機体を制式採用。海軍航空本部に務めていた伊東裕満大佐が「天雷」と命名する。記号はJ5N。
1943年4月17日に第1回官民合同研究会が、5月11日に計画要求書案審議会が開かれ、要求性能として最大速力360ノット以上、実用上昇限度1万1000m、高度6000mで667km/hを出せ、同高度までの上昇時間は6分以内、武装は20mm及び30mm機関砲それぞれ2基を装備、防弾装備等を提示した。後に月光が装備した斜銃が対B-17戦に有効だと判明して追加装備。エンジンには中島製の小型・大出力の誉二一型2基を採用。
中島からの提案に満足した海軍は試作機12機の製造を指示。製造自体は順調に進み、1944年5月に強度試験用の零号機が、6月26日に試作1号機が完成、砲を持たない状態で7月13日(7月8日とも)初飛行を行った。しかしここで肝心な誉エンジンが天雷の足を引っ張る。計画値の663km/hに対し、実際は596km/hまでしか出せず、上昇力も高度6000m/6分の計画値を下回る8分であり、追い討ちとして振動や漏油、低速での旋回性の悪さ、キャビンへ排気ガスが入り込む事による脚の引っ込み装置の故障など安定性に欠く問題が次々に露呈。誉二一型は小型・高出力だが"個体差"があり、天雷搭載の誉はどうやらハズレだったようだ。
悪い事に、海軍から技術畑ではない素人が性能に口出ししてくるようになり中島側を困らせた。渋々要求を受け入れると重量過多になって完成が遠のいてしまう。それでも1945年1月には1000機の量産が予定されていたが…。
海軍内に「単座の双発機は不要」という雰囲気が漂い始め、天雷の居場所が徐々になくなり始めた。実際に単座双発機で成功したのは、アメリカ軍のロッキード P-38ライトニング戦闘機くらいであり、天雷を見る目が冷たくなっていくのも無理のない話であった。
1944年秋、海軍内で行われた機種削減統一の槍玉に挙げられ、開発機の絞り込みテストに不合格、それでも増大するB-29の脅威を背景に細々と開発が進められたものの、B-29の爆撃によって、誉エンジンを製造する武蔵製作所が壊滅してしまい、エンジンの安定供給が見込めなくなってしまう。そして1945年1月にとうとう開発中止命令が下されて天雷の歴史は闇に葬られた。その翌月に完成した6号機を以って計画は完全に凍結。
しかし航空機の絶対数不足に悩む海軍は6機の試作機を有効活用。5号機と6号機は夜戦用に複座へ改造、機関砲用弾倉を外して計測員席を増やし、残り3機は斜銃を装備して実験に使用した。特に3号機、5号機、6号機は仰角60度の30mm機関砲2門を付けて出撃、終戦直前に実用試験としてB-29の迎撃に上がっているが、これが天雷の数少ない出撃記録となった。
やがて試作機に250kg爆弾2発を載せて特攻作戦に投入しようとしたが、改造前に1号機が脚の故障で胴体着陸を強いられて大破、2号機と5号機は事故で大破し(空襲で破壊されたとも)、1945年7月の空襲で4号機も大破してしまった。終戦時に残っていたのは横須賀海軍航空隊の3号機と6号機のみだった。実戦投入されていないからか、終戦まで連合軍は天雷の存在を知らなかったという。
アメリカ軍は技術調査のため6号機を接収して本国に持ち帰った。現在、メリーランド州のポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設にて展示されており、試作機にしては珍しく現存機がある。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2026/08/17(月) 02:00
最終更新:2026/08/17(月) 02:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。