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太平洋戦争とは、第二次世界大戦1939~1945)のうち大日本帝国アメリカ合衆国英国中華民国オランダなどの連合軍と交戦局面をした呼称である。

概要

 英語ではPacific War第二次世界大戦太平洋東南アジアの戦線であり、中華民国支那事変日中戦争)、1945年8-9月ソ連日本との戦争も含まれる。

 太平洋戦争は1941年12月7日日本では8日)に始まったと考えられている。
 1937年7月7日支那事変1931年9月19日満州事変に始まるという意見もあるが、一般的に太平洋戦争自体が第二次世界大戦の一部となったのは1941年12月とされる。
 広島長崎原爆日本への大規模な襲、満州へのソ連侵攻の結果、1945年8月15日ポツダム宣言の受諾、玉音放送が行われ、9月2日に正式に終戦した。

- 参 戦  -

連合
 アメリカ  イギリス
 中華民国  オーストラリア
 オランダ  ソビエト連邦
その他多数

VS

枢軸国
 大日本帝国  タイ王国
 ヴィシーフランス  インド民軍
ビルマ 政府
その他

太平洋戦争の認識について

戦争の名称

 戦時中の連合では、第二次世界大戦太平洋戦線という名称であり、英ソは極東戦線と呼称し、中国は第二次中日戦争としていた。時の日本政府大東亜戦争と命名したが、これは陸軍による呼称であり、軍は太平洋戦争としていた。日本側の敗北により進駐して来た連合軍(GHQ)によって、公式文書で陸軍の名称は使用禁止にされ、代わりに太平洋戦争の言葉が代わりに用いられた。”大東亜戦争”はタブー扱いとされメディア教育での使用は控えられている。

戦争の認識

 現在に至るまで、太平洋戦争の認識には大きな偏りがある。大きな組みの中ではあまり意味のない戦いが過大に、重大な意味を持つ戦いが過少に扱われ、何も是正されないまま今日に至っている。

 大本営は二正面作戦の挫折から、対戦争が対中国戦争の経験からは想像もつかぬ厳しいものであることを思い知らされた。たるんでいる内体制を、ここで一挙に引き締めねばならない。その為には、南の果てでの苦戦の実態をある程度民に明かすことが必要だ。報道解禁の対として選ばれたのが、ガダルカナルである。民がだれ一人知らない小さなのことである、すでに撤退も終わっていたことが理由であろう。軍と政府はあらゆるメディアを動員して、ガダルカナルにおける敵戦の圧倒的強さを説き、産業戦士の決起を促した。しかしニューギニアについては一言半句も触れなかった。ニューギニアガダルカナルの両作戦の重要性を、戦局全体から見た場合、本命はもちろん前者である。「天皇録」には「私はニューギニアのスタンレー山脈を突破されてから、勝利の見込みを失った」と書かれている。だがニューギニアに関する新聞報道は、その後も皆無といってよい。ただ一つの例外は、マダン南方山中戦闘について「弾丸尽くして全員玉砕」の記事(朝日新聞1944129日)があるだけだ。1958年の広辞苑ガダルカナルで太平洋戦争中日戦の地と述べるが、ニューギニアでは戦争に全く触れていない。この点は1959世界大百科事典でも全く同じだ。この辞典では別に世界大戦の項があり、多くのページを費やしているが、やはりガダルカナルに詳しく、ニューギニア文字は見当たらない。ガダルカナルが著名なのに、現在でもニューギニアが知られていないのは、明らかに戦中の報道規制の後遺症である。

この偏りには米国も関与している。敗戦の年の12月8日から17日までの10日間、GHQの命で「連合軍部の叙述しせる太平洋戦争史」が記載された。的は日本人が間違った戦争報道を信じ込まされていたこと、本当の戦争の実情を暴露し民の旧体制に対する着・忠心にくさびを打ち込むことであった。しかし内容はワシントンの意向(トルーマンマッカーサー嫌いである)を強くんだもので、ミッドウェーのの転機からガダルカナルサイパンを経て沖縄終戦に至る「米海軍」の太平洋戦争史であった。また12月9日から翌年2月1日まで10回、ラジオ番組「相はこうだ」が放送され、その後継として「」が2111月29日まで41回も放送された。毎週900から1200通もの投書が寄せられ、その質問に「々」=「日本」がになって答える形式になっていた。「相はこうだ」でもニューギニアフィリピン戦は触れられていない。米海軍には太平洋の戦いは自分たちが役だという強いこだわりがあり、「マッカーサー軍の戦功でも横取りしてしまうので、そうならないよう自分らが建てた戦功はを大にして宣伝しなければならない」と警鐘を鳴らした軍軍人の回顧がある。米海軍は、軍と海兵隊による上陸作戦等の映像米国内で盛んに流し、日本軍を次々と打ち破っているのは米海軍であるというイメージアメリカ民に植え付ける努を怠らなかった。こうした広報活動によってワシントン空気軍寄りになったことは言うまでもない。マッカーサーGHQといえども、ワシントンの意向には逆らえなかった。

こうしてマッカーサー作戦を小さく扱い、ニミッツの活躍をより多く取り上げ、ライバル日本海軍を引き立てて善玉視する太平洋戦争史が、日本国民に刷り込まれた。

特に太平洋戦争の戦場となったニューギニアの戦いについては、日本でもアメリカでも極めて関心が薄く、豪州だけが非常に高いのが現状である。

開戦までの経緯

 アヘン戦争によって清国イギリスによって打倒されると、その衝撃が江戸幕府にもたらされた。かつて強であったはずの清の敗北は、さらにその先の日本へ進出することは時間の問題であった。西洋列強による開現実的なものとなり、速やかな国体の変革が急務であることを日本人に知らせる形になった。1867年薩摩閥、長州閥を中心とした西日本の雄により、江戸幕府は打倒され、明治維新が起こった。長閥を中心とした明治政府は、諸外から学び、技術導入だけでなく憲法や学制、医療、民法、軍政の導入など、様々な革を行い、を高めていった。

 日清戦争では、当時日本社会で認められ、列強の介入を防ぐために厳格に国際法を遵守し、捕虜の扱いに関しても模範を示す必要性を認め、明治天皇国際法を守り中国人を保護する考えを示した。事実この戦争で、清国兵1,970人を捕虜にしたが、再び日本軍を相手にして武器を取らないと宣誓させて全員釈放した。だが順大虐殺が起き、不等条約正に影を与えた、日本側は「清が邦人捕虜を残酷に処刑したため、報復として起こしたこと、また敵軍が軍服を脱いで市民に偽装したため、区別ができなかった。」と弁明した。清側が蛮行を宣伝するよりも逆に敗北を隠蔽する方向に圧をかけたことで収束に向かい、条約正にこぎつけたが、のちの反日感情および軍部の欺瞞パターンに影を落とした。
 大清を破った日本台湾半島広大な領土の割譲および2億両の賠償を手にする下関条約を結んだが、実費を大幅に上回る巨額の賠償と貿易上等の利権も得る他に、「半島台湾・澎」という条件が、当時の歴史的な実績からして過大であった。三干渉は、1895年(明治28年)4月23日フランスドイツ帝国ロシア帝国の三日本に対して行った勧告である。日本と清の間で結ばれた下関条約に基づき日本に割譲された半島を清に返還することをめる内容だった。こうした干渉に対し、首相伊藤博文は列国会議開催による処理を提案したが、外相陸奥会議でさらなる干渉を招く恐れをし、5月4日日本は勧告を受諾し、清との間に還付条約を結んで代償に3000万両(4500万円)を獲得した。

 外交では1902年(明治35年)1月30日日英同盟を締結してロシアとの対決姿勢を強め、1904年に日露戦争が勃発した。これは1899年のハーグ陸戦条約以後の初めての戦争であり、戦争法規が守られるか注された。日本は、際条規の範囲にて、大本営に法学者が出向き、前回の反から日清戦争の時よりさらに国際法を守ろうとた。陸軍の俘虜取扱規則で「俘虜は博の心をもって之を取扱い、決して侮辱虐待を加ふべからず」と明記され、想定外ロシア兵の捕虜79,367人を得たものの、病死させたものはわずか38人であり、日本軍の倍の給料を払って優遇し、戦後全員送還された。この時は日ロ両とも国際法を順守し、特に日本際的地位を高めた。不等条約の正や初めての植民地である台湾、ポーツマス条約に基づいてロシアから日本に租借権が移行した関東州、日韓併合として朝鮮半島などを領土とし大として歩み始めた。そして、日本を訪れた若き日のマッカーサーニミッツも大いに感嘆させたのである。

日本兵の大胆さと勇気指揮官の意志は封建の…。だがこのの人々は質素で礼儀正しく、親しみ深い。アジアはいずれ欧州より豊かになる。 ロシアを破った凱旋園遊会に首席したとき、東郷提督は快く々と歓談してもらい、感銘を受けた。軍士官としての東郷提督は私は尊敬している。

しかし一方で明治維新以来の政治軍事体制に変化が起こりつつあった。日露戦争を経て、英才児玉源太郎井上が死に、更に長州偏重の寺内人事が横行し、戦史課の英才東條英教や、名将黒木為楨・西寛二郎小川又次等が相次いで予備・後備になった。長州閥最盛の時であるが、日露戦争満洲軍総部のメンバーは陸大出で固められ、この辺りから陸大閥が現れ始める。

明治22年(1889)に発布された大日本帝国憲法によって定められた内閣制度では政府の政策意思決定は閣僚の全員一致でなければならなかった。このことは現在ではあまり知られておらず、一人でも抵抗して反対する大臣がいる場合、総理大臣は政策決定を回避するか、内閣総辞職かの二者択一の選択しかなかった。つまり現在のように総理大臣に権限は集中しておらず、総理大臣天皇の臣下・弼にすぎず、他の大臣を罷免することはできない仕組みだった。したがって何とか軍部を宥めて案件に同意させなければならなかった。元来軍は1882年の軍人勅諭により「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を厳命されていた。元軍人でも現役から退いていれば政治家となり首相となるものまでいたが、現役で軍に携わる者は政治活動を禁止されていた。しかし実際には「事実の解説並びに研究の結果」を発表するのは禁じられていないと解釈して、「防思想普及運動」などの宣伝活動を実施した。明治以来の資本主義を発展させる「富」の一方、農村は犠牲となった面があった。しかし明治以来長閥系の政治家・軍人は、三干渉に対する伊藤博文の対応のように基本的に親英協調政治で、現実義的政策を行っていた。兵士の出身であった農村の窮状は善されず、特に東北などの貧農等から軍部に支持が集まっていた。

第一次世界大戦とその影響

 1914年にヨーロッパ第一次世界大戦が勃発した。7千万以上の軍人が動員され、第二次産業革命による技術革新塹壕戦による戦線の着で死亡率が大幅に上昇、戦闘員900万人以上とジェノサイドの犠牲者を含む文民700万人以上が死亡した。この戦争では戦車航空機も登場した。

タンネンベルクの戦い

 1914年8月のタンネンベルクの戦いでは、ロシア軍は圧倒的な大軍に物を言わせてドイツ軍に挑んだが、三分の一の兵に過ぎぬルーデンドルフ揮のドイツ軍璧な包囲殲滅作戦により敗北を喫した。ロシア2軍20万人のうち帰する事が出来たのはわずか1万7000人だった。この戦いは、現場指揮官としてほれぼれするような大成功をにした永田山や石原莞爾ルーデンドルフを深く研究するなど、ドイツに留学・駐在を経験した武官を中心に、昭和期の日本陸軍の思考に大きな影を与えた。 劣勢の独軍が露軍を撃破した戦いは日本陸軍の一種の信仰対と化し、英雄ルーデンドルフの名も定着する。

ガリポリの戦い

海軍大臣チャーチル 軍大臣 この戦艦群があればトルコなんぞひと飲みよ。 英兵「なんて杜撰作戦だよ、ひいいいいい」 英国民「チャーチル、クビ!」

1915年3月チャーチルの強い導にこの作戦は決行された。「ガリポリの悲劇」の始まりだった。トルコ艦隊を突入させ、一気に首都を占領して背後からドイツを突くというこの戦略構想は抗しがたい魅を持つものであった。最強戦艦クィーン・エリザベスを先頭に、二十二隻のド級戦艦Z旗を掲げてダーダネル峡へ突入していく姿は壮麗であったが、均3マイルの幅しかなく、いたるところに機が仕掛けられ、その上には堅固に要塞化された切り立つ崖が両に延々数十キロにわたって続く峡を一体どうして突破できるというのか。予想通り、両からの撃と機照射の餌食となった戦艦オーシャンズの姿に、イギリス海軍は、作戦続行をあきらめた。しかし「ガリポリ」の悲劇はその後に始まる。艦隊の突入が不可能とわかったイアンハミルトン将軍は、海洋の西に延びるガリポリ半島に陸軍を上陸させ、これを占領して峡の制圧を図ろうとした。敵前上陸したANZAC部隊(豪州・NZ軍団)たちは、たちまち待ち構えていたトルコ兵の高所からの猛な十字火の的となった。その後、撤退までの8か撃と病魔に苦しみ続けた。もちろんの英軍はもっと大きな損を出した。WW2の首相となるクレメント・アトリーや、インパールのスリム元帥らは、この英軍の中にいた。8か作戦期間中、投入された兵50万をえ、そのうち実に26万の死傷者を出した。年末、陰に乗じて生存者を上へ救出する作戦だけが奇蹟の成功を遂げ、しかもロンドンの人々はこれを勝利の転進とする報道として聞かされた。

西部戦線

 1916年6月1日のユトランド戦では、イギリス側が艦船14隻(11万1千トン)と数千の兵を失ったのに対し、ドイツ側は11隻(6万2千トン)と少数の犠牲にとどまった。戦場での情報伝達など、組織としてのイギリス海軍線など全く存しなかった帆船・手旗の「ネルソンの時代」そのままであった。油断から先端の科学技術の利用に後れを取るとともに、組織の機低下と決断の果敢さの喪失というように、すべてが衰退を示唆する組み合わせとなっていた。
 ユトランド戦の翌フランス北部において英国陸軍が大規模に開始したソンムの戦いは、大英帝国心神喪失といってもいいくらいの挫折をもたらした。塹壕戦の陰な日々から逃れられるからといって、ヘイグ兵突撃の戦法が兵士にとって救いになるはずはない。7月1日英陸軍25個師団を投入する大攻勢が敵に向かって突撃した。作戦初日の突撃で7万数千の死傷者を出し、3かにわたって繰り返されたソンムの戦いは、50万の損を出すまで停止されることはなかった。とりわけイギリスエリートがこの大戦によって被った人的損失は圧倒的なものであった。1914年の時点で、50歳以下であったイギリス貴族男子の約20が戦死したといわれる。のちにイギリス首相を務めるイーデンやマクミランらはソンムで受けた傷の後遺症に障悩んだ。しかし彼らとともにオックスフォードケンブリッジキャンパスから出征していった同学年の友人たちの三人に一人は、二度と帰らぬ人となったのである。
 1917年7月11日ドイツ軍は新兵器としてマスタードガスを開発し、これを弾に積載した。連合ドイツに続いてマスタードガスやホスゲンガスなどのガスの使用を行った。続いて1710月から11月に行われたパーサンダーラ(パッシェンデール)の戦いは、近代戦の残酷さをまざまざと見せつけた。カナダ指揮官は損16000にもなるだろうという見解を表明したが、英軍ダグラス・ヘイグ(Butcher Haig)は何十万という損に動じなくなっており、攻撃を命した。3かの熾な攻勢で、イギリスはもとより、ANZACカナダ軍も甚大な喪失をこうむり、連合軍の損は約45万人に及んだ。イギリス政治家達は人的損全に補充することを渋るようになっていた。補充すればするだけ犠牲にされてしまうと恐れたためである。ロイドジョージ「パーサンダーラは戦争の最大の災害の1つだった。この知性のない作戦を擁護する兵士はいない」

アラビアのロレンス

 WW1末期ガリポリやソンムなど、挫折を繰り返していたイギリスに、々しい戦果が東方より伝えられた。1917年12月アレンビー将軍揮する英中東派遣軍が、エジプトからシナ半島を横断し、トルコ軍を追ってパレスチナへ向け進撃、エルサレムをも制圧したのである。それは開戦以来、3年数かにして、ようやく英国民が待ち望んでいた赫々たる勝利であった。アレンビーこそは、ガリポリのハミルトン及び西部戦線の総司令官ダグラス・ヘイグ無能と硬直に支配されたWW1の英国指揮官の中にあって、軍事の点で最も注すべき軍人であった。アレンビーは歴史の研究から、700年前リチャード獅子心王がエルサレム占領を果たせなかったのはマラリアの季節に進軍したからだということを発見したし、ナポレオンエジプト遠征軍を最も悩ませたのは敵軍ではなく、中東特有の眼炎であったことを知り、直ちに対策を示した。しかし人々を熱狂させたのはアレンビーではなく、一人の特異な英雄だった。
 当時イギリスは、トルコの統治下にあったアラブ人を、メッカの族長ハシミテのフサインのもとに結集させ、トルコへの反乱に立ち上がらせる工作に着手していた。その為の連絡将校として1916年アラビア半島西部のヘジャー地方派遣されたロレンスは、そこでフサイン息子ファイサルと出会う。それはロレンスにとって生涯の出会いとなった。1917年7月、わずか50騎のベドウィンラクダ部隊を率いて、古来の軌跡なくしては横断は不可能とされた灼熱のネフド砂漠え、難攻不落とされたアカバ湾要塞の奇襲に成功した。ベドウィンの先頭に立って、ラクダに乗ったアラブ騎兵揮するロレンスの姿は、重苦しい西部戦線に沈み込んだイギリスメディアにおいて、たちまち伝説的な英雄ドラマ色彩を帯びるものとなった。しかし、同じころ、インドから出征した十万の英印軍は、ペルシャ湾のクウェートに上陸してイラク平原北上し、バクダッドを占領した。さらに北上を続けて、密約の中では本来、フランス約束されていたキルクーク・モスルの豊富な油田地帯をも抑え、数年がかりでついにペルシャ湾とイラク全域を抑えていた。この軍にはガリポリの重傷から回復したスリムも参加していた。アラブ独立はすでに夢物語だったのである。ロレンスの反乱は帝国の熱い岩盤の前に跳ね返された。

ロシア革命アメリカの参戦

 崩壊するトルコをしりに、西部戦線での着状態は続いていた。両軍とも大規模な攻勢を数回行っているが、巧妙に構築された塹壕線に配置された側防機関銃、有刺線などによって防御側の優勢が確立しており、攻撃側には大量の犠牲者が続出し、攻勢は失敗することが多かった。
 戦でドイツイギリスに対する上封鎖を底化するために1917年2月制限潜水艦作戦を決定した。これは1917年4月アメリカ合衆国の参戦を招いた。しかし当時のアメリカには本格的な陸軍はなく、アメリカの実際的な参戦は1年先だった。 一方、ロシア革命により政が崩壊し、ケレンスキー臨時政府は1917年10月のボルシェヴィキにより崩壊、ウラジーミル・レーニンソ連政府が立ち上げられた。ドイツレーニン政府ウクライナバルトの分離独立めた。レーニンは初め拒絶したが、ロシア軍事革命混乱で崩壊状態であり、1918年2月ドイツ軍ロシア軍へ攻撃を開始したことで要を飲むしかなくなった。1918年3月3日ブレストリトフスク条約が締結され、ドイツロシアを下した。3月5日にはロシアの後援を失ったルーマニアも降伏。東部戦線は終結した。
 ロシア脱落を受けてドイツ軍アメリカが本格参戦してくる前に西部戦線に最後の攻勢をかけることにした。ドイツ軍は1918年3月から7月にかけて東部の兵をすべて西側に回して最後の大攻勢「カイザーシュラハト皇帝の戦い)」作戦を行った。しかしドイツ軍の奮闘もむなしく、1918年7月西部戦線の第二次マルヌ会戦において連合軍の反撃が成功し、さらに1918年8月8日にアミアンの戦いでドイツ陸軍が決定的な敗北を喫した。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と称した。
 5月にはアメリカ遠征軍(AEF)師団が初めて前線に投入され(Battle of Cantigny)、初めての勝利を収めた。までには毎30万名もの兵士アメリカから輸送されている。総兵210万人のアメリカ軍の登場によって、それまで均衡を保っていた西部戦線に変化が生じつつあった。 米軍官はジョン・パーシングであり、米軍単独での作戦し押し通した。9月12日にサン・ミシェルの攻勢を開始した米軍は16日占領した。パーシングは次の攻撃に100万の軍を使用することができるようになったが、そのうち85米軍だった。次のムーズ・アルゴンヌ攻撃は9月26日だった。ここの高地は高台の機関銃地で防御されていた。パーシングは側面攻撃が失敗すると、残にも正面攻撃を命した。ドイツ軍ガス機関銃米軍を迎撃した。高地の緩やかな斜面には、兵の腐乱死体が散在していた。

レインボー師団参謀長ダグラスは攻撃する前に偵察を行った。闇の中を這って進みながら、偵察隊はドイツ軍の側面を精した。突如、偵察隊はしい撃に見舞われた。撃がやむと、ダグラス兵士たちについてくるように叫びながら、撃でできたからへと滑るように進んだ。彼は兵士たちを師団に連れ戻すつもりだった。兵士たち一人一人に話しかけて体を揺さぶった。しかしダグラスは次第に恐ろしい事実に気づいた。彼以外全員全に死んでいたのだ。

米軍は大きな犠牲を出しながらも、ムーズ・アルゴンヌを突破することはできた。AEFがアルゴンヌのを越えたころ、フランス第四軍は西方30マイルまで進軍していた。最終標であるスダン11月11日フランス軍が攻略。同時期に起こっていたドイツ革命の影によりこの日のうちにすべての戦闘が終結した。ドイツ軍では人的資が枯渇しており、経済的、社会的な混乱は頂点に達していた。皇帝ヴィルヘル2世は退位を余儀なくされ、ヒンデンブルクとルーデンドルフも職を辞した。

休戦協定

ドイツ革命の発生により成立した臨時政府によって、他の戦線においてはドイツ軍勝利を収め続けていたにもかかわらず、西部戦線の崩壊によって、11月11日休戦協定を受諾した。

大戦の敗戦責任をめぐってドイツ帝国軍では、ユダヤ人にそそのかされたドイツ革命共産主義者)によって背中を刺されたという「背後の一突き」が広まり、ナチスは、大戦で戦争遂行の余があったドイツ軍共産主義者とユダヤ人によって支持された政府が「勝手に」降伏したとしていった。ヒトラードイツ11月革命ユダヤ陰謀による「国家民族への犯罪」として演説で繰り返し、また「戦争開始時、また戦争中に1万2千〜1万5千のドイツ民を腐敗させるヘブライ人にガスを浴びせていれば、前線の100万ドイツ兵士は救われた」と述べるなどし、支持者を獲得していった。191911月18日民議会の「第一次世界大戦における敗戦責任についての調委員会」で、ヒンデンブルク元帥ルーデンドルフも「背後の一突き」伝説言した。

この戦争は多くの参戦国における革命などの政治変革を引き起こした。日英同盟により連合側で参戦した日本は、戦後に設立された際連盟では常任理事国となり、際的地位を大いに高めた。立法の一院の衆議院において男子普通選挙が行われ、伊藤博文が作り上げた政友会や大隈重信の流れをくむ政会(1927年立憲民政党に発展)などよる政党政治が発達し、1918年には衆議院議員である原敬による初の本格的政党内閣が誕生した。しかし首相天皇の重臣会議により名される制度であり、軍部は政府から独立していたため、民の権は立法の2院のうち1院に行使されるにすぎず制限されていた。また天皇は陸の大権を持つとされていたが、憲法上は陸相や参謀総長の副書(署名)がなければ効を発揮せず軍は天皇の命に従わない。そのため陸軍・軍や枢密院、官僚などの勢は、政党内閣の政権下でも依然として大きな政治的発言をもっていた。

大正デモクラシーと軍縮

1915年から20年にかけて日本は好況に沸き、多くの技術者、発明、実業が活躍した。「発明王」豊田佐吉は1918年豊田紡織を設立、資本を蓄積しのちトヨタ自動車グループに発展した。高峰譲吉はアドレナリンを抽出・販売に成功、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。小林一三は阪急電鉄を軸に1929年阪急百貨店を開店、阪神間モダニズムに沸いた。工業生産は急に増大し、「東洋のマンチスター」と呼ばれた工業都市大阪では動の蒸気から電気への転換が起き、職工の黄金時代が出現し富裕となった技術者は自ら工場を立ち上げた。成金の時代が現出し、他方インフレによる貧窮による米騒動が起こるなど、貧富の格差の拡大が進んだ時代でもあった。この時代に、軍人の地位の低下がみられたのである。この時代は田中義一のように、陸軍の軍籍を離れて政党政治家に転身した例もあった。第一次世界大戦後の「平和デモクラシー」の到来は、日本にも軍縮めた。日本では第一次世界大戦をはさんで「軍人万」の時代から「軍人受難」の時代へと変容し、その後戦争になっても軍人の「被害者意識」が続いたことを明らかにしている。1922年8月東京日日新聞に掲載されている陸軍軍医の一文は徴的である。

「今や軍縮は陸軍人を脅かし、彼らを不安のどん底に陥れている。」子供が言うことを聞かないと、親は「今に軍人にしてやるぞ」と脅す。軍隊が演習で「へとへとに疲れて」あるにたどり着いても、町の民衆は急いで戸を占め、内から鍵を下す。兵隊の宿営を断るためだった。若い将校は結婚難に苦しめられ、「カーキ色の電車の中でも汽車の中でも、民の癪の種」になっていた。

民の軍人蔑視の感情は行き過ぎたところがあったかもしれない。この陸軍軍医の一文が記すように、若い将校たちの間で「不の色、覆うべからざる者」があった。しかし1919年の国家歳出に占める軍事費は45.8に及び、戦後恐慌に移った1921年には49.0に達しており、軍縮を避けて通ることができなかったのはにも明らかだった。世界軍縮に取り組む中、日本においても、陸相山梨半造はWW1後の財政善のため1922年(大正11年)8月と翌年4月の2度にわたり陸軍史上初の軍縮(「山梨軍縮」6万の将兵、13000の軍の整理)を実行。さらに関東大震災の復費用捻出のため1925軍縮が行われる。具体的には21個師団のうち第13師団(高田)第15師団(豊橋)第17師団(岡山)第18師団(久留米)連隊区部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校を止した。この結果として約34,000人の将兵と、軍6,000頭が削減された。軍縮から日中戦争前の36年までの間、日本陸軍の時兵17個師団、人員約23万人、約5万頭で維持されることになった。陸軍軍人の嗟の的になった軍縮により浮いた額は欧べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回した。近代化の内容として戦車連隊、飛行連隊、高射砲連隊、通信学校自動車学校の新設などであった。軍も1921年から翌年にかけてのワシントン軍縮会議に参加し、英日の艦保有数は5対5対3に決まった。

軍縮成金の時代に遭遇した軍部の青年将校は「まったく憤慨やるところを知らないものがあった」。彼らは国家主義思想と結びつき、国家革新すものが現れた。彼らは「レビュージャズ喫茶店場、明日希望を持たない退的享楽」に浸る大衆消費社会の「デモクラシー」状況を弾していた。1921年の安田財閥の創立者安田善次郎刺殺事件の犯人国家主義者のテロリスト朝日明書には、有閑階級や富裕層への呪詛が記されていた。そして軍部、特に陸軍内に総力戦体制の確立す勢が台頭する。永田山は1920年の講演の中で、「国家総動員なるものを行って、ありとあらゆる内の諸資所施設を戦争遂行の大的に向けて向傾注する準備を確立しておくことが必要である。これらの努は言うまでもなく民の体・精・知にある」と訴えている。

藩閥の衰退と陸大エリートの台頭

 第一次世界大戦日本の軍部にも大きな影を与えることになった。軍縮の時代が到来し、世の中の潮が変する「軍隊なんてものは余計なものだ」。このことが軍部の「非情に神経を刺して、不穏の情勢」を生んだ。そして軍部による「言論抑圧とか非合法事件」を引き起こし、太平洋戦争へと向かっていく。

バーデンバーデンの誓いと一夕会の成立

 1921年ドイツの保養地バーデンバーデンで永田山・小畑敏四郎・岡村寧次・東條英機が会し、閥打破等を話し合った。当時陸軍を導していた山梨半造や垣一成、秋山好古らは山口県出身ではなかったが、明治以来の長州閥系の人事に引き立てられ、自由義者・親英と協調して軍縮を進めていた。
 ひとつは第一次大戦におけるドイツの敗戦の教訓である。ドイツ軍エーリヒルーデンドルフ参謀次長のタンネンベルクの殲滅戦という、現場指揮官としてほれぼれするような大成功をにした、しかし、ドイツ内世論の分裂によって負けた。戦術的な勝利をいかに積み重ねようが、結局は国家の全てを挙げての総力戦に勝たなければ防はまっとうできない。もうひとつは、ロシア革命の成功である。陸軍の仮想敵となったソビエトが、今や個人義・自由義を排した全体主義軍事として現れた。戦争は軍人だけでなく、 個人義・自由義を排し国家のあらゆる部門を向けなければならない。
 永田山の国家総動員論として、現代の戦争は、長期の持久戦となる可性が高いため、経済が勝敗の決定大きく左右する。中国ロシアのような現在弱体なでも、潤沢な資を持ち、有から援助を受ければ、徐々に大きな抗戦を発揮するようになる。敵に遠近なく、世界のいずれのを敵とする場合があり、それに備えねばならない。陸軍はロシア仮想敵としていたが、英なども敵となりうる。世界の強との長期持久戦を想定するとすれば、日本の版図内における防資は極めて貧弱である。この不足資の確保・供給先として、永田は満を含む中国大陸の資を念頭に置いた。戦争において、戦争による通商途絶への考慮から、防資の「自給自足」体制が確立されねばならない。とりわけ不足原料資の確保が最も重要とした。もし今後本格的な戦争が起こるとすれば、を挙げて抗戦する覚悟を要し、それには個人義・自由義を排し国家総動員がめられる。それが永田の基本的なであった。それゆえ自給的長期戦に対応できるよう、国家総動員の準備と覚悟が不可欠だとしていた。
 では永田理論では、乏しい内資をどうするか、まず鉱について、本土で7万トン朝鮮35トン算出し、十数万トン中国などから輸入している。満において、産額は多くないが、埋蔵量はすこぶる多く、十万トンから数十万トンの生産計画がある、北支も中支もすこぶる多い。したがって資豊富にしてかつ近き支那にこれをめる。石炭は有良炭は中華北に多い。そのほか亜鉛中のスズは河南、アルミニウムマグネシウム満州などが、石油に対しては中国としながらもはっきりとした見通しは立っていない。このように永田はほとんどの不足資において満及び中華北が供給可地域とし、これから日本の向かうべきが満であると結論付けている。
  だが、当時の日本は多くの物資をアメリカからの輸入に頼るなど、自給自足には程遠かった。 軍事英から輸入することを前提にしていれば、それに制約され、防自権を確保することができない。その為には軍事的に支那理にも自分のものにする。中国反日姿勢の背景には、政党政治の英協調路線がある。ワシントン会議ロンドン軍縮会議により、が低下し、中国を増長せしめ、排日活動を逞しくせむうる。政党政治の英協調に対抗して「純正明」な陸軍が国家総動員論の立場から積極的に政治に関与すべきとした。永田は言う。「近代防の的」を達成するには、挙一致が必要であり、それには政治経済社会における幾多の欠陥を「切除」しなければならない。だが、そのためには「非情の処置」を必要とし、それは従来の政治家にゆだねても不可能である。したがって、「純正明にしてを有する軍部」が適当な方法によって「既政者を督励する」ことが現下不可欠の用事である、と。

 しかし当時の閥系の山梨半造、垣一成はじめとして軍の重臣は、あくまで英とは協調し、平和の時代に軍縮を進め、中国の資平和的に交易により入手することを前提としていた。

長州 がなければ交易すればいいじゃない 薩摩 そのためには際協調、英関係重視だよね

日清、日露を戦った軍の長老にこれがわかるというのか。陸相山梨半造、参謀総長上原勇作、教育総監秋山好古の3巨頭をいただき、全て長州中心の閥に固められている。

永田ら少壮将校が一致団結し、まとまったを持って突破する他はない。長州閥を解消し人事を刷新するのが第一点、つぎに政治の側から軍の統帥には一切口出しを許さぬようにすること、そして国家総動員体制の確立が第三点だ。どうだ、貴様もわれわれの意思に同意せんか。」
全く異論はありません。英教が陸大首席で卒業したにもかかわらず大将にまで昇進しなかったのは長州閥でなかったせいだ。長州は排除しないといけない、陸大も山口県出身は底排除だ。

 この話し合いで、①閥の解消→人事刷新。②軍革→国家総動員態勢確立のために、積極的に同志め、相互に協していくことを誓い合った。永田が考えたのが中国満州華北中の資を確保することだった。当時、中国では反日ナショナリズムが盛り上がり、蒋介石率いる国民党政府中国の統一をして北伐を実施。この動きに永田らは、日本の資戦略が脅かされるとして安全保障上の危機感を強めた。永田石原満州事変を起こしたのは、そうした危機感によるものだった。彼らはやがて永田山を中心に二葉会を結成、また鈴木貞一や石原莞爾河本大作らは木曜会を結成し東條英機らはこちらにも積極的に参加した。そして二葉会と木曜会はやがて合流し、一夕会を結成した。一夕会には永田山、小畑敏四郎、岡村寧次、東條英機をはじめ、山下奉之、石原莞爾牟田口廉也田中新一、武藤章、富永恭次、板垣征四郎、河本大作、辻政信など名だたる陸軍大学エリートたちがこぞって参加した。東條英機は、長州閥を敵視し、陸軍大学校に長州出身者を入学させないなどし長州閥の解体に尽した。

陸軍大学エリートの台頭

 長州閥が退潮してから日本陸軍を動かすようになったのは、陸軍大学卒業したエリート軍人達だった。そして陸軍大学合格者の9割までが幼年学校出身だったといわれる。陸軍大学卒業生は、軍政の中枢部に座り、参謀本部に入って軍の方針を決めた。長州閥消滅後に台頭した永田山、東條英機をはじめとした「統制」「皇」のメンバーも、すべて幼年学校出身者達だった。
 幼年学校入学した生徒達が、頭のいい秀才いだったことに疑いはない。だが、彼らは広い世界を知る以前に軍エリート養成の学校に入り、幼年時代から特殊な軍人教育を受ける結果、その思想はともすれば偏狭になりまた正常の感情を欠き、軍義的、封建義的、武断義的に傾いた。陸軍のエリートたちの「独尊、ぶり、戦場での硬直した考え方などの原動」が、幼年学校以来養われた「攻撃精すなわち必勝の信念」にあった。これが軍職にあればある程度は許されるが、軍閥としてその政治的特権を乱用した時、国家として憂慮すべき事態を招来したのである。また独ソのような全体主義を心酔するものが多く、自由義の英を軽視もしくは皮相的意見を有する事態となり、外交を左右することになった。石原莞爾などは、アメリカの一将校が二年間のドイツ留学の帰途アメリカに立ち寄るよう進めた時「輩が米国に行くなど占領軍官として以外には考えられませんな」と答えたものだ。

 当時の青年将校の一面がよく出ているが、この驕児的要素は全青年将校にある程度は共通していた。これは、士官学校あるいは幼年学校から、エリート意識を叩き込まれてきた結果であろうが、もう一つ見逃せないのは、連隊における彼らの処遇であった。当時はまだ大学が総じてエリートの時代で特に大出は劣らずエリート意識が強かったが、多くのものは総じて社会に出たとたんに、一度は強い挫折感を味わうのが普通であった。日向方斎氏は入社々新聞の社内配達をやらされて腐ったと聞くが、足が地につかない「宙に浮いた」エリート意識を打ち砕き、本当のリーダーを育てるのに、これはよい方法かもしれない。
 だが軍隊はこれではなかった。少尉に任官すれば、新聞配達どころか逆に当番兵が付き、身の回りの世話はすべてやってくれて、殿様のようになってしまう。演習から帰った将校が将校室の机にを掛け、足を椅子の背に乗せ、をしゃくって「おい当番」といえば、乗長靴を脱がしてくれる。これを見た老招集兵が、「22、3の若造があんな扱いを受ければ狂ってしまう。2・26が起こるのは当たり前だ」と嘆じたが、軍隊ではこれが普通であり、階級が上がるほどひどくなって、将官ともなればこれが底していた。だがこの挫折なき驕児たちは、閣下であれ、青年将校であれ、どこか宙に浮いていた。

政会と政友会の二大政党政治、幣原外交

1919年に関東庁が設置された。また日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地の関東州と南満州鉄道の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部を前身として新たに軍から独立した関東軍が誕生した。関東軍は陸軍参謀の上級職員に名上従属していた。

 1920年代にかけて政会の元、外務大臣幣原喜重郎による中国への相互不干渉、穏健な協調・親英外交(幣原外交)が行われた。軍閥の割拠により、在中邦人の財産生命が脅かされる事態には、邦人の外退去で対応していた。WW1時の対中21か条等で悪化していた英との関係は、この時期に好転することになる。日本日露戦争第一次世界大戦で東三満州)に特殊権益を持っていたが、当時中国は軍閥の割拠する分裂状態であり、作霖が東三に勢をもっていた。しかし日本人居留民に対する不当課税、中国側による「不法」な鉄道建設、ストライキデモ、ボイコットによる日本人商業の中断、日本人財産に対する個々の事件、日系字新聞への発行配達への干渉、中国系新聞の排日記事の掲載などの条約違反が多々起こった。東三を支配する軍閥作霖に対し、幣原の外交姿勢は「軟弱」との批判を浴びていた。昭和融恐慌もあり、1927年政会の若槻内閣が倒れ、立憲政友会田中義一が首相となった。田中義一は蔵相に高橋是清を抜して恐慌を収拾し、薩摩の英傑大久保利通の孫婿吉田茂外交官などを抜した。

田中義一首相 々政友会は政会とは一味違うぞ。外交も吉田を抜して積極外交だ。 幣原外交は生ぬるい。英国と協調し軍を派遣してでも作霖に条約順守を迫るべきだ。

田中政権の外交方針は、北伐に伴い在留邦人の生命財産が脅かされると英と協調し山東出兵を行ったが、出兵にも事前に外交ルートで周到な説明を行っていた。際協調を堅持し英も日本の山東出兵を容認し、両とも1000-2000名規模の増を行っていた。しかし、陸大閥が暗躍していた。

戦争的として、対ソ連眼として、当面満全なる政治を置くことを標にする。その際中国との戦争の準備はそれほど大きな考慮は必要とせず、単に資獲得を標とする。将来は生存競争になる。アメリカ大陸だけで生存に十分だから、干渉はしてこないだろう。イギリス軍事以外の方法で解決可である。帝国自存のため、満をとる。

作霖爆殺事件と長州閥の衰退

そして1928年6月4日東條英機同志である関東軍高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが作霖爆殺事件を起こす。

田中義一首相 なんだと?、陸軍が作霖を爆殺だと?、とんでなないことを。 ファッ?。これまで結んだ条約を視して自己を押し通すなんて田中内閣の方針とは反するぞ。

当初田中は容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきとし、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍および南陸相の反対に会い果たせなかった。当時は首相は閣僚を解任させる権限はなく、全閣僚一致できなければ、妥協するか退するかしかなかったのである。田中義一首相長州閥であり、陸軍内の反長州閥にとって河本大作は英雄となっていた。陸軍中堅は当時永田山、東條英機石原莞爾らの脱長州閥を掲げる陸大エリートたちにより占められていたのである。田中は動きが取れなくなり、前言を翻し、天皇に叱責され、1929年総辞職した。結果、長州閥の流れは途絶え、第二次大戦後まで復活することはなかった。事件直後、石原莞爾関東主任参謀に、翌年5月板垣征四郎が河本大作の後任の関東軍高級参謀となり、陸軍中央部では、同じく1929年5月岡村寧次が全陸軍の佐官級以下の人事に大きな権限をもつ、人事局補任課長に就任。石原莞爾は満領有計画をとなえ、陰謀を巡らせていった。満州事変が勃発する1931年9月の時点では、既に陸軍中央部のポストは全て一夕会メンバーで固められていた。

ロンドン軍縮会議軍条約と艦隊の対立

第2回普通選挙では立憲民政党政会より誕生した政党)が圧勝し、濱口雄幸内閣が成立した。外相に幣原を再登用した。外務省次官は引き続き吉田茂が担当した。

放漫財政の整理と協調外交を行う。ロンドン軍縮条約を締結するぞ。 との協調が必要だ。義牧野伸顕と協調して薩摩山本兵衛大将を説得しよう。

ロンドン軍縮会議では対英7割を希望したものの英に配慮し、対英6.975割となった。濱口軍縮および際協調路線を進め際的に評価が高かったが、天皇の承諾なしに政府が兵を決めたのは憲法違反とする「統帥権干犯問題」が提起された。後の学徒出陣下級将校の山本は感想する。

人が一つの言葉にあまり痛めつけられると、その言葉自体が「悪」に見えてくる。私にとって「統帥権」とはそういう言葉で、長い間、静にそれを口にできなかった。それを口にしたときの、軍人たちの狂信的な顔顔顔顔――。戦前日本は、法・立法・行政・統帥の四権分立国家とも言える状態であり、統帥権の独立明治憲法第11条にも規定されていた。したがって政府は軍を統制できず、それが軍の暴走を招いた――というのが私の常識であり、また戦後一般化した常識である。
 「執拗に統帥権の独立して横暴を極めた軍」は、私にとってあまりに身近な存在であったため、軍部以外に統帥権の独立した人間がいようとは、夢想だにできなかった。したがって明治の先駆者、民権人権派と言われた人々、例えば福沢諭吉植木枝盛が「統帥権の独立」をしていることを知った時、私は強いショックを受け「ブルータスお前もか」といった気分になり、尊敬は一気に軽侮に転じ、その人たちまで裏切り者のように見えた。だがそれから十年ほどたって、やっとその間の事情を調べてみる気になった。なぜこの民権人権派が「統帥権の確立」いわば兵権と政権を分離し、政府に兵権を持たせず、これを天皇の直轄とせよ――としたのか。いうまでもなくそれをした前提は、明治の新政府が、軍事政権とはいえないまでも、軍事で反対勢を圧伏して全を統一した新政府、いわば軍事的政権であったという事実に基づく。この先覚者にとっては、民選議員の設立、県政へと進むにあたり、まずこの閥・軍事的政権の軍事を”封じ込める”必要があった。軍隊を使って政治運動を弾圧する政府から奪うこと、これは当然の前提である。彼らがそう考えたのも理はない。尾崎咢堂の晩年の座談によると、そのころ明治の大官たちは、「々は下を取ったのだ。それを君たち口舌の徒が言論で横取りできると思ったら間違いだ」といった意味のことを、当然のことのように言ったという。
 これに対して当時の進歩的が、「軍は天皇の軍隊であって、政府の軍隊ではない。政府が軍隊を用いて々を弾圧することは、政権の干犯である」となったことも不思議ではない。またこの先覚者たちの恐れの第二は、政争に軍が介入して来ることであった。たとえば板垣自由党を第一師団が支持し、大進党を第二師団が支持するということになれば、選挙のたびに内戦になってしまう。ここに「軍は天皇の直轄とし、天皇と軍は政争に局外中立足るべし」という発想が出てくる。南WW2独立した多くの々を最も苦しめてるのが、軍が政争に介入してくる内戦であることを思えば、人権派・民権のこのは、当時のとしては不思議ではない。と同時に日本が範とした当時の西欧にも、同趣旨の規定があったという。だが、規定はあくまでも規定であり、その発想の基本を忘れれば、この考え方には、いくつかの落とし穴があり、逆用も可であった。

また軍に山本兵衛斎藤実(のちに2.26事件で死亡)の「条約」とこれに反対する末次信正ら「艦隊」という対立構造が生まれた。当時は山本五十六最強硬に条約に反対する艦隊だった。

条約 防は軍人の専有物にあらず。アメリカとの戦争・建艦競争は経済財政面から不可能だ。 艦隊 英と衝突しても日本南方をしっかり確保すれば半年一年では大したの増大にはならないが、漸次に自給自足体制は強化され長期となればなるほど有利で何も憂うるには当たらぬ。

当時は戦の勝敗は艦が握ると考えられた大艦巨砲主義の時代である。七割論は艦隊、条約を問わず支持するところであった。しかし当時の日本経済的苦にあり、日差を考慮すれば軍縮条約が必要であるとするのが、岡田啓介、山梨勝之進、悌吉ら条約であった。現実義外交を行った条約濱口牧野は、右翼や軍国家主義者に国賊の汚名を着せられ暗殺の対とされるようになった。濱口首相1930年右翼青年撃され31死亡した。

満州事変

1931年9月18日付近で日本経営の南満州鉄道線路が爆破された。間もなく、関東軍から中国軍の犯行によるものと発表され、一般国民には太平洋戦争終結までそう信じられていたが、実際には石原莞爾らの謀略により関東軍によって実行されたものだった(英国暗号解読により々と自演把握していた)関東軍の板垣征四郎高級参謀は独断で攻撃命を発し、たちまち満州を占領し、清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建した。石原らの謀略、越権行為に対し、当時の若槻礼次郎内閣は戦線の「不拡大」を決め、天皇も不拡大発言したが、関東軍はそれを視して戦線を拡大。明確な軍規違反であったが、陸軍中央の中堅官僚は同志軍事課長永田山、東條英機らによって占められており制御はされなかった。満州事変は、永田を中心とした一夕会の周到な準備によって遂行されたものだったのだ。一夕会系中堅官僚の突き上げにあった南陸相は姿勢を変え、若槻内閣は陸軍の要を受け入れ10月には新政権容認に転換した。若槻内閣は倒れ、1931年12月に発足した政友会犬養内閣では、一夕会が推す荒木貞夫が陸相に就き、一夕会系幕僚が陸軍の要職をほぼ独占し、陸軍中央は直ちに関東軍の全満州占領や満州国の方針を承認した。ここで明治以来の長閥系およびその流れをくむなどの穏健は陸軍流から駆逐されたのである。そして権を握った一夕会内で、様々な思惑が交錯するなか、満領有の陰謀がめぐらされた。

永田 石原莞爾
ドイツが次の戦争の火種となり、次の戦争総力戦となる。日本もこの国家総力戦に備えなければいけない。満州をとっても、アメリカは介入しないであろう。防資の「自給自足」体制が確立されねばならない。軍事英から輸入することを前提にしていれば、防自権を確保することができない。その為には軍事的に支那理にも自分のものにする。内に不足するものについては何らかの方法で対外的に「永久または一時的にこれをの使用に供しうるごとく確保」することが、防上緊要だ。そして「純防的」な見地からすれば、防資の「自給自足が理想」だ。 数十年後に日本が東洋文明の中心となり、西洋文明の中心地の米国と、世界終戦争となるだろう。その為には満をわが領土にする必要がある。だが満領有の実行は、とりわけアメリカの実的介入は必至。だがこれは約半世紀後に想定される世界終戦とは異なり、長期の消耗戦となる。フィリピングアム日本の領土とし、ハワイもとったあたりが講和条件となるであろう。中国占領後は武によって病根を打開し、中国に新生命を与える。日本による中国統治は、支那人より吏心の歓迎を受けるだろう。占領に要する維持費は、中国における関税税及び鉄道収入によってまかなうのだ。

このような永田の思想が、満州事変以後の昭和陸軍をリードし、1934年の陸軍パンレット防の本義と強化の提言」に色濃く反映されている。また石原莞爾の「戦争により戦争を養う」占領自給自足経済構想は陸軍エリートたちに大いに感銘を与え、現地自活命が頻用されるなど後の太平洋戦争の戦略にも大きな影を与えた。石原莞爾満州事変アメリカの介入は必須と考えたが、現実にはアメリカは武介入を行わず、対日経済制裁にも踏み切らなかった。満州に対して中国の領土保全や不戦条約に反するような事態は一切認めないとする、スティムソン・ドクトリンの発表にとどめた。

5.15事件、政党政治の終焉

犬養政権は選挙で大勝すると、高橋是清を蔵相に任命し、積極経済政策を推進した。

軍部には配慮するが、満州国については中華民国との話し合いで解決しよう。 軍事費増と共事業の推進で積極財政する。まず不況脱却してから財政健全化だ

1931年12月輸出再禁止を契機に3212月には100円20ドル強と一年間で60下落し、この円安本位制の離脱まで続き、同年以降の輸出増加に大いに寄与した。32-4年の日本の輸出は綿工業、レーヨン業などが中心の繊維産業導で回復したが、インドをはじめとするアジア向けが中心となった。また高橋是清リフレーション政策を行い、長きに渡るデフレを終熄させた。犬養内閣において、成長率は1932年(昭和7年)に4.4%1933年(昭和8年)に11.4%1934年(昭和9年)に8.7%と劇的な回復を見せ、日本世界に先駆けて不況からの脱出に成功する事になる。
 しかし、満州事変の処理は難物だった。犬養満州国の承認を迫る軍部の要を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。また上原元帥に掛け合い軍部を抑えようとしたが果たせず、天皇に上奏して過少壮将校30名を免官さそうとしたが結局実現しなかった。少壮軍人や右翼に強い反感をいだがせるようになり、宮中でも「軍のほうでは、犬養総裁がやたら陛下のおによって軍を抑えようと押さえようとしている気持ちがあるといって、それに対する反感が高まっている。」と軍を恐れ動かなかった。犬養はかつて統帥権干犯問題で軍艦に有利な討議をするなど軍部に配慮していたにもかかわらず、1932年5月15日軍将校らにより殺された。

まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか。 軍将校 問答用、撃て」 いまの若者を呼んで来い。よく話して聞か・・・、ぐふ

このとき「君側の奸」の筆頭格とされた牧野伸顕なども襲撃された(5.15事件)。ここに1898年より断続的にも長年継続していた政党内閣は軍部の圧により崩壊し、第二次大戦後まで復活することはなかった。この極端な国家主義団体及び軍若手士官の台頭がもたらした恐怖を利用し、軍艦は自らの要を押しまくった。予算や軍政をつかさどるから権を奪い、作戦を行う軍部の権増強をさせ、将来の軍拡路線を妨する恐れのある条約の将官の追放を要谷口のほか、山梨勝之進、左近政三、寺島健、悌吉ら次官、軍務局長経験者、軍事普及部委員長坂野常善らを、大は自らの署名つき辞で追放した。これが「大人事」と呼ばれる恣意的な条約追放人事である。9月15日斎藤内閣満州国を正式に承認し、日本際的に厳しい批判を浴びた。際連盟のリットン調団は、地元住民の自発的な意志なく日本軍する「自衛行為」を認めないものの、日本満州における特殊権益を認め、内容的には日本にとって「名を捨て実を取る」ことを的に許す報告書であったにもかかわらず、報告書の表前に満洲国を承認し譲れない日本はこれに反発し、際連盟において日本は孤立した。

との良好な関係を続けべきだ、際連盟脱退は絶対反対だ。 松岡「連盟の首席全権にわしでなく長老外交官を当ててはどうかだと?、ふざけるな!。」

1933年3月日本際連盟を脱退した。

陸大閥・一夕会内の対立(皇と統制

こうして満州を得て、親英閥系陸軍軍人及び条約政党政治家の排除に成功した軍部であったが、いざ権勢を握ると、一夕会内での路線対立が表面化する。大陸の資期獲得のために対支積極論をとる永田山とソ連に備えるため中国本土への介入に慎重な小畑敏四郎との対立である。小畑324月少将に進み参謀本部第3部長に就任、荒木の盟友である崎甚三郎参謀次長の心として、皇の中枢とされることになる。しかし同時期に参謀本部第2部長となった永田山と対ソ連支那戦略を巡って鋭く対立した。32年にソ連より日ソ不可侵条約を打診されたが、即時の条約締結をする永田らと反対する小畑らが対立、外務省は当時ソ連と断交していた英への配慮もあり交渉を謝絶した。両者の対立はさらに深まり、1933年(昭和8年)6月の陸軍全幕僚会議で対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論をして譲らなかった。この論争が皇・統制両確執の発端となる。荒木崎らの非垣系軍人を立てて政党政治時代の陸軍を排除した永田らであったが、荒木は陸相になると小畑を引き立てて皇を形成し、永田ら一夕会の流層からは彼らのコントロールが困難となってきていた。永田の周りには東條英機武藤章、服部卓四郎、富永恭二、辻政信らの中堅幕僚が集まり、彼らが統制の中核となっていく。彼らは軍が一致した統率のもとに、陸軍大臣を通じて政治上の要望を政府に提案することで合意された。それは陸軍大臣の進退の示唆による強要という恫的方法を含むものであり、当時の管制では陸軍大臣は陸軍将官に限られ、その進退によって内閣の死命を制することが可だったからである。

一方、一夕会の中堅陸軍官僚の動きとは別に、大頼好、三郎らを中心とした隊付青年将校らの国家改造運動満州事変前後から形成されてきた。彼らはしばしば皇青年将校と呼ばれるが、小畑荒木らの中堅官僚の皇とは本来違う問題意識を持った全く別の集団である。波・扇氏らの理念は、北一輝日本改造法案大綱」の影を受けており、土地所有制限など国家社会的な政策を含んでいた。そのような国家社会主義は、崎ら皇の嫌悪するところだった。しかし永田が彼等を「陸軍の統制を乱すもの」として弾圧したことから、対抗上相互に政治的連携を必要とし、皇と密接な関係を持つことになった。資自給自足体制および国家総動員体制の確立による不敗体制の立といった永田の思想を持つ統制と違い、皇は当面の対ソ中対英政策が中心で独自の長期ヴィジョンは必ずしも明確ではなかった。

33年8月永田小畑共に参謀本部を去り、近衛歩兵第1団長に転出した。1934年(昭和9年)1月荒木陸相が辞任、後継を期待された崎も閑院宮載仁参謀総長の反対により教育総監に回り、十郎が陸相に就任、永田を軍務局長に据えたため、皇は大幅な後退を余儀なくされる。永田の戦略構想の向性は、永田が軍務局長として作成に深くかかわった陸軍パンレット華北分離工作示する通達「北支奈政策」へとつながっていく。

陸軍パンレット事件

1934年10月、陸軍パンレット防の本義と其強化の提唱』が発行された。このパンレットは「戦いは創造の」、「国家の逐進、原動は軍部である」とその冒頭に謳いあげていたように、 ことごとく軍部中心、戦争謳歌の精で貫かれていた。たく言えば陸軍が「日本は陸軍中心の軍事国家になるべし、財界や政党は軍の示通り動くになるべし」という内容のパンレットを配布したということである。陸軍は1931年(昭和6年)9月満州事変以降、その正当性を民に宣伝するために1931年には18種、1932年には37種、1933年には33種を発行している。 しかし、「防の本義と其強化の提唱」は軍部が初めて思想・経済問題に言及し、しかも政治介入を然と表明した点が大きな相違点である。
 その内容は「国家の全活を総合統制」する方向での「策」の強化をするものである。具体的には、軍備の充実、経済統制の実施、資の確保など、永田の延長線上にあるものといえた。ただ、以前の永田議論から一つ変化がみられるのは、近年の際連盟がその「」を暴露し、「際的争覇戦時代」となったとし、そのもとで「時の生存競争」である普段の「経済戦」が戦われている。「生存競争」は熱状態となり、「時状態での国家の全活の総合統制」しなければ「際競争の落者」となる。そのような認識から、近代防においては、時においても「国家の全活を総合統制」すること、すなわち一種の国家総動員的な国家統制が必要だとされる。そして防の要は人的要素であるとし、「正義の維持遂行に対する熱なる意識と必勝の信念」が不可欠の要素である、としていた。 これを養うため、 1、建の理想、皇の使命に対する確乎たる信念を保持すること
2、尽忠報の精底し、国家の生成発展のため、自己滅却の精を私奮すること
3、国家視する義、個人義、自由義思想を排除し、に挙一致 の精に統一すること 4、列強は国体変を企図し、軍民離間を策し、思想的謀略を常用しつつある。 従って民精統制、即ち思想戦体系の整備は防上も猶予遅滞を許さぬ重要政策である。
 その背景には、満州事変際連盟脱退を経て、政治的発言を増大させてきた永田ら陸軍中枢の、国家統制への意思が示されている。世界恐慌以後、欧列強に圧迫され、「支那市場」などから「駆逐」される恐れがある。それに対処するには「経済及び貿易統制」を断行し、また「経済封鎖に応ずる諸準備」も怠るべきではない。場合によっては「破邪顕正の手段として武に訴える」用意も必要だ、と。また来年(1935年)の第二次ロンドン軍縮会議では、日本は「絶対に防自権を獲得するを要し」、従来のように「率を強要」されるようなことは「断じて許容し」えない。「皇に対し絶対優勢の軍を保持せんとする」のはアメリカの対中国政策である「門戸開放義」を強行するためである。それ故軍縮会議決裂も辞さない強硬な姿勢だった。永田らは蒋介石らの国民党政権の拝は不可能とみていた。したがって、それに代わる日本の資市場確保の要請を受容する親日政権の立による日支提携が考えられた。
 なお、この文書は、そのほか「策」強化の一環として、農村負担の果汁や小作問題などを解決して「農山漁村の供給」を実施すること。「富の偏在」「貧困」「失業などが顕在化している現在経済機構を編し「民大衆の生活安定」を実現することなどをしている。これらの点は当時最大の無産政党であった社会大衆党書記麻生久や同党部長亀井寛一郎などがこの文書を評価する一因となった。

パンレットの内容は陸軍導による個人義・自由義の排除、社会主義国創立・計画経済採用の提唱であったため多くの論議を呼んだ。軍事ファシズム体制をするものであった。陸軍はこのパンレットの発行前に各新聞社に大々的な報道を要請していた。このとき、「朝日新聞」は掲載をしなかったため陸軍から呼び出し恫をうけ、10月6日の社説で「啓的価値あり」と支持を表明した。「毎日新聞」は10月7日の社説で、パンレットに直接の言及はかったが「軍事費の膨は仕方ないこと。異論などあるはずがない」と軍への賛同を示した。

陸軍予算拡大と華北分離政策、永田山の死

永田らはこのパンレットの内容を実現すべく、陸軍の要請として、根本策の統合立のための機関創設を岡田内閣に働きかけた。そして内閣審議会及びその調・実務組織として内閣調局を発足させる。この内閣調局は統制経済義をその基調とし、陸軍の国家統制論に共振する新官僚の拠点となっていく。さらに永田らは強化のために軍事費の大幅増額とそのための債増発の要を強めていく。永田軍務局長の下で昭和11年度陸軍概算要は3億6000万円となる。このことは財政抑制に努めようとしていた岡田内閣高橋是清蔵相の方針との轢を徐々に深刻なものとしていくことになる。

もはや不況はおさまり、これ以上の財政出動を抑えて出口戦略を施行するべきだ。いまこそ財政健全化だ

高橋蔵相は経済回復が軌に乗り始めた1935年1月満州事件費の削減と怠慢投資の抑制をめた。高橋は各の中でも特に陸軍に注意喚起した。前年度の満州事件費1億4000万円のうち4-5000万円の大幅な削減を考えていた。財政投融資による気刺策を必要とした出も許されない準に達し、高橋は財政健全化にかじを切った。当時の国家予算規模は一般会計20億円で、軍事費は1930年の4.4億円から35年は10.3億円となった。当時の為替100円30ドル前後であり、陸軍予算が2.6億ドルであるから、GDP差を越して上回っているのである。一方、永田は軍務局長として、岡田内閣発足直後の1934年8月、陸軍の在満機構革案をまとめた。その内容は、関東庁・関東長官を止し、代わりに駐満大使のもとに関東局と関東州知事を置く。また、それまで外相の監督下にあった駐満大使首相監督下に移す、さらに、関東行政事務の所管を、それまでの拓務から内閣直属の対満事務局に移すことなどで、対満事務局の総裁は陸相兼任が想定されていた。関東軍が全満州行政を含め一元的に支配するとともに、陸軍中央が対満事務局を通じてそれをコントロールするシステムが陸軍案の狙いだった。満州での重要な権限を失うことになる外務省などはしく抵抗したが、永田ら陸軍はほぼ原案のまま強引に押し通し、9月に閣議決定がなされた。その後陸相が対満事務局総裁に兼任の形で任命される。

荒木崎は元老西園寺をはじめとする穏健重臣層から忌諱されており、それが荒木崎と対立する永田への重臣層の認識を曇らせる要因の一つとなっていた。だが華北分離工作軍事費拡大の問題をめぐって、穏健重臣層の永田への期待は裏切られることになる。1935年6月9日永田ら陸軍中央の了解のもと、関東軍・支那駐屯軍による軍事的圧背景蒋介石華北からの撤退を迫った。政府華北より排除され、排日運動を禁止するを出した。蒋介石広田外相に政府レベルの外交的対処による要緩和を要請したが、広田は陸軍に妥協し現地交渉とし要請にこたえなかった。さらに土肥原健関東軍の要によりチャハルからも撤退し、華北分離工作が開始された。8月6日橋本陸軍次官から関東軍などに対して「対北支那政策」が通達された。そこには河北・チャハル・山東・山西・すい遠の「北支5」を南政権の政によって左右されない「自治的色彩濃厚なる親日満地帯」たらしむことなどが記されてある。華北分離に向けての工作示したものだった。総力戦際的経済戦争のための資市場の確保を永田の強い影下にあるものであった。永田は、国家総力戦のためには、満だけでなく華北中の資が必要と考えていた。特に長江南にあり日本鋼生産原料鉱石の大半を占める大冶鉱山は重要だった。小畑1934年3月に陸大幹事、353月に陸軍大学校長となるが、中央から排除され続けていた。永田により、国家改造隊付青年将校らは崎ら皇と懇意であると看破され、「非合法的革新思想の駆除」を行う必要があるとし、皇者の一掃が図られた。同年7月には永田の働きかけで皇教育総監が更迭される事態となる。しかし8月12日永田は皇青年将校の相沢三郎により惨殺された。

2.26事件、陸大閥の勝利・統制派の優勢へ

永田死後も陸軍は永田の構想に沿って動き、華北日本の強い影下にある独立政権の冀東政府が成立する。1936年1月岡田啓介内閣華北5全体に自治を企図する「第一次北支処理要綱」を閣議決定した。しかし中国側有者の協が得られなかったことなどから華北分離工作は容易に進捗しなかった。

閥系重臣と政治家官僚多数遭難(2.26事件)、陸軍陸大閥の権勢増大

1936年2月26日村中浩二・磯部浅一・安藤照三ら皇隊付き青年将校国家改造グループの一部が、第一師団や近衛師団の兵約1500を率いて、クーデターによる国家改造し武装ほう起した。多くの穏健天皇の重臣・軍人が襲撃され、条約軍軍人で首相も務めた斎藤実内大臣、軍予算を削減しようとした政党政治家高橋是清大蔵大臣、渡辺太郎陸軍教育総監を殺し、鈴木貫太郎従長に重傷を負わせた。この時木戸幸一内大臣秘書官長が、全反乱軍の鎮定に集中し、「実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣は絶対に認めない」ことを天皇に上奏するのに導的役割を果たし、事態の収拾に重要な役割を果たしたことはよく知られている(木戸永田10月事件の時のクーデターの方式を聞いていた、陸軍と参謀本部と警察を抑え、「軍隊を揮して宮城へ入って陛下を強要して、自分のすきな内閣を作る」のが大体の構想)。天皇は暫定内閣を拒否し、「速やかに暴徒を鎮圧せよ。秩序回復するまで、職務に奨精すべし」と命じた。結局、決起部隊によるクーデターの企図は失敗し、彼らとつながりのあった、崎甚三郎荒木貞夫らの皇も予備役に編入され、事実上陸軍から追放された。小畑敏四郎も部下である陸大教官の満井佐吉が事件に連座しており、監督責任を問われることになる。小畑は同年3月には中将に進むが、粛軍人事により皇の一掃が図られ、同年8月に予備役に編入された。
 統制は暴支膺懲とでも言うべき対中国強硬策のであり、永田のあと統制を継いだのは、東條英機武藤章、田中新一いった人々であった。荒木貞夫崎甚三郎小畑敏四郎らの皇将軍たちの、対ソ戦を重視で満州国立後はそれ以上の中国侵出には慎重であり、相対的に対英融和の姿勢であったことは、永田将軍の統制の志向と異なっていた。その意味では「英協調路線」こそが永田構想による華北中へと向かう資自給圏の構築を阻むものであった。

岡田内閣は総辞職となり、外務官僚の広田首相となった。非合法青年将校国家改造グループ敗北でこの機に陸軍の専横が和らぐのではないかとの見方もあったが・・・

外務省同期広田毅君が首相になったぞ。これでワイも出世街道まっしぐらやろうなあ。

しかし閥系、親英の軍重臣・政治家は大打撃を受けており、陸軍一夕会の政治的発言は急速に増大していた。広田内閣では組閣が始まったが、寺内寿一大将山下奉文少将ら陸軍参謀本部員らが外相官邸に来て、吉田茂小原直らの親英の入閣に反対を唱えた。

山下奉文「牧野伸顕の女婿である吉田茂を外務大臣にするなら、寺内の入閣は辞退する」 武藤中佐 (怒゚Д゚)ここに牧野婿がいるのかぁ!(軍ガチャガチャ
ヒェッ((;゚Д゚)) 広田首相 悪いが君を外相にはできん。イギリス大使で勘弁してくれ

陸軍大臣抜きでは、内閣は成立しない。組閣は陸軍の言うなりになった。事件後に成立した広田内閣時の陸軍トップは、寺内寿一陸相、閑院宮参謀長、西義一教育総監となり、いずれも政治色が薄く、中堅幕僚層の意向が強く反映される布となった。そのような陸軍中央の中で強い影を持つようになったのが陸軍では永田の懐といわれた武藤軍事課高級課員、参謀本部では一夕会員だが非皇非統制石原莞爾作戦部長だった。永田東條英機関東憲兵官として満州に赴任していた。広田内閣武藤石原らを中心とする陸軍の圧によって、陸軍の傀儡として軍部大臣現役武官制を復活し(とはいえ、明治から終戦まで陸相に現役武官以外が就任したことはなかったが)、日独防共協定を締結、馬場蔵相の増税と債の増発による軍事費増強など軍事政策を推し進めていった。軍務大臣現役制の影は間もなく、垣一成の大命拝辞すなわち内閣の流産となって表れるのである。

石原莞爾満州経営

1935年8月作戦課長となった石原日本の在満兵が極東ソ連軍より劣勢であることを知り悄然とした。当時のソ連極東兵は14個師団、飛行機950機、戦車850両、日本の在満鮮兵は5個師団、飛行機220機、戦車150両だった。1936年6月戦争課長に転じた石原らは策大綱を立案、参謀総長の決裁を得た。この大綱ではまず、ソ連の極東攻勢政策を断念させることに全を挙げることが強調された。対ソ持久戦の際には、英との親善関係を必要とするため、対し政治工作英の親善関係を保持しうる範囲に制限する必要があるとしている。さらに大綱にはソ連の攻勢を断念させれば、次にイギリスの「東亜」における根拠地を奪取し、その勢駆逐する。それによって東アジア東南アジア独立させ、さらにニューギニアオーストラリアなどを日本の領土すると記されている。そして対英戦争時はソ連に対しては中立を厳守させる、としている。こうして東亜への人の圧迫を排除し、東亜の保護導者たる地位を確立する。そしてさらにこれら東亜導し、アメリカとの大決勝戦すなわち日終戦争に備える、と。
 かつての満州事変時は石原の予想していたアメリカ軍事介入はなく、スティムソン務長官による不承認宣言にとどまり、大綱では対英戦に変化したのであった。そして石原ソ連を背後からけん制する手段として、ドイツの利用を考えていたが、これはのちに日独防共協定の締結として現実化する。
 しかし対ソ戦備優先論は、南進戦備を重視する軍の同意を得られなかった。1936年日本ロンドン軍縮条約から脱退し、ワシントン軍縮条約を破棄していた。6月の陸軍のを取り入れた「帝国防方針」は仮想敵としてアメリカソ連が併記され、それに次ぐものとして中国イギリスが新たに加えられた。陸軍兵50個師団、航空142個中隊とされ、軍は戦艦12隻、空母12隻などとなった。石原ら陸軍参謀本部はその対ソ戦備優先論が策となりえなかったため陸軍独自の対ソ軍備拡を進めた。これを受け、広田内閣昭和12年度予算案において、陸軍7億2800万円、軍6億8200万円と前年度より3億5000万円の大軍拡予算とし、さらに軍拡計画の継続費として、陸軍13億9000万円が計上された。全予算額は303900万円、歳出の46.4軍事費で、前年度より7億2700万円の膨となった。2.26事件を機にもはや陸軍への財政的抑えがほぼ効かなくなったのである。そして石原らは、ソ連の計画経済を取り入れた「日満産業5か年計画」を作り、国家導による工業生産統制をした。そして石油についてドイツから石炭を原料とする人造石油設備を輸入し整備を図ったが実用化に失敗した。陸軍はこれらの計画から大陸での戦争に必要な兵器や軍需品を満州で生産することを1936年10月満州産業開発5か年計画」を策定し、実行に移した。石原はこれらの戦備が整う1941年までの不戦方針を打ち出した。
 これらは華北分離工作を行い、河北鋼交渉や山東の石炭などの重要資の確保を必需とした永田らの統制の方針に反するものであった。ちなみに、北樺太に石油資があったが必要量の一部を賄うにすぎず、北方への領土拡大は資確保のためにはあまり意味を持たなかった。満州は期待外れで、鋼、石炭、石油、ゴムアルミニウムなど、要軍需資の自給には、中国本土および東南アジアの資を必要としたのである。石原満州国共産党流の一党独裁国家し、自ら満州国協和会を設立した。この満州国での協和会による一党独裁の構想を、日本国内に持ち込もうとする志向性を持つものだった。
 昭和11年(1936年)8月、閑院宮仁王が陸軍大学の研究部事となり、昭和10年に開発されたディーゼルエンジン搭載の「八九式中戦車」の機動兵団の運用について、参謀本部や石原に意見を聞いた。しかし参謀たちはおろか、石原も大局的な防論は話しても、戦車をどう使っていくかという戦略的な技術についてはなにひとつ聞けなかった。石原莞爾は、現場の技術者および新しい技術を底軽視した。

日独防共協定の成立

日独協定は、ヒトラーの私的外交顧問リッペンドロップおよびドイツ防軍膨局長カナーリスと駐独武官大島博との間で交渉が始められ、永田山に近い岡村寧次郎情報部長も、ドイツの再軍備宣言に「敬」してドイツシンシーを有していたため、承知していた。1936年1月日本外務省欧亜局長東郷茂徳は陸軍から説明を受けて初めて協定締結交渉を察知した。東郷は協定に反対であった。2月に2.26事件が勃発して陸軍の発言が増大したため、日本外務省も交渉締結の路線から外れることは出来なかった。
 4月6日にはライヒェナウらの導で、中華民国に一億ライヒマルク借款を行うことを始めとする援助協定が成立した。これは対独接近を考えていた日本側にも大きな衝撃を与えた。5月には防軍が日本との提携は対ソ戦争の際に役立たないばかりでなく、イギリスアメリカとの敵対関係も呼び込むと警告する報告書を提出した。一方で援助協定のあまりの巨大さを知った外務省は、防軍を牽制するため、対日接近に傾くようになった。7月には防共協定の案文と付属議定書がドイツ側から日本に提示された。一方でライヒェナウらはなおも強い独中協定をし、中独軍事同盟の成立もしていた。ヒトラーは「(ライヒェナウがヒトラーの)対日構想を台しにしようとしている」と激怒し、「将軍たちは政治を何も理解していない」と罵った。10月23日には仮調印が行われ、日本の枢密院における審議を待つばかりとなった。しかし防軍の親中的な姿勢が伝えられるにつれ、枢密院での審議が危ぶまれるようになった。武者小路大使ドイツ側に抗議し、協定締結は不可避と考えるようになった外務省防軍に対中支援協定の中止をめたことでこの動きは決着した。
 1936年(昭和11年)11月25日日本ドイツの間で日独防共協定は調印された。ソ連との関係を損なわないために、共産主義運動導するコミンテルンにのみ対抗する共同防衛をうたっており、後の日独を中心とした軍事同盟、いわゆる枢軸国形成の先駆けとなった。秘密協定として、対ソ不援助規定、対ソ単独条約締結の禁止あった。エチオピア侵略行為で1935年10月際連盟を脱退していたイタリア1937年に原署名として加盟し、日独防共協定と呼ばれる三間協定となり、1939年にはハンガリー満州国スペインが参加したことによって多間協定となった。ソ連のみを敵とする日本側と、イギリスフランスも敵と考えるドイツ側との構想の違いがあった。また、日本国内でも同盟成立を重視する陸軍は英を敵に加えるようしていたが、軍及び外務省はこれに反対していた。

石原莞爾の暗躍、内閣断念

1936年12月中国では西安事件が起こり国民党中国共産党は内戦を中断して、その後の共同抗日と合作が促された。1937年(昭和12年)1月、政友会浜田議員による陸軍批判が、寺内陸相の怒りを買い、議会解散をする寺内寿一陸相と他の閣僚との閣内不一致広田内閣が総辞職を行った。それにより、次期首班が垣一成大将となり、陸軍に大将にいよいよ大命が下されるとの情報が入ってきた。石原莞爾参謀本部第一部長心得を中心とする一夕会の中堅層は、かつて四個師団を止するなどの大規模な軍縮軍縮)を断行した垣などが首相になれば自分たちの政策が実現できないと考え、なんとしてもこの垣の組閣を阻止しようと動きだした。石原は自身の属する陸軍中央、参謀本部を中心に陸軍首部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、垣に対して自的に大命を拝辞させるように「説得」する命を寺内大臣から憲兵官であった今に出させた。24日憲兵によって垣の動きを掴んでいた今は、垣が組閣の大命を受けようと皇居に参内する途中、垣の多摩の六郷で止めそのに乗り込んで、寺内大臣からの命であると言い、今回の大命を拝辞するようにと垣を「説得」した。だが、垣はこれを視して参内し、大命を受けた。しかし石原工作は「四天王」と呼ばれた杉山教育総監、小磯朝鮮官にも及び、彼らは保身のため結局一人として内閣の陸軍大臣を引き受けなかった。これによって垣は組閣を断念し、内閣は流産してしまった。
 このため、あらたに予備役陸軍大将十郎に大命が降下し、組閣したのが内閣である。ここで石原らは板垣を陸相として全陸軍を動かそうとしたが、梅津美治郎陸軍次官(板垣より陸士で1期上)らの働きかけにより果たせず、中村太郎が陸相に任命された(直後に病気辞任し、杉山元が就任)。石原の影は陰りが見え始める。3月の陸軍定期異動で石原作戦部長となるが、軍事課長には田中新一が就き、石原らの協者は陸軍中央から転出する。こうして陸軍における石原の影はかなり低下した状態となった。この内閣時に「国体の本義」が文部から刊行・配布され、以後の学校教育一般国民教育の基本軸の人とされた「大日本帝国は、万世一系の天皇、皇祖の進捗を報じて永遠にこれを統治し給う…、…らは…天皇に奉仕し、皇のみとを行いずるものであって、臣民のかかる本質を有することは、まったく自然にいずるものである。・・・」。このような考え方は、その後第三次内閣の「臣民」にも継承され、敗戦まで一般国民の生き方として義務付けられることになる。陸軍にとって、このような考え方を人々が受け入れることが、国家総動員のためには必要なことだった。また軍の社会的権威を高めるため、将来の戦争遂行のためにも、それが要請された。天皇は大元帥として軍に直結するものだったからである。政府自身にとっては、議会を基礎としない内閣による統治の正当性を強化していくには、このような天皇の位置づけが不可欠だった。

 この状態のある時期には、日本土に、二が併存していたと考えたほうが、その実態がわかりやすい。一つは日本一般人、もう一つは日本軍である。そしてこの一般人と軍人は、「統帥権の独立」と、軍人は「世論に惑わず政治にかかわらず」の軍人勅諭の原則で、相互に内政不干渉を訳している二、そしてその共同君天皇という形をとっていた。帝国陸軍とは、日本国行政府の支配下になかったという意味で、日本国政府軍」ではないという形態へといつしか進んでいった。そしてその内容は「日本軍軍」の趣があった。そして統帥権により日本国の三権から独立していた軍は、逆に、まず日本国をその支配下に置こうとした。そして満州事変から太平洋戦争に進む程を子細に調べていくと、帝国陸軍必死になって占領しようとしているは実は日本国であったという、奇妙な事実に気づくのである。
 このことは「太平洋戦争は百年戦争である。たとえ本土決戦に敗れても、無敵関東軍が天皇を奉じて年でも二年でも戦い続ける」と訓示した(と言われる)方面軍参謀の言葉によく表れている。
 これが軍隊内の普通常識だったことを示している。これでは、日本も、満州同様、帝国陸軍の占領地域内の一だということになってしまう。事実満州占領は、当時の一部の軍人には、内地占領のための軍事基地の設定であった。したがって帝国陸軍とは、一般国民から見れば、何を考えているかわからない、不気味な「一」、自分の手でどうにもできぬ横暴な他に見えた。そしてそのに強制移住させられれば、今までの常識倫理も生活感も全く通用せず、何をされるかわからないという不安を、その心底に持たぬ者はいなかった。
 一方、軍のほうも、軍隊以外を「地方」(陸軍)、または「娑婆」(軍)と呼び、それは、軍のために活用すべき従属者以外の何物でもなかった。したがって、帝国陸軍作戦には、民軍として住民保護が至上の義務といいう見地は皆無、また戦闘員非戦闘員の区別と非戦闘員の権利を、自民に対してさえ実質的には認めなかった。

華北分離政策をめぐる武藤石原の対立

石原戦争導課は、1937年1月帝国外交方針正意見」を作成するが、そこでは日独防共協定によってソ連をけん制すべしとの考えが明記されている。また従来の華北分離工作の中止を打ち出した。この意見を受け、参謀本部は陸軍に対し政策を変更し北支分地工作は行わずとの意見を公式に伝えた。この方針に陸軍も同意し、同年4月十郎内閣の4相会議(陸相・・外相・蔵相)で北支の分治を企図するような政治工作は行わず、日中間の交の調整を図ることが申し合わされた。石原は西安事件を受けて中国の統一の機運が強固となってきたことを受け、近代国家建設の可性を認め、反日運動を和らげ、反英運動に向け、将来の対英戦に備えることを想定した。
 この華北分離政策放棄は、関東軍の東條英機参謀長や富永恭二高級参謀らが猛反対し、中央では武藤作戦課長田中新一軍事課長が反対だった。また華北分離工作と並行して行われていた関東軍の内工作として、古王族徳王を援助して、内古を国民党政府から独立させることを意図していたが、36年11月から12月石原満州華北視察において、石原は内工作を中止すべき旨をした。

そのとき武藤第二課長石原に向かって「あなたは満州事変で大活躍されました、今々は満州であなたのされた行動を見習い、その通り内で実行しているものです」と反論、同席していた若い参謀たちが哄笑したとのことである(今村均回顧録)。ただ、内工作の失敗後、武藤は自ら現地を訪れ、田中吉らが推進していた特殊工作謀な実態を知る。武藤「結局田中の舌先三寸に踊ったわけか」。

またこのころ顕在化した欧州動乱については関与すべきでないと考えていた。これらはいずれも次の大戦は必発で日本も必ずそれに巻き込まれる、そのため長期戦に耐えうるよう大陸の資を確保するという永田の思想に反していた。当時の関東軍参謀首板垣征四郎参謀長、今村均参謀副長、武藤章第二課長などだった。また板垣の後任に永田心の東條英機関東軍参謀長となり、1937年6月事件の直前)に「南政府に一撃を加え」るべき旨を陸軍中央に意見具申している。武藤の見立てでは、376月12日ソ連でトハチェフスキー元帥らの処刑が発表され、その後の赤軍粛清は続き、団長以上の45が殺され、赤軍が大打撃を受けておりソ連の介入の可性は低いと判断されていた。またドイツラインラント進駐、イタリアエチオピア併合、その後のスペイン内戦への独の介入などによって列強の介入が不可能な時期であり、中国の資確保には「千載一遇の好機だから、この際やった方がよい」としていた。

内閣は短命におわり、1937年6月近衛内閣が成立し、広田毅が外相に就任した。広田外相は陸軍に妥協し、反英親独、対中国強硬路線となっていった。

世界情勢の変化

アメリカ

WW1となったアメリカでは、陸軍を中心に軍事費が削減され、常化がおこわなれた。1920年代に始まった経済的繁栄は、自動車映画およびラジオのような新技術が大衆化し、建築日常生活の面にも及んだ。アメリカ資本は大量生産商品の大消費市場としてに欧州に大投資を行い、ドイツイギリスおよびフランスにも好況は波及し、20年代後半は20年代と呼ばれるようになった。しかし1929年のウォールの暴落でこの時代は終わり世界恐慌の時代に入った。共和党のフーヴァー大統領古典派経済学の信奉者であり、経済において自由放任政策や財政均衡政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界に恐慌が波及した。同年後半から1933年にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名GDPは1929年から45減少、価は80%以上下落、工業生産は均で1/3以上低落、失業率は25%に達した。大不況の中で共和党政権は支持を失い、民主党フランクリン・ルーズベルトは、修正資本主義に基づいたニューディール政策を掲げ、1932年の選挙当選大統領となった。ルーズベルトは約通りテネシー流域開発社を設立、更に農業調整法や全産業復法を制定した。

大統領 ニューディールをすすめていく。陸軍にも働いてもらう 陸軍参謀総長 工兵隊出の私の得意分野だな。この機に陸軍のアピールもするぞ。

陸軍は市民保全団(市民保全部隊(CCCCivil Conservation Corps)の設置を導し、少年に植、小規模なダムの建設、森林での見り台の建設、森林火災の対処法などを教育し、30万人の雇用創出に大いに貢献した。陸軍はその後CCCの業務から離れていったが、その後9年間の活動の中で、シェルター衣類、食糧を生産するCCC300万人の若者が参加し、すべてのニューディール・プログラムの中で最も人気のあるものにした。約30億本の植を植え、全800以上の公園にある歩、ロッジ、関連施設、大部分の州立公園の整備、森林消火方法の更新サービスビルやネットワークを構築した。CCCはまた退役軍人と先住民族のためのプログラム運営した。約15,000人のアメリカ先住民がこのプログラムに参加し、大恐慌を乗り切るのを助けた。また陸軍工兵隊はミシシッピ治史上最大の土木事業にも貢献していた。マッカーサーボーナスアーミー弾圧などの尊大さでリベラル層から嫌われていたが、見事な手腕を発揮し、大統領の一言で留任された。しかしルーズベルトは甘くはなかった。

陸軍軍人の給与15削減ですと?、この予算では防衛もままならない、逆に増額を要する! 陸軍予算は2.8億ドル(同年日本軍予算より安い)だ。要は却下だ。
陸軍は12.5万まで削減してる、すぐ動員可な部隊はいまや6万にすぎませんぞ! 軍があれば防衛は十分だ。どこも苦しいのだ。
々が次の戦争敗北した時、兵はマッカーサーでなくルーズベルトの名を言ってもらいたい! 大統領に向かってそんなことをいうもんじゃない!

陸軍の予算は底的に削減された。しかし教育革が効果を発揮し、M1ガーランドの導入や「の要塞」開発などの技術予算は維持され、士気は保たれていた。ニューディール政策はその後労使双方の反発があり、規模が縮小されるなどした。それでも記録的なものとなり、1930会計年度の歳出予算は対GDP3.4%程度だったが、1934年に10.7%まで引き上げた。やがてナチスの台頭による脅威で陸軍の予算制限も緩和されていった。

イギリス

1841年パーマストン外相は、それぞれ別個の紛争ををめぐって、ロシアフランス中国アメリカの4かすべてを屈させた。この年オスマン帝国エジプトをめぐって、ロの両戦争の脅しによって屈させ、同年アヘン戦争中国を破り、カナダをめぐる対立に端を発した「マクラウド事件」紛争で、パーマストン米国内裁判の判決に干渉し、もし被告のカナダ人(つまり英臣民)が処刑されたなら、「確実かつ速に対戦争が始まる」との威嚇と強圧を加え、米国にとって全く屈辱的な解決を強いることに成功した。それはまさに「パクス・ブリタニカ」の頂点を画する事件であった。
 しかし20世紀に入ると、イギリスはそれまで「英共同建設」を歌ってきたパナマ地峡を、米国にゆだねる決定をし(1901年のヘイ・ポーンスフット条約)、イギリス臣民たるカナダ人の要を高圧的に抑えてアラスカ問題でも大幅譲歩し、さらに西戦争によるアメリカキューバ支配やフィリピン領有もすべて「容認」に転じた。そして1907年までにカリブ全域を抑えるカナダノヴァスコシアハリファクス軍港から全面撤退した。実際大英帝国カナダ米国の「人質」に差し出し、戦略的に州全域を捨てる、という意思表示を意味するものであった。その答えはやはり「ドイツの脅威」という観念であった。

第一次世界大戦勝利で、イギリスドイツに課された1320億マルク47300トン2018年の価値で約2兆ドル)のうち22を得て、中東太平洋に新たな利権広大な領土を獲得、世界歴史史上最大の領土を誇った。だが帝国は、表面上さらにを増したかと思われた間、を露呈することとなった。
 19193月エジプトでの反英暴動は、向から帝国統治の権権威を否定するものであった。19194月、北インド・アムリトサルの町で起こった、英軍による抵抗なインド人の大量虐殺事件「アムリトサルの悲劇」は汚点を後世に残すこととなった。この事件で憤したインド人の感情は、英国からの独立近代的なインド独立運動ガンジーネルーの時代―の始まりを画すことになった。一方、同じ19194月、委任統治の名帝国の版図となったパレスチナで、アラブユダヤの武衝突が始まった。ここには、この紛争に巻こまれまったく益な死に追い込まれた幾多の英軍兵士墓標が立ち並ぶことになる。さらに19195月アフガニスタンでの衝突で英軍兵士を急した間、イラクで反乱が勃発した。この反英反乱に対して、WW1における中東作戦に費やした出費を大きく上回る負担を払わねばならなかった。そして年末にはアイルランドの喪失も明らかとなった。大戦中ダブリンで起こったイースター起への残酷な処刑と、ロイドジョージが送り込んだ特殊部隊による独立活動家虐殺は、アイルランド人にイギリスとの決別に決心させた。大戦に勝利し勝ち誇った大英帝国は、その間、いたるところから浮上してくる地域紛争の大波を前にして立ちすくんだ。今や帝国は維持できるか否かではなく、果たしてどのくらい長く位置できるのかというものに代わっていた。
 WW190万人の戦死者を生み出し、特に将来を担うエリート層の受けた打撃が大きかった。オックスフォードケンブリッジゴーストタウンになっていた。大英帝国は「幻滅する戦後」を迎えるしかなかった。ロンドン内には、「トラファルガー広場」や「ウォータルー」、あるいは「バトルオブブリテンの碑」など、イギリスが戦った他の戦争での栄勝利をたたえる記念碑や建造物が誇らしくたっている。しかしWW1を記念する最も代表的な碑は、官庁ホワイトホールの外れに立つ「セノタフ」と呼ばれる地味な石であろう。「セノタフ」とは一般に亡骸のい墓を意味するが、「戦勝」ではなく「喪」の記念碑として、見る人の胸に迫ってくる。
 1922年の日英同盟の破棄はイギリスの衰えが一因でもあった。すなわち自治領のカナダが、日戦争となった場合隣のアメリカと自動的に戦争になるため、同盟継続に猛反対したのである。前世紀のイギリスであればアメリカを恫して従わせることもできたが、WW1後のイギリスにはそのようなはなかった。1931年12月ウェストミンスター章により、英国海外自治領に独自の外交権も与えられ、この章を自治領が批准すれば、英国とまったく等な独立と規定されることになった。カナダ南アフリカ連邦は直ちに批准し、イギリスから独立していった(オーストラリアニュージーランド、またニューファンドランドはこの章を当初は認めなかった。また、ニューファンドランド1949年カナダに併合される)。また、これにより正式にカナダ籍やオーストラリア籍などが認められることになる。ここで生まれたのが、英コモンウェルスである。

世界恐慌のあおりでシティオブロンドンの債権は焦げついた。即座に短資が逃げ、イングランド銀行には換のため人が殺到した。本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ただしブロック経済の下でも英領インドを中心に日本との貿易も盛んにおこなわれ、1940年においても20を占め日本にとって米国に次いで第2位の貿易相手であった。カナダ独立し、日英同盟についてイギリス側の障は減少していた。

日英協約を提案します。お互いに通商を強化して、ともにに中国政策にあたろうではありませんか。 海軍大臣チャーチル ヒラ庶民院議員(ほう、いいこと言うな。日英同盟は破棄すべきではなかった)
日本は長以南への野望はなく、同地域の英国の権益を全に尊重します。 チェンバレン蔵相 君の提案には興味がある。今英国は対ナチスでいっぱいで、極東で何があっても在来利権を守れまい。しかし・・・

しかし吉田大使の1年にわたる努1937年7月7日、一で消滅した。

日中戦争の勃発

 1937年7月牟田口廉也大佐天津歩兵第一連隊長として、付近で演習を繰り返し、7月7日事件が起こると独断で攻撃命を出して事件を起こした。これを黙認したのが上河辺正三団長であり、拡大させたのが関東軍参謀総長東條英機であった。

で第一発を撃って戦争を起こしたのはわしだから、わしがこの戦争のかたをつけねばならんと思うておる」

事件と北京入場

北京での日本軍7000と少なく、現地での調停が成立しつつあったが、牟田口廉也は協定を視して軍を進めた。石原莞爾参謀本部作戦部長は対ソに備え拡大に反対したが、陸軍内部では武藤章らによる、蒋介石は1か以内に屈するとの対支一撃論が優勢となり、9日には関東軍2個団・内地3個師団などの現地兵案を作成し、形勢逼迫時の備えが必要として石原も同意した。近衛文麿内閣は、当初はこの事件について不拡大・期解決の方針をとっていた。だが、7月11日動員実施は状況によるとの留保をつけて陸軍案を閣議決定し、今次事件は全く支那側の計画的抗日であり重大決意のもと政府として取るべき所要の処置を行うという強硬な明を発表した。結果として中国派遣の野戦官に侵略の拡大を許す政策を編み出したのは近衛広田外相であった。しかし蒋介石17日の会議で「最後の会頭」に至った場合は抗戦するとの決意を表明し、準備は不十分だがもはや応戦せざるをないと判断していた。陸軍中央では石原莞爾作戦部長らの不拡大と、武藤作戦課長田中新一軍事課長らの拡大が対立、しい攻防が展開されたが拡大が優勢となっていった。幕僚の多くは石原らの華北分離工作中止に不満を持っていた。石原武藤作戦課案に同意し、哲元の謝罪や現地39師団の罷免、付近の中国軍の撤兵などの強硬な要の19日に回答期限した陸軍中央案が五相会議に提案され了承された。19日現地の哲元ら29軍は日本側の要を受け入れた。しかし南政府は現地における協定項を拒否、法に仲裁裁判所への提訴も示唆盧溝橋事件~北京入場した。25、26日に再び衝突が起き、26日石原替えし「底的に膺懲せらるべし」との示を日本側現地軍に送り、翌日陸軍中央および参謀部もついに3個師団の兵を決定、28日総攻撃を開始し29日北京天津を占領した。その後派遣部隊が現地に到着し、動員兵は約20万人に達した。29日蒋介石もついに抗戦を表明、ソ連は直ちに378月に中ソ不可侵条約を締結して中国への武器援助を開始し、大量の物資を中国軍提供し、ドイツも顧問ファルケンハウゼン中将が、中国軍の育成や軍需生産の基礎作りに従事し、軍事援助を行った。

戦線拡大武藤東條と非拡大石原の対立

石原北京天津占領後速やかに外交交渉によって事態を収束させることを考えていたが、武藤及び田中は対中全面戦争は避けられないとの判断で一致していた。石原ソ連に備えるため4個師団しか対中戦争に使用できないと考えていたが、武藤らはソ連の介入は困難と見抜いており動員可な15師団をすべて対中戦線正面に使用することを想定していた。8月9日上海軍の大山軍陸戦隊員2名が中国保安隊に射殺される事件が起きた。10日軍は巡洋艦4隻、駆逐艦16隻、陸戦隊3000名を上海急行させた。軍からの強い要請に石原も折れ、陸軍の兵を了承し、13日閣議で陸軍三個師団の兵が決定され、13日上海戦闘が始まり、14日中軍が上海日本艦船を爆撃日本側も14日15日に南、広州、南などに渡洋爆撃を行った。17日には軍の導で不拡大方針を放棄するとの閣議決定がなされた。第二次上海事変では日本軍は4万(うち死亡1万)と大きな損を出しながらも上海を占領した。この時日本海軍機が米国警備船パナイ号を攻撃して撃沈し51人の死傷者が出る事件が起き対日感情が悪化したが、2週間で事件は解決しアメリカの対日戦争引き金にならなかった、この時ジョージアチソンは艦上にいて、危うく難を逃れた。9月4日から開会された議会で20億円をえる臨時軍事費の支出が認められ、かつ事変収束までを1会計年度とする臨時軍事特別会計が設置された。これはその後膨大な額に膨れ上がっていく。

一方満州関東軍は、事件が起こると、8月5日制止を押し切ってチャハルへ進出、やむなく参謀本部は9日チャハル作戦関東軍に命じた。関東軍は東條英機参謀長の直接揮のもと本格的にチャハルに侵入、8月27日口を占領、さらにすい遠、山西方面に進撃を続け、華北での進撃を北京天津方面に限定しようとした石原らの意図は崩れた。8月25日米国の中立法の発動を回避するため宣戦布告を行わないことが近衛内閣の五相会議で決定された。中国側も米国の援助を期待して宣戦布告を行わなかった。8月31日派遣軍が加わり8個師団となった北支奈方面軍が編成され、当時陸軍が保有する戦車装甲車の大部分にあたる、中戦車78両、軽装甲車41両が派遣された。当時陸軍の総航空53中隊であったがその3分の1が派遣された。これは事変期終結のため河北「保定」付近で決定的打撃を与える的だった。

この保定作戦9月中旬から本格化する。しかし中国軍決戦を回避して退避戦術をとったため、決定的な打撃を与えることはできなかった。日本軍歩兵が敵の防衛線の先端に到達すると、国民党軍の守備隊は、一斉に後退した。以後、作戦が展開するにつれて、これが一つのパターンとなっていった。日本軍が前進すると、待ち構えていた敵は熾な防御射撃を加えてくるが、やがて日本軍が後退することなく短時間で態勢を立て直して突撃を開始すると、国民党軍はあっという間に退却し、後方の新しいへと移るのであった。国民党軍の戦略は、ひたすら防衛にしたものであり、反撃するという考えはほとんどなかった。こういったパターンを学んだ日本軍は、歓を上げながら集団突撃するという、とりわけ有効な戦術を生み出した。特に間、金属のものをたたきながら叫びを上げるなど、大きな音を出しながら突撃することは、非常に効果的だった。石原らは作戦地域を保定の線に限定することを検討したが、武藤田中政府を短期間に敗北させ持久戦に持ち込ませないため作戦地域の拡大が必要であるとした。このように陸軍中央に意見の対立があり、統一した戦争導がなしえない状態では、現地軍の独走を許すことにつながっていった。9月9日上海への3個師団の増決定後、石原作戦部長辞任を申し出、9月27日参謀本部作戦部長を辞任、関東軍副参謀長として満州に転出する。石原武藤田中らに敗北し、陸軍中央を去り、その後復帰することはなかった。転出した関東軍でも東條英機参謀長との確執が生じ、1941年3月予備役に編入され、陸軍から去る。一方武藤田中東條はその後太平洋戦争開戦時軍首部中枢を構成することになる。ちなみに日中戦争開始時、武藤東條富永恭二のほか、今村均関東軍参謀副長、片倉関東軍参謀、服部卓四郎参謀本部作戦課員、辻政信関東軍参謀部付きなど多くの統制メンバーが拡大に属していた。石原欧州大戦に対し日本は不干渉とすべきと考えており、華北の特殊権益放棄による中国側との政治妥協したが陸軍上層部には全く受け入れられず、永田直系の武藤らの来るべき世界大戦に巻き込まれることが必至でそれに備え華北中の資の確保を必須とするという考えが勝利したのである。武藤らは10月上旬に華北37万、上海19万の動員限界に近い大兵政府に大打撃を与え屈を図ろうという計画を立てた。的を達し得なければ、ソ連軍に備えるため対中持久作戦をとり、戦略標への爆、経済封鎖などにより中国の持久作戦意思を挫折せしむる、としていた。

戦と南京大虐殺

 10月華北上海同時攻勢作戦は実施されなかった。華北中国軍を補足殲滅できず、上海も5個師団では政府軍に対し苦戦に陥っていたのである。そこで武藤州上陸作戦を提案、自ら中支那方面軍参謀副長となり陸軍中央から転出した。11月5日から始まった州上陸作戦は成功し、背後に脅威を受けることになった上海付近の中国軍はついに退却を余儀なくされた。しかし蒋介石は屈せず南政府11月16日重慶への遷都を決定し、なお抗戦継続の意思を示した。石原辞任後も河辺作戦課長多田参謀次長は戦線拡大に慎重なスタンスを維持していた。しかし中支部方面軍の強い要と、田中軍事課長ら中央幕僚多数の意見に押し切られ、11月24日攻略を容認した。11月下旬、近衛首相の提案によって大本営が設置され、同時に内閣と大本営による大本営政府連絡会議が設けられた。これが国家レベルでの事実上の最高機関だった。1937年12月13日日本軍首都を占領し、民は大勝に狂喜乱舞した。だが内陸侵攻の事前準備がほとんどなされなかったため、兵站補給が不十分で、現地での食糧・物資の略奪が多発。またその過程で戦闘で交戦した中国兵のみならず、その後6週間にわたり、日本軍による中国捕虜の処断、反日支人便衣兵民間人の処断、民間人の据え切り(人切り競争で著名である)、婦女暴行虐殺が相次いだ(南京大虐殺)。犠牲者は東京裁判で認められたものだけでも20万人にも上る。不正規兵をめぐる根深い強迫観念は、結果として即断即決の略式処刑や、村ごと一気に焼き尽くすといった行動パターンを生んだ。地下貯蔵庫があれば、そんな所に隠れているのは便意兵ではなく、たいていはそのの住人だったろうに。けれども日本兵は、自分たちのそうした行為を、戦争犯罪ではなく、合法的な自衛手段としていた。暴支膺懲の戦意高揚のため、戦闘による中国人処分、捕虜の処断については軍部により推奨され、本にも多数報道され大いに喧伝された(人切り競争が新聞に掲載され、前線兵士の武勇談として大いに賞賛された)。しかし英の対日感情はますます悪化し、1938年10月末よりはこういった写真報道も軍により検閲され開されなくなった。

日中戦争泥沼化

1937年、日本最大の八幡製鉄所は、を年間170トン生産しており、これは日本の全生産高の64を占めていた。八幡製鉄所だけで鋼製機の製鋼を年間270トン必要とするが、そのほとんどが中国の大冶鉱山からの輸入に頼っていた。日中戦争により中国からの鉱石の供給が長期間止まり、内でくも製品はじめ金属類の拠出が行われていた。この時点では太平洋戦争期のような根こそぎ的動員はされていなかったが、戦争の長期化による兵器・装備などの需要が、内の工業生産えるようになっていた。1938年4月国家総動員法、電管理法などが制定され、本格的な国家総力戦をにらんだ体制整備が進められる。この時の議会で国家予算一般会計35億円となり、臨時軍事費の追加予算として、一年分の国家予算額を上回る48億円が承認された。それらの財政負担は債発行と増税で賄われた。

非一夕会の閑院宮載仁親王参謀総長および多田駿参謀次長体制の参謀本部は、駐ドイツ大使トラトマンを仲介とする和工作に期待を寄せ、大本営連絡会議にて交渉による和したが、陸軍杉山陸相及び広田外相・近衛首相は和工作打ち切りし、近衛首相1938年1月16日政府を対手とせずと明した。38年5月には陸軍次官に東條英機が就任、拡大東條英機と対立した多田参謀次長は更迭され、東條は初代航空総監へ栄転となった。対中戦争明し、近衛広田を筆頭に木戸紘一らの宮中官僚に後押しされた文官は、戦争期終結を望んでいることを見せては日本が弱いという印を与えかねないことを理由に、中国側に具体的和条件を持ちかけることを拒否した。この期間に日本の商工業界有者たちは、税負担の増大に反対しなかったばかりか、軍事政府をつくるなら、華北だけでなく中国全土に作るべきだという日経済協議会のに賛成した。近衛内閣既成事実外交に遅れないように、実業団体は日中事変以来の日本人の生命と物資の損を引き合いに出して、中国全土の征を支持する理由とした。日本軍の快進撃は続き、10月27日三鎮を占領したが、蒋介石は重慶に首都を移して徹底抗戦した。

38年4月徐州作戦開始後、局地的には凄惨なしい戦闘が行われたが、中国側は決戦を回避して退却、5月中旬日本軍は徐州を占領するが、中国軍に決定的な打撃を与えることはできず、泥沼化が進んだ。さらに日本軍の一部は河南に侵攻しようとしたが、中国軍防を決壊させるなどして抵抗し、それ以上の進行はできなかった。河決壊による洪水は数十万人の死者と数万人の被災者を生み出し、また日本軍の占領は多くの破壊をもたらした。42年干ばつとイナゴで収穫減となったのにもかかわらず、被災地中国日本の当局者は兵士に食料を供給するための穀物徴収政策を続けた結果、1942-3年河南大飢餓を招き2-3万人が死亡し、数万人が難民として陝西移民した。生存者は日本国民党の双方を非難し、この地域は中国共産党ゲリラ地域に発展していった。さらに現地軍と陸軍中央は30万を動員して要衝武華南の中核都市講習の攻略を実施、10月下旬占領したが、政府を屈させることはできなかった。日本軍は動員計画をえる34個師団で構成されるようになり、うち大半が大陸で、本土に2個師団を残すだけになっていた。大陸派遣された兵の多くは占領地の維持のために配置せざるを得ず、積極的な攻撃作戦を任務とする野戦軍は第11軍(20万)のみだった。したがって、野戦軍が重要な地区を新たに攻略しても、その舞台はいずれ原駐地に戻らなければならなかった。中国軍は、日本軍が進出すれば分散退却し、帰還すればすぐ元の場所に戻ってきた。広大中国を制圧するには、兵の絶対量が不足していたのである。1938年11月陸軍中央は現占領地の治安維持と残存抗日勢の取り締まりにを注し、新たな戦面の拡大を避ける方針を決定した。持久戦体制下、戦略的には重慶など内陸部の要衝都市と内陸援ルートの遮断を的とした航空機による爆が重視され実行された。

中支資確保

日本は「鉱物の標本」とされ、この地域で発見されない鉱物はない。環太平洋造山帯は鉱床が多く、日本は狭いながら、江戸時代出産品はで、WW1の前後までアメリカに次ぐ世界第2の産だった(1933年以後の輸入に転落)。朝鮮満州を産しなかったし、中国に至っては日本からを輸入し貨として流通させていたくらいである。日本チリなどから輸入していたが、太平洋戦争中の輸入が止まり、民需を食いつぶして陸軍はを使用した。商工が不要金属を回収開始したのは392月像から鐘、半鐘まで拠出させたが、なので、溶かすだけでは不純物が多く資にならない。
 鉱石については、日本火山だから、すべての鉱物硫黄リンが混在し、良質な鉱石を産しなかった。しかし釜石には日本にはしい磁鉱の鉱山があり、1875年において釜石製鉄所が開庁された。八幡製鉄所はその22年後のことで、磁鉱と鋼で製鋼品位58という優良鉱山である長江南大冶鉱山の鉱石が輸入できるようになってから生産が本格化した。日中戦争後はマレー半島フィリピンから鉱石を輸入し、40年はそれぞれ128トン、69万トンであった。満州石原莞爾が中心となって高度防衛国家建設がすすめられたが、遼寧鋼床は低品位で採算が取れず、鉱石に関して満州は宝庫どころか期待外れだった。満州国での生産は36年で63トン、鋼塊34トンにとどまった。同年日本として米国から輸入したスクラップ150トンだった。38年8月からの鑑江作戦の戦略的は、重慶政府に屈を迫るものだったが、それ以上に切実な的は、大冶鉱山からの移入再開であった。もしこの鉱山が確保できなければ、陸軍は太平洋戦争に踏み切れなかった。

東亜新秩序

1938年11月3日近衛首相は「東亜新秩序」明を発表し、9か条約とワシントン体制を否定し、「日支新関係調整方針」を打ち出した。これは稲田作戦課の起案による華北・内古への駐兵と資確保、中での日本経済権益を重視したもので、12月影佐昭軍務課長らの工作により重慶を脱出した汪兆銘は近首相談話を受ける形で中国各方面に和の通電を発したが期待に反して中国での同調者は少なく、反蒋介石の軍隊も動かなかった。英は反発し、アメリカは38年12月4000万ドルの対中借款を決定、イギリス391月1000ポンドの中国通貨安定基を設立し、500ポンドの政府を与えた。その後もアメリカは北部印進駐時の409月2500万ドルを、イギリスは同年12月1000ポンド(4600万ドル)の対中借款供与を行う。日中戦争解決の見通しは全く立たなくなっていった。ソ連は38年8月に約1億ドルの借款を中国に与え、各種兵器や軍需物資を供給、軍事顧問団も派遣していた。さらに396月には1.5億ドルの対中援助契約が結ばれる。一方諸の援助は直接的な介入を避け銭的なものにとどまった。1930年代後半までは、対日輸出額は対中輸出額の7倍前後を占め、日本との戦争を賭してまで中国市場を守ることは、アメリカ政府にとって考えられないことだった。またイギリスは緊迫する欧州情勢に備えるため日本に譲歩し、395月上海税関を日本側が接収することを承認し、日本軍は当時要な融・商業機が集中していた英の租界を封鎖していたが、この天津租界封鎖問題についても、397月22日中国において日本軍の妨となる行為を差し控えることを受け入れた。しかしアメリカ日本軍中国よりの撤兵をめ、1939年7月26日、日間の通商航自由と内恵待遇を保していた「通商航条約」の破棄を宣告してきた。この結果ワシントンは対日輸出を自由に制限したり禁止したりできるようになった。

日独の接近と親英の憂

東郷茂徳駐独大使は、中国へのドイツの膨大な援助に対し、リッペンドロップ外交顧問に抗議していた。

東郷茂徳 中国援助の停止と軍事顧問団の引き上げをお願いします。現状ではドイツ日本中国戦争しているようなものです   リッベンドロップ しかし中国への兵器輸出は重要な外貨獲得手段なのです。去年の輸出総額は8300万ライヒマルク(当時の独労働者の収は70マルク)に上りました。停止するなら減収分をどうやって埋め合わすか。
東郷茂徳 お言葉ですが、蒋介石政府や英の援助で抵抗を続けていることは明らかです。しかも援助額はが最大です。   リッベンドロップ 政府共産党と戦ってました、だが今は共産軍と手を組んでと戦わざるを得なくなった。その意味で、は防共協定の違反に当たるのです。だが々はそれを問題としていない、それは評価頂きたい。
東郷茂徳 しかし、戦争が長引いてが低下すると、ソ連に対する抵抗も減衰されます   リッベンドロップ ふーむ

38年2月20日ヒトラーは議会で劇的な演説を行った。ドイツの対日政策の変更を発表したのだ。満州国を承認、蒋介石政府への軍事援助を停止し、軍事顧問団を引き上げると彼はった。5月満州国を承認、中国への武器・軍需品の輸出を禁止し、7月軍事顧問団を引き上げた。あとはドイツ中国切り捨てに対して日本がどういう報酬を払うのかに焦点が絞られた。

  
リッベンドロップ
の要望を飲みました。つきましては日本占領地域での経済活動に日本と同じ待遇を与えてほしい
東郷茂徳
それは理です。日本は膨大な犠牲を払って占領したのです
  
リッベンドロップ
では占領地域での特恵待遇では?
東郷茂徳
それも理です。
  
リッベンドロップ
中国に対する軍事援助を中止しました。しかし英は続けている。英を同列に扱うのは不条理です
東郷茂徳
の処置には感謝しております。しかしこれは別の問題です。

ドイツ側は外務省との交渉を避け、駐独武官大島浩および陸軍と交渉するようになった。やがて東郷は罷免され、大島が駐独大使となった。日独防共協定が締結された後、政府を援助する英を牽制する的で軍事同盟への発展を唱える動きがあった。特に駐独大使大島浩、駐大使白鳥敏夫は熱心で、同盟案に参戦条項を盛り込むべきとし、独政府にも参戦の用意があると内談していた。1938年7月に開催された五相会議において同盟強化の方針が定まり、8月ドイツからソ連だけでなく英をも対とする同明案が日本に提示され、26日日独政府間で協定強化する交渉が正式に決まった。陸軍はドイツとの同盟を優先させたが、英を対とする同盟には外務省軍が反対し、391月内閣はこの問題での閣内対立によって総辞職し、平沼騏一郎内閣が成立した。4月リッペンドロップ外相は日本が同盟にするなら、ドイツソ連と不可侵条約を結ぶかもしれないと警告、5月には独間で軍事同盟が調印された。ドイツは参戦条項を盛り込むべきと要。これに陸軍内部からも呼応するが多く、陸軍大臣の板垣征四郎以下陸軍流は同盟推進で動いた。一方英協調が一部残存していた軍には反対者がおり、軍大臣の政、次官の山本五十六、軍務局長井上成美は「条約反対三羽ガラス」と条約推進(親独)から呼ばれていた。1938年から39までの日独防共協定強化への動きは対ソ同盟をしたもので、独ソ不可侵条約の締結により頓挫した。

…日英は和解できます。財がつきて…日本華北戦闘を自制したいのです…。イギリスの仲介が必要な時期が… 々が中国の戦乱に仲介の労をとるのにやぶさかではないが…、吉田大使の提言には実体がない。君は本当に日本国を代表しているのかね?? 吉田君、君は召喚だ。

吉田茂1930年ころ軍事予算の削減が大騒ぎを起こしたことにまで遡り、「日本は外からの危険に直面している」という軍部の宣伝が民の過半の支持を得たことを認めた。しかし短期決戦となるはずであった日中戦争中国の抵抗が予想以上に強いことがわかると、「政府ソ連の脅威に備えて盛況な大軍を派遣せねばならなくなった」が、この場合ソ連の脅威が実体のない議論であることは明らかであり、吉田は、軍事行動を支えるに必要な増税に民感情は反感が高まると期待した。1940年までに軍事支出が耐え難い財政負担となり、それが反軍部への逆転をめるだろうと、欧の関係者にり続けていた。しかし現実には軍部の勝利の喧伝により民の増税への反感は高まらず、吉田希望は容赦なく断ち切られていった。
 吉田1937年8月事変の拡大にくも反対、近衛明を誤りと考えた。親英論が軍部支持勢に非難を浴びせられ、日本でやりづらくなっても隠そうとしなかった。吉田経済的に欧と関係を視した軍部と国家社会主義者が強くする「自給経済体制の追及」に対し一貫して反対した。

ノモンハン事件

1917年のロシア革命共産主義の波及を恐れた列強はロシア内戦への干渉を決定、日本は1918年にチェコ軍救出を名シベリア出兵を実施した。1922年の撤収後、1925年に日ソ基本条約が締結される。1920年代には日本ソ連大陸方面では直接に勢圏が接触する状態にはなかった。日本は租借地の関東州、ソ連は1924年に成立したモンゴル人民共和を勢圏に置いた。両の勢圏の中間にある満州地域は、1920年代後半には中国の奉が支配する領域だった。満州には日ソ双方の鉄道利権が存在しており、中国国民党の北伐に降伏した奉学良はソ連からの利権回収を試みたが、1929年の中ソ紛争で中華民国は敗れた。ソ連はハバロフスク議定書を中国と結び、鉄道権益を復活、再確認させ、占領地から撤退した。また、ソ連は同年に特別極東軍を極東方面に設置した。満州事変以後、日本ソ連満州で対峙するようになり、初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、次第に大規模化した。ソ連モンゴル1934年11月紳士協定で事実上の軍事同盟を結ぶ。1936年にはソ相互援助議定書を交わし、ソ連軍がモンゴル領に常駐した。モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され、1933年には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車団1個を有していた。

 1936年11月に「日独防共協定」が結ばれて以来、モンゴルにおける赤軍関東軍の緊は増し、1937年以降は地帯での小競り合いが頻発し、38年7月にはウラジオストック南西のハサン付近で鼓峰事件が起きた。この衝突でソ連軍は日本軍より損が大きかったが(動員兵ソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷病者はソ連3500人、日本軍1500人)、ソビエト損失はソ連軍を揮したヴァシーリー・ブリヘル無能のせいにされ10月22日、彼はNKVDによって逮捕され、拷問されて死亡した。38年8月陸軍軍務局など陸軍中央が不拡大方針を採ったのに対し、戦闘の結果を分析しながら増長した関東軍の不満は募っていた。

日ソ両軍激突 1939年5月12日にノモンハン事件(ハルハ河の戦闘)は満州国軍とモンゴル軍のパトロール部隊の交戦で始まった。の放牧をめて、モンゴル軍がハルを渡り、いくつかの丘を占拠し、さらにモンゴルするの町のノモンハンに至った。関東軍はソ連を極東満州から排除しようとし、モンゴル軍をハルまで押し返した。その後日本軍が兵を出してはモンゴル軍が退去し、日本軍が去ればモンゴル軍が舞い戻るといった戦いであったが、段階的に拡大し5月20日に第一中隊鈴木中尉らがハルハ上ソ連偵察機1機を撃墜し初戦果をあげた。小松原道太郎23団長はこの小競り合いに独断で1700人の部隊を出動させたが、ソ連軍は2300人に増強されており5月28日戦闘では日本軍敗北した(第一次ノモンハン事件)。

ゲオルギー・ジューコフ6月5日に同地に着任し、直ちに戦の増強が図られた。関東軍は、現地がシベリア鉄道拠点より650㎞も離れていることから、敵軍を過小評価した。しかし5月22日から始まった中戦は、当初日本が優勢だったが、次第にソ連軍も増強され、6月17日から日本軍を上回るようになり、ソ連航空機が自を越えてカンジュルを攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。ソ連軍の小規模部隊も満州国領内に侵入し偵察攻撃を繰り返していた。

モスクワ駐在武官 ソ連に大兵を輸送し、戦車多数が向かっています! 日ソ両軍激突 々はソ連戦車をぶんどって戦勝祝賀をやる計画でおる。そんな時にそんな報告をやられたら困る!

この時はまだ非一夕会の閑院宮載仁参謀総長、中島蔵参謀次長体制であった東京の参謀本部は報復攻撃を禁止する命を発したが、関東部参謀の辻政信視して6月27日モンゴル領内のソ連軍基地爆を強行した。さらに、現地師団長揮権を視して勝手に部隊を動かした。7月1日および23日、日本軍ハルを渡りソ連軍に攻勢を仕掛け、得意の夜襲ソ連軍に大損を与えた。しかしかの地が重要と考えていたスターリンジューコフに大部隊を任せており、過酷な補給状況の中で、兵員5万8千、戦車500両までに膨れ上がっていた。8月ソ連軍は反撃し、ソ連軍は圧倒的な火力で、特に火戦車で戦が劣る日本軍を当初の満まで押し返した。8月20日には第23師団はソ連軍に包囲され、27日脱出に失敗し、31日壊滅した。この戦闘での損日本側の推計値は不正確だがおよそ死者9000人、死傷者18000-25000と推定されている。一方ソ連は当初、死傷者9284人と発表していたが、ソ連崩壊後により正確な犠牲者が表され、死者9703人、死傷者27880人と日本側より多かったと推測されている。

結果的に紛争は多くの損を受けたものの困難な補給を成功させたソ連が物量で圧倒し、ソ連が優位な停戦ラインで解決した。停戦後、参謀本部の中村蔵参謀次長、橋本作戦部長稲田正純作戦課長が更迭され、また関東軍の幹部らは責任を問われ、軒並み予備役に編入された。が、事件を導した辻政信と、彼の上官の作戦班長・服部卓四郎らは、なぜか一時左遷されただけですぐに復活することになった。後任は沢田茂参謀次長、富永恭二作戦部長岡田茂一作戦課長となり、9月30日武藤章が陸軍トップである軍務局長に就任した。陸軍はノモンハン事件の戦訓をまとめるため調を行い、1かほどで報告がまとめられた。そこで強調された点は、火力戦闘の飛躍的向上が急務だということだった(本来ならば、ソ連軍の補給に着すべきだったが。)。しかし地の質に始まり、熱処理、溶接などの地技術が立ち遅れており、戦車徹甲弾そして装甲版の問題となり、いくら鋼材があったとしても戦善には結びつかない。具体的な対応策を打ち出せないとなれば、結局火力ではソ連軍に対抗できないので、「急襲戦法」に価値をめるしかないとした。

陸軍の恣意的人事

服部が衆の一致するノモンハン敗戦の責任者でありながら、たちまち中央の作戦担当者に復活して対英戦を導し、後日にもガダルカナル敗北を招いていったん退きながら又返り咲くなど、作戦の中枢にあった人物たちの人事には不可解な点が多い。失敗者がたちまち要職に返り咲くという点では、田中新一の場合も同様である。田中事件の際には、陸軍軍事課長として、参謀本部作戦課長武藤章とともに、拡大論の先頭に立って戦争の拡大を図った責任者だった。しかし401月からの中軍のオルドス侵攻作戦で、占領後の確保にこだわり、3月20日日本軍特務機関全滅したという事件があったにもかかわらず、4010月田中は参謀本部の第一部長に抜され、対強硬論の先頭に立つのである。田中作戦部長服部作戦課長作戦班長のトリオは、ガダルカナルへの兵投入、奪回作戦強行の役であった。このため船舶増長を要して陸軍と対立し、田中佐藤賢了軍務局長を殴打したり、東條首相兼陸相を馬鹿呼ばわりしたりして、42年12月解職されるのである。「作戦屋」といわれる人たちの中でも、特にエリートたちを、加登太郎は「の院」と言っている。西川進や加登の、予算や物的戦にかかわる陸軍軍事課関係者の回顧録では、こうした作戦屋のの院での不死鳥のように復活する人事について批判的である。これは東條英機富永恭二のような人事にかかわった上層部が、積極論者に好意的だったことによる面もあった。この人々の強硬論が作戦を誤らせ、作戦的達成のためにはほかのすべても犠牲にしてもよいとする作戦第一義は、しばしば兵が飢えることも意に介さないし、時には死ねという命まで出すという非人間的な面を見せることもあった。

独ソ不可侵条約

モンハン戦闘が続くなか、1939年8月23日スターリンドイツと独ソ不可侵条約を締結した。日独防共協定の締結後、日独の軍事同盟を積極的に推進してきた陸軍はこの報に大きな衝撃を受けており、垣陸軍大臣はその時の陸軍の様子を「驚狽し憤慨し恨するなど、とりどりの形相」と記述している。25日には平沼騏一郎内閣が日独同盟の締結交渉中止を閣議決定、28日に平沼が「欧州地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」と明し、総辞職した。

 その後日本ソ連は日ソ中立条約を締結し、また日本は後述の南進を策としたため、ソ連との紛争は起こらなかった。しかし独ソ戦が開始されドイツ軍が有利な戦況が続くと、関東軍特別演習と称して、満州に大軍を送り、対ソ参戦の機会をがっていたが、印進駐により石油が禁輸となると、対ソ参戦気運は大きく後退する事となった。

欧州状況の急変

1939年8月23日には独ソ間で独ソ不可侵条約が締結された。リッベントロップはこの際に、防共協定は反ソビエト連邦と言うよりも、反西欧民主主義という性格を持つものだとヨシフ・スターリンに説明している。これを防共協定の秘密議定書違反として日本は猛抗議し、平沼内閣は総辞職したことによって、日独の提携交渉はいったん白紙となった。日本外務省内では協定が事実白紙になったという認識は示されたものの、実際には協定解消などのも起こらず、手続きは行われなかった。

第二次世界大戦の勃発

ドイツ1939年9月1日ポーランドに侵攻、9月3日ドイツに宣戦し、第二次世界大戦がはじまった。9月17日にはソ連が「ウクライナ系・ベラルーシ市民の保護」を口実にポーランド東部から侵攻を開始した。独ソ両軍は衝突することもなく、モロトフ=リッベントロップ協定秘密議定書の分割線に従って、その占領域を確定させた。英ソ連に対しては宣戦布告を行わなかった。9月20日ルシャワが陥落しないため、ヒトラーは業を煮やし、ドイツ軍による爆撃が開始された。620機を繰り出した底的な爆撃にに続いて、27日ドイツ軍に突入し、2万5千人の市民死亡10月1日ルシャワは降伏した。

紳士諸君!、君たちはワルシャワの廃墟を見たはずだ。今だに戦争を続けようと考えているロンドンパリ政治家たちに、警告として諸君の見聞を伝えたまえ

 10月6日ヒトラードイツ国会において平和の呼びかけを行った。この提案は英によって拒否された。1939年10月14日には英戦艦ロイヤルオークが独潜水艦に撃沈され833人が死亡し、イギリスショックを受けた。10月3日ポケット戦艦イチュラントはアメリカの貨物船を拿捕し戦利品とした。アメリカ世論は沸騰し、中立法に対し、英には武器の売却を認めると修正された。さらに秘密協定に基づき11月フィンランドソ連戦争冬戦争)が勃発し、ソ連フィンランドの5倍以上の12万人以上の死者行方不明者、32万人以上の死傷者を出しつつ勝利し、1940年3月フィンランドは領土の11経済資産の30ソ連に譲渡した。一方英ドイツの間には、航空戦の小競り合いと、幾分の戦闘が行われるのみで、陸上戦闘皆無に近い状態であった(Phoney War)。当初はアメリカでは楽観的な見方が多く、1939年9月のギャラップ世論調査によれば、連合勝利を予想したものは82に上った。
 スェーデンの良質の鉱石とその輸出港であるナルヴィク港を制するため1940年4月ドイツ軍によるデンマークノルウェー侵攻が起き、ナルヴィク戦で戦艦ウォースパイト擁する英海軍ドイツ戦闘艦10隻を撃沈する活躍で、制権はイギリスが確保していたが、中立ノルウェーへの軍派遣に消極的なチェンバレン首相フィンランドソ連の協定成立により北海派遣軍を解散させるなど陸の足並みがそろわず、翌以降の大陸の戦況変化によりイギリスは撤退しドイツに占領された。この惨敗の責任軍大臣チャーチルにあったにもかかわらず、倒れたのはチェンバレン内閣であった。ただしノルウェー占領はほかにいくらでも使いのある独軍を終戦まで何もすることなく据え置くことになってしまう。

ドイツの快進撃と、イギリスの窮地

 そして5月に状況は一変する。1940年5月10日西部に集結した137個師団のドイツ軍は、怒涛の勢いでフランスベルギーへ進撃を開始した。オランダは5日間で屈し、5月15日までにドイツの機甲9個師団はミューズを渡り、難攻不落を誇ったマジノ線を回してアンデルヌ高原をかすめて英連合軍の背後に進出した。グデーリアンやロンメル揮するドイツ軍崩を打って進撃、英峡に向かっていた。ベルギー5月末に降伏、およそ30万の英大陸派遣軍は、一週間のうちにカレーの北、ダンケルクの砂に追い詰められた。英軍はダンケルク大陸からの撤退を開始した。BBC放送を通じの呼びかけに応じたヨットを含む民間船舶の持ちたちは、イギリス兵を救出すべく大軍をなして、ドイツ軍機の襲来の危機を冒し最前線ダンケルク辺に赴いた。包囲下にあったおよそ33万の英軍のほとんどすべてを事、英本土に撤収させるという奇跡的な成功をおさめたのが惨敗の中で救いだった。
 6月10日イタリアドイツ側にたって参戦、フランスでは16日にポールレイノー首相に代わってアンリフィリップペタ元帥首相となり、22日にドイツと、2日後にはイタリアと休戦協定に調印した。大陸ドイツのものとなり、イタリア東欧イギリスに宣戦し、にはドイツの友好ソ連が潤沢な資提供している、イギリスはただ一ドイツに抵抗できるとは思えなかった。

 ドイツ人も驚いたことに、イギリスは戦いつづけた。だがそれは、ドイツ人には、ただ戦争を長引かせるだけの望みなき自殺的行為、と思われたのである。イギリスははビスケー湾からノルウェーにわたって、無敵ドイツ軍によって包囲されていた。残存の英軍は数においても劣勢であった。ヒトラーが、1940年6月に和の提案を言、同時に彼はイギリス侵攻の暫定的計画の準備を発している。
 ドイツヨーロッパの中立三スイススウェーデンスペイン)を通じて和提案した際に、イギリスは煮え切らないそぶりを見せた。イギリスでは、ヒトラーの言う「和」の内容がチャーチル内閣では理解されていた。合法の名で併合されたオーストリアチェコ以上の扱いを受けないことは明らかだった。だが、まったく取り付くもないという拒絶の仕方はしなかった。「もう一度熟慮」というそぶりも見せた。英国ドイツよりもソ連と戦うべきだという右翼貴族国会議員グループを持っていた。416月までは英政府内には反ソ連を基軸に日英同盟を再できないかと考える人たちもいた。

 イギリスフランスに対し、「の保有する軍艦イギリス港湾に引き渡すように」迫ったが返事はなかった。ドイツによるイギリス上陸作戦が迫っている状況では理かなることではあったが、7月3日イギリスは武を持ってフランス戦艦の接収を行い、領北アフリカのケビール港ではイギリス海軍が要を拒否したフランス軍を撃、ダンケルクは大破しブルターニュは爆発・転覆した。1297人のフランス兵が死亡した。この戦闘政治的効果は絶大だった。イギリスは必要ならば情け容赦ない戦いであろうとあえて行う覚悟であると。しかしフランス側の対英感情は致命的に悪化し、ヴィシー・フランス政権は積極的にドイツに協するようになっていった。

 ドイツ総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥は、イギリスの防御戦闘機はわずか数日の戦闘で打破することができる、と自信たっぷりで予言した。 ヒトラーが、イギリス侵攻にたいする総司令官の警告よりも、ゲーリングの楽観的な予想を、より心良く思っていたことは確かである。軍の打撃によって、強襲上陸の必要がなくなるかもしれないし、イギリス平和会議の席上で、次なる十字軍に“分”として味方にくわわる算も大きいだろうと考えたのだった。しかし強襲上陸が必要なら、それでもよい。ドイツ軍が全面的に制権を獲得してしまえば、英海軍の妨はないも同然だろうし、ドイツ陸軍のロンドン進撃を支援するであろう。彼は侵攻準備計画の作成発二週間後の7月16日に、命第一六号をだした。

絶望的な軍事情勢にもかかわらず、イギリスは和条件に応じる気配を示さない。私は英本土に、必要とあれば上陸を実行することを決心した。本作戦的は、英本土が対独戦争継続する基地となることを阻止し、かつ必要とあればその全土を占領することにある

上陸日は決定されず、侵攻は依然万一の場合の計画にすぎなかった。陸、三軍は、総統にしたがって準備をすすめたが、ドイツ民はイギリス侵略をまねくような馬鹿なことはやるまいと信じていた。ベルリンの新聞は、戦争の終結はほぼ確実だとのべていた。しかし軍を強引に撃沈までした英国は、戦わずして屈するであろうか?  とるべき方策は最後のおもいきった和の提案であった。もしこれに失敗したら、ゲーリングチャンスをあたえるほかはない。1940年7月19日ヒトラーはつぎのように世界に宣言した。チャーチル戦争亡者と批判しつつ、それでも自分は理性に訴えると。

このさい、私はその良心にしたがって、もういち世界の人々の良心と常識、および他と同様イギリスに訴えることが、私の義務であると信じている。私はこの訴えをおこなう地位にあると考える。なぜなら、私は恩恵をうける敗者ではなく、『勝者』として穏やかに話しかけているのである。この戦争を続行すべき理由は何もない。私は、そもそも英帝国を破壊するどころか、 傷つけようとも思っていない。 この時にあたって私は、自己の良心に基づいて、 イギリスにもう一度、分別をめずにはいられない。 あえて戦争を続けねばならない根拠など、見当たらない。・・・ドイツ政府は、イギリス政府理性的反にもとづく和交渉に臨む用意がある。これは最後のチャンスである。イギリスがこの機会を視するなら、すでに準備了したドイツの攻撃は、時をうつさずイギリスに殺到することだろう

 英国はこのヒトラー国会演説の呼びかけに対して3日ほど焦らしている。これは英国が屈するのではないかとの憶測を与えた。そうなれば対英支援はすぐに踏み倒されてしまう。実際この時駐英大使アメリカのケネディ(J・F・ケネディの)は、対英支援中止をワシントンに具申している。だが、チャーチルは、ヒトラーの和提案に、「NO」を突きつけるつもりだった。チャーチルは、このまま戦争を終わらせて、 それによって ”ヒトラー欧州支配”を承認する気など、 全くなかった。
そしてチャーチル政権は、ヒトラーの和提案に対して、こう返答したのだった。

外相 ドイツは、もし平和をあがなうつもりなら、まず占領した全地域から撤退することだ!。 海軍大臣チャーチル 々はで、で、そして田園で、路で、丘陵で、あらゆるところで戦い続けよう。We shall never surrender

このイギリス政府の回答に、 ヒトラー激怒した。孤政府は動揺した。ハリファックスロイドジョージといった穏健は、ヒトラーの提案にを傾けようとした。また、ウインザー(先の国王エドワード8世)も、隠遁先のポルトガルから和を呼びかけた。しかし、チャーチル首相の意志は強固だった。彼はドイツとの徹底抗戦の決意を維持し、猛然と閣論の調整を行ったのである。イギリス民は迫るドイツ軍の本土進攻に恐慌状態となり、「ホームガード」なる民兵組織が作られ、スミス・ガン、SIP手榴弾火炎瓶ドイツ軍に対抗できるか)、ホームガードパイク(竹槍よりは・・・てありえん)などの珍兵器が次々作られた。イギリスの命運は前の火にみえた。

アメリカ驚愕

 アメリカ人は驚きで口もきけなかった。ドイツWW1で4年かかってもできなかったことを、たった40日でやってのけたのである。今や英国だけがアメリカと枢軸営との間に立っていたが、果たして生き残れるかどうかは疑わしく見えた。陸軍の戦略たちは大統領への報告で、南には多数のドイツ市民がおり、また領西アフリカのダカール新世界からわずか2900キロであることを摘した。最初の驚愕の後には事実上のパニックが起こった。数週前に防費20億ドルの予算割り当てを渋っていた(1938年の陸軍予算は4.15億ドルに過ぎない)議会が、今度は105億ドルの防費をさっさと可決した。州兵が動員され、史上初めての時徴兵が承認され、陸軍参謀本部は最終的には900万に達することになる兵増強を計画し始めた。ホワイトハウスでは、大統領の顧問たちが5万機からなる軍の建設を話題にしたが、当時はまだそんな巨大な軍を支えるべき飛行士も技術者もなかった。軍最高諮問委員会は、アメリカ大西洋における新たな脅威に対抗し、太平洋における日本の増強に歩調を合わせるため現存施設で可な限りの軍艦を建造せねばならぬと警告した。今度は議会も傾聴し、6月に既に承認した分に追加して40億ドルの建艦費に割り当て、7月にはさらに13億ドル強を可決し、7月20日両洋艦隊法が成立した。
 こうした気違いじみた軍備拡のは、アメリカは間もなく単独で枢軸諸に対抗することになるかもしれない、との恐れにあおられたものだった。その場合、アメリカ太平洋ではほとんど何んもできず、もし英艦隊がドイツの手中に落ちたら、大西洋の守りも難しいというものである。こうした心配は、ジョージ・V・ストロン准将の下で陸軍戦争計画部が起した1940年6月の「ストロング覚書」に記述されている。覚書はアメリカの限られた軍事とその当面する危険を分析し、英は間もなく敗北すると予想、西半球防衛のための即時動員と英国への軍事援助の停止、太平洋では防衛の姿勢にすることなどを提唱した。ナチスアメリカ西方ユダヤと見なし、恨んでいた。ヒトラーアメリカ合衆国なるものがユダヤ人戦争屋にられた北欧人種国家であり、その意味でも、この私がヨーロッパ大陸に築く「新秩序」とアメリカは、いずれ雌雄を決せざるを得なくなると信じていた。だがルーズベルトはイギリスを見捨てる気になれなかった。もしイギリスが屈すれば、枢軸諸欧州大陸アジアアフリカ豪州及びを支配するだろう。々全体が、彼らの口のもとで生活することになる。
 フィリピン防衛はもはや放棄せざるを得ない。アメリカ西海からマニラまで12600キロもある。ハワイからでも9000キロあるのだ。珠湾に軍基地はあったが、グアムやマニラにはない。態勢を整えてマニラに侵攻するには3-4かかかる。それまでに日本フィリピンを圧倒できる。日本は開戦後1週間で5-6万、2週間で10万、1か30万の軍を送ることができるのだ。陸軍士官たちは現在オレンジ計画の実施は文字通り狂気の沙汰だと摘したが、統合委員会はフィリピン放棄の心理的、政治的影を考えて踏み切れず、マニラ湾を確保し、アメリカは西太平洋で攻勢に出る、という線を常に再確認するのに終わった。実際は放棄していても、フィリピン防衛放棄を言することはできなかった。

 日中戦争の勃発以来、アメリカ政府の対日政策は「断固たる態度ながら融和的」なものであった。アメリカ中国にあるその権益の縮小に進んで同意するものでないし、極東における日本の征を認めることは拒否する。だが、その一方で、日本を挑発したり事件のもとになるようなことは一切しない。この「何もせず、挑発もしない」という政策は、ルーズベルト大統領が考え出し、ハル務長官が実行したが、これは日本との深刻な危機を避けるためのものだった。こうしたやり方はルーズベルトとその顧問たちには満足すべきものと見えたが、中国にいて日本の占領軍に威り散らされたり、殴られ、小突かれたりしたアメリカ人たちには人気なかった。また、日本軍の「新秩序」なるものを「南の暴行」や広東爆撃ニュース映画やグラフ雑誌で見たアメリカの大衆にもさっぱり人気がなかった。しかし大衆は中国に非常に同情していたものの、日本との戦争を考えてみようなどという気はなかった。

日本のドイツ接近と北仏印進駐

期待倒れとなった満州経営

満州開発はうまくいかず、資という面で全く期待外れだった。日本の3.5倍も面積があるのだから、何でもあるはずだ、これで日本も資だと夢は膨らむ。際連盟から脱退し、世界の孤児となっても気だ。そう信じて石原莞爾が中心の5か年計画で、鋼増産に励んだが、満州には低品位の鉱山しかなく、計画の年産1150万トン、鋼塊1300万トンに対し、36年には63トン、鋼塊34トンで、五カ年計画の実績(四一年末設備)は、と石炭でそれぞれ2.4倍にまで増産できたが、標には遠く及ばなかった。1940年代になって、この方向は半ば放棄され、「満洲国」自体も「大東亜共栄圏」における食料供給基地という位置付けになっていく。永田思想に従い満州、中支を外交を犠牲にして占領した陸軍であったが、資依存は変わらなかった。アルミニウムは軽量で腐食に強く、マグネシウムを添加したジュラルミンは頑丈で航空機の原料として急速に需要が増大した。地殻に豊富に存在するが、イオン化傾向が大きく酸素と固く結合し、生産に多量の電を使う。日本国内にボーキサイトはなく、カリウムを含む硫化物の明礬石は多量に存在するものの、硫化分を除去できず航空機用のジュラルミンには適さなかった。このボーキサイト印ビンタンに豊富にあった。マレーの生ゴム鉱山、フィリピンクロム印の石油やアルミニウムが必要だった。

東亜共栄圏構想の出現

1939年9月ドイツポーランドに侵攻し、欧州第二次世界大戦が始まった。武藤永田や自分が考えた通りの展開になったと考えたが、当初は欧州大戦には不介入の方針だった。1940年日本政治の中心はすでに陸軍にあった。ここにドイツの快進撃、イギリス敗北間近のニュースが飛び込んできた。
 武藤らは6月中旬「総合策10年計画」をまとめた。そこには最高策として、日本満州中国の結合をもとに「大東亜を抱擁する協同経済圏」の建設が設定されている。ここでの大東亜東南アジアなどを含む地域である。第二次大戦勃発に合わせて調し直したところ、自給自足のためには現状では足りないことが判明、東南アジアから獲得すべき必要資は、石油、生ゴムスズニッケルリンボーキサイトなどだった。これらは帝国内や中国大陸ではほとんど産出しない資であった。この協同経済圏論は、欧州の戦況の展開にともない大東亜共栄圏の設定、南方行使の問題へとつながっていく。またそれにかかわって、日本満州華北・内古が大和民族にとっての自衛的生活圏とされている。外交としては、ソ連については平和的状態を維持し、アメリカについては大東亜協同経済圏の形成による自給持続体制の確立により対依存経済より脱却する方針を示し、イギリスについては「英国及び英系勢を極東より駆逐する」と強硬に明確な対決姿勢を打ち出した。
 この総合策十年計画は第二次内閣の組閣直後1940年7月26日閣議決定された「大東亜の新秩序」の建設などをな内容とする「基本策要綱」に反映される。しかし「総合策10年計画」はドイツの快進撃を反映したものではなく、武藤ら陸軍中央は7月22日世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。際情勢の変化に対応して、日中戦争を解決するとともに「好機」を補足し「対南方問題の解決」に努めるとの方針が示されている。英領マレー印などをターゲットとした南方行使が明確に打ち出された。この好機はイギリス敗北が想定され、ドイツとの軍事同盟にも踏み込んでいた。大英帝国の崩壊を好機に、南方の英領植民地さらには印を一挙に包摂し、自給自足体制の確立したのである。この陸軍中央の「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」は軍側との協議のうえ、基本的な内容についてはほぼそのまま陸軍案となり、7月27日大本営政府連絡会議で採択された。7月22日軍首による懇談が行われ、案の内容について意見交流がなされている。武藤軍務局長は独から同盟打診があれば受諾するを要すと発言したが、軍から異論が出された。印に対する武行使は「支那事変処理を看とする」との了解がされた。日中戦争の解決を印進駐の名にしようというのである。印進駐は援ルートの遮断のためとの見方はあるが、いわば「看」であって、実際には英領マレー印など南方への勢展開建設のためであった。この「共同経済圏」及び「大東亜の新秩序」はのちに「大東亜共栄圏」へと発展していく。

一方日中戦争では405月に宜占領に成功したが蒋介石は屈しなかった。しかし峯山脈の東麓のアンチモン産地を抑えたことにより、弾丸に必要なアンチモンの安定供給ができるようになった。汪兆銘の政権は傀儡にすぎず、日中が様々なルートで画策されるがすべて実現しなかった。

 当時の内閣は、独との軍事同盟に消極的だった。また陸軍の希望する内体制の整備も進捗しなかった。そこで武藤ら陸軍中央は、近衛新党の動きと連動する形で、陸相を辞任させ、後任の推薦を拒否して内閣を総辞職に追い込んだ。後任首相は重臣会議で軍部に受けの良い近衛文麿名、陸軍は今度はすんなりと東條英機を陸相に送り、外相は強硬松岡洋右が就任した。407月22日二次近衛内閣が成立した。

日独軍事同盟の成立

ヨーロッパの戦局が急変し、イギリス危機に陥った昭和15年6月19日、参謀本部情報部長土橋勇逸少将は駐日英武官ミュレリー大佐に対して事実中国大陸から撤退するよう要した。一方陸軍は7月27日に日独提携強化、対英軍事同盟に関する件とする案を外務省に示した。

   から対英参戦を要請された場合は、原則としてこれに応じる用意があります。またと不可侵条約を結んでいるソ連とも連携を仲介頂きたいのです。
イギリス相手に日本軍事援助は必要ない。だが・・・
   9月2日アメリカが西半球にある英国基地を利用する代わりに、イギリス駆逐艦50隻を提供する協定が発表しています。
ドイツアメリカの対独参戦の危機に直面しているのです。
うむ。アメリカをけん制する手段として日本との接近しよう。
スターマーを特使として日本に送り込むぞ。日本との軍事同盟は対米軍事同盟でなければならない。
   スターマー「ということで、欧州戦線へのアメリカの参戦をけん制するため、条項を盛り込んでいただきたい。」
   ビルマルート閉鎖
香港閉鎖
上海からの英軍守備隊の撤退
これらを実行するよう要する。
海軍大臣チャーチル やむをえん、受け入れよう。日本に対する融和策が望ましい。
  
外相
ハリファクス「反対です。ミュンヘン会談の二の舞ではないですか。それにシベリア鉄道を介した日本からドイツへの物資の流れを止める交渉は日本は受け入れなかったのです。一方的で理不尽です」
海軍大臣チャーチル 大局を見るのだ、の戦略ビジョンは4つある。望ましい順に
アメリカドイツ宣戦布告し、日本は中立にとどまる
②英が協して日独両方と戦う
③日がこのまま欧州戦争を傍観する
アメリカが中立を保ったまま、日英戦争が勃発する
現状は③だ。①あるいは②をし、④を全で避けるのだ

日本ビルマルートによる援武器輸送の停止をイギリスめ、折衝の末、イギリスはこれに同意し、7月17日ビルマルート三か停止のための協定が日英間に結ばれた。イギリスは1940年8月中国本土の都市、特に上海からその駐屯地を撤退させた。イギリスのこの決定に不満なアメリカ務長官・コーデル・ハルは、「  ビルマルート閉鎖世界貿易に対する不当な妨であり、アメリカは独自の政策を遂行する」との所見を述べた。一方、9月10日松岡外相とスターマーが会談し12日に4相会談が行われた。

松岡現在のままでは英のいいなりだ、同盟締結を」 東條英機陸相「賛成」 及川 保留 近衛文麿首相「同盟締結としたいが」

ドイツアメリカ開戦から対自動参戦となることを危惧した軍の内と山本は同盟に反対した。彼らは過激派の攻撃や脅迫の的となった。の他の導者たちの大多数と軍部のほとんど全員は、結局同盟に同意するか、少なくとも黙認するよう説得された。軍の若手士官たちの多くは親独的で、それ以外のものも三同盟がアメリカ戦争介入を防げるだろうという松岡外相のを最もだとしていた。これに対して松岡外相は、事実上参戦の自的判断を各政府が持つという趣旨の規定を定める案を提示し、軍側の了承を得た。9月27日日独同盟条約が締結された。日独同盟の内容は、ヨーロッパにおける独と、大東亜における日本の、それぞれの新秩序建設においての導的地位を相互に認め、尊重しあうこと、そのための三の相互協と、いずれか一現在交戦中でない他に攻撃されたときは、三はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法により、互いに援助すること、前記の条項は三それぞれとソ連との間の状態には影を及ぼさないこと、有効期間は10年とすること、など。

松岡は1941年12月8日「三同盟の締結は、一生の不覚だったことを、いまさらながら痛感する。……事ことごとく志と違い、今度のような不祥事件の遠因と考えられるにいたった。これを思うと死んでも死にきれない」というが出来すぎであろう。1945年8月13日ポツダム宣言を受諾するとの事であるが、これはを滅ぼすことになるので絶対にいけない。……を救うは、戦争継続し、本土決戦を決意して、死中に活をめるよりほかに方法はない。」と発言している。彼については原田雄や木戸の評価が的を得ている。原田松岡は、昨日の話を、馬耳東風と聞き流すような男」であったとし、木戸は「松岡はいろんなことを言うんだよ。いうたびに変わるんだ。それでどこが意かわからん」と苦笑する。

軍事同盟の反

ドイツから差別爆撃で甚大な被害を被っているの最中のイギリスにとって、三同盟の締結はまさに青天の霹靂であった。日本イギリスの敵側についたことを明示するものであり、イギリスとしても対抗措置を打ち出さざるを得なくなっていた。

  外相 もはや日本との対決は避けられません。 海軍大臣チャーチル もう①は現実的にはありえない、②をめざそう。対追従だ。英独の戦いにアメリカを巻き込むには、日本との戦争も仕方ない。

 イギリスビルマルート一時閉鎖の協定を更新することを拒否し、10月18日より然とビルマルートによる援を再開したのであった。英外務省は対日政策を検討する極東委員会を設立して本格的な対日政策に乗り出した。それは対日経済制裁の模索であった。

アメリカにとって三同盟の急速な成立は意外であった。日本はもう少し欧州戦局の動向を見極めながらコミットメントを慎重に判断するのではないかと考えていたからである。アメリカは対独参戦した場合、三同盟で日戦となり両面戦争を覚悟しなければならないこととなった。それは対独戦遂行にとって可な限り回避したい事態だった。スティムソン陸軍長官やモーゲンソー財務長官は、制裁を強化すべきとして、石油全面禁輸をした。しかしハル務長官は「石油禁輸は日本印に向かわせる」と反対し、大統領ハルを支持した。三同盟はこの時は対抑止として有効に働いていたのである。

同じころ、山本長官は近衛に招かれ、質問を受けた。

近衛文麿首相「万一日戦争の場合の見込みは?」 山本五十六「それはぜひやれと言われれば、初め半年か一年の間はずいぶん暴れて御覧に入れる。しかし2年3年となれば全く確信は持てぬ。三条約ができたの致し方ないが、かくなる上は日戦争を回避するよう極ご努願いたい」

 一方陸軍の武藤としては三同盟及びソ連との提携によって、なるべくアメリカを反させるようにしなければならないとし、日戦を回避し、同盟条約第二条ドイツ東アジア東南アジアでの日本導権を承認)によって南方へ進出して資自給自足体制を確立し、大東亜生存権の建設を実現しようと考えていた。武藤ら陸軍中央は7月下旬に「導に関する具体的要」を定めた。そこには全民総動員組織の確立、言論結社集会などの禁止・制限、批判の抑圧なども含まれてきた。そして情報統制、報道規制などによって、一方的情報に基づく世論調整が意識的に行われ、陸軍が望む方向への「精動員」「民動員」が行われるようになっていく。
 413月文部より「臣民」が発行・配布された。そこでは「ら皇臣民は、悠久なる肇の古より永遠の皇運扶の大任を負うものである。この身この心は天皇に仕えまつるをもって本分とする。…らは民たること以外に人たることを得ず、さらにを別にして私はないのである。らの生活のすべては天皇に帰一し奉り、国家に奉仕することによって真実の生活となる。…されば、私生活をもって国家に関係なく、自己の自由に属する部面であると見なし、私意をほしいままにするが如きは許されないのである」
 この臣民はすなわち一般国民の生き方として義務付けられ、教育された。武藤軍務局長は議会で発言している「現在際情勢に書しますには…個人義に出発しまする一切の自由義、これを排除していかなければならぬ…。いかなる国家本位に進んでいる…。すべての物が個人というより国体というものに立脚して、一切をしていくことになれば、おのずから国家の総というのは万全のを発揮するものだ」

 政府民も、本当に「天皇の軍隊」を統制できず、軍だけが勝手に暴走したのであろうか。そうは言えない。戦争を行うには戦費が、軍を維持するには軍事費が不可欠である。したがって、議会が戦費いわゆる臨時軍事費を否決すれば、軍は動けない。…明治人は明確な「戦費」という意識があった。が戦費の確保に腐心すれば、非戦は議会の戦費否決でこれに対応した。戦争→戦費→議会の戦費可決→増税→民衆の苦しみを明確に示し、民衆の増税反対に代議士を動かし戦費否決から非戦へもっていこうとした。
 ところが、昭和になると、戦・非戦両とも、戦費と負いう最も重要な問題に関心である。民は「勝った、勝った」でをくらまされていたが、軍は、戦費が自分たちの死命を制することを知っていた。…満州事変から延々と続く戦争、この状態は実に強い厭戦気分を民の中に熟成した。軍人が、何かあれば「軍民離間は利敵行為」と言ってを怒らし、陸軍両がすでに昭和8年に「軍部批判は軍民離間の行動」と明したこと自体、軍と民がすでに離間していたこと認めたに過ぎない。ではもしこの批判が議会に反映し、臨時費(戦費)を否決したらどうなる。…これが倨傲な態度で民を睥睨していた彼らが、絶対口にしなかった恐怖であった。彼らはその事態に至らせぬため、あらゆる手段を使った。したがってその時には、を抜かれた議会、すなわち賛議会は、すでにできていたのである。
 私のそのことをったのは、士官学校の若い中隊長である。彼は政局や戦局の話を始め、このようになったのは「議会が悪いからだ」といった。彼は議会を罵倒し、軍需太りの利権やを国賊とののしり、戦死者の死を食う人非人どもといった。……それが臨軍費に及んだ時、私は彼の顔を見直した。彼は言った。「いかに精鋭の軍隊といえども、逐次戦闘加入を強いられれば必ず敗北する。ナチス・ドイツ軍の勝利を見よ。実に見事な、一糸乱れぬ統一戦闘加入ではなないか。なぜ々にこれができないか。毎年、毎年、臨軍費の予算の範囲内でしか作戦ができず、これ以上は”予算がないから戦争はできません”という状態を強いられてきたのだ。日事変が片付かなかったのは軍の責任ではない。議会の責任だ、議会が悪いのだ」
 私がいかに鈍感でも、こういわれれば、何が要点かはわかる。「そうか、そうだったのか。戦費を打ち切れば、戦争を終わらすことができたのか……」同時に、学生時代からの、軍の民への直接宣伝、新聞ラジオ雑誌等の戦意高揚記事、配属将校の演説等々が、走馬灯のように頭の中を走った。「そうか、彼らはこの点を民のから隠すため、あんなことを言い続けてきたのか……」
 「幸い武藤軍務局長が……」と私の胸の内も知らず彼は言葉をつづける。そしてこの名をにした途端、一枚の新聞の面が裏に浮かんだ。それには武藤軍務局長の大きな写真が載り、「政党解散は軍の方針」だという彼の言葉が載っていた。

印進駐

大日本帝国は機を見るに敏で、フランス6月ドイツに降伏した後、8月1日には松岡外相はアンリ駐日大使を呼びつけ「日本軍隊の印通過及び印内飛行場使用の容認並びに右軍隊用武器弾薬その他の物資輸送に必要なる各種便宜供与方を要する(中略)もし印がこれを入れざる場合にはあるいは形式においても中立を冒すことになるやもしれぬ」とペタン政権に対し警告した。インドシナ経由で中国国民党軍に物資を供給する行為は、即座に中止されてしかるべきであると。結局、フランス人総督は日本側の圧に屈し、日本が北印に兵員と航空機を駐留させることを認めざるを得なかった。10月16日アメリカ航空機ガソリンの対日禁輸を決定した。

田中新一の台頭

4010月10日田中新一が作戦部長に就任した。東條陸相の意向によるものだった。田中は「重慶政府の降伏はこの際問題とせず、全面的東亜の解決により自然にその降伏を予期され」解決されると考えていた。411月田中作戦部は「大東亜持久戦導要綱」を作成し、陸軍部の非公式な承認を得た。好機におうじた南方行使と、北方静謐を基本とするものであった。1月30日「対印・泰施策要綱」が大本営政府連絡懇談会において決定された。大東亜共栄圏の段階的建設の第一段階として印・泰に進駐、生ゴムタングステンなどの第一次補給圏と位置付けられた。田中新一はこの過程で、ドイツの対英攻勢が予想される3月末までに南部印進駐を決定・着手すべきと考えていた。だが松岡外相の同意を得られず、7月まで実施に移されなかった。なお「大東亜共栄圏」の重要公式文書における初出はこの時である。さて、2月上旬、陸軍部は「対南方作戦要綱」を作成し、軍側に提示した。その子は、対南方政策の的は、日本自給自足経済体制を確立することにある。イギリス崩壊などの好機、もしくは英による全面禁輸を受けた場合には、武を行使する。戦争相手は英に限定する、というものだった。ところが軍側は、英絶対不可分、南方行使はすなわち対戦になるとの判断を示し、陸軍案に同意しなかった。その後陸軍で協議され、6月6日正式に決定された。ここで大東亜共栄圏建設に一番梯として、外交によって印・泰の包摂を図ること、南方行使はいわゆる「自存自衛」(すなわち対日禁輸措置を受けるか、防上容認できない軍事的対日包囲体制が敷かれた時が想定)の場合のみに限定していた。ドイツの対英本土作戦の延期により「好機」補足の武行使は放棄され、英可分の認識が清算され、陸軍とも英不可分の認識に立つことになった。南方行使は、すなわち対英戦争を意味することとなったのである。

日ソ中立条約の成立

411月松岡外相「日本の行動についてが英国が正しい諒解を持たないからには、として所信に向かって邁進するよりほか仕方ない」

 松岡外相は413月からモスクワベルリンを訪れ、スターリンヒトラーと意見交換をしていたが、ドイツ日本に対英宣戦とシンガポール攻撃を即し、松岡ロンドン訪問はキャンセルした。4月13日には日ソ中立条約が成立し、日本の南進が促進された。イギリスは再三日本の南進の脅威を訴え、シンガポール防衛の重要性をアメリカに伝え、共同警告を提案したが、アメリカ関心で介入にいたらなかった。5月13日には松岡外相が野村大使から送られてきた日諒解案に憤慨し、14日駐日大使グルーと会談「アメリカイギリスに船舶を供給するべきではなく、もしそのようなことになれば日の間の戦争が勃発することは避けられない。日本の意図は平和的手段によって南方に進出することであるが、マレーの英軍が増強されればその限りではない」。

イギリスハル務長官に「々は日本中国妥協できるとはとても思えない。もしそれが可なら、アメリカ英国の意見を妥協案に聞き入れてくれ」と伝え、激怒させた。英が同意できる範囲でしか交渉を妥結してはならない、と。アメリカ日本に譲歩するのは英国には好ましくないし、中国を見捨てることになりかねない。5月27日にようやくハルは交渉内容を英国に伝え、もしもの時は相談することを伝えた。英国日本の南進を防ぐため日中戦争は続いてほしかったが、米国日本中国からの撤退を希望していた。

第二次世界大戦の展開

英独の戦いは着していった。

独ソ関係の動揺

 ソ連は、いわばヒトラー方式で急に領土を拡していた。昨年末の「冬戦争」で、フィンランドからカレリア地方を奪取したのに続き、今年6月にはルーマニア脅迫し、ベッサラビア地方を併合した。さらに8月には、バルトを恫して、その全土を軍事占領したのである。ほとんど血で、2千万近い人口を獲得したことになる。そして、ソ連の野心はそれに止まらなかった。ブルガリアトルコにも触手を延ばし、重要拠点の割譲を狙ったのである。この情勢に、東欧危機感を募らせた。彼らの頼みの綱は、今や日の出の勢いのドイツ帝国しかない。そしてヒトラーも、これ以上のソ連の進出を許すつもりはかった。彼はフィンランドルーマニア軍事顧問を送りこみ、密かに軍事協定を取り交わしたのである。フィンランドニッケルと、ルーマニアの石油は、何が何でもドイツが確保しなければならないからである。 スターリン激怒した。 ここに独ソの蜜は終わりを告げたのである。
 1940年の7月31日ヒトラーはベルクホーフ山荘に陸将軍たちを集めた。イギリスが降伏条件をめぐる交渉を拒否していることに総統閣下は戸惑いを覚えていた。予想されうる将来において、アメリカ合衆国が参戦する見込みはない。だとすると、おそらくチャーチルソ連を当てにしているのでは?。

イギリス希望ロシアアメリカである。ロシアにかけた希望が消えるなら、アメリカも消えてしまう。ロシアの消滅は東アジアにおける日本の価値を恐ろしく増大させることになるからである。・・・ロシアが粉砕されれば、イギリスの最後の望みが絶たれるだろう。ドイツはその時、ヨーロッパバルカン人になるのだ。

 彼の生涯最大のプロジェクト、すなわち東方ユダヤ・ボリシェヴィズムの打倒に向けて、ついにゴーサインを出したのである。ただこの時ヒトラーは最終的に独ソ戦を決意したわけではなかった。

バトルオブブリテン

 ドイツ全軍のかじを切るには、やはりイギリスをきっちり片付ける必要があった。そこでドイツ軍に対し、対イギリスせん滅作戦した。港湾、軍艦のみならず、イギリス軍及びその地上組織、イギリス軍需産業合わせて一掃せよと。任務達成には一かもかからないでしょうとゲーリング元帥は予言した。

 イギリスの抵抗はしかった。ドイツ軍の攻撃はしさを増し、8月15日の攻撃は1790機もの参加したが、「救機」スピットファイアの活躍で大損を受けた。ドイツ爆撃機乗りたちは、明日にも全消滅するはずの敵戦闘機が、圧倒的な数で襲い掛かってくるのをの当たりにした。しかしイギリス軍も、ほぼ毎日失った以上のドイツ機を落としてはいたが、消耗していった。そもそものベースになる保有機数がドイツ側が倍近く多いのだ。その後戦闘機の生産が劇的に増加したことで、懸念の一つが解消されたものの、パイロットの損耗は依然最大の懸念材料だった。食事中や、下手をすると会話中にことりと寝入ってしまう疲労度だ。8月24日100余り爆撃機からなるドイツ軍部隊が本来の標である飛行場の上を素通りしてロンドン中心部を爆撃する事件が起きた。これにカチンときたチャーチルは、直ちにベルリン爆を命じた。ヒトラーはワルシャ爆の時のようにロンドン爆にて敵の戦闘意欲をくじくべき時が来たと考え、ゲーリングは標的を飛行場から都市へと転換した。だが当時相当に追い詰められていた「戦闘機集団」は救われたのである。イギリス爆撃機軍団」は対の港湾施設をたたき、そこに集結しつつあるドイツ軍底の荷船をつぶしていった。ついにヒトラーイギリス上陸作戦をあきらめた。
 9月7日1000機以上の航空機を投入して、大規模襲を敢行した。「ザ・ブリッツ」の始まりである。ドイツ爆撃機の大半はロンドンの港湾施設をしていた。ロンドンではこの日300余り民間人が死亡した。9月15日の大攻勢も、高高度に位置をとっていたスピットファイアハリケーンメッサーシュミット109が燃料残量が乏しくなる間を狙いすまして、攻撃が開始された。ドイツ軍はイギリス軍による攻撃を避けるため、爆撃に切り替えた。ドイツ軍の優れたレーダーを用いた用いた爆撃に、その後犠牲者はうなぎのぼりとなった。ザ・ブリッツにより415月末までに43000人以上の民間人が爆撃死亡100万以上の屋が損を受け、コベントリー大聖堂をはじめとした名だたる歴史的建造物が破壊された。しかしイギリスは耐えた。当初なすすべがなかった爆撃も、次第に対策がなされるようになった。戦闘機は地上管制との連絡やレーダー解析のため、副操縦士が必須である。複座戦闘機として不足であったブリストル・ブレニムにかわり、ブリストル・ボーファイターが導入された。レーダー基地や、監視軍団から適宜情報が入ってくる。すると眼下の巨大な地図上に、襲い来るドイツ機の現在地と規模が時々刻々、一でわかるように示されていく。イギリスの士気は保たれ、戦争経済に与える損も食い止めることができた。
 そのころベルリンでは、爆だけではイギリスを屈させるのはやはり理ではないかという冷めた空気が広がりつつあった。作戦による飢餓こそが、イギリスに対する最も重要な武器である。まさにこの封鎖という言葉がドイツ人の復讐心に火をつけた。WW1の折、イギリス海軍が実施した上封鎖作戦により、ドイツ帝国を襲った飢餓の記憶は、彼らの心にこびりついていた。その結果今後の対イギリス攻略作戦は、もっぱら潜水艦体とし、イギリスを兵糧攻めする方向に向かっていく。

10月22日フランコに対しヒトラーは言った。ドイツはすでにこの戦争勝利した。今のイギリスは、ソ連もしくはアメリカに救ってもらおうと、ただ希望にしがみつく以外何もできない存在だ。そのアメリカはあと1年たたないと、戦争などできないほど準備不足である。イギリス一の脅威は、連中が大西洋の々を占領するとか、ドゴールの助けを借りて、世界各地の植民地で騒動を起こすくらいであろう。だからこそ私はイギリスに対する広範な戦線を欲しているのである。アゾレスが手に入れば、ドイツ軍は大西洋上に一台拠点を築けるが、航続距離6000キロメートルに及ぶ新世代の爆撃機アメリカ東海を攻撃することで夢見ていた。

地中海の戦い

 イギリスに宣戦したイタリア軍は英領エジプトに攻め込んだが撃退された。4011月11日空母イラストリアスによるタラン襲が行われ、イタリア軍艦3隻に魚雷を命中させ、カヴールは沈没した。12月9日よりのヴェーヴェル将軍ヘンリーウィルソン中将の「コンパス作戦」英軍の反攻では圧勝しイタリア軍13万人が捕虜となった。しかしギリシャ救援のため、3個師団が抜かれ、英軍の進撃は止まった。この時ギリシャ派遣されたのは6師団とニュージーランド軍であったため、のちに物議を醸しだした。412月アフリカに降り立ったエルウィンロンメル将軍率いるドイツアフリカ軍団の反抗が始まることになる。3月ロンメルは反抗を開始し4月ベンガジを奪回、パリ少将と多数の英軍を捕虜にし、オコナー中将とニーム中将まで捕虜にした。そもそも二人の中将を乗せたの運転手がうっかりを間違えたのがこの不祥事の原因だった。ロンメルは英軍の要塞となっていたトブルクを包囲したものの陥落させることができず着状態となった。6月に反攻を行って失敗したヴェーヴェルチャーチルは更迭しインド官に回した。チャーチルがいらだつのは、まず民の士気を高めるために積極果敢な行動が必要という内事情が一点、さらに今ここで強い印を与えないと、アメリカ合衆国ルーズベルトに、当面の状況から自を救い出してもらいたいだけで、アメリカの参戦を必死めるとの印を持たれたら負けであることがあった。

レンリース法の成立

1940年11月ハロルドスター大将はドックプランを立案した。大西洋で攻勢の準備をしつつ太平洋は守勢をとるという案である。レンリース法が地平線上に姿を現しており、次はまず間違いなく船団護衛という段取りになるだろう。これはオレンジ計画を一変させるものであり、軍が大西洋の脅威に対抗することとなった。1941年1月英両の参謀たちが話し合いの場を持った。両軍首部はスターク覚書の精に基づきヨーロッパ戦役こそ死活の重要性を持つもので、独をまず倒さねばならぬと即座に同意した。しかしシンガポール軍の一部を派遣する英国の要請は拒否した。アメリカを極東でなく大西洋に展開することに同意した。何よりも戦略たちは、イギリスアジア帝国を守るためにアメリカ人の血を流し、アメリカの資産を費やす気はなかった。
 英国は武器貸与法の二位条項にある過酷な貸し付け条件の数々に衝撃を受けていた。アメリカはすでに、イギリスが保有するすべての固有財産の監めていた。そして、イギリスが保有する外貨準備と準備を使い切るまで、いかなる補助も与えてならぬと提示していた。ケープタウンアメリカ海軍軍艦派遣され、同地にイギリスが保有する最後の塊も運び去られた。繊維・化学のコートールズ、石油のロイヤルダッチシェル庭用品メーカーのユニリーバなどの式をアメリカ側にバーゲン価格で売却されなければならず、しかもそれはその後市場転売され、その差額分はすべてアメリカ庫に入った。とはいっても反英感情から武器貸与法に批判的態度をとる人々もアメリカには相当数いた。WW1が終わった後、英が債務不行に陥り、煮え湯を飲まされ、そのことを根に持つアメリカ人投資もまだ多かったし、帝国義の他を巻き込んで自の代わりに戦争やらせる手並みではもはや名人級の見下げ果てたやつらと毛嫌いするアメリカ人も実に多かった。この恨みつらみは戦後も長い間尾を引くことになる。1940年という時点で、様々な武器の発注として、イギリス45億ドルもを支払ってやったからこそ、アメリカ気後退の泥沼から抜け出し、高度成長の軌に乗り、兵器の質はその後なるほど善されたけど、1940年当時生きるか死ぬかの瀬戸際に、イギリスが買わされたアメリカ製の各種装備品の質は低く戦況を変えるのには役立たなかったとか、英領ヴァージンの見返りとして提供されたWW1期の老朽駆逐艦は大修を経ないと洋上任務をこなせなかったとか・・・。413月8日武器貸与法はめでたく成立した。6月には中国にも適用されることになった。

バルカン侵攻

414月ドイツギリシャ侵攻、ほんの数かパン一塊の値段が200万ドラクマに上昇し、ドイツ軍占領下の最初の1年に、実に4万人をえるギリシャ人が餓死することになる。このマリータ作戦ドイツソ連侵攻に及ぼした影について、当初の5月から6月に延期された理由については総じて、他の原因を挙げるものが多い。しかしこ作戦によりスターリンはついに確信したのである。ドイツが今回、南方を攻めたのは、対ソ侵攻作戦ではなく、スエズ運河の獲得を狙っている何よりの拠であると。
 ドイツ防軍最高部は、マルタへの侵攻を検討したのは2月初旬だった。しかしヒトラーはクレタのほうを危険視した。クレタを拠点にすれば、ルーマニアプロイェシュティ油田の爆が可になるからだ。415月クレタドイツ軍挺部隊に襲われ、多くの犠牲を出しつつも占領された。
 ヒトラーユーゴ侵攻がごく短期間に成功を収めたことを受けて、スターリンはある種の保険をかけておこうと決めた。そして414月13日ソ連日本と期間5年の日ソ中立条約を締結するとともに、満州国を承認した。

アフリカ戦役

イタリア軍は英領ソマリランドを占領したが、1941年1月19日から始まった英軍の反攻では策略と計略を眼に置いた。メサヴィ、ロイドリースらと並んで、ウィリアム・スリム少将団長として経験を積んだ。ここでゲリラ軍団を率いて覚ましい働きをしたのがオード・ウィンゲートで、彼のギデオン部隊3000が、36000のイタリア部隊打ち負かした。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ陛下は、オード・ウィンゲートによるゲリラ戦団に率いられ首都アジスアベバに戻った。しかしイギリス政府ゲリラの成果に冷淡だった。結局この戦役で1154人の戦死者を出したものの、11月イタリア軍を降伏させて23万の捕虜を得た英軍だったが、痢・マラリアが蔓延し、74550人が病気となり744人が死亡した。

イラク戦役

414月中東でのイギリスの影が弱まったのを奇貨として、イラクで親ドイツ政権が誕生した。5月2日イラク軍がファルージャ付近のイギリス軍基地を包囲したことにより、ついに戦闘が開始された。包囲された空港からのイギリス軍の攻撃に驚いたイラク軍は撤退し、インドからの師団で増強されたイギリス軍は快進撃を続けた。ウィリアム・スリム少将インド第10師団長に昇格し、英軍はファルージャの戦いに勝利した。ヴィシーフランス統治下にあるシリアからイラク軍に軍需物資が補給されたが、イギリス軍の進撃を止めることはできず5月27日バクダッドへイギリス軍が進出し、31イラクは屈した。

シリア戦役

ヴィシー政権下のシリアレバノンに対し、ここを基地にエジプトに攻勢をかけられることを恐れたイギリス軍により416月8日シリア戦役が開始された。ウィリアム・スリムイラクからアレッポに進撃し、21団はベイルートに迫った、7月12日ヴィシー軍は降伏し、自由フランスの管理下に置かれた。

ウルトラマジック

 このころ、英本土ブレッチリー・パークにある諜報部隊は大きな成果を上げていた。ドイツ暗号エニグマ」のより正確な解読に成功したのである。コンピューターを発明したともいわれる天才数学アラン・チューリングは、軍のエニグマを破るのに役立った暗号解読機の設計につながった当初の考え方の多くを提供した。解読された暗号情報は「ウルトラシークレット情報として、政府や軍の部に提供された。「ウルトラ」傍受・解読システム良により戦場にいる現地官に初めて、ドイツ防軍の戦術的動向が直接警告できるようになったのである。
 一方、日本外務省では39年後半になると、97式欧文印字機という新暗号機(パープルとして知られる)がベルリンローマロンドン東京間に導入されて、英国暗号技師たちに解読不可能となった。イギリスの傍受人員は極めて不足し、資料は打ち捨てられた。一方アメリカパープルの解読に成功していた。これは「マジック情報として知られる。408月31日米国暗号について協を申し出、12月に暫定同意が結ばれ、英国は限定的ながら「エニグマ」や暗号まで解読に成功して驚異的な成果を教え、解読手段として使われた「ボンブ」と呼ばれる初期のコンピューターとともに提供された。見返りに米国より、412月にはパープル解読のための機械のうち1台を英国に寄贈、3月にはロンドンバーグリー外の英外交暗号解読センターパープル暗号の解読が始まった。大戦中を通じて、大島駐独大使ヒトラーとの会談内容を本に伝える電文が、連合側に解読されていた。

 一方、日本海軍暗号4012月により高度なJN-25bに、さらに41年に入るとJN-25B7、珠湾直前にはJN-25B8を導入した。精巧で高度な暗号化技術を用い、連合暗号技師らにとってかなり困難であった。暗号が解読されるのは、開戦後の42年4月まで待たねばならない。

独ソ関係悪化

アルミニウムの細粉を混合し、塩素カリウムで着火させると、に含まれる酸素アルミニウムしく反応する。の還元熱とアルミニウム化熱が重なって、1600度以上の高温を発して、をも溶かす。これはテルミットと呼ばれた。このテルミットの高熱に着し、最初に焼夷弾に使ったのはドイツである。1600度以上になるので、消火しようとをかけると水素爆発が起きて被害が拡大する。これを投下されたイギリスは、すぐさま模倣して4ポンド、25ポンドのテルミット弾とし、これをドイツ爆撃した。マグネシウムを使用した焼夷弾はマグネトロン弾と称されていた。木造屋が多い日本に対する爆弾は、テルミットのほかに、ナフサをパーム(ヤシ)油で化したナパーム内蔵の焼夷弾が使われた。TNTに硝アンモニウムを添加し、爆弾を大化させることに成功したアマトールを開発したのはイギリスで、これを「ブロックバスター」と呼ばれる200012000ポンドの大爆弾とし、中で炸裂させ、その爆で建物の屋根をはぎ取り、そこにテルミット焼夷弾を潜り込ませる戦法で爆撃した。

ザ・ブリッツと呼ばれる都市への爆がになってもなお続けられた。11月13日イギリス爆撃機軍団」はチャーチルの命に従い、ベルリンに反撃を加えた。ヴャチェスラフ・モロトフが訪独したことに対しての処置だった。このベルリン会談で、ドイツは独日ソ四国連合構想とその勢分割案「リッペンドロップ腹案」をソ連側に提示している。リッベントロップ外相はイギリス敗北は確実で南方インドペルシア湾を攻撃し、大英帝国の分け前を分捕ればいいと促した。一方モロトフは、フィンランドは、前年の約束では、ソビエト圏に入ることになっていたのに、ドイツはその約束っていた、その非をついた。
 チャーチルは、このときを狙って、ベルリン爆撃するように命した。ベルリンには警報が発せられ、モロトフは、リッペントロップの案内で、ドイツ外務省の地下防壕に移り、会談を続けた。リッベントロップは、なおもイギリス敗北後の情勢について話を続けたが、モロトフは皮な口調でいった。「イギリスには、もはや戦うがないとするあなたのお話はよくわかった。しかし、いまペルリンの上を飛んで爆弾を落としている飛行機は、一体どこののものです?」

 スターリンは、帰したモロトフから報告をうけると、三同盟加入のドイツ提案を次の四条件がみたされるなら承諾する、と11月27日ヒトラーあてに回答した。

ドイツ軍フィンランド撤兵。ただしニッケルや木材などはドイツへ輸出する。
②数か以内にソビエトブルガリアの間に相互援助協定をつくり、ボスポラス、ダーダネル峡近くにソビエトの基地をつくる。
ペルシャ湾方面をソビエトの勢圏とする。
日本は北カラフトの石炭石油利権を放棄する。

スターリンは、イギリスとの戦いに手一杯のヒトラーがこの条件をのむだろう、と考えていたようである。
 この条件はヒトラーから見れば、到底許容できない内容だった。特にフィンランド問題では独ソの利が鋭く対立していた。12月8日ヒトラーバルバロッサ作戦を下した。

海軍大臣チャーチル ドイツを攻撃しようとしております! ほう、それはどういう根拠でいわれるのかな?
海軍大臣チャーチル それはウルト…、コホン、とある信頼できる情報からですぞ (ふん、イギリス得意のささやき戦術だな、独ソを争わせようとしたいのだろう)

 イギリス側はソ連に対し、ドイツの対ソ侵攻にその旨順次警告を発してきたのだが、スターリンは一蹴してしまった。その年の初め、ヒトラーからの親書には、ドイツ軍西方移動は単に英爆撃機の航続距離の外側に部隊を置くための措置に過ぎないとあり、それで納得していた。リッペンドロップ外相はスターリンチャーチルに対する疑心を巧みについて見せ、おかげでイギリス側がバルバロッサ作戦についていくら警告しても、スターリンには逆効果しか生まなかった。スターリンは、独ソが戦争になり、ファシズム共産主義が共倒れになるのを狙った資本主義の陰謀があると信じており、その誘いには一切乗るつもりがなかった。独ソ不可侵条約が機していた期間中、26000トンクロム、14万トンマンガン200万トンえる石油が供給され、イギリスの封鎖をかいくぐり東南アジアで調達された食料や燃料、綿や各種の金属までドイツ側にわたるケースが増えていった。

日ソ中立条約の成立

412月下旬大島駐独大使から、独ソ関係悪化を示唆する報告が届いた。4月1日大島ヒトラーソ連邦の態度を痛罵し、現在150個師団の兵ソ連に対し配置している旨の発言を行ったことを日本に伝えた。大島ベルリンからモスクワに向かう松岡に、独ソ開戦の可性を摘、日ソ不可侵条約の締結を思いとどまるよう発言した。だが松岡大島の意見を受け入れなかった。4月13日日ソ中立条約が成立した。

41には「ウルトラ」によってドイツの多くの師団がバルカン半島に移ったことが分かった。6月4日大島日本政府への電文で、英政府ドイツが間違いなくソ連攻撃を踏み出すという最後の確信を得ることができた。英政府暗号研修所に統合された英国と違って、米国では陸軍がばらばらだった。軍の暗号解読部門と協するのはようやく42年2月になってからだった。

日本の外交と諜報

1941年には中国戦線は着状態となっていた。日本中国北部や沿部を占領したが、政府は重慶に首都を疎開させ、中国共産党は陝西に移動した。日本軍鉄道沿線と都市は支配したが、広大中国の農村部には支配が及ばなかった。また1940年3月汪兆銘の政府立されたが、中国民の大多数の支持は得られなかった。しかし国民党中国共産党の協も、皖南事変により効果的なものではなくなっていた。日本軍上海、武、重慶などの大都市に戦略爆撃を行い、特に重慶では1938年2月より19438月まで行われた爆撃では、国民党政府の防政策の不備もありおびただしい民間人死者を出し、都市を荒させた。独ソ戦により、日本軍北方で再び兵増強に動くことを恐れたスターリン中国共産党に大規模なゲリラ戦を展開するように要請した。毛沢東は了解したと請け合ったものの、まったく何もやらなかった。1940年の作戦日本側が支配する鉄道や鉱山に相当程度の打撃を与えることはできたものの、共産党にも多大な犠牲を強いた作戦であり、国民党漁夫の利を得させたからである。共産党アヘンの販売により国民党と戦う軍資を作っていた。一方1941年北支那方面軍岡村寧次大将共産党が活動基盤とする地域に三と呼ばれたパルチザン掃討作戦を実施した。日本軍は自軍が奪いつくせなかった収穫物は、すべて焼却処分にし、強制労働、飢餓が中国共産党活動基盤地域を襲い、人口は4400万人から2500万人に減した。日ソ中立条約後もソ連の軍顧問団の派遣は続けられ、ヴァシリー・チェイコフ将軍の元およソ1500人もの赤軍将校が中国において活動し、スペイン内戦の時と同様実戦経験を積んだり、新たな兵器システムの評価を行った。1941年の長沙作戦ソ連のチェイコフ将軍の考案した範ゲリラ戦闘が功を奏し、日本軍は相手方を上回る犠牲を出して敗北した。イギリスもまた国民党ゲリラ分遣隊に武器を提供したり、訓練を施したり、諜報活動を行った。アメリカも退役軍人のクレア・シェンノートの元、ボランティア部隊のフライングタイガースなど側面支援を行った。

交渉の開始

1940年1月26日の日通商航条約の失効以後、日条約状態に突入していた。アメリカは三同盟及びソ連のユーラシアブロック出現に脅威を感じて妥協に傾き、日交渉開始の諒解案について非公式野村大使と交渉、提案を進めた。日ソ中立条約締結4日後の414月17日野村三郎大使から「日諒解案」が打電されてきた。これは両の友好関係の回復をす全般的協定を締結しようとする趣旨のもので、アメリカの対独参戦時の日本側対応(自動参戦しない)と引き換えに、アメリカが「中国による満州国承認と中国からの日本軍の撤兵」などを条件に日中戦争の和を仲介し、日本の資確保に協し、日の通商関係を正常化するという内容だった。しかし野村大使ハルの4原則(領土保全と権尊重、内政不干渉、機会均等、太平洋現状維持)を本に意図的に伝えなかった。
この諒解案は陸軍の武藤田中においても、華北への駐兵が保されないことに不安を感じつつも、歓迎された。この諒解案は松岡外相不在時に作成されたが、松岡外相が修正し5月12日米国に提案された。6月12日側回答は参戦の問題、日中間の協定による中国からの日本の撤兵、日併合、満州国に関する日中間の交渉などが挙げられており、陸軍の武藤らには到底受け入れられない内容となっていた。独ソ開戦の確信を得た側が態度を硬化させたのである。

諜報

イギリス諜報部が日と異なるのは、情報を狭い範囲でなく、広く配布し(漏洩リスクが高まるものの)、検討を広く行い、政策に効果的に反映させた。一方米国ではこの時期は大統領マジックを通しておらずハル長官と一部の軍官のみであった。また、英国の外交官が持っていた機密活動費がないなど、外交官や駐在武官のスパイ活動は禁止されており、情報はもっぱら開された新聞や外交官が招かれる見学旅行などによった。1937年に日中戦争がはじまると日本に病的なスパイが高まりだし、以前は開されていたようなものもベールに覆われだした。

 戦前日本イギリススパイは活躍できなかった。憲兵の取り締まりが厳しく、1941年までにイギリスジャーナリスト、コックスをはじめ十数名の在日イギリス人はすべて逮捕された。在日武官ピゴットは日本スパイと本に疑われたくらいだった。イギリスアジアにおける情報治安活動が人員不足により慢性病的状態であった。しかし香港を中心とした通信傍受と暗号解読は較的うまくいっており、満州事変時の事件が事前に仕組まれていたことは、通信傍受から英側には明らか読み取れた。日本国家主義スパイ強迫観念にとらわれており、日本の一般市民スパイ強迫観念が強まって、外国人はすべて恐るべき監視下に置かれた。開された場での合法的な偵察に活動を限定したものの、38年10月にはTAピーコック中尉日本行方不明となり、407月にはスパイ容疑で15人の英国人が逮捕された。逮捕3日後コックスは尋問中に死亡した、コックスの遺体の腕には20本の注射の跡があった。
 英国スパイ活動は全くうまくいかず、英国の得る情報暗号と外務暗号に偏っていた。一方、イタリア香港駐在の外交団が、日本に対し傍受警を呼び掛けていたが、日本は自分たちの暗号システムに自信過剰で、結果的に日本軍隊にありきたりの警を呼び掛けただけに終わった。それでも、日本海軍は時折暗号を変更し、情報入手が一時的に途絶えてしまう事態が起きた。1939年にはついに安全なJN-25暗号に切り替えた。同じころ、シンガポールなどの在留日系スパイ活動、妨活動を自由に行える可性がシンガポール総督によりロンドンに警告されたが、欧州中東を優先させる傾向の元、対応不能と放置された。
 英国は現地マスターした分析官が日本の動向について優れた報告をあげたにもかかわらず、そうした予測はほとんど視された。イギリス情報部は日本軍の精強さ、航空の優秀さを報告していたが、極東英軍官のポパムやパーシバルはは中国ソ連で手いっぱいで弱体と考え、また日本軍を見くびっていた。英国マレーに置いていた兵は未熟な軍隊であり、落日の大英帝国の遺物のような人たちだった。マレーには戦車も新航空機もなかった。

 一方、日本スパイ活動は大きな成果を上げていた。くも1938年段階で各地の大きな在留邦人社会を利用して、日本が大掛かりな秘密工作東南アジア全域で進んでいるのは明らかであった。しかしそうした動きはあちこちで散漫な形で進んでおり、日本人を一斉に収容所にでも入れない限り対応はむつかしかった。東南アジア一帯で在留邦人が大規模なスパイ網を形成しているのは常識となり、フィリピンのケソン大統領が42年になって、自分の側近のうち何年も務めていてくれた二人が、実は日本陸軍の大尉だったことに気づいたのが一例だ。1939年6月シンガポールで行われた英戦略協議では、その内容を会議からたった2日後の7月29日情報工作員からの報告を打電する日本の領事線を傍受した「日本と開戦となった場合、香港は維持できないので、英艦隊はシンガポールに集中することになる。これは極東でのフランスの権益放棄を意味することになる。それがためにほんとの正面衝突は極避けねばならない」。イギリスは悄然とした。情報香港政庁情報局で働くリュー・ウェンティの友人とされたイタリア情報機関が使っていた人物とみられた。40フランスの降伏とともに、タイ政府フランス弱体化を付け、41年初めにヴィシー政権紛争を起こした。シンガポール総督であった、サー・シェントントマス日本の介入を恐れ英国導で秘密介入を行ったが、日本突然脅迫的な手段でこの紛争に調停案を押し付けてきた。「秘密」であるはずの仲介工作に関する日本側の情報は、タイではなく、シンガポールで得ていることが分かった。驚くべきことに、日本スパイとして雇った英軍将校らは、マレー作戦が始まっても日本に協していくものさえいた。代表的な例はパトリック・ヒーナン大佐だ。マレー作戦が始まると、小規模な英軍の移動や展開などの運用の詳細を隠し持っていた線機で連絡した。
 バンコク日本情報活動の中心となり、1941年には50人の外交官が活動し、英領マラヤとのに近い蔵地峡に、複数の新しい領事館が設けられた。イギリス諜報部は408月、実はタイ日本に取引を持ち掛け、かねてからほしかった隣のフランスインドシナの一部をもらおうとしていたのが明らかになった。9月18日には日本の陸軍参謀本部はバンコク駐留の妨活動部隊を作り、現地の情報活動責任者であった田村大佐藤原岩市少佐インド独立連盟のブリタムシンに引き合わせた。41年を通じ、日本ラジオ局を通じ、汎アジア義宣伝工作を強に推し進めた。日本の宣伝工作活動は見事なものであった。のちにマレー作戦が始まると、英印軍の一部の部隊は日本軍に進んで投降することになる。444月英国統合情報参謀本部は捕獲文書や捕虜尋問に基づいた資料を使って、日本マレー作戦を振り返る研究をまとめた。「日本の成功の最も重要な要素を一つだけ挙げるとすれば、何年にもわたって研究を重ねて得た作戦地域に対する詳細な知識である」これは実に決まりの悪いことであり、チャーチル戦後に実施すると約束していたシンガポール陥落の原因調をやめることにした、理由の一端が説明できそうだ。日本側はスパイ活動がうまくいっていたので、暗号解読にそれほど切迫した必要を感じていなかった。

 また独との連携も効果を上げていた。商船オードメン号はアフリカに駐在するイタリア線傍受部隊に捕捉され、インド洋でオランダ商戦を装って航中のドイツの高速船アトランティス号に伝えられた。アトランティス4011月11日にこの獲物を撃沈した。大庫にはシンガポール向け峡ドル600万ドルに加え、ブルック・ポパム英極東軍官あての戦時内閣報告書が入っていた「シンガポールの問題点を詳細に摘し、本軍事参謀が大いに戸惑っている、しかし欧州中東の戦況による制約から、この問題に対応できない」と極秘に明かしていた。アトランティス号は4012月5日日本に到着し直ちにベルリンに移送され、独武官ヴェネガ少将から軍軍部次長近藤竹中将に手渡されている。この情報英国統合参謀本部のプランによれば、日本印に侵攻しても武的抵抗を行わないとしていたため、日本の南進を促した。さらにこの情報日本軍シンガポール攻略の自信を与え、珠湾の同時攻撃する挙に出ることを検討させるきっかけになったという。戦後になって、英国特別防諜部隊が残された文書をめてベルリン廃墟を丁寧に掘り返し、失われた報告書の原本を見つけた。表にはヒトラー自身の直筆の筆跡で所見が走り書きされていた「これは第一線の重要文書であり、東京ドイツ軍駐在部隊のもとに送るべし。」

独ソ戦の開始

1941年6月22日バルバロッサ作戦が発動された。ソ連軍は敗退し、何万人もの兵が死亡し、また捕虜となった。チャーチルは直ちにソ連に対し技術・経済の援助を約束した。「ウルトラ情報も出所についてしかるべき偽装を施したうえで、ソ連側にも提供されるようになった。

イギリスレンリースは直ちに開始され、本だけで400万トンに及ぶものだった。ドイツ軍ソ連を侵攻してから数週間以内に最初の英国救援隊がムルマンスクへ出発し9月に到着した。それは港の即時の防提供し、ソ連パイロットを訓練するために、550航空人員と40ハリケーンを運んだ。とはいえチャーチルが安請け合いした約束量よりずっと少なく、スターリンの不信を招いた。1941年末までに、マチルダバレンタイン等の戦車の初期出荷は、赤軍のために生産された中重戦車25以上を占め、12月モスクワ戦の重及び中戦車3040パーセントを構成した。1945年5月までに、英国ソ連に3,000以上のハリケーン、4,000以上の他の航空機、27の軍船舶、5,218戦車カナダから1,380バレンタインを含む)、5000 +対戦車救急車トラック4,020台、115ポンド相当の航空機エンジン、1,474レーダー、4,338ラジオセット600レーダーとソナーセット、数ブーツ1500万ペア 食糧や医療用品を含む戦争用物質をレンリースした。1942年6月27日の英ソ連軍需品協定によれば、戦争中に英国からソ連に送られた軍事援助は全に無料だった。

イラン戦役

多数のドイツ使節団がテヘランに構えており、英ソは8月17日ドイツの使節団の外追放と鉄道の使用を要した。英国の実行使を明言した最後通牒恫に、イラン国王レザー・シャーはルーズベルトに仲介をめた。ルーズベルトとチャーチル8月14日大西章を発表し、領土の不拡大・不変更、民族自決自由な貿易などをうたっていたのである。しかしルーズベルトの返書は連合側に協するよう要望するにべのないものだった。8月25日英軍は宣戦布告なしに奇襲侵攻した。エドワード・キナンウィリアム・スリムする英軍により、アバダンの製油所は1日で占領され、4日で片が付いた。ペルシアは屈し、あらゆる抵抗の停止、ドイツ人の追放、戦争における中立、ロシアへの戦争物資輸送のためペルシア回廊を使用することを飲まされた。

8月チャーチルルーズベルトは会談を行った。9月5日チャーチル経由でスターリンからの書簡を受け取った。それには独ソ戦によるソ連の惨状を綿密につづったもので、ソ連は死滅寸前の敗北危機にある旨が記されていた。破局を防ぐためには、ドイツの背後に第二戦線を設ける必要があること、またアルミニウム航空機戦車などの緊急援助がスターリンからの要請だった。これがないと、ソ連は長期抗戦を失い敗北するとしていた。ソ連は鉱産物に恵まれただが、当時はボーキサイトネックがあった。416月から444月までにアメリカは9万9000トンイギリスは3万5000トンカナダは3万6000トンアルミニウムソ連に送り込んだ。これは大戦中に日本が生産したアルミニウム40以上に相当する。ルーズベルトによる対ソ支援は、物量の面で惜しみないだけでなく、純に利他的動機に裏打ちされていた。レンリース法をもとにソ連に援助を与えることは手続きに時間がかかったが、いったん始まってしまえばその量も規模も途方もないもので、ソ連の最終的勝利に大きく貢献した(ロシアの大半の歴史は、この事実を認めることを、いまだに嫌っている)。戦争の後半、赤軍があれだけ進軍を実現できたのは、アメリカ製のジープトラックのおかげである。

戦争中のソ連へのレンリースは、アメリカだけで1630万トンに及ぶものだった。最短でありレニングラードモスクワ戦場への直接ルートである北極ルートは、それはまた最も危険だった。米国からだけで396万トンが出荷され、93が安全に到着したのに対し、7が失われた。太平洋ルートは1941年8月に開港したが、真珠湾攻撃による日間の敵対行為の影を受けた。1941年12月以降、ソビエト船のみが使用され、日本ソ連が互いに厳密な中立を見ているので、非軍事品のみを輸送することができた。それにもかかわらず、824万トンが輸送された。ペルシア回廊は1942年までは全に動作せず、最長ルートだったが、最も安全なルートだった。軍事品も輸送できたこのルートでの連合の補給活動は大なもので、アメリカだけで422トン英国・英領インドカナダ英連邦も合計で800万トンに達した。ペルシア回廊は、コーカサスに対するドイツの攻撃に対し大きな役割を果たした。

日本の南進

 日本軍部のほとんどの導者は独ソ戦の急転に驚愕し、ヒトラーが相談しなかったことに憤慨した。田中新一作戦部長は、独ソ戦によって三同盟と対ソ提携の連携は消失し、日交渉への日ソ中立締結効果も一気に弱まり、日独による対けん制も急に低下、英ソによる連携にて日本は大きな圧を受けることになるとみていた。そのような際的な窮地から脱却するは、ソ連を打倒するしかない。そしてドイツをふたたびイギリスに向かわせ、日本南方使とともに大英帝国を崩壊に導き、アメリカを孤立させる戦略を考え、「関東軍特殊演習」や南部印進駐など、そのための方策を打ち出していくことになる。一方武藤軍務局長は、ソ連は領土が広く人口が多く、共産党による一党独裁の個人より全体優先の素晴らしい政治組織などから、容易には屈しないとみていた。田中新一の「好機」論を警してかかったのである。武藤ら多くの陸軍導者および軍は南進を続けるべきと考え、南部印進駐に賛同した。南進すれば日本が必要とする資を確保でき、絶対不敗の体制を固めることができる、と考えていた。

関東軍特別演習

 田中作戦部長は関特演を推進した。東條陸相の承認の下、関特演の動員が7月6日と16日に分けて発せられた。総兵85万、15万匹、徴用船90トンに上る大動員が実施されたのである。極東ソ連軍の半減などの条件が整えば、対ソ武行使を実施する考えだった。だが極東ソ連軍の西方対独戦線への移動は田中の期待通りには進まなかった。7月中旬の段階で西送されたのは開戦前30師団のうち5個師団程度、航空機戦車その他の機甲師団は3分の1程度にとどまっていた。

会商の打ち切り

 1935年より、日本オランダ領東インド進出をしていた。同地の石油は極めて重要であった。日本は1940年にドイツに本土を占領されている印に圧をかけ資提供めた(第二次会商)。石油をそれまでの輸入量65トン/年に対し、380トンを要し、他の必要物資の自由な開発、納入も要したが、1940年10月交渉では200万トンが認められたのみであった。さらにゴムマンガンの輸出量がドイツへの輸出を警されたため要量より大幅に少なくされた。一方、オランダ亡命政府のある英国ではドイツ差別爆撃を食らっている最中であり、現状の倍以上の膨大な石油輸出容認は問題とされ、印を「裏切り者」と称された。日本側は亡命政権のある英国に圧をかけ、1941年5月英クレーギー大使との会談の席上、松岡洋右外相は断じた。

松岡外相「印の如き弱小国日本に対してドイツに再輸出しないとの保を要するとは、大日本に対するヒューミリエーション(屈辱)なり!。日本は断じて保を与えず」

情勢は変わらず、1941年6月日本側へ交渉打ち切りを通告した。

松岡外相は独ソ開戦後、直ちにドイツと共同してソ連を攻撃することをした。また日交渉の打ち切りを強くした。しかし近首相や陸軍とも対立した。そこで近衛はいったん総辞職し、松岡を排除する形で7月18日三次内閣を組閣した(当時首相に閣僚罷免権はなかった)。松岡は独自の政治を持っておらず、その発言近衛首相の信認によっていた。したがって、この後松岡は急速に政治的影を失っていく。

印進駐

1941年6月24日南方作戦が閣議決定され、軍は対英戦を辞さずとした。7月2日の御前会議で正式に南進の方針が確認された。7月4日イーデン外相は東京からベルリンへの暗号解読情報に接し、アメリカに共同警告に申し入れたが動かず、英国単独の警告となった。イーデン外相は上海発の情報として「デイリーレグラフ」に日本の南進の情報をリークし、その記事を自ら取り上げてクレイギーに示、7月5日レイギー大使大橋忠一外務次官を訪問し、イギリスの懸念を伝えた「右が事実なら英国としては極めてシーリアスな問題と考えうる」。しかしアメリカの参加しないこの警告は日本の南進の抑止には何ら役に立たなかった。東京からバンコクへの訓電は南印進駐を占領と表現し、英が介入すれば武衝突も辞さずとした。対日抑止が不可能となった英国アメリカと協調し、アメリカが対日制裁を行った後にアメリカより控えめに行う方針とした。

日本情報の出どころにショックを受け、英国諜報網のスパイを恐れ、松岡外相は、東京で交渉を行って情報が英に漏れることを恐れ、パリでの交渉を示、パリでの交渉のため東京から逐一訓電を送る事態とない、かえって英に筒抜けになった。7月9日ハリファクス駐大使がウェルズ務次官と話し合い、ウェルズは大統領に対日制裁を提案した。21日には英で対日共同制裁のコンセンサスが成立した。

7月14日日本大使は、ヴィシー政府に、航空基地の建設とサイゴンほかの港湾設備と軍基地としての使用管理、必要な兵駐屯などを要する。さらに19日フランス側の同意・不同意にかかわらず、24日には進駐を実で開始するとの最終的回答要を示した。21フランスはやむなく進駐を受諾した。7月26日アメリカは在日本資産凍結を発表、24日アメリカ印の中立化を提示し、石油禁輸を警告したが、かまわず7月28日進駐し、航空基地をはじめとした各種軍事施設を設営した。これによって東南アジアイギリス最大の根拠地シンガポールを直接爆圏内に収め、さらなる南方作戦のための艦隊基地を獲得したのである。アメリカにより8月1日石油の禁輸が決定された。同時にダグラス・マッカーサーを現役復帰させ、極東陸軍官に任命した。イギリス7月27日に日英通商航条約の破棄を宣告し、イギリス連邦よりも経済制裁が発動された。結果、オーストラリアイギリスアメリカ、亡命オランダ政府いずれも、継戦に必要である、鉱石、石油などの販売を停止することになった。日本政府は、これらの禁輸を侵略行為とみなし、軍の宣伝の影メディアは禁輸措置をABCD包囲網と名付けた。8月24日チャーチル日本の南進が戦争を招くことを警告した。日本英国レイギーに「南進は資のためであってイギリスと対立するためでない」と説明したが、ドイツには「進駐は英に対してより圧をかける」と説明し、これが英に解読されていた。英外務省政治情報部「ドイツに伝えたのと全く異なる話ではないか!」。日本外交は組織の論理、陸、軍、外務省妥協の産物であり、どこに日本意があるかわかりにくかった。

日本南部印進駐の動きを知ったハル務長官は7月23日ウェルズ務次官に「日交渉の最中にこういくことをしたのだから交渉を継続する基礎はなくなったと思う」と述べた。同日ウェルズは野村と会談し、ここに日諒解案に基づく日交渉は打ち切られた。近内閣印中立化案に対して、8月初め再び包括的な対提案を作成した。しかし進駐を進めながらでは当然相手にされなかった。近衛はあきらめなかった。6月の「対南方施策要綱」で全面的な対日禁輸措置を受けた場合は南方行使すると決められていた。近は日戦争は絶対に回避すべきだと考えており、ハワイでの首会談を提案した。直接首会談により、陸軍幕僚の介入を排除して、中国からの撤兵や三同盟の実質的破棄など、思い切った対譲歩を行い、陸軍の頭越しに直接天皇の裁可を受けて承認、決定するというものだった。9月3日アメリカから近提案に対する回答が提示され、趣旨として賛成であるとしながらも、会談開催に先立ち、これまでの懸案事項に日間に一定の合意が必要だとしていた。合意が必要とされた基本的事項の一つとしてハル4原則が挙げられていた。さらに「特定根本問題」として、中国撤兵問題、三同盟問題、通称差別原則の問題なども示された。この段階で近の意図は泡に帰したといえた。日本政府アメリカの回答を受け、めて対提案の作成を始め、陸軍の意見も含めた包括的な総合整理案の作成を進めていく。

なお田中作戦部長は計画を断念せず対ソ武行使を実施しようとしたが、南印進駐に伴う石油対日禁輸に伴い、参謀本部は対ソ武行使を断念する方針を決定した。関特演は独ソ戦の苦戦が伝えられソ連の屈を恐れ大量の援助を行っていたアメリカイギリスにも強い危機感を抱かせていたのである。石油禁輸は日本の対開戦の危険をはらむものであったし、アメリカの対日戦準備は未完成な状態であった。にもかかわらずソ連軍の崩壊を食い止めることのほうがが緊縛の課題であり、ルーズベルト大統領も禁輸に同意せざるを得なかったのである。

内閣退

シンガポールはほぼもぬけの殻だった。英海軍大西洋と地中海の戦いに割かれ、北極においてもロシア向け補給物資を積んでムルマンスクをす船団護衛をこなさなければならず、極東方面に艦隊を派遣する余裕などなかったのである。さらにチャーチルソ連支援を明言したことにより、イギリス極東部はそのあおりを食って、近代的な航空機戦車、その他諸処の装備が底的に不足していた。シンガポール防衛の放棄は豪州激怒させており、チャーチルは何らかの対応を取らざるを得なくなっていた。

田中ら参謀本部は北方行使の延期を決定した8月9日即日、11月末を標に南方への対作戦準備を促進する「帝国陸軍作戦要綱」を決定し、8月13日には「南方作戦構想陸軍案」をまとめた。それは12月初旬に開戦し、翌年5月までに香港マレー半島シンガポール・ボルネオなどの英領、フィリピングアム印の攻略完成する。開戦に向け9月中旬から11月末までに必要な兵の動員と集中を行い、輸送用船舶150トンを重用する、などの方針を内容としていた。軍は石油禁輸によって窮地に立ち「帝国策遂行方針」を作成し8月16日陸軍に提示した。その内容は10月中旬をめどとして外交的妥協が成立しない場合実発動の措置をとるとするものだった。田中新一はこれを受け、戦争導班にも即時戦争決意を確立する必要があると強硬にした。田中戦争決意がで、外交は従だとの見地に立っており、田中の容認できる内容での外交的妥結の可性はほぼなく、したがって対交渉は開戦企図を秘匿するための「偽装」外交にとどめ、戦略としては戦争一本に絞るべきとの意見だった。即時戦争決意案は陸軍に提示されたが、武藤らは戦争決意に難色を示し、両者の会談により8月25日陸軍案がまとめられた。その子は
①対英戦争を決意し10月下旬めどに戦争準備を整備。この間外交で手段を尽くし要に努める。
9月下旬に至っても要が貫し得ない場合は対英開戦を決意する、というものだった。
 8月30日軍部局長会議が開かれ、議論の末、9月2日帝国策遂行要領」陸軍案が決定された。変更点は「決意」が「辞せざる決意のもとに」に変更され、開戦決意の時期が9月下旬から10月上旬となったことである。9月3日大本営政府連絡会議が開かれ、御前会議に提案する策の原案が承認された。そこで陸軍案の「要が貫できない場合」が「要を貫する途のない場合」に修正された。9月5日閣議決定され、9月6日御前会議が開かれ、419月6日の重大な御前会議で、永野軍軍部長いうちにこちらから先手戦争を仕掛ければ、英連合会軍を破ることができ、南西太平洋の資地帯を占領し、長期戦の基礎ができる。今なら2年分の600万トンの石油があると期開戦を、閣議決定「帝国策遂行要領」が承認された。この決定はその後の日本にとって極めて重大な意味を持つものになる。

419月12日山本近衛首相に会い、前年9月の時と同じように聞かれた。

近衛文麿首相「万一交渉がまとまらなかった場合、日戦での軍の見通しはどうですか」 山本五十六「ぜひ私にやれと言われれば、一年や一年半は存分に暴れて御覧に入れる。しかし、その先のことは、まったく保できぬ。もし戦争になったら、私は太平洋を縦横に飛び回って決死の戦をするつもりです。総理も死ぬ覚悟で一つ、交渉にあたっていただきたい。」

1年前と違うのは期間が半年長くなり、楽観的となり、山本珠湾奇襲作戦にのめりこんでいったことがわかる。10月11日には、各指揮官を前にして山本は「私が連合艦隊長官である限り、ハワイ作戦はやる」異論は一切許さないと強い口調で申し渡した。大西田は、敵の意表に出なければ成功しない、機密保持が第一要件であり、投機的すぎると反対したが、奇襲による外交的・政略的なまずさについて摘するものは皆無だった。山本嶋田手紙を書き、米国軍および米国民をして物心ともに当分断ち難きまでの痛撃を加えることを、逆に米国機動部隊による日本本土襲で全が大騒ぎになることをひどく恐れている。山本は大航空ハワイ米国艦隊をたたけば、アメリカは物心とも当分立ち上がれなくなり、南方作戦スムーズにいくし、日本本土も襲されずに済むということを強調した。嶋田は「山本戦争反対のようなことを言っているが、結局真珠湾攻撃という大博打を打ってみたいのだ」とみて許可した。

8月9日チャーチルニューファンドランドルーズベルトと直接会談した。14日に有名な太平洋章が発表され、英の協体制を世界に向けて誇示した。東アフリカ中東の枢軸はことごとく英軍に敗北し、上封鎖もアメリカ支援により全ではなく、英独航空戦も次第にイギリス優位に傾ていた。ドイツ日本シンガポールへの攻撃をせかしていた。対して日本ドイツに対宣戦を要請していたが、8月23日ベルリンでディートリッヒ独親衛隊中将大島大使に、ヒトラーが日戦争に際には対宣戦布告を行う用意があることを伝えた。そしてこれは英国に傍受されていた。このことが英国の対日強硬路線に影したと考えられる。日開戦となれば、アメリカを対独戦に巻き込むことができるのだ。
 8月24日チャーチルは日交渉がうまくいくことを祈りつつも、期待を打ち砕かれた時ためらいなくアメリカ側に立つと宣言した。英国海軍は非常にためらったのち、シンガポールにあるレパルスの僚艦として、プリンス・オブ・ウェールズ派遣に同意した。空母インドミタブルは西インドにおける航試運転の際に座礁のために損傷し合同できず、他の空母欧州情勢から極東に派遣できなかった。英海軍は戦略的に意味のないこの派遣に大反対だったが、チャーチルやイーデン外相は政治的な意味を見出していた。シンガポールの兵増強がようやく始まった。英国の態度は硬化し、日本との関係を犠牲にしてもアメリカに追従するようになった。11月10日チャーチルアメリカ日本との戦争に巻き込まれた場合、イギリスは一時間以内に対日宣戦布告をするだろうと宣言した。

きっと情勢が変わって、軍部の支持は落ちます。民は日中戦争にうんざりしていて、自給体制の追及は虚妄であると気づきます。妥協を…
クレーギー英大使
(´・ω・`)「本政府の肚はお分かりのように、すでに決まっており、もはや説得のため自分の働く余地はなくなった。」_| ̄|○ ガク
アメリカからの妥協や、友好意思表示があれば、その効果できっと日本の穏健を持てます。々はまた仲良くなれるんです…
グル大使
同盟は々も望むけど、穏健の台頭はどうみてもありえなさそうだ・・・、HAHAHAHA、今やを追っているようなものだなあ。

日本政府民も吉田の述べるのとは全く反対の方向に動いていた。農村は変わらず貧しかったものの、日本大陸での戦局は勝利に次ぐ勝利として民に宣伝され、軍部への支持は盤石となっていた。吉田はあきらめなかった。要職を占める様々な個人との連絡網で最上層部で行われる決定について最新の知識を持っていた。その顔触れは牧野伸顕、樺山忠雄、木戸幸一内大臣、岡田啓介、若槻礼次郎の元首相三井坂東池田斉昭など。ほかに幣原喜重郎、佐藤尚武、小畑良、東郷茂徳などの外交官も加わっていた。このため9月6日の重大な御前会議で、対交渉が満足すべき結論に到達する期限を10月初旬までと定め、その後対開戦を決意すという内容も知っていた。

御前会議の決定には天皇もよほど不満で、このあと陸軍に戻った武藤軍務局長は「戦争などとんどもない」と言って速記録を読み「これは何でもかんでも外交を妥結せよと仰せだ。ひとつ外交をやらなければならない」と部下に話すと、を潜めて付け加えたという「どうせ戦争だ。だが、大臣や総長が天子様に押し付けて戦争に持って言ったのではいけない。天子様がご自分から、お心の底からこれはどうしてもやむを得ぬと諦めになって戦争の御決心をなさるよう、ご納得のいくまで手を打たねばならぬ。だから外交を一生懸命やって、これでもいけないというところまでもっていかないといけない。」。しかし外交の猶予期間は1かであり、望み薄だった。またこの武藤の発言と同じころ、服部卓四郎作戦課長が「陸相は何度でも参内し、「開戦の必要」を説くべきだ」と述べた。この方針はうまく行き、陸軍の責任回避に貢献した。戦後の連合軍による戦犯裁判で、開戦犯の田中新一や服部卓四郎が追及もされず、東郷茂徳や木戸幸一といった文官が戦犯として厳しく断罪されることになった。
 
服部卓四郎と田中新一、辻政信が開戦を強した唱者であった。田中新一は永田の考えに賛同していたが、石原莞爾の日による世界終戦論にも強く執着していた。「雄渾で説得に富んだ未来像」だとし「多くの魅を感ぜざるを得ない」と述べている。すなわち大東亜戦争は対持久戦の準決勝であり、最終戦に生き残るには中国東南アジアを占領下に置き、その資によって自給自足体制を確立し、アメリカとの長期持久戦を戦い抜く。軍政下での税収その他の現地収入を財に充てると同時に軍の現地自活を図る(まさに石原の言う「戦争により戦争を養う」考え方である)。また辻政信は対戦に自信を持っていた。

日ソ両軍激突 米国を怖がることはない。3~4年も戦争がつづけば戦争をやめる。米国は婦人優先のだ。戦争が長引けば、婦人の口から停戦のがあがるよ。……それにアメリカは複雑な人種だ。到底長期戦に耐えられない

その翌、東久邇軍事参議官は東條陸相に日交渉に協するように説いたが、東條はかたくなだった。

アメリカ日本に、支那より撤兵して事変以前の状態に復することなどを要しているが、陸軍大臣として、大陸で生命をささげた英霊に対し、絶対認めることはできない。 東久邇 天皇及び総理が日会談を成立させたいというのだ
見解の相違である。日本がじり貧になるより思い切って戦争やれば、勝利算は二分の一であるが、このままで滅亡するより良い

と言い捨てて引き揚げていった。ワシントンハルはキャンベル駐英産次官に対し「近衛首相アメリカとの関係善を切に望んでいるようだが、彼は政府内の強硬を統率していけるとは思えない。したがってこのような首相の言葉は実行を伴わない」と伝えており、日交渉妥結の見込みはほとんどなかった。9月17日吉田茂は非礼をかえりみずに近手紙を書き、ドイツは長期戦になる様子で、その結果が不利なことは言うまでもなく、近衛日中事変収拾の失敗を責め、名誉を守るため辞職を勧めた。

10月2日ハル務長官からアメリカ側回答が示された。そこでめて「四原則」が示されるとともに、三同盟での態度の鮮明をめ、さらに不確定期間の中国特定地域に軍隊を駐屯させる要望は容認し得ず、日本軍印及び中国からの撤退を明確に宣言する必要があるとしていた。三同盟は自動参戦の協定は自的判断に任されており大きな障とならなかったが、撤兵は到底陸軍が受け入れられるものではなかった。強硬の陸軍参謀本部や軍軍部の幕僚は「10月上旬がめどだったのだから、戦争に突入すべきだ。」と近衛首相東條陸相は次第に険悪な会話を繰り返すことになった。10月7日ついに近衛東條を説く

9月6日の御前会議を反故にし、8月の段階から考えなおそう、対戦の直ちにを再検討しよう 絶対にできない、それでは御前会議の意味がないではないか
軍人はとにかく戦争をたやすく考える、私にはわからない 国家存亡の危機には人間たまには清水舞台からをつぶって飛び降りることも必要だ

東條陸相は妥協を全く受け付けなかった。

交渉はおやりになるがよろしい、ただし期限は統帥部要望の10月15日である。15日には和戦の決定をとれ 軍人だけで戦争をするがいい
御前会議で決めた10月上旬が迫っているのだから、決めた通り戦争しかないではないか ・・・

10月10日陸軍に「宮中、近衛、外務、軍の連合人で陸相を圧迫し、10月2日米国覚書をうのみにせんとの気配がある」との情報がもたらされた。陸軍は態度を硬化させ、陸軍は武藤軍務局長東條が「駐兵は最後まで頑る、定があっても頑る」と天皇の命さえはねつける決意を固めていたから、絶望的となった。10月12日の5相会談でも14日の閣議でも東條は強硬に駐兵を東條陸相は「陸軍は引導を渡したるつもりなり」とり、「近衛と会うとけんかになるといって近と直接会わず」閣内不一致により10月16日三次内閣は総辞職となった。政変の意義として、天皇9月6日の御前会議白紙とすることをめる白紙還元の定がされ、ひとまず戦争は回避できた。しかし参謀本部は17戦論を引っ込めるようにとの天皇示を予想して、「いかなることありといえども新内閣は開戦内閣ならざるべからず開戦、これ以外の陸軍の進むべきなし。」と開戦決意を固めていた。三長官会議の決定で陸軍大臣を出すという制度があり、内閣及川内閣は成立不可能であった。

開戦へ

東條英機内閣成立

東条英機内閣成立

 10月18日東條英機内閣が成立した。東條英機は現役のままで首相、陸相、内相を兼ねることとなった、異例のことである。相に嶋田太郎が就き、東郷茂徳は日本の行き詰まりを外交で打開するためあらゆる努をすることを認めるという了解のもとに、東條の下で外相の地位を引き受けた。しかし永野部長杉山参謀総長の両統帥部は10月20日に、開戦第一日は12月8日が妥当と合意していた。儀な東條は、「ほとんど隔日に宮中に参内して陛下に奏上」、詳細な数字を用いて策再検討の経過を報告した。その意味するところは、結果的に「く決断してください。々はあなたの命があれば、いつでも戦います」「本当に戦争しかないのか」「戦争しかありません。戦争を選ばなければこのはつぶれますよ」と詰め寄っているだけであった・・・が、天皇はそれを入れていった。

天皇戦争にご反対であったが、時には幾分かずつ開戦のほうへ、近づいておられると思えることもあって、近衛の非戦論をご批判にあることもあった」

 そして東條10月30日の第65回連絡会議を招集し、11月30日を外交交渉期限とし、妥結しない場合に12月戦争を開始すると定めた。内閣立から10日余りで望みのない外交交渉の条件付きながら開戦を決定させたのである。当時の日本社会は、マスコミも陸軍の圧により統制されていたし、議会も十分に機していたとは言えなかった。そのためアメリカ一方的反日の行動をとっているといって、多くの新聞が「見よ、反日の数々、帝国に確信あり、今ぞ一億民団結せよ」との類の大きな記事を掲載していた。内世論は対英撃滅という過な方向でまとまっていた。さらに東條英機は日交渉中にもかかわらず、日本中国と戦っているのをいかに英が妨しているかとか日本生存英が邪魔しているかといった発言を繰り返した。当然ワシントン東條反米英の演説を聞くたび、外務省・駐大使野村三郎が熱心に取り組んでも、日本側は常に二枚舌を使っているのではないかと疑わせ、交渉を破滅に追いやった。

10月2日側回答に対し、日本側の「甲案」は25年間の中国駐兵などの条件があり、アメリカには受け入れられそうにもなかった。東郷外相は11月1日の大本営政府連絡会議で突如「案」を提案した。「案」はかつての反えて幣原喜重郎と吉田茂として作成を手伝っていた。これは日本南部印から撤退する代わりに、アメリカ日本に石油を供給するとの暫定的な協定案だった。南印撤退は、ことに杉山参謀総長と次長から強い反対が出たが、東郷外相が受け入れないなら辞職して内閣崩壊をちらつかせたため、軍部によりアメリカ蒋介石に対する援助を停止するという項を入れ修正されようやく受け入れられた。これは重大な性質を持ち、日本戦争に固執すると解釈されることになった。

日本戦争計画

田中新一作戦部長を中心とした参謀・軍部による日本戦争計画が策定される過程においては、二つの仮説が存在した。それは「ドイツの不敗」と「イギリスの屈」である。この仮説は軍部に 1940年5月ドイツ西方電撃戦以来一貫して共有されていた。1941年9月から12月にかけて日本戦争決意が形成された。ことに11月5日の御前会議で、対英戦争は不可避と判断された。開戦にあたっての基本戦略が、大本営政府連絡会議11月15 日に決定した「対英戦争終末促進に関する腹案」である。 開戦前の研究において、政府と統帥部は戦争が長期戦になる算が大であり、この長期戦を戦い抜く戦略物資が日本には不十分であり、したがって日本にはアメリカを武で屈させる手段がないことを認識していた。陸軍参謀部は南方地帯を確保することによって、長期自給自足体制を実現し、またイギリスの物資補給に打撃を与え、その抗戦を漸減させると見通していた。軍は緒戦2年間は自信があるが、その後は世界情勢の推移によるとしていた。陸軍は「長期持久戦」つまり「不敗」であり、軍は「短期決戦」で認識の一致はなかった。

「対英戦争終末促進に関する腹案」の基本構想は次のように規定されている
方針:速やかに極東にけるの根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り政権の屈を促進し独と提携して先ず英の屈を図りの継戦意思を喪失せしむるに勉む
要領:帝国速なる武戦を遂行し東亜及び西南太平洋けるの根拠を覆滅し戦略上優位の態勢を確立すると共に重要資地域要交通線を確保して長期自給自足の態勢を整ふ有手段を尽して適時米海軍を誘致し之を撃滅するに勉む

アメリカの屈不可能であれば、回的な方法で継戦意思を喪失させ、有利な講和をめざすことになる。そこでイギリス打倒の回策が最も効果的だと判断された。日独提携してイギリスの屈を図る方法として、次の三つを掲げている。それは第一に、豪州印度に対して戦略及び通商破壊等の手段により、イギリスとの連鎖を遮断してその離反を策す。第二に、ビルマ独立を促進し、その成果を利用して印度独立を刺する。第三に独日本に呼応して、近東・北アフリカスエズに進出して西アジア打通作戦を展開する。またイギリスに対する封鎖を強化し、情勢が許すならばイギリス本土上陸作戦を実施する。これらのうち日本体的に関われるのは第一と第二の方法くらいであり、直接の効果が期待できるのはもっぱらドイツ依存している形である。「腹案」ではこのほか間の隔離を謳っているが、これは日本が関われるとしても、イギリスの屈とは結びつかない方針であった。

交渉行き詰まり

 野村大使11月7日に甲案をアメリカ側に提示したが拒否され、11月20日案を提示した。ハル務長官はこれに興味を示し、「案」に北部印の日本25000以下とし、石油禁輸などの経済制裁を3か解除しさらに延期条項を設ける「暫定協定案」が作成され、野村大使に英中などの同意をめたうえで、正式に日本側に提示すると述べた。11月22日ハル務長官は英中の大使に暫定妥協案を提示し、本への示を仰ぐように依頼した。日本の南進に脅威を覚えていたオランダは賛成したが、すでに日中戦争を戦っていた蒋介石政権は強硬に反対した。イギリスは反対しなかったが・・・

海軍大臣チャーチル 本件処理の責任アメリカにあります、々は新たな戦争を欲するところではありません。一点だけ問題は蒋介石との関係です。彼は本当に干上がってしまうのでは?。もし中国が崩壊すれば、々の危険は増大しましょう。私は米国がその行動を決めるときに中国に十分配慮がなされるものと確信します。(英国だけで日本に立ち向かう羽になるのはまっぴらごめんだ)

 このチャーチルの返書が決定打となり、暫定妥協案は取り下げられ、ハルノートの提示に至った。ルーズベルト大統領中国を見捨てることにより、独ソ戦に影が出ることを恐れていた。危機的な状況にあるソ連が、英中国を見捨てることにより、ソ連も見捨てられることを懸念し、独ソ単独講和を結ぶ可性を懸念したのである。中ソが枢軸に屈するのは避けなければ。だが英国は暫定妥協案が時間稼ぎとなることを期待していたため、ハルが暫定妥協案の提示をとりやめた時、ハリファクス駐大使抗議した

  大使 英国は暫定協定案に反対しなかった!(これじゃ俺ら確実に攻められる) の懸念はわかっている。々は日本の英領、印、タイへの攻撃がアメリカへの攻撃と同義であるとみなす。   大使

12月1日ハリファクスはルーズベルトと長時間会談、英国の関心は日本イギリス印に攻撃を仕掛けた場合、アメリカが対日宣戦布告するか否かであった。

ティムソン陸軍長官 よかったのですか?、あのような言質を与えて。 だが、これ以上同盟に対し譲歩を強要するわけにもいくまい。
ティムソン陸軍長官 日本はおそらく、英のみに戦いを限定し、米国世論を巧みに分裂させる手でくるでしょう。その時に米国民に参戦を納得させることができるのですか? むむむ………。いや、民はきっと支持してくれる…。

ハル・ノート

11月27日ハル・ノートが手渡され、中国よりの撤兵などが条約交渉の条件として提示された。アチソン務次官補やモーゲンソー財務長官らは日本戦争しないと考えていたが、務長官コーデル・ハル戦争を覚悟した(マジック情報を見ることができた政府高官は、この時期はまだハルのみである)。陸アメリカ太平洋軍のすべてに警態勢をとらせたが、ハワイオオカミ少年状態のため失念してせず、のちキンメルの進退問題となった。大量の日本軍上海から南方に進撃したことが知らされ、アメリカの注意は南西太平洋領域に注がれた。

東郷茂徳外相はハルノートを見て「眼も暗むばかりの失望に撃たれた。」。東郷は外務省顧問の佐藤尚武にたのんで「ハル・ノート」の写しを同じ外務省先輩吉田茂の下へ届けてもらった。吉田と彼の義牧野伸顕の意見が知りたかった。 牧野大久保利通の次男で、外務省へ入りイタリアオーストリアハンガリー使を歴任した。帰後は第一次、第二次西園寺内閣で文相、農商相、第一次山本兵衛内閣では外相を務めた。武侵略批判し、経済外交の推進を図る新英の外交官だった。のちに宮内大臣を経て内大臣に修臣し、昭和十年に引退したが、政・官界に対してまだ大きなを持っていた。 牧野は2.26事件で危うく命を落としかけてからは、導者としての意欲を失ったらしく、牧野からはメッージがなかった。代わりに吉田茂が官邸へ駆けつけてきた。彼はまだあきらめてなかった。 ハル・ノートの10項は「試案的で且つ制約を伴わない」と明記してあり、「日合意のための基礎案の概要」に過ぎないという註が前書きしてある点を強調した。

これは最後通牒じゃないよ。どこにも交渉打ち切りとは書いてないじゃないか! 東郷外相 ・・・(東郷は苦笑してかぶりを振った。)
いや、先方は最後通牒のつもりかもしれん。しかし、気づかないふりをすればいいんだ。交渉を続けてくれ。最後の最後までマムシのように食いつかなくては。 東郷外相 連絡会議メンバー全員、交渉打ち切りの気でいます。アメリカ話し合いをしようにもこちらから条件を出しようがない。ハル・ノート全員さじを投げたんです

たとえ交渉を再開できたところで、11月30日いっぱいに話がまとまらなければ自動的に開戦となる。 前回の御前会議でもう決まったことなのだ。この条件をのまない限り、11月末を期限とする交渉の継続さえ認められなかっただろう。陸軍は11月13日軍も20日が交渉継続の期限だと執拗に言いっていた。作戦上の理由かららしい。まだ東郷は聞かされていないが、陸軍の間では開戦の日が既に決まっているようだった。

ではきみ、辞表を出せ。外務大臣が辞めれば閣議は停頓する。近衛も君も軍部と衝突してやめたとなれば、世間も軍部の言うことに疑いを持つようになるだろう。軍部も少しは反するかもしれん。 東郷外相 しかし、軍はもう動き出しているんです。詳細は分からないが、作戦は始まっているらしい。とても反の段階では
辞表を出せば君は生命を狙われるかもしれない。しかし、死んでも男子の本懐ではないか!。が拾ってやる。 東郷
外相
・・・(・・・!?
辞表を出して内閣の揺さぶりをかけるんだ。開戦をやめさせる手はほかにないんだぞ! 東郷
外相
・・・(軍は恫してきている、もし辞表を出したら、私は・・・)

東郷は以後の交渉を拒否した。吉田茂グル大使との会談を申し入れた時も、すでに政府の方針も開戦と決定していたからと、会談を承諾しなかった。東郷は攻撃開始ぎりぎりまで外交交渉を継続せよと軍に要されたため、ハルノートへの返信、日交渉打ち切り通知はすぐには行わなかった。軍としては当時、通告手交30分後の奇襲開始を決定した。だが東郷は通告手交から攻撃開始まで30分の余裕しかないことを知らされていなかった。日本12月1日国会でなく)御前会議で開戦を決定したが、交渉は打ち切らず、結果打ち切り通知は真珠湾攻撃30分後に手渡されることになった。

吉田茂戦後回顧録で太平洋戦争前の日本政治上層部にに明確に開戦に反対するものがいなかったことをかえりみて、それを民性を反映したものとしている。

こんな時にこそ民性が現れるもの。言うべき時に言うべきことを言わず、しかし事後において弁解がましいことを言い、不賛成であったとか、自分の意見は別にあったなどというものばかりだ。

戦前、開戦の手順を報告する東條昭和天皇が「うむうむ」と応じ、動揺を見せなかったことから、東条は確信した。東條英機昭和天皇の「決意」などを部下2人(内務次官の湯沢三千男と陸軍次官の木村太郎)に奮気味にった。

戦争開始と民の処置を決定した。陛下の命受け一糸乱れぬ軍紀の下行動できるは感堪えない。既に勝った! 湯沢三千男内務次官 (何ら動揺も憂もない、信念のお方だ)

ニュース

12月3日日本は中立タイとの英領マラヤまでの通過権交渉をピーブル元帥と始めた。12月6日午後オーストラリア偵察機が、三十五隻の輸送船と八隻の巡洋艦、二十隻の駆逐艦日本艦船隊が、インドシナからタイ湾をこえていることを発見し、12月7日ロンドンにもワシントンにも知らされた。

海軍大臣チャーチル ついに来たか。マレー半島クラ地峡の重要地点を、占領するつもりだろう。さて、アメリカ約束通り参戦してくれるだろうか?。今日は駐英アメリカ大使との会談だ。

1941年12月7日日曜日チャーチルアメリカ大使らとテーブルを囲んでいた。9時のニュースがはじまってまもなく、チャーチルは、小さなラジオスイッチをいれた。ソ連戦線とアフリカ戦線のニュースがあったのち、最後に日本軍航空部隊がハワイ珠湾を突然攻撃し、湾内に集結していたアメリカ艦隊に猛爆撃をくわえたことが、放送された。

海軍大臣チャーチル ファッ?   
大使
ファッ?

チャーチルは、疲れていたが、そのまま次の報告を待った。その後立ち上がると、さっそく事務室に行き、アメリカ大統領に連絡をとった。
一方アメリカにおいて12月7日

ニュースを聞いたか?。 ティムソン陸軍長官 ええ、日本軍シャム湾に進軍したという電報を受け取りました
そうではない、彼らはハワイを攻撃した、彼らは今ハワイ爆撃しているのだ! ティムソン陸軍長官 え?

チャーチルからの連絡がつながった。

海軍大臣チャーチル 大統領!、一体どういうことですか、日本がどうしたのですか!? 事件は本当です。日本軍珠湾を突然攻撃しました。もう、々はともに戦わなければならなくなりました。

チャーチル日本軍斜め上の発想に驚愕したが、直ちにその戦略的意義について理解した。戦争の行く末について、日本の運命についても正確に予言していた。

海軍大臣チャーチル 合衆軍が重大な損を被ったと々は考えもしなかった。日本の武を正確に見積もっていたなどというつもりはないが、合衆全に、死に至るまでの戦争に入ったのだということが私にはわかった。々は戦争に勝ったのだ!。ヒトラーの運命は決まったのだ。ムッソリーニの運命も決まったのだ。日本人について言うなら、彼らは粉々に打ち砕かれるだろう。

日本アメリカを見くびっていた。合衆は軟弱という人もいたし、アメリカ人は決して団結しないだろうという人もいた。合衆は巨大なボイラーのようなもので、一度火が付くと生み出すに際限はない。感奮に満たされ、満足してチャーチルは床に就き、救われた気持ちで感謝しながら眠りについた。

交戦国の状況

1939年より第二次世界大戦が勃発しており、イギリスドイツと交戦していた。航空機戦車などが長足の進歩を告げ、太平洋戦線では特に航空機の重要性が増していた。

近代戦では、最前線の背後に後続部隊や補給体制を抱えるのが常識にあっているが、航空隊が進出するとなると、補充・補給・経理・輸送の所部隊、飛行機の整備等を担当する航空、飛行場の整備・修復にあたる部隊、情報収集・監視・通信を担う機関、防を担う高射砲部隊等も一斉に動き、所定の位置に展開する。300機の配備ともなれば、飛行場を中核に大きくすそ野をひろがる多様な関係機関が配置につき、少なくとも3-4万人がこの中に組み込まれたとみられる。6-70機の重爆・軽爆が出撃すると、50トン以上の爆弾100トン近い燃料、その他に大量の弾を搭載していく。膨大な弾薬、燃料等が消費されていくことになり、安定した補給が欠かせない。8000機以上もの飛行機を失う消耗戦に引きずり込まれ、もっとも航空機を消耗したのは丸二年間に及んだニューギニアであったが、多くが地上撃破であった。機体の稼働率が低く、駐機場が狭く、掩体もなく、防火力も貧弱であった。いくら優秀な飛行機を持っていてもそれに見合う優れた飛行場施設がなければ、多くが地上で死することになる。

  大日本帝國

 近代日本の誕生以後、1941年までに人口は143増加したが、耕地は16しか増えず、農業の進歩にもかかわらず、食品の20は輸入であった。資は石炭のみが十分に自給でき、鉱石、石油、ゴムボーキサイトをはじめとした資は輸入に頼らなくてはならなかった。政府天皇の権限より発生する二院制の国会内閣を持ち、貴族院天皇により任命されたが衆議院選挙で選出された。内閣国会で任命されたが、軍は天皇より直接任命されたため、文民政府依存しない自由な裁量が与えられ、政策においても大臣を出さないことにより政権を崩壊させることができた。日本の再軍備は、1937 年に本格的に開始され、1940 年になると国家予算の半分近くが軍事支出に向けられた。1941 年の日本では、民間使用に割り当てられる石油あるいはガソリンはなく(自動車は石炭を燃焼させる蒸気機関によって走らねばならなかった)、食糧と生活必需品(石炭、砂糖マッチ、綿など)には厳しい配給制度が適用された

 軍は天皇との特別な官益を強調し、1920年代初期に「軍」から「皇軍」へと変更された。陸軍と軍の統制を大本営(統合参謀本部)で行ったが、アメリカと違い文民統制の下に入らず、軍の管理下にあった。陸軍と軍は国家予算と資を奪い合う競争関係にあり、大本営は意思決定者はなく、陸軍と軍の戦略を一致させることは結局不可能であった。軍と民間政治家の間はさらに疎遠であり、大本営は内閣情報提供することを拒否し、内閣からの勧告をすべて視していた。日露戦争では集団での潰走も多数みられたため、戦後教育が強化された。軍の導の下、天皇崇拝が強化され、仏教儒教の影が衰退していった。民はすべて天皇に属していると信じ、勇敢に戦い、死をおそれず、戦死を名誉とした。戦死した兵士家族が祝福され、通常の喪が恥と考えられるような状態に達した。戦争の開始時は、よく訓練され勇敢な兵士、船員、飛行士と入念な準備が日本軍の大きな利点となった。日本軍米軍を下にみていた。

日ソ両軍激突 今度の敵は支那軍とべると、将校は西洋人で下士官は大部分土人であるから、軍隊の上下の精団結は全くだ。 …戦は勝ちだ、支那兵以下の弱で、戦車飛行機もがたがたの寄せ集めである、勝つに決まっているが、如何にして上手に勝つかの問題だけだ。 の人的戦は物的戦に伴わぬ。 物的戦膨大も、政治経済機構は、今なお国家総力戦に必要なる臨戦態勢を整備しておらず、確立には今後幾多の摩擦紛糾を生ずるだろう。 英国民は生活程度高く、その低下はそのすこぶる苦痛とするところにして、戦争継続社会不安を醸成する。一気に士気の衰退を招来するのだ

国家総動員体制

国家総動員法は、1938年(昭和13年)第1次近衛内閣によって制定された。永田山の理想であった総動員体制を担った人達に、当然ながら「一夕会」に関わる人が何人もいた。そして憲兵や特高により、民の言論などをによって抑えた。治安警察法、出版法、新聞紙法などに基づいて、内務の下部組織「特高警察」は思想犯・政治犯を逮捕した。在郷軍人会、義者による言論弾圧は、軍部との関連していた。こうした上からの統制により、戦争をすることが正義であり、それを否定する者、いや少しでも消極的と見られただけで「非国民」として、当人ばかりか家族すら差別の対とされた。隣組は1940年に内務が訓し(隣組強化法)制度化された。5軒から10軒の世帯を一組とし、団結地方自治の進行を促し、戦時下の住民動員や物資の供出、統制物の配給、襲での防活動などを行った。また、思想統制や住民同士の相互監視の役も担っていた。兵士留守家族の生活困窮について隣組すなわち近隣社会の手に委ねられていた。万一兵士たちが敵の捕虜となり、卑怯にも自分だけ生き残ったとすれば遺族は村八分となり、「村」は家族への農作業援助を打ち切る、それは家族にとって致命的となる。

太平洋戦争末期フィリピン昭和20年2月22日、N上等兵は、22歳。飢餓地獄の中、食料を探しに部隊を出て、15日後につかまる。「この事実だけでは、死刑に値しない。」しかし、言い渡されたのは「死刑」。「Nっていう兵が、英語がうまい。だから・・・」「戦時逃亡」ではなく「奔敵未遂」とされた。奔敵とは、戦わずして敵の捕虜となること。不当に処刑されたN上等兵、遺族に処刑が伝えられたのは、処刑から2週間後。遺族はいつの間にかからいなくなっていた。遺族のひとり「Nのことは知らない。もう触れないでほしい」

ものを言おうとする民に対して戦地における死をちらつかせることは、軍部が自分たちの意志を通すのに大きな効果があった。特に東條英機は「竹槍事件」に徴されるように、これを多用した。関東憲兵官の経歴を大いに活用して憲兵をほしいままに動かし、東條批判的な人物を陸軍に召集して戦闘地域に送り込む懲罰召集という報復行為である。逓信工務局長だった松前重義は42歳で政府高官であったにも関わらず、東條によって二等兵として召集され戦地へ追いやられた。東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員中野正剛に対して強引に検挙。中野は釈放後、陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに、憲兵隊の監視下で自殺に追い込まれたが、中野を容疑不十分で釈放した43歳の中村登音担当検事には、その報復として召集状が届いた。陸軍内の反東條だった前田利為を、報復措置として南方戦線に送った。彼は、搭乗機を撃墜されて死亡したが、東條はわざわざこれを戦死ではなく戦傷病死扱いにして遺族の年金を減額した。衆議院議員福家俊一ら三人も懲罰招集されている。政権末期に、東條内閣改造して延命を図ろうとしたとき、倒閣のため辞任を拒否した岸信介を、憲兵隊長四方諒二を使って脅迫したことも有名である。東條の忌み嫌う長州閥最後の寺内寿一大将は、閑院、梨本元帥殿下につぐ陸軍の長老で、東條も露な排斥はできなかった。だが、太平洋開戦は、その格好の機会を与えた。東條首相は陸相も兼ねているので、寺内大将南方総司令官として、遠く南の地に追いやった。
 戦前戦中の日本にとって、「」とは本来天皇およびそれに関わる諸制度をしていた。戦時中、「おのため」という言葉が良く使われたが、その“お”の体は「天皇」だった。にもかかわらず、政治軍事的判断の体は天皇ではなく、天皇の意思を取り決める「御前会議」では、天皇は発言しないことが通例だった。軍部の独断的行動と強行な態度、場合によってはクーデターによって殺される可性もあり、そうした圧によって政治家は軍部に振り回される状況だった。つまり、実質的な“お”の体は軍部だった。日本軍=「お」は「軍の名誉」のためにすべてを総動員し、一般的なであれば第一優先とされる、女性子どもの保護が、日本軍の考慮の対になっていなかった。

 戦争末期司馬遼太郎は、米軍東京湾に上陸してきたら、戦車部隊を率いて南下し、米軍を迎え撃てといわれていた。それで、大本営参謀が部隊にやってきたとき、迎撃のため戦車を繰り出しても、街道東京方面から落ち延びてくる人や荷で溢れんばかりになっているだろうから、前進できないのではないかと質問した。 すると、参謀は暫時考え込んでから、こう答えたという。 「ひき殺して行け」

国家そのものが軍隊であり、軍のために社会がある、“お”=軍部の政策は、民の命より優先して実行された。そして、民は「」を守るために死をも厭わない姿勢がめられ、戦争に役に立たない人は、として不要とされた。
 さらに、その「軍」の中で、軍人は階級により生命の順位も決められた。幼年学校出の陸大エリートのみが上級将校となれる封建的体制で、高級将校は兵士や下士官の生殺与奪の限の絶対権を持つ一方、徴兵された下級兵士一般国民は、その最下層(つまり死んでも問題ない)に置かれた。そうしたことを正当化するために、軍部は「戦死」を美化していった。「爆弾三勇士」に始まり、真珠湾攻撃では戦死した兵士を「九軍」などと呼び、特攻隊では軍を量産した。戦訓によって捕虜になることを禁止し、民の存在意義は、“お”=軍部の高級将校のメンツを満たすために、死ぬまで戦うことだった。

と装備

希少金属では、マンガン48トンアメリカと同レベルにあり、タングステンの鉱山は中国江西の西崋山朝鮮山の千年鉱山、江原寧越の上東鉱山などがあり、クロムフィリピンに豊富で、モリブデン朝鮮半島から算出された。ニッケルは不足し、ニッケルソロモン南東のニューカレドニアに大ニッケル鉱山があり、田中新一はガダルカナルにこだわったが敗戦により届かなかった。

装備の不足を補うために精が強調された。1929年の陸軍現場マニュアルでは銃剣の使用と精の強調、夜襲と包囲の推奨と後退を考えられないものとした。また兵器開発にも影を与えた。重機関銃に高倍率の学照準器(スコープ)を取り付けて遠距離射撃に適したしたり、精密射撃ができないから迫撃の開発は見送るなど。

産業基盤はぜい弱で、大砲や走行車両英に劣っていた。日本陸軍は4112月野戦師団を51個、地上弾薬105師団1回線分を準備して開戦に踏み切った。内地に10個師団分、満州48個師団分を集積し、50個師団分で中国と戦い、そして南方17個師団分を向けた。105師団分といえば、小火器弾薬でも8億発以上に上る膨大なものだった。(WW1での独軍は5億発、軍は3億発の砲兵弾薬を射申したとされる)。しかし備蓄の結果であって、鉱山から最前線までの戦場での生産活動、補給はできなければ、テンポの速い物量戦には対応できないのだ。陸軍は第一線の1個師団1日当たり燃料・弾薬・食料など500600トン補給を保していた。

日本軍精兵の育成

兵器が劣る分、訓練は行き届いていた。徴兵された兵士は、初年兵たちは訓練教官の命とあらば、どのような過酷な訓練にも耐えなければならない。一般的な訓練における殴るけるや私的制裁は当たり前、上官たちは、不可能に思える命を次々とだし、それを実行できなかった者には決まって制裁がくわえられた。私的制裁は新兵の教育上、必要悪と看做されており、表立って奨励はされなかったが、黙認されていた。しかし古参兵の気らしや、私的な恨の為に行われるとう側面もあって、どこまでが教育導なのか、どこまでが単なる「いじめ」なのかの界は判然としなかったのが実情である。少しでも隊列を乱すものは、木刀底的に打ちのめされる。初年兵たちは、ここでは不不満をいうどころか、反抗的な態度をとることすら、ありえないことだとすぐに学んだ。訓練を経た初年兵は、やがて命された通りのことをそのまま、迷わず実行するようになる。こういった初年兵訓練は、多くの意味において非人間的であったが、一方で極めて実利的でもあった。こうして兵士たちは、疑うことなく命に従い、敵と戦うことも、そして死への恐怖も麻痺させた。陸軍高級将校たち自慢の精兵たちが出来上がっていった。
 兵「とにかく、やれと言われたらいや応もなく反射的に動くような教育ですよね」。
 当時の日本軍にとって、銃剣術の訓練は必須であり、実際戦後になって軍基地で発見された「部隊指揮官の心得」という冊子には、戦場で戦える根性をつけさせるため、新兵には教育として、生きている俘虜を標にして銃剣術の訓練となすべしと記述されていた。

々に、肌に染み付く戦争を感じさせたのは、中国戦線に送られた時であった。前線に着いた々初年兵を、一日も戦争に順応させようとして、人を殺すという試練の場が与えられた。捕虜刺殺である。50歳半ばをえた老人が縛られたまま引き出された。大きなの前に座らされた時、老人は誰彼なく頭を下げて許しを乞うた。罪状は知る由もなかったが、その処刑は正視に耐えるものではなかった。小隊長U少尉は、「人を切るのはこうして切るのだ!」と高らかに叫びあげ、日本刀を振り下ろした。カーンという音がして、頭蓋をしたたかにたたいて、老人はもんどりうってに飛び込んだ。「よし、突け!」小隊長は、々を呼び込むように左手を振った。一たじろいだが、の周囲に群がって、死にきれないぼろ布のような塊を突き始めた。地の底から、唸りが漏れてくる。いつまでも絶えなかった。戦争に慣れさせることを名としたこの事件は、の惨劇でしかなかった。けた大地は茫々と広がり、わけもなく命を飲み込んでしまった。戦争はすなわち殺人であるという自明の定式を、感覚を通して教えられた。

初年兵教育の時である。古年兵から。「今日は捕虜を殺す練習だ」といわれた。ぎょっとしたが顔には出さない。おびえた顔をすると殴られる。々はに連れていかれた。目隠しをした捕虜を突く訓練をするという。その場から逃げたくなる。しかし、命である以上やらざるを得ない。足が震えた。中国人の捕虜が何人かたっていた。そのうち一人を前に出し、ひざまずかせた。鬼軍曹が後ろに立ち、軍を抜いて高々と構え、一気に振り下ろした。中国人の頭が飛んだ。どさっと胴体が地面に横倒しになる。「やれ」と軍曹が命する。ひっくり返って胴体だけになった捕虜を々初年兵が順番に突く。私の番が来た。古年兵が鋭い視線で見ている。すれば死ぬほど殴られる。帯に構え突進して付いた。無我夢中だった。捕虜は五人くらいいただろうか。五人とも首を落とされて殺され、遺体は刺突訓練に使われた。(なんでこんなことをしなきゃならんのだろうか)とほとほと嫌になった。手榴弾は各人自決用に一つずつ渡されていた。渡されるとき、「けがをして動けなくなったらそれで死ね」といわれていた。今考えると、日本の軍隊は本当にだった。「捕虜になるなよ」「これでちゃんと死ねよ」と当たり前のように言われる。こんな軍隊は日本だけだった。なんでこんなへんてこな軍隊ができてしまったのか。不思議でしょうがない。

日本軍は自軍の将兵らに「太平洋戦場で戦うことになる欧人どもは人種差別義者であり、アジア民族を征戦としている植民地圧制者である。連合軍兵はとらえた俘虜をすべて残に殺してしまうのだから、生きて虜囚の辱めを受けるな、死して家族に罪科の汚名を残すことなきようにせよ」と繰り返し教育していた。兵隊は消耗品と位置付けられ、初年兵と畳はたたくほどよくなると言われていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦訓が、戦場にいた人の心を狂わせた。命懸けで合流した部隊で「死ね!」と言われた兵卒はる。

日ソ両軍激突 水木しげる「上官から毎日50発ぐらいビンタされていました。水木さん(自分のことをこう呼ぶ)は、一でも長く寝ていたいから起床が一番遅い。だからから『ビビビビビン!』とビンタされる。の手入れが悪いと摘されたり、軍の規則に少しでも外れる行動をしたりすれば、これまたビンタなのです。戦時中、特に前線では人間扱いされることなんてあり得ないことでした。人間なのか動物なのか分からないほど、めちゃくちゃだった。」 死線を乗り越えて部隊に合流すると思いがけない言葉が返ってきた。小隊長は「天皇陛下からもらったをなぜ捨てて帰った!」と怒鳴った。中隊長は「なんで逃げて帰ってきたんだ。みんなが死んだんだからお前死ね!」と。中隊長も軍隊も理解できなくなった。同時にはげしい怒りがこみ上げてくるのを、どうすることもできなかった

軍隊では、善良な人間無能物の烙印を押され、野獣のような品性の者がしばしば英雄になった。

私の部隊、歩兵二十四連隊「菊」は帝国陸軍でもナンバーワンを誇る部隊であり、菊部隊散るときは日本破るるときなり、と自負していた精強部隊であった。中支州湾の上陸以来、中国戦線では”情け用の残虐部隊”として、敵将を震え上がらせたのであった。この連隊は、中国戦線からガ全滅するまでの間、捕虜は私の知る限り一人も生かしておかなかった。そして私たちは、それが戦争であると教えられていた。敵を憎まずして戦争はできない。敵国地では老若男女の容赦なく、少しでもおかしいと思えば、日本武士道の処置としてバッサリ、ちょん切ってしまうのだ。
 ・・・第2次総攻撃も失敗に終わると、すっかり事態は悪化した。ガ全体に飢えが迫り、文字通りのドロボーがあちこちに横行した。そんなある日、連隊本部の兵隊に後ろ手に縛られた一折の兵の捕虜と出会った。その後の過酷な拷問にも口を割らず、「殺せ!」と自らいうのに隊長も感心して、「敵ながら晴れ!」と褒め称え、さらに「このアメリカの一青年の立な態度に、皆も学ぶように・・」と訓示まで。 しかし、日が暮れて、兵隊たちの話すところによれば、この晴れパイロット文字通り「料理」されてしまったとのこと。肝は栄養剤になるといって某隊長自らが、そしては兵隊たちが。当時はまだ飢えていなかったのに…。アメリカの皆さん!、いまは亡き戦友に代わってお詫びを申し上げます。当時の日本青年たちは、天皇陛下の「教育勅語」や修身を学んだ世界的にレベルの高い日本人だったのですが、それがいったん、帝国陸軍に入隊すると、軍人勅諭や戦訓とは裏に、から晩まで理由もなくぶんなぐられ、人間失格のごろつき化訓練に、中国人がよくいった「東洋のトンヤンキイ)」になったのです。日本兵こそ、今度の戦争の一番の被害者だったのです。戦争に負けて、日本人は英の皆さんに、たくさん学ぶことができたことを知っています。

による評価として、
日本兵の長所は「体は頑健」「防御では死ぬまで戦う」「戦友がいる時と地の利がある時は勇敢」「規が良好」「偽装が得意」「地作りが上手い」「兵士も将校も策略を好む」
短所は「当てが外れるとパニくる」「劣勢になると脆い」「決然としていない」「射撃が下手」「自分で考えない」「戦死者には丁重だが、傷病兵の扱いは雑」
他に「包囲殲滅が好き」「夜襲が好き」「降伏したら故郷の人が許さないと思ってる」「都会出身者は敵意をさほど持っていない」「地方出身者は戦死を名誉だと思っているが、都会出身者は違う」「味方が恐いから戦う」など、興味深い日本兵評がたくさん。

一方の大日本帝国海軍もよく訓練され、装備も英と同等であった。対防御には劣っていたものの、特に魚雷は連合軍よりはるかに優れていた。緒戦では零戦は英に衝撃を与えた。零戦は機動性、速度に優れ、英航空機より長大な航続距離を誇った。だが零戦以降の後継機の開発に遅れを取った。

陸軍航空

陸軍航空隊はノモンハンの戦訓もあり、防弾装備が軍に対すると強化されていた。軍と較すると陸軍は順調に航空機開発を進め、四式戦疾風や五式戦は、連合軍が投入した新鋭機に劣らない性を持っていた。が、整備性に問題がありきわめて稼働率が低く、敵将に敗北因と揶揄されるほど。一式戦は後継機にべて整備性がよく末期まで使用され、零戦に対し武装は劣るものの防弾装備に優れていたが、パイロットは防弾鋼鈑があると不時着転倒時に座席の背もたれを倒せず、脱出できないような気がして外したり、中隊全機が外したなど現場では底されなかった。
 日本陸軍航空隊は航続距離の長い戦闘機に偏重しており、長の航続距離を頼みにして多くが遠方で安全なタイラバウルからの航空支援となった。また戦闘機に偏重し敵機との航空戦を重視しており、一方連合軍は戦闘機・地上部隊攻撃機爆撃機バランスよく配備し、空港も危険な前戦近くに多数設営し短距離反復で地上軍支援を行ったため、ニューギニアではくも1942年後期から、ビルマでも1943年の期明けから、大日本帝国陸軍地上部隊にとっては上に見られるのは敵機ばかりという惨状となった。

軍は員数を尊ぶべし。

 私が入営したのは、「私的制裁の絶滅」が言明されたころで、毎のように中隊長が、全中隊の兵士に「私的制裁を受けたものは手を上げろ」と命ずる。中隊長は直属上官であり、直属上官の命天皇の命である。だが昨晩の点呼後に、整列びんた、上靴びんたに始まるあらゆるリンチを受けたものだちが、一人として手を上げない。上げたら、どんな運命が自分を待っているか知っている。したがって「手を上げろ」という命に「挙手なし」という員数報告があったに等しく、そこで「私的制裁はない」ということになる。このような状態だから、終戦まで私的制裁の存在すら知らなかった高級将校がいても不思議ではない。いわば命と報告のつじつまが合っている。そしてあっていればそれでよい。これが員数義であり、全帝国陸軍を上から下までむしばみつくしていた。

「数さえ合えばそれでよい」が基本的態度であって、その内実は問わないという形式義、それが員数義の基本である。それは当然に「員数が合わなければ処罰」から「員数さえ合っていれば不問」へと進む。したがって「員数を合わす」ためには何でもやる。「紛失しました」という言葉は日本軍にはない。この言葉を口にした間、「バカヤロー、員数をつけてこい」という言葉が、びんたとともに跳ね返ってくる。紛失すれば「員数をつけてくる」すなわち盗んでくるのである。いわば「盗みをしても数だけは合わせろ」で、この盗みは然の秘密であった。小松氏の慮人日記によると

形式化した軍隊では「実質よりも員数、員数さえ合えばあとはどうでも」という思想は上下を通じ底していた。員数で作った飛行場は、一降れば使用に耐えぬものでも、参謀本部の図面には立な飛行場と記入され、また方面で○○万兵必要とあれば、内地で大招集をかけ、なるほど内地の港はそれだけ出しても途中で撃沈されてその何割しか的地に着かず、しかも裸同然の兵隊なのだ。

小松さんが最初にあきれ返ったのは「ネグロス航空要塞」なるものの正体を見た時であった。この「航空要塞」は、当時では知らぬものがないほど有名なもので、「これで米軍叩き潰してやる」「ネグロス航空要塞がつぶれたら日本は危ない」と言われたほどのものであった。「米軍レイテに押し寄せたら思うつぼだ、相手は可沈空母、こちらは不沈空母、絶対に負けない。敵を上陸させてくぎ付けにし、空母群をおびき寄せて底的にぶったたいてやる。」というものだった。今でも“員数戦記”にはそんなことを書いてあるらしい。だが実態は、一言でいえば、あるのは「員数」だけで、結局は何もない、ということであった。

「ネグロスの要塞というから、どんなものかと思ったらピナルバカン……(ほか9か所)……などに、毎日爆撃だらけになった飛行場軍に焼け残りの飛行機若干藪陰に隠されているだけだ。対火器は高射砲が三門だけという寂しいものだ……これが日本の運命をかけたネグロスの要塞の正体である……」

 本土決戦する阿南陸相は、すでに戦備は了し、九十九地も完成しているから、ここで米軍に一撃を加えるべきだと強硬に繰り返す。降伏・決戦の論議が行線をたどって決着がつかず、鈴木首相天皇に”断”を乞うたとき、天皇が言った決定的な言葉は、従武官を派遣して調べさせたところ、九十九には地などはない、という意味の言葉である。この言葉はおそらく、小松さんの「ネグロス航空要塞などはない」という言葉の「ない」という同じ「ない」であろう。そして大本営にとって、阿南陸相にとっては九十九地は「あった」のである。結局これは「員数としてはあるが、実体としてはない」ということだ。そして米軍の攻撃は、常に員数という虚構を吹き飛ばし続けただけに等しい。

 おそらくゲリラは、最初は驚いても、なぜこんな効果のない撃を一身に打ち込んでくるのかと、こちらの意を測りかねて首をかしげたであろう。日没とともにを撤収し、、立な「報告」を書いた。翌日、そのの位置は機の猛爆を受け、一掃された。効果があったとすれば、米軍駄な爆撃をさせたことぐらいであろう。いったいこの員数義はどこから来たのであろうか。これが日本軍の宿であったことは、各人が身に染みて知っていたので、収容所でも話題となった。「おかしいよなぁ、実戦なんだから、軍隊だけは、絶対に員数義があってはならんはずのだが……」

ある人は陸軍創設時に原因があるといった。「軍」という意識が希薄なので「殿様の密命で武器を横流しする」恐れがあった。小銃に菊の紋章を刻印し、これを家紋付きの「天皇所属の兵器」と明示し、また「兵器なり」として、底した員数管理を行った理由はそこにあると。だが「兵器管理の底化」そのものは別に悪いことはあるまい。少なくとも、米軍のように、兵器横流し事件が頻発し、それがギャングの手にわたるよりも立である。確かに帝国陸軍には多くの欠陥があったが、兵隊が小銃を売り飛ばして一杯飲んでしまったといった事件は、おそらく皆無であろう。

参謀の強権・私物命、気迫という名の演技と仲間褒め

イギリス軍の部では、よく話題になっていたことがあった。「日本軍の中で信じがたいほど愚かなのは、参謀肩章をつった連中だ」。
 欧の発想では陸軍の下位機関である参謀本部が、日本においては陸軍以上の実権を持っていたこと、それを連合軍が理解していなかったことが、ある意味戦犯名を生んだ

176月中旬マニラの軍部や軍政部・憲兵隊からロハスを処刑せよと筆記命が来た。「この命は本物でしょうかね。ロハスを一時どこかに隠しましょうか」と言ったら、マニラ出張していた将校が帰ってきて「軍部ではロハス処刑の報告が来ていない、と怒っている。やらないのなら、神保中佐をマニラに読んで取り調べるといっていました」と。残る手立ては、マニラに乗り込んで直接軍官の本間閣下に直訴するほかないが、ちょうど本間官更迭でごたごたしており会えない。仕方なく和知参謀長の部屋に行った。ところが和知さんは「はそんな命を出した覚えはない、命の日付の6月22日には東京出張していて留守だった」とこういうんですな。自分が知らないうちに参謀がやったことだとしても、軍命として正式に出ておればすぐ撤回するわけにもいかなかったのでしょう、「ロハスは当分宣撫工作に利用すべし」という命をくれた。氏の生命は助かったが、処刑命が取り消されたわけではないのでその後もたびたび彼は危険なにあっているんです。

これは重な言であろう。「はそんな命を出した覚えはない」もしロハス氏が処刑され、そのため和知参謀長が責任を問われて戦犯となり、その時氏がこの言葉を口にしたら、人々は何というであろう。も信じないであろう。そしてこの恐るべき「私物命」を出したその本人は、一切、責任を問われない。

 バターン戦終了時に、どこからともなく発せられた捕虜殺の”軍命”が実は「私物命」だった。現在では、この私物命の発者が、大本営派遣参謀辻政信中佐であったことが明らかである。このことの大要は戦後の収容所の中では、すでに周知の事実だった。したがって私などは、戦後々しい辻政信復活に、何とも言えない異様さと絶望を感じたことは否定できない。

 ……このとき(バター米軍降伏の時)、大本営参謀の肩書を持つ作戦参謀辻政信中佐が現れて、戦線視察のたびに、兵団長以下の各旧官に”捕虜を殺せ”と督励して歩いた。…また奈良兵団の連隊長として参加した今井武夫少将も兵団部からの直通電話に呼び出された。…それは、「バター半島軍高級指揮官キング中将は降伏を申し出たが、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。その結果、軍の投降者はまだ正式に捕虜と容認されていないから、各部隊に手元にいる投稿者を一に射殺すべし、という大本営命を伝達する。」というものである。だが、彼は直ちに「本命は事重大で、普通では考えられない。したがって、口頭命では実行しかねるから、めて正規の筆記命で伝達されたい」と述べて電話を切った。…だが、連隊長の要した筆記命は来なかった。

作戦」においても指揮官以外は揮できず、したがって参謀は命は出せない。「私物命」は最も厳格に処罰されてしかるべき行為であったはずである。左遷という処分を受けたのは逆に神保中佐であっても、「私物命」発者ではなかった。その多くは戦犯に問われず、戦後も何の処分も追及も受けず、辻政信のように、その行方不明まで、戦前と同じような権威と社会的地位を保持し続けている。

いったい、こういう人たちが常に保持し続けて得た””のは何であろうか。それは、ある種の虚構の世界に人々を導きいれ、それを現実だと信じ込ます不思議な演出である。その演技を可にしているものの一つ、それは”気迫”である。陸軍の中では、その人を評価する最も大きな基準であった。だが実際にはこの「気迫」も、一つの類化された疎な表現軽視になっていた。どんなにやる気がなくても、その兵士が、全身に緊感をみなぎらせ、静脈を浮きだたせて大を出して“機械人形”のような節度あるきびきびした動作をし、大行な軍人的ジェスチュアをしていれば、それが「気迫」のある拠とされた。
 そして辻政信に関する多くのエピソードは、彼が「気迫演技」とそれを基にした演出の天才だったことを示している。“辻政信”すなわち言って言いまくるという形の”気迫誇示”の演技屋であった。結局この演技屋にはも抵抗できなくなり、然と始末に負えない「私物命」が流れてくる。さらに始末が悪いことには、彼らはその口頭命に絶対責任を持たなかったのである。まずくなれば「がそんなことを言うはずがあるか」で済む。「筆記命をくれ」という理由はそこにある。しかしその筆記命ですら、彼らが責任を負わない。「帝国陸軍の統帥権絶対神話」が今も生きている日本、そのための元責任者が然と復活し活躍し権威と名をほしいままになしえた戦後日本では、人が信じない一つの事実である。

「知らぬは帝国陸軍ばかりなり」。それは、わずか十数ドラムガソリンのために、参謀が怒鳴りに怒鳴り、一少尉5日も6日も費やしておろおろし、挙句の果ては何千人かを徴用しようという現状を見れば、「にでもわかる」ことであった。なぜわからなくなったのか。その虚構を外部に対して支えているものが、「仲間内の摩擦を避ける」がさらに外部へ発展した形の、「仲間ぼめ」という詐術だったことである。陸軍くらい、底した「仲間ぼめ」の世界はなかった。内部ではあらゆる足の引っり合いをしていても、ひとたび対「外部」となれば、底した「仲間ぼめ」である。ABをほめ、BCをほめ、CがまたAほめるといった形で、その「誉め言葉」だけを外部に広める。大将が陸代の講義では愚将でも外部には聖将、ノモンハン小笠原団長も外部には「精戦車を圧倒した名将」等々等。「仲間ぼめ」による相互称揚をお互いに着せあい、それで威風堂々とそっくり返ってに乗って一般人を睥睨している。しかし、その衣装に惑わされているのは「日本語」で鎖国している日本人だけ、原住民から見ればまさに「」だから、「裸の王様」なのである。日本の破滅はすでに全龍柱し、それもまた気迫も演技も通用しないことであった。

補給軽視

 大日本帝国陸軍において、補給は日清戦争のころより軽視され、陸軍士官学校卒業生のうち補給部隊を希望したのは4に過ぎなかった。陸軍大将になったもの134人のうち実に補給部隊出身はゼロ工兵隊でさえもわずか3人である。

後方部隊が第一線よりも安全だというのは日露戦争までの話である。近代戦、特に飛行機兵器として使われ始めてからは、後方のほうがやられるのがむしろい。太平洋戦争に参加した軍人の戦死者は、軍16、陸軍20である。それにし、戦没した船員は43に達し、死者数は60545人(漁船関係も含む)に及ぶ。10代の少年の死者が多い理由は、戦時特例によって員養成所、商船学校、高等商船学校などの卒業年限が大幅に短縮されたこと、そして船舶と船員の喪失を補うために大量の船員要請が行われたからである。14歳から19歳までの死者数は、三割(19000人)を占める。
 漁船団の南方派遣については、今日に至るまで明らかになっていないことが多い。陸軍が総力戦と高唱しておきながら、軍籍にあるものを優遇し、軍属扱いを軽視した。そのため軍属に関する記録は極めて少ない。ニューギニアで活躍した銚子、焼の漁船団は、陸軍の船舶工兵隊の揮下で活動しているので、陸軍の手で編成されたものであろう。ところが佐世保の漁船団は鎮守府が編成したものので、陸軍が別々の漁船団を編成していたことになる。どれほどの漁船と船員が南方派遣されたのか見当もつかない。
 16年12月1日時点の日本海運(民間)の総船量は630万総トンである。これは当時、世界第三位であった。開戦後、軍部導により輸送船を急増し、昭和18年度112トン昭和19年158トンを建造し、総船量は920万トンに達した。このうち終戦までに喪失した船量は、2400余隻、800万総トンである。昭和18,19年に作られた戦時急造船は劣悪であった。そのため波浪高く敵船が跳梁跋扈する外洋に出るのは、もっぱら民間商戦630万総トンの役であった。そして、日本海運が世界に誇った輸送客船やタンカーは、ことごとく没られた。軍艦とは違い、民間船舶のことについては活字になることが少ない

技術軽視

フィリピンマンガン産出量は、1941年は2万8000トンだったが、日本が占領すると年間200トンに落ち込んだ。またフィリピン世界クロムの産地で4年には14万8000トンを算出し世界2位だったが、日本が占領すると鉱山の火は消えてようやく1万トンというレベルに落ち込んだ。マレー半島鉱石日本が占領すると生産が5万トン以下まで減してしまった。戦前日本資本が操業していた鉱山なのに、この惨状とは信じられないことだ。ビルマ41年に8万4000トン亜鉛を5万1000トンタングステンを4200トンニッケルを740トン算出していたが、日本が占領するとこれらの産出量はすべてゼロになった。陸軍が技術者を徴兵してしまい、鉱山に技術者を送り込めなかったのである。採鉱治技術者、熟練した鉱山労働者が兵士として小銃担いで中国大陸を歩き回っている構図だったのだ。これはすべての重要産業でいえることだった。その代わりに自称、他称の憂の士、愛国に燃えたる義者の登場だ。もちろん年配の鉱山技術者も送り込まれたが、鉱山のことなど全く知らない30代の佐官に怒鳴られたり、小突かれたりしたらやる気を失う。そもそもが軍政の失敗だ。意味不明の大を上げて軍にふんぞり返る習性はさておき、経済というものを理解しえる軍人がいなかったのが致命的だった。何の裏付けもない軍票を乱発しては、経済が大混乱して住民をそっぽを向く。切れ一枚で富を得ようとはが良すぎる。38式歩兵に代わる、41年に本格的な量産が始まった99式歩兵は不純物の硫黄リンにより、入内な折損事故が頻繁に起きた。

日本鋼管白石社長新聞紙上で次のような明を出していたことを私は今でもはっきり記憶している。「職場から召集されて出ていった熟練工を全部返してくれ。そしたらそれに数倍する徴用工を全部お返ししてしかも現在以上の生産を必ず上げて見せる」と氏はした。 「農村からの徴用はやめて食料をもっと増産してくれ、工業生産は都市の勤労者で責任をもって引き受ける。だがたちがいっぱい働けるだけの食糧は確保してくれ」

関東工業という民間工場があり、20ミリ榴弾を作っていたが、そこのK社長が日ごろっていた「々は米国だけと戦っているのではない。帝国陸軍とも戦わなければ、この戦争は勝てない」彼がそう嘆いたのも理はない。民間軍需工場はすべて軍工監督揮下に置かれていたが、軍工は幹部から下級役人に至るまで極端な精神主義に凝り固まり、民間工場から提起する合理的な善策は容易に取り上げなかった。
次に2例を上げる。工場建屋をそれぞれ100メートルくらい離して間に隠し、一方が被爆しても他方で操業が続けられるよう計画したところ、「軍が北に南にと作戦している中で、いたずら襲を懸念するとは何事か」といきり立つ。榴弾の製造方式を造幣では普通旋盤仕様と決めていたが、これをブランシャープあるいはインデックスの「自動旋盤」にすれば、一台で普通旋盤6-8台分の仕事をする。インデックス産化してこの仕事に充てようと企てたが、これもダメ「工員が、汗流して削り出した弾であればこそ、戦場で威を発揮しるのだ。それを自動旋盤に削らせるとはもってのほか」。このK社長は間もなく解任された。
 今や軍の組織が民生活を根底から破壊していく。その思いはみな同じだったが、一言でも本音を吐けば、たちどころに身の破滅となる。軍という武装した暴力集団を批判し、制動するは、軍の内部はもとより、広く内のどこにも見当たらなかった。外との戦いで軍組織が叩きめされる以外に解決のがない。終戦の今振り返ると、民は少なくとも帝国陸軍との戦いには勝った。ニューギニアの死者も、東京襲の死者も、沖縄広島長崎の死者も、すべてこの勝利を引き出すために、避けることができない人身御供だったのではないか。

陸軍は最後まで、民間の知識も技術もその組織に合理的に組み入れて活用しようとせず、また、最後の最後まで知識人にも学生にも背を向けていた。これは志願兵が続出して大学になり、一方軍は彼らの知識・教養をパーセント活用したといわれれる英とは実に対照的だ。さらに、切羽詰まって学徒を動員してもその知識を活用しよとはせず、ただ「量」として、幾何学的組織の中に位置づけることしか考えなかったから不思議である。そして量の面で大学生が的確でないなら、内務班で絞って、鋳にはめ込むべきだと考えても、技術とか知識が時には軍官に命を下しうるものだ、それにはどうすべきか、という発想は全くなかった。特許出願もできなかった。「特許とは個人の利益を保護する制度ではないか。それなのに滅私奉の叫ばれる今、特許出願とは何事か」という雰囲気が強かった。
 だがこれにも良い面があった。娑婆・地方の身分や技術・によらず、いくら熟練の技術者だろうが、実績ある工学者だろうが、軍上級将校の下では皆土方や農民と等な奴隷なのだ。

 丸山真男東大教授 いわゆる「地方」では、どんなに高い階級にいたものでも、軍隊に入ったら、軍隊の階級秩序に従わなければならない。それが日本の軍隊の大きな特徴だ。「地方」の社会的地位やがらなんかはちっともものを言わず、族のお坊ちゃんが、土方の上等兵にビンタを食っている。何か、社会的な階級差からくる不満の麻酔剤になっていたと思われるのです」。

  アメリカ

 WW1後、アメリカはモンロー義をとり、産業の規模にべて小規模なものの、軍は維持されたが、陸軍は底的に軍縮された。陸軍は戦間期は13万5000人程度であり、36年より徐々に増強されたが1939年WW2勃発時も19万人とルーマニア軍より小さく、戦争の準備はできていなかった。WW1アメリカでも今後の戦争総力戦との認識があったが、新進気鋭のウエストポイント校長の方針は永田山ら日本陸軍とは逆だった。これからの士官は、軍人の美徳だけでなく、人間に感情についての深い理解、世界の情勢を深く理解し、揮の心理の変化に相応した寛大さも併せ持たなければならない。

理事会 校長、君の教育方針は、伝統を視している。軟弱な将校を生み出すばかりじゃないか?
いや、これからは軍事だけでなく、内燃機関社会学、歴史学、統治や経済学の講義も行っていく。教官も毎年一かは一般市民向けの大学に通って近代教授法を学び、士官補生も給与と休暇を出してニューヨークで遊べるようにして外界との隔たりを緩和しよう。スポーツもバンバンやって他大学と交流だ。上級生の下級生へのしごき止だ。

陸軍における研究開発費は総額が戦艦1隻の建造費の20分の1にすぎず、レーダーや近接信管とも全く縁がなかった。軍の給料は1920年以後上がっておらず、若手将校の多くはやりくりに四苦八苦した。WW1後に将校の地位は大戦以前に戻され、将校と兵士