夷陵の戦いとは、三国志後半(221年7月~222年8月)の合戦であり、陸遜が放火魔の異名を付けられる事となった元の戦である。
ちなみに、三国鼎立後の三国時代として見ると最初期の合戦になる。
遡る事数年前、関羽が樊城の戦いに呉が介入した(演義では裏切り)ことにより戦死。首は曹操のもとへ送られ、諸侯として葬られた。
劉備はこの義弟の死を大きく悲しみ、呉への復讐を誓った・・・・と言うのが大体のあらましである。
周りの臣下達はこれを諌めたが、劉備は聞き入れず呉へ進攻。ある程度までは有利に戦を進めるものの、
陣営が伸びきり連絡がままならなくなっていた所を陸遜の火計にかかり敗走。
劉備はそれから程なくして病没、ここに劉備三兄弟は全員没する事となる。
陸遜の台頭、蜀による荊州奪回が絶望的になった事などこの戦における歴史的意味は多々あれど、
やはりニコニコやそれに限らず現代の三国志ネタおいては「陸遜=放火魔」の図式を作り出したと言う事が一番大きいだろう。
とにかく陸遜に火のイメージがついて回るのは、この戦の結果によるものである。
全体的に、攻めて攻めて攻めた劉備が隙を突かれて敗北した、と言う形なので見所はあまり無い。
どちらかと言うと呉視点に立った方が面白い戦である。
なにより呉は、この戦に負けていればまず間違いなく三国で一番最初に滅亡していた。
その点を踏まえて見ると、また違った見え方があるかもしれない。
ちなみに、孫権は217年以降曹操及び曹丕(魏)に対して臣従し、220年には呉王に封ぜられていたのだが、この大勝を契機に独立した。
なお、演義では関羽の仇と言える将が数多く戦死しているが、全くの創作である。糜芳、傅士仁、潘璋、朱然、馬忠の5名である。このうち没年がはっきりしているのは潘璋(234年)と朱然(249年)で、史実よりかなり早く退場させられてしまっていることがわかる。
また、演義では黄忠もここで戦死しているが、実際には夷陵より前の220年に死亡している。
余談だが、真・三國無双2 蜀軍シナリオを難しい、もしくは最強でプレイし呉軍中枢に単騎突撃をかまして弩の餌食になったプレイヤーは多いはず。橋を渡る前は火計で明るいのに橋を渡ると急に暗くなる上に弩兵が大量に配置されており発見が遅れると体力をごっそり持っていかれる、拠点が多い(4箇所)ため倒しても倒しても雑魚が沸いてくるので疲れる、陸遜をはじめとした強めの武将も配置されているとかなりの難所。孫権自体はさほど強力な武将ではないので丸裸にすればフルボッコにできるのだが。
三國無双5においては、呉でもかなりの難関ステージとなっている。というのも、シリーズおなじみの石兵八陣がなんと今作では”石兵八陣を突破しない限り蜀軍のモブ将が無限復活する”というトンデモ仕様となっており、その八陣自体が薄暗く迷いやすい。火計が成功しても蜀の士気がほとんど下がらないこともあって、優勢なはずの呉が追い込まれやすい。石兵八陣を突破し、肝心の劉備を倒しに行く頃には、戦場には自分と蜀呉の総大将しかいない、ということがほぼデフォである。
掲示板
69 ななしのよっしん
2022/04/17(日) 02:48:14 ID: YRPHAW4nv+
やべぇよ荊州制圧されちゃったよ…荊州出身の連中のために戦争するしかねえ!
っていうどこかで見た理由付けに大変感服した覚えがある
劉備から見れば全面的に信用できるのは赤壁前からの少数の部下しかいないだろうし
それ以降の主力の中では古参組の荊州出身者を繋ぎ留めるには戦争するしかないわなって
70 ななしのよっしん
2022/08/04(木) 21:14:36 ID: rI5EhbX/aA
劉備のどこからがまずかったのかと言えば、黄権を裏切った(と、すべてが終わった後に劉備が表現した)所からだろうとは思う。
怒りはわかるが、いや怒っているからこそ、まして勝率はいまいちとはいえ百戦錬磨の劉備だからこそ最前列に突撃はいかん。
71 ななしのよっしん
2022/12/28(水) 16:34:54 ID: yMRtspWe3R
元々荊州ありきで魏に対抗するプランなんだから奪還しにいくのは自然でしょ
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最終更新:2024/11/11(月) 09:00
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