志半ばで斃れた事に加え、某漫画でお多福みたいな化け物面で描かれた、二重に不憫な人物。
天保10年12月5日(1840年1月9日)、公家の姉小路家に生まれる。
姉小路氏は藤原氏の家系で、大別して4つある家系のうちの一つに属する。 文久三年八月十八日の政変で都落ちした七卿のうちの一人である沢宣嘉は叔父である。 また、直接関係は無いが、戦国時代に飛騨の国主だった姉小路氏は、4つのうち別系統に属する遠縁である。
安政5年(1858年)2月、老中首座の堀田正睦が、米国との通商条約問題で勅許を得るために上洛した。
幕府寄りの姿勢を見せていた関白・九条尚忠と太閤・鷹司政通は、孝明天皇に対して幕府の方針を受け入れるよう進言し、朝廷内の意思決定に齟齬が生じていたが、3月12日、条約締結に反対の公卿88人が抗議活動を行って関白らに圧力をかけた結果、条約勅許が差し止められ、幕府に対し事実上の拒否回答を出す事になった。
この88人の公卿の中に、岩倉具視・大原重徳・中山忠能・中御門経之・正親町三条実愛ら、後に幕末政局において重要な役割を演じる人々に混じって姉小路公知が参加している。
姉小路が歴史の表舞台に最初に現れたこの事件は、廷臣八十八卿列参事件と呼ばれている。
この事件により、朝廷内の意思決定を司っていた五摂家など上級公卿が相対的に発言力を弱める事になり、逆に抗議活動に参加していた中級・下級公卿の発言力が増す事となった。
文久2年(1862年)、安政年間から世情は大きく変わっていた。
大老・井伊直弼を暗殺されて以降、幕府は朝廷に対して弱腰になり、皇女和宮降嫁による公武合体策など、朝廷との融和に努めていたが、巷の尊王攘夷派は幕府の外交政策に対し、陰に陽に攻撃を加え始めていた。
9月18日、藩士・長井雅楽による開国策「航海遠略策」を放棄して「即今攘夷」という180度の方針転換をした長州藩と、武市瑞山率いる土佐勤王党が主導権を握る土佐藩の活動によって、大原重徳に続く江戸への勅使下向が決まり、正使として三条実美、副使として姉小路が任命された。目的は攘夷の督促である。10月12日、姉小路と三条は武市ら土佐藩兵を伴い、江戸に向けて出発した。
10月27日、両者は江戸に到着したが、将軍・徳川家茂が病気と称して面会が遅れ、1ヵ月後の11月27日、ようやく家茂と面会した。姉小路らは早速攘夷の勅書を授け、次いで12月4日に再び会見。翌5日の家茂による攘夷奉承と上洛の約束を取り付けて帰京した。
翌文久3年(1863年)2月、国事参政に任じられ、三条と共に朝廷における尊攘派の中心人物となる。
4月25日、家茂の上洛に随伴した勝海舟と面会した際、勝から海軍の必要性や攘夷の非を実際に軍艦に乗りながら諭され、俄に攘夷から開国へ転向した。
姉小路を陰で動かしていた武市瑞山は、「姉小路様は籠絡された」と言ったとされる。
5月9日、朝廷は幕府に対し、製鉄所や軍監の建造を命じた。この件について勝は、姉小路への入説が功を奏したと考え、「我が微衷天朝に貫徹し、興国の基漸く立たんとす」と喜んでいる。
5月20日夜、朝議を終えた姉小路は、禁裏から退出し屋敷に戻る途中、猿ヶ辻と呼ばれる場所で数人の暗殺者と遭遇した。
「太刀を!」と太刀持ちに命じたが、恐れをなした太刀持ちが逃亡した為、已む無く持っていた扇子で応戦。顔と胸を切り付けられ瀕死の重傷を受けたが決死の覚悟で立ち向かい、刀を奪い取って応戦し、怯んだ暗殺者たちが退却すると、もう一人居たお供に助けられそのまま自分の足で屋敷まで戻ったが、玄関まで来た時に「無念!」と叫びそのまま絶命。満23歳(数え年25歳)。
この時の模様を、生き残ったお供から直接聞いた跡見花蹊(跡見学園創設者)が日記に書き残している。
(五月)廿四日 此日昼前時、京師より店走りにて文来。 殿様御事、廿日之夜四ッ時、御所より御退出懸、朔平御門の 廻り懸にて、浪人物三人、面を包、うしろはち巻にたすきかけ にて、向より御胸を切付、此きつ長六寸深サ四寸計、殿様、太刀ヲ..と四度も仰せられ 候へとも(以下略)
(跡見花蹊『花蹊日記』)
また、翌21日に事件の顛末を聞いた勝は日記に以下のように書いている。
聞く、昨夜四つ時、姉小路殿退朝の折、御築地の辺にて何者やらむ、刃を振うて胸間を刺して逐てんすと云う。此人、朝臣中の人物にて大に人望ありしが、何等の怨にやよりけん、此災害に逢われし、小子輩、此卿に附きて海軍興起より、護国の愚策奏聞を経て、既に御沙汰に及びしもの少なからざりしに、実に国家の大過を致せり、嘆息愁傷に耐えず。
26日、現場に残された刀を証拠として「人斬り新兵衛」こと田中新兵衛が容疑者として連行されるが、奉行所での尋問中に田中が自害してしまったため、真相不明の事件となった。
この事件が当時の情勢に与えた影響として、田中の出身藩である薩摩藩が責任を追求され御所の警備から外されている。そのため公武合体派の勢いが縮小し、尊王攘夷派が勢いを増すことになったことが挙げられる。
また、丁度同じ頃に老中・小笠原長行が率兵上洛して京都を幕府の支配化に置こうとする計画を立て、実際に大阪から京都に入ろうとしていたが、姉小路の訃報を聞き計画を断念したという意味の話を幕臣の浅野氏祐が語っており、晩年の徳川慶喜も姉小路と小笠原との間には何らかの意志疎通があったようだと仄めかしている。
これらの事から、この事件は攘夷から開国に転向した姉小路を疎んじた尊攘派による仕業ではないかとされているが、今もって真相は不明とされている。ただし、近年の研究ではやはり犯人は田中の疑いが強いという見方が有力である。
色黒だったため、「黒豆」と渾名されていた。また、暗殺時の証言からも分かるように、公家出身の割には気丈で、同じく尊攘派公卿だった東久世通禧は後年「岩倉具視に匹敵する人物だった」と語っており、維新まで生き残っていれば新政府で重きをなしていたかもしれない人物であった。
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最終更新:2025/03/31(月) 07:00
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