比企朝宗の娘で北条義時の妻、北条朝時・北条重時の母。北条義時と神仏の誓いで結ばれたが、比企能員の乱に伴い、鎌倉から去っていった。
『吾妻鏡』建久3年(1192年)9月25日の条に初めて登場し、源頼朝から寵愛を受けていた彼女が、北条義時の屋敷に移った、というものである。この日の条によると、この姫の前は容貌が美しく、源頼朝の寵愛を受けて無双の女房とまで称されていたが、北条義時がここ1、2年くらいずっと消息、つまりラブレターを送り続けていたため、源頼朝が間を取り持ち、決して離別をしない誓約書を北条義時に書かせて婚儀を定めた、とのことである。
これには、源頼朝の善意のみならず、長男の源頼家の後見役である比企氏と、次男の源実朝の後見役である北条氏を姻戚にして協力させよう、との意図があったと考えられる。
ともあれ、二人の間には北条朝時、北条重時も生まれ、一見仲良くやっていたのだが、源頼朝のあっけない死と、比企能員の権力伸長、阿野全成の誅殺、源頼家の危篤と比企能員の謀殺、さらには比企氏の族滅、と目まぐるしく情勢が変わる。かくして、姫の前はこの前後に鎌倉を去り、『明月記』の嘉禄2年(1226年)11月5日条や、『公卿補任』によって、源具親と再婚したことが分かり、彼の息子・源輔通を設けているようだ。ただし、北条義時との間の誓いに対して両者がどのようなやりとりをしたのかは、史料が語らない。
『明月記』建永2年(1207年)3月30日条によると、前日に彼女は亡くなったようだ。
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最終更新:2024/04/26(金) 00:00
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