孫峻とは、孫権死後の呉(三国志)において実権を握った歴史上の人物である。
曽祖父の孫静は孫家の中では数少ない、大人しくて熱くもならず権力欲もない人物であった。
曽祖父は。
彼の祖父は孫静の長子である孫暠(そんこう)。孫静の息子は有能かつ忠義を尽くした人物が多かったが、孫暠だけはそんなこと無かった。孫策が死んだ後に独立しようとし、虞翻に説得されて取りやめたものの密告され、生涯を幽閉されたまま終えた。
そんな曽祖父に似ない祖父を持った孫峻は、若いころから弓術や馬術に長け、決断力のある人間として育った。
その決断力が求められたのか、二宮の変においては孫権の相談相手として気に入られる。
こうして政変を生き残るどころか政変で権勢を得た孫峻は、孫権の臨終において後事を託される一人となった。
もっとも孫峻は後に孫魯班と密通を行う人物である。
彼女は孫和が疎まれ二宮の変が始まる原因を作った張本人であり、下手をするとこの時点で既に二人で共謀していた可能性もある。
孫峻は孫権死後を任せる人物として、諸葛恪を強く推薦していた。諸葛恪が権勢を得ることが出来た理由の一つには、孫峻の存在があることは間違いない。
このコンビは孫権死後、さっそく諸葛恪を排除しようとした孫弘を抹殺して自分たちの権勢を固める。二宮の変を生き残ったこの二人の政治力(光栄において内政やらなんやらに役立つあの数値ではない)は恐ろしいものがあった。
幸いなことに諸葛恪は内政のほうの政治力も軍事に関する統率力も高かったので、しばらくの間はうまくいっていた。
そのためか、孫峻も大人しくしていたようだ。
そんな諸葛恪だったがその性格が仇となり、無理やりに始めた合肥攻めで大敗して完全に人望を失う。
焦った彼は更に権力を自分に集中させようとし、孫峻の管轄である宮中の近衛兵にも手を出そうとした。
政治力……というか政争力の高い孫峻はこの機を見逃さない。孫亮に上奏して許可を取り(と言ってもこの時の孫亮の年齢では単に言いなりだっただけだろう)、宴会という名目で諸葛恪を誘い込んで殺害する。
自ら諸葛恪とその配下を斬り捨てた所を見ると、武術の腕前は確かだった模様。
ちなみにこの際に多種多様な怪奇現象が起こったことが記述されており、演義で全面的に採用されている。他にも『呉録』では暗殺現場に居合わせた孫亮が混乱状態となっていたりと、この辺は本文・注問わず逸話に事欠かない。
そんな奇々怪々な暗殺劇だったが、孫峻は諸葛恪殺害も平気で宴会を続けたという。少なくともこの時の彼は、諸葛恪を殺したことに何の引け目も感じていなかったのだろう。
諸葛恪を抹殺した孫峻は、かつて自分が諸葛恪を推薦していたことなど忘れたかのように権力を集めていく。
諸葛恪の一族や配下を抹殺したのはもちろん、二宮の変で廃太子されたものの生き残った孫和に難癖をつけて自殺させる。
こうして実権を握った孫峻は、諸葛恪と同様に専横を始めた。多くの人々を処刑し、この頃には孫魯班との密通もはっきり描写されるようになるなど、やりたい放題である(史書お得意の脚色もあるだろうが)。当然、元々ありはしなかった名声は地に堕ちるどころか地中に埋まり、孫峻を排除しようとする動きが活発になる。
クーデターの翌年である254年、孫登の息子・孫英が暗殺計画を練る。もっともこれは孫和を支持する人々によるもので、孫英自身が関与していたかは陳寿と裴松之で意見が分かれている。分かることはこれが事前に露見し、孫英が死に追いやられたこと。なお、孫登は諸葛恪と仲がよかったことも付記しておく。
255年7月、孫儀が暗殺計画を練る。これは蜀から来た使者との会見の席を利用して孫峻を暗殺しようというもので、もし行われていたらあまり誇ることのできる場面ではなかっただろう。だがやっぱり孫峻はこの動きを把握、孫儀は自殺。更に孫魯班の讒言により孫魯育とその子供も巻き込まれて殺される。
気付いた方もいると思うが、魯育は魯班の妹で孫儀は孫静の孫である。ドロッドロとしか言いようがない。
もっともここで何よりも重要なのは、後に皇帝となる孫休が魯育の義理の息子であり、心中で恨み続けたことであろう。
ただ諸葛恪と親しくその縁戚でもあった滕胤はその能力を評価したのか、罰しないどころか辞職を認めず昇進させた。滕胤と孫峻は性格が合わなかったが、いちおう共同歩調は取った。もっとも滕胤に与えられた権力と孫峻が独占した権力には圧倒的な差があり、決して並び立つ状態ではなかったが……
こうして実質的に呉を動かすことになった孫峻の方針は、外征である。要するに諸葛恪を排除しておきながら諸葛恪と同じ作戦である。
さて、この頃の魏は魏でクーデターばかりだった。孫峻に才覚があればこの隙を突いて成果を挙げることは十分に可能だった……というより、この時点の呉が天下を取れるとしたらそれ以外に道はない。
が、結論から言うと孫峻には才能がなかった。
255年、毌丘倹の反乱では火事場泥棒で寿春城を制圧しようとするも、動くのが遅く途上で敗走した文欽が合流してくる有様だった。むろん寿春は諸葛誕が制圧済みであり、撤退したものの追撃され留賛などの将を失う。
同年3月、朱異に安南を攻撃させるも失敗。まるで駄目な孫峻は、広陵に城を築いて北伐の足がかりにしようとする。
これは推測だが、諸葛恪が東興でやったことを意識したのだろう。しかし、この城が完成することはなかった。
更にこの年は旱魃により民衆は餓え、将兵も度重なる失敗により不満を抱いた。
政争では諸葛恪を上回った孫峻だが、それ以外の点で勝る点は全くなかった。
政敵を排除したのに自ら政敵と同じ北伐を行って失敗したというのはある意味、黄皓以上にどうしようない行動である。
こうして失敗し続けた孫峻だが、政争に長けるが故に内部の不満には目ざとかったらしい。疑心暗鬼に陥る。
256年、文欽の献策を受けて青州・徐州の攻略を行う。が、味方である呂拠が立派な陣形を整えているのを見て、呂拠に殺されると思い込み単身で逃げ出す。
帰ってきた孫峻は諸葛恪にぶん殴られる夢を見て病気になり、そのまま死ぬ。この頃には自分が殺してきた人間に対する罪悪感に押し潰されていたのだろう。死後になって彼らはようやく孫峻を殺すことに成功したのであった。
だが孫峻は死に際に、従兄弟にして実績がなければ位も低い孫綝(孫チン、または孫リン)に跡を継がせる。孫チンは孫峻以上の無能であり、放置していた遠征軍にそのまま帰国命令を出す。
困ったのは勝手に怯えられ放置プレイをされた挙句に帰れと言われた呂拠である。孫峻の命令にこそ従ってはいたが、さすがに孫チンに従ってやる義理はない。何とかしようと動き始めたが、あいにく孫チンも政争100の持ち主であった。
演義では二宮の変が描かれないため、主な登場は諸葛恪の抹殺から。
史実と違い諸葛恪との仲が悪くなった滕胤と共謀して諸葛恪を討つよう上奏、孫亮はオロオロするばかりである(もっともこの時の年齢を考えると当然であり、後に登場したときは聡明な人物として扱われている)。
諸葛恪抹殺を実行に移す際は「諸葛恪が剣を抜こうとした時にはもう首が飛んでいた」「張約が斬りかかってきたのを即座に回避して返り討ち」などそれなりに格好よく戦闘描写が書かれている。
その後はいつの間にか病死して孫チンがやりたい放題やっている。
孫チンがクズっぷりを史実通りに発揮している(なんせこっちは登場時からいきなり人となりは兇暴とか書かれる)のに対し、孫峻は省略されている部分が多いので史実よりまともに見えなくもない。
三流武官に三流文官と同じ知力をつけた程度。義理が低く野望が高いので安心して使える人材ではない。
特筆すべきは顔グラで、関連動画を見ればわかるが三國志11のそれはどっからどう見ても凄まじい悪人面である。
しかも格好よい悪人ではなく、一言で言えば汚物。孫チンのほうがまだマシな顔をしている。
掲示板
20 ななしのよっしん
2021/05/23(日) 22:48:42 ID: nSg0eSb+Cw
「孫」自体、劉や曹に比べて圧倒的に皇帝としての説得力に乏しい
ゆえに劉禅ほど素直には実権をブン投げられないという事情がある
21 ななしのよっしん
2021/09/09(木) 03:11:43 ID: m72aOPURDH
この人まではまあいいんだよ魏の曹爽が司馬懿に勝ったパターンだし正当後継者の孫亮も立ててたし
孫魯班と共に政権取ればいずれ孫亮も賢帝に育って手腕を発揮するかもしれなかったし
問題は言われてるようにその次
22 ななしのよっしん
2022/02/01(火) 01:41:05 ID: dnZi5VsL8f
孫峻や孫皓は情報を追っていれば曲がりなりにもある程度政治の方針が見えてくるけど孫綝はその行動から全然意図が読めない
孫峻に指名された後継者なのに孫峻が作り上げた土台をわざと潰しにかかっているとしか思えないのが不気味
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最終更新:2024/04/26(金) 02:00
最終更新:2024/04/26(金) 02:00
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