安倍晋太郎 単語

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安倍晋太郎(19241991年)とは、日本の元政治家で、外務大臣、通産大臣(現:経産大臣)などを歴任した。

政治家安倍寛(かん)、義は元総理大臣岸信介、義叔父は同じく元総理大臣佐藤栄作、次男は第90代、96代総理大臣安倍晋三。三男はの養子となる信夫。

経歴

東京で生まれるがすぐにの地元である山口県に引っ越した。

岡山の第六高等学校を1年半で繰り上げ卒業して東京帝国大学(現:東京大学)に推薦入学する。その後海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊する。戦後東大に復学するが、翌年にが急死する。 1949年に日新聞社に就職。

岸信介、洋子と結婚する。1956年に義が外務大臣として入閣すると、毎日新聞を退職して外務大臣秘書官を務める。内閣が誕生すると、総理大臣秘書官を務めた。

1958年に義らの反対を押し切って衆議院議員選挙山口1区から立補、当選を果たした。 
1963年選挙では落選するものの、1967年選挙で返り咲きを果たし、亡くなるまでその地盤を維持し続け、息子安倍晋三へと渡された。

1974年三木内閣で農大臣(現:農産大臣)に就任、1977年福田内閣では内閣官房長官に就任、1981年鈴木改造内閣では通産大臣に就任した。
一方で、1976年には自民党国会対策委員長に、1979年には政調会長に就任し、務大臣と自民党役員を歴任した。

1982年自民党総裁選では、中曽根康弘河本敏夫、中川一郎らと争うものの、最初の予備選で中曽根2位河本ダブルスコアで票を獲得し、他の三補は辞退をした。
その後中曽根内閣において外務大臣に就任し、第二次内閣までの4年弱を務め続けることとなった。その原動力となったのは、義アメリカの人脈があってのものだった。

中曽根内閣が退すると、総裁補として再び出するも、中曽根名により竹下登が総裁となった。竹下内閣では自民党の幹事長に就任した。

1988年リクルート事件において秘書リクルートコスモスを譲り受けたために、責任を問われる立場となったが、その際に膵臓がんが見つかり手術に及んだ。
退院後、自らの総裁就任のために多くの若手を起用し、衆院選当選させることに成功する。しかし病状は悪化し、ソビエト連邦ゴルバチョフ大統領を来日させたことが最後の功績となった。

1991年東京都文京区病院で死去。享年67。 総理大臣は、次男三によってなされた。

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